女帝からは逃げないと。   作:霧江牡丹

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第百十二話「友引人形」

 劣化"(とこしなえ)の命"。

 森封(センフォン)という天然の"(とこしなえ)の命"を参考に作られた"(とこしなえ)の命"……の、さらにジェネリックな劣化"(とこしなえ)の命"。

 本物に使われている術式が解析できないがゆえにつくられたこの劣化"(とこしなえ)の命"の外法は、既に本来とは全く別の用途として使われている。

 即ち、肉体に入ると自己増殖を行い続ける穢れを内側に留め続ける機能。此度はそれをさらに応用し、「触れている穢れを全て内側へ詰め込むもの」として編まれた術となる。

 

 性質上取り込む穢れに区別は無い。だから──今の私に鬼が近づけば、それだけで死にゆく可能性がある。

 ただし、緋玉(フェイユー)の比ではない穢れを心臓へと詰め込んだ私は、不発弾のようなもの。何かのきっかけでその穢れが爆発する恐れもあり、輝術師も迂闊には近づけない。

 

 近づくことができるのは、穢れの一切を弾く華胥の一族と、このレベルの密度の穢れを浴びても問題ない者だけ。

 

 つまり──。

 

「祆蘭。青清君からの視線が痛い」

「結界……何重にしたんだったか」

「およそ三万。今も張り直しが為されているから、不定」

 

 ここなるは青宮城。その中心の滝……なわけもなく、普通に医院。

 ただし、今祭唄が言った通り凄まじい量の輝術結界を張った上での、だ。まぁ隔離というやつだな。

 

「お、もう指が動くようになってきた。……今までよりも格段に早いな、治り」

「正直かなり異常。……治るとわかっていたからあれをやった、わけじゃないよね」

「ああ。そういう想定はしていなかった。というか、内側から折れるにしても前みたいに大きい骨が一本ぽっきり、程度だと思っていたんだ。まさか磨り潰される程砕かれるとは思わんだろう」

 

 まったく、氏族め。

 どういう神経してたらこんな嫌がらせができるんだ。

 

「……あの……尾? の化け物は、死んだ……の?」

「わからん。魂を貪り食った感覚はあるが、それで氏族が死ぬのかどうか」

「食べた、というのは」

「ああ、鬼は死にかけの鬼の魂を食らうことができる。……あの時の私はほとんど無意識だったが、どうやらそれをやったらしい。巨虎(ジュフー)という化け物を鬼に見立て、弱っている……かどうかは知らんが、そういう扱いにして魂を食った。そのつもりだ」

 

 鬼子母神化。

 あの一瞬、確かに私は鬼だった。ただ桃湯や今潮らのような鬼ではなく、本来の……媧が私を乗っ取っていた場合の鬼。

 あるいは……天狗、かな。無意識はあの私をそう言っている。

 

「いやぁ、この結果が引き出せるのであれば、あの少女も報われたというものぞ」

「ん……無事だったか、月織(ユェヂー)

「……先々代帝であることを知った上で不躾な問いをする。……どうやって入ってきたの?」

「アレだ」

 

 月織の指差すそこ。

 いたのは、にっこり笑顔の奕隣(イーリン)。……輝夜術、ホントよくわからんな。

 

「奕隣が何かしたらしい。ああそうか、幽鬼には穢れはほぼ無害だから」

「ほぼ、だがな。余ほど弱った幽鬼には毒だし、幽鬼となったばかりの者でもあの濃度の穢れに触れたのならば……その圧力で潰されてしまうのではないか?」

「ならば近づかない方が良い……と言いたいところだが、答え合わせは必要だ」

「……祆蘭。できれば月織様が何を言っているのか翻訳しながら話してほしい。私には何も聞こえない」

 

 ああそうだった。

 本当に面倒臭いな。なんかないのか、幽鬼用蝶ネクタイ型変声機みたいなの。

 

「まぁ、こいつは此度の事件のだいたいを知っているようだからな。それを今から話してもらう、という話だ」

「此度の事件、というのは……私達が祆蘭を忘れてしまったことも含めて?」

「うむ。余の"視"た先では、あの尾の怪物を動かなくさせるに終わっていた。それを退かせるどころか、殺した可能性まである、というのなら……腹を割ろう」

「結論から行け。長話をしていられるほどの体力はない」

 

 治りつつあるとはいえ、失った血液量がとんでもない。

 まーた安静である。ほんと、どんだけ安静期間を設けるんだ私は。

 

「結論から言うと、此度の厄災は一度引き起こしておかねばならぬ事態であった。が、貴女が想像以上に……強く、気高く、何より芯のある女性であったことが災いし、起きそうになかった。ゆえにあの少女……いや、没した時はもう五十を超えていたか。紊鳬(ウェンフー)は己が死したあとに発動する輝術を編んでいたのだ。貴女を一度全員の記憶から忘れさせ、余が貴女を連れ出し、そして青清君に再構成させる。つまるところ、余と紊鳬の仕組んだ謀略、ということになる」

「……すまん、祭唄。翻訳は後回しでいいか」

「ん。覚えていられるなら」

「ああ」

 

 軽く話しているし、悪ぶっている……が、こいつ。

 

「問う。それはいつから考えていた。この一連の事件は」

「余が貴女を……正確に言えば、乗っ取られた貴女を視たのが、凡そ四十年前。いや四十五年前だったか。そのあたりだ」

 

 ……諏鳥(ゾウニャォ)占師(ヂャンシー)としての力を受け継いだ時と重なるな。

 成程……どちらが先か、はわからんが、そのどこかで「四本の枝」が決まったのだろう。二人は別々の未来を視たようだけど、どちらの世界にも私がいた、と。

 

「問う。忘れさせる必要性はなんだ。素直に青清君のもとへ赴き、再構成なるものをしてもらえばよかっただろう」

「あの影……貴女の一欠片は、貴女以外の知覚者がいない時でないと出てこない。あの時も相当無理をしていたはずだ。それこそ、全身の骨を折られ、肉を引き千切られるような、ね」

 

 納得はある。祭唄の意識が朦朧とし、奔迹が輝夜術の結界の中へ入った時。穢れに包まれ、シュレーディンガーの猫の猫となった時。世界結界の外に出て、底まで降りてきた時。

 

「あれはなんだ。私の一部分にしては、なぜ私を知っていた」

「一部分ではなく一欠片。本来貴女であったもの。その肉体が穢れの主……氏族によって作られたものである、というのは理解していると思うが、当然そこには入る予定の魂があった。少なくともこの世においては肉体の檻が先に発生し、その後に魂が入る。肉体が作られた時点で入るべき魂は用意されていた……けれど、青清君の神意によって貴女が入った。だから彼女は弾き出された」

「……元来の祆蘭、というわけでもないのだろう?」

「難しい話だ。それはそもそもの話をしなければならくなる」

「即ち、魂とは何か、だな?」

 

 月織の目が見開かれる。

 ふん、そこまで愚鈍になった覚えはないぞ。

 

「うむ。うむうむ。良いな。ハッハッハ! ……あぁ、そうだ。貴女たち楽土より帰りし神子らの常識における魂とは違う、この世における魂。こちらも結論から言うのなら、魂とは時を切り取った欠片である、ということになる」

「時を……切り取った、欠片?」

「理解は難しいだろう。余や紊鳬とて感覚で理解していただけで、言語としてわかっていたわけではない。……その辺りは、神たる者達の方が詳しいのではないかな」

 

 どうなんだ、お前達。

 

 ──言っておくが私達にも幽鬼の声など聞こえんぞ。

 ──時を切り取った欠片、という君の呟きから察することはできるけどね。

 

 メゾンド祆蘭の中でも無理なのか。私の耳に聞こえているから……ってそうだ、今片耳が幽鬼になっているんだった。

 じゃあどうやって脳と繋がっているんだ、と言うのは、うん、わからん。

 

 で、魂とは時を切り取った欠片である、というのがどういう意味かを聞きたい。神族の方が詳しいと言われた。

 

 ──そのままの意味ぞよ。時とは循環するもの。ゆえにその循環の一部から切り取られるものを魂と呼ぶ。

 

 時が……循環する、というのは、なんだ。一方向に流れるもの、とかではないのか。

 

 ──偽の天体もそうだけど、外の天体も回転し続けているものでね。それは時と同一視されるんだ。つまり我々は循環する時の中で生きている、と。……天染峰にはあまりそういう概念は無いけれど、季節は巡る、と言えば君にも伝わるかな。季節は循環し続けるものだろう? その中で、たとえば季節ごとに折々の草花が存在する。魂とはそういうものである、というのがこの世のあり方なのさ。

 ──反応を見るに、お前の常識とは乖離しているのか。

 

 ああ……まぁ、この世がそうなのだと言われたらそういうものとして受け入れるが。

 

「一応、理解した」

「では続けるぞ。循環より生まれた魂は、しかし"祆蘭"に入ることができなかった。ゆえにもう一度循環の中へと戻った。……が、時の循環は異物を許さぬ。時の循環へと還り得るのは死した魂のみ。つまり、全て忘れ去られた魂のみぞ。よってあの影なる者は時の循環から追い出された……が、その場所は現代ではなかった。少し先の未来。あるいは過去。本来であればおかしくなってしまいかねない程の孤独感に苛まれながらも、貴女の欠片である、という事実が影を支え続けた。弾き出されはしたが、一度は"祆蘭"の中に入ったが故であろうな。貴女の記憶、あるいは人格の一部を有していたようなのだ」

 

 ……まぁ、私から見た親友の人格を持っていったのなら、理解はできる。

 アイツならどれほど拒まれようともへこたれないだろう。長きを耐えるには最適な記憶を持っていったわけだ。

 

「そういうことを繰り返していく内に、影なる者は幽鬼に似た性質を獲得する。魂だけの存在であるからな」

「私の幽鬼化もそういうことか?」

「是」

 

 ふむ。……理屈はわからんが、内容は理解した。

 

「では問いを立ち返ろう。影が私の前以外に現れなかったのは……いてはいけない存在だから、か?」

「それも是である。時にとっても世界にとっても、祆蘭は二人いてはいけない。だから、貴女の持つ"符合の呼応"、"事象の呼応"、"聚光(しゅこう)の呼応"……そのどれもを利用して、且つ氏族に見つからない機会を窺ってでしか接触できなかった。ただ……接触する必要はなかったはずだから、ほとんどは影そのものの善性によるところが大きいのだろうぞ」

 

 なんだかんだ言って助言してくれたり助けてくれたりしたからな、アイツ。

 敵視できるほど話さなかった、というのもある。あるし、夢で見た「四つの枝」を潰してくれた礼もあった。

 

 最初から最後まで、か。世話になったな。

 

「それで、それと私が融合することが、なぜ厄災を呼び起こし、そしてそれを起こす必要があった」

「一つ一つ行く。まず、貴女と影の融合は氏族が用意した罠だ。本来であれば鬼子母神となって我を失った貴女に吸収されることで、鬼子母神の意識を抑えるだけでなく、その身を破壊する。肉体の一部が幽鬼となる、程度で済んでいることは、貴女の魂の強さ故だ」

「実感はないが、言われ続けているので納得しておく」

 

 魂が大きいだのキャパシティーがデカイだの。

 実感などないが、全員が全員そう言っているのだから、そうなのだろう。

 

 ──多分じゃが、吾ら華胥の一族全員が入っても問題ないぞよ。さすがに神族全員は無理じゃろうが。

 ──時折圧し潰されそうになるけれどね……。

 ──あと煩いからな、ここは。

 

 無視。

 

「そうなった鬼子母神は、鬼を集める。そこであの尾が出てくる。鬼を取り込んでしまう尾がな。……結果、鬼子母神は己の力も従える鬼も失い、失意の果てにこの世の初期化に呑まれゆく。これが余の視た先となる」

 

 浅ましきうんたらかんたら、のシナリオがそれってわけね。

 まぁ確かにそこまで叩きのめされたら媧もしばらくは大人しくなりそうではある、か。こいつ、なんだかんだ言って優しいから、自分が鬼を集めた結果鬼を失う……というのはクるはずだし。五千年前のでも相当キてたみたいだし。

 

「故、天遷逢にて鬼子母神が決起する前にコトを起こしてしまう必要があった。余の視た限りでは、尾は動かなくなるだけで再活性することはなかったのだ。一度使えば二度とは使えぬ……使うことを想定しておらぬ機構。その類と見定めた」

「で、なんで紊鳬はそれを知ったんだ」

「あれはある種の天才よ。少女の時分で、"輝術という巨大な集合的無意識を扱えば他者の記憶も思考も覗くことができる。さらに操ることさえできる"と気付いた。ただ、持ち前の善性が悪事を行う背を押さず、むしろ誰もこの外法へ辿り着かぬよう、一度限りの悪を為した。全輝術師の脳からこの術に至る思想を消す、という大悪事を」

 

 やーっぱり怖いな輝術ネットワーク。同一因子の制限があるとはいえ、欠陥因子だったか。そういうのが現れると……それができてしまうんだもんなぁ。

 紊鳬が悪人でなくて良かった。本当に首の皮一枚だな。

 

「そんなことを行えば当然、生来先を視る力を有していた余の記憶をも掘り当てる」

「お前の未来視は、輝術とは関係がないのか?」

「関係はあるのだろう。貴女の影がそうであったように、時は循環するもの。過去も現在も未来も一つの循環の中にあるに過ぎぬ。故、余は先天的にその循環の先を視ることができていた。これが偶然であるのか何者かの意思であるのかはわからぬが、余の持つ"先見の明"なるものは全てがこれに由来するものぞ」

 

 ……玻璃が大昔から意識を有していた、というのも……少し繋がる気がする。

 時の循環か。よくわからん概念だけど、重要そう。

 

「こうして、先の危機を知った余と紊鳬は共犯者となる。天遷逢より前に厄災を引き起こし、天染峰を守る。……否、早すぎる貴女を留め、遅すぎる気付きを防ぐ、というべきか」

「詩的な言い回しはやめろと言ったはずだが。……まぁ。答え合わせは、もういい。理解した。……結局悪人はいなかったのか」

「此度の関係者には、だ。……余と紊鳬は、悪人やもしれぬが」

 

 ふん。そういうのは張衡(ヂャンホン)あたりを見てから言え。あるいは鼬林とか。

 

 可愛いものだ、お前の悪事など。

 しかし……これは、泣かせるだろうな。玻璃は……紊鳬を……。

 

「祆蘭? ……眠い?」

「ん……? あぁ……そうか、そうらしい。……奕隣。新帝命令だ。……月織を逃がすな。こいつ、やるべきことはすべて終えたから、と……どこか観光にでもでかけるつもりだぞ……」

「御意に」

「余がどこへ行っても構わぬだろう! 先も言った通り、弱っているのだ余は! 未練がなくなった故、消えかけている! それまでの間何をしていても──」

 

 おやすみー。

 

 

 起きた。

 心臓の穢れは……うん、大丈夫そうだ。

 

 ところでなぜ目の前に祭唄の寝顔があって、背後に鈴李がいるのだろうか。一応危ないんだぞ私。青宮城の貴族らのほとんどが青宮廷へ逃げているくらいには危ないんだぞ私。

 

 ……起きる気配はない。もしや、私が起きるまで徹夜を……しかもこの二人のことだ、チキンレースみたいなことをして張り合っていたのだろう。

 そーっと布団を抜ける。

 

 腕は……完全に治っているな。何日寝たのかは知らんが、まぁ、氏族謹製人造人間のようなものだ。今更何を驚くこともない。

 それよか、と。

 

 結界を素通りする。……やっぱりか。奕隣め、粋なことを。

 向かうは天守閣……ではなく、その更に上。

 青宮城のてっぺん。行く前に自室へ寄り道してから外壁を登る。

 

 制御する輝術師がいないからか、想像以上に強い風に辟易しながら、半分ほどは寒さの感じなくなった身体で……そこへ至る。

 

 てっぺんには、月織と奕隣がいた。

 

「来たか」

「ああ。これ見よがしに穴と手がかりをどうも」

「……私は、下がっております。……月織様は亡くなられました。その言葉を聞き得るのは、祆蘭様だけでしょう」

「良い心がけだ。……安心しろ、私が寝ていた間のことなど何も知らんし、聞く気もない。ああ、ただ」

 

 月織を遺していく彼へとかける言葉は。

 

「存分であったか、奕隣」

「──……ええ、とても」

 

 それだけ言って、彼はてっぺんを降りて行った。

 

 無言。

 風に吹かれる幽鬼と半幽鬼。

 

「……良い側近を持ったものだな」

「うむ。余には勿体ない男ぞ。……本当に。御史處になど、そして余になど近づいていなければ……もう少し幸福な生活ができたであろうに」

「お前があいつの誇りを笑うのか?」

「失言だ、許せ」

 

 月織。その身体は……風にたなびくが如く、希薄。

 

「ほれ」

「む?」

 

 投げ渡すは、赤と青に着色された、五人ほどの人形。それぞれが繋がっているそれは、どれもが優しい顔をしている。

 

「これは?」

「友引人形と言ってな。あちらに、誰も連れて行かないようにするための縁起物だ」

「……使わぬのか、余を」

「ああ。それを望んでいるとは思えん」

 

 この友引人形は前々から作ってあったもの。原理も何も無い人形なのでお蔵入りになりかけていたけれど、あまりにも丁度いい機会なので贈ることにした。

 黒州で……あの少女が、栞を持ったまま消えた時。栞ごと消えたのを確認しているからな。そういうこともできるのだろう。

 

「余は、貴女が犠牲となることを知っていた」

「犠牲になるつもりなどないが」

「まぁ聞け。……貴女の認識がどうであれ、世界と、そこに住まう者達のためにその身を差し出す行為は犠牲だ。余はそう捉えている。紊鳬然り、笈溌という男然り、あの……森封という女性然り、だ」

「……」

「余には見えていた。先が視えていた。だが、余にできることは、言葉を残すことだけだった。起きる未来を変える、という力は無かったのだ」

「当然だ。ただの人間には過分だろうよ」

「だが、貴女はやって見せた」

「自覚があったかなかったか。それは大きな差だろう。事前に知っていたら違う行動をとっていたやもしれん」

 

 普段ならIFなどくだらんと吐き捨てるが、状況が状況だからな。

 

「……ああ。長話が無用とはわかっているが……未練が残る。……余の焦がれた女の最後の姿が後ろ姿というのは……中々に悲しき者もあろうよ」

「だそうだが」

「っ!」

 

 上空。

 多分、世界結界のある高度ギリギリのところ。

 

 そこに……少女、に見える女性がいた。

 

 玻璃だ。

 

「呼びつけたのか?」

「祆蘭、私には幽鬼の言葉はわからぬ。……月織はなんと?」

「愛しの玻璃を最期に見たかった、と」

 

 ふわりと降りてくる彼女に、位置を譲る。

 わなわなと震え……口を閉じたり開いたりする月織の姿は、まぁ、歳に似合わぬ青臭さを持っていて。

 

「祆蘭。彼は今、何かを言っているか?」

「いや、ただ口を開閉しているだけだ」

「そうか」

 

 ──劇的、だった。

 申し訳ないけれど、この中華風世界でこういうシーンが見られるとは思っていなかった、というか。いや前に私もされたけど。

 

 玻璃が月織を掻き抱いて、その顔布を取って……キスをしたのだ。目を白黒させる月織を置いてけぼりに、深いキスを。

 

 二人の口が離れる頃には……玻璃の耳だけが赤くなっているのが見えた。ま、幽鬼に血流などないだろうからな。

 

「私は、誰とも番っていない。陽弥は養子だ。……もう少し早めに勇気を出せ、愚か者。……お前であれば、私は受け入れたぞ」

「だが……立場があっただろう」

「"余は帝でお前は黄征君、立ち塞がる壁があろう"、と」

「だからこそ私からは言えなかった。……それは、お前も同じか」

 

 帝と州君。

 決して結ばれることのない二人だ。

 

「玻璃。余は──」

「全てを言葉にする必要はない。……伝わっている」

「……ああ」

「月織。……お前の戦いは、終わったのだな」

 

 問いに、頷きを返す彼。

 私を介さぬことを選んだか。良い判断だ。

 

「紊鳬も、もう何も残していないな」

「……」

「まったく、二人揃って……陽弥も入れたら三人か。……私が盲目であるのをいいことに、好き放題してくれたものだ」

「……すまぬ」

「お前の顔を、見てみたかった。……祆蘭、今すぐに月織の顔を再現することはできぬのか」

「私に絵心がない。残念だったな」

「そうか、そうか。……そうか。ならばこれは、そうなる宿命なのだろう」

 

 目の見えぬ彼女が、再度。

 彼の……月織の身体を抱きしめて、今度は静かな、そして刹那のキスを落とした。

 

「これが、私の楽土での最愛。他者と接触することのないあの楽土においては……こういう接吻をこそ至上としていた。……叶うことなら連れ帰りたいが、あの息苦しい世界にお前を連れて行く気もない」

「玻璃、余は、貴女のことを──心から」

「伝えたはずだ。伝わったはずだ。……あの子はそこまで優しくない。それ以上を言葉にしたところで、聞くのはあの子だけ。それは……私がつまらぬ」

 

 ふん、よくわかっているじゃないか。

 そうさ、死者から生者への愛の言葉など伝えてやるものか。茶化しこそすれど、本心であるのならば私にメッセンジャーをする気は無い。

 

「月織」

「……玻璃」

「お前と同じ時代に産まれることができたことを、喜ばしく思う。──叶うのならば、全てが解放された後……何千、何万の巡り合わせの果てに、また……盃でも酌み交わそうぞ」

「はっはっは……未練がましいのはどちらなのか。……この人形、ありがたく頂戴しよう。今の余では、玻璃を連れていってしまいかねない」

「早く行け。口から砂糖が出そうだ」

 

 まったく、朝っぱらから何を見せつけられているのやら。

 

 ──瞬きを、した。

 

「行きましたか」

「そのようだ」

 

 もう彼はいない。友引人形も消えている。

 この時を以て、ようやく……先々代帝、月織は死を迎えたのである。

 

 生きようとすることを、やめたのだ。

 

「ありがとうございました、祆蘭」

「呼んだ覚えはないがな。それに、本気で殺しに来ていたことも忘れていないぞ」

「……てへ」

 

 てへ、じゃない。お前もう結構な歳だろ。加えてそれ以上の時を生きているタイプの。

 見た目が可愛いからって……私がやったら笑い物になるだけなのに、ずるいぞ。

 

「好きだったのか?」

「無粋ですね。それ、普通は聞かないようにするものでは?」

「普通じゃないからな、私は」

 

 先程まで月織のいた場所に座る。そんな私の横に、ちょこんと……玻璃も座った。風が弱まる。気温が適温になる。

 

 

「好きでしたよ」

 

 

 さらっと。けれど、万感の意を込めて。

 彼女は虚空へと告白を零した。

 

「けれど……立場がありましたから。それに、私はその時既に鬼側……人と番おうとは欠片も考えていませんでした。ただ、話が合うし、共にいて……心が温まる。恋愛経験には乏しいですが、こういうものを恋と呼ぶのだと知っています」

「立場ねえ」

「ええ、立場です」

 

 仮に、玻璃が妃だったら。

 ……無いなぁ、こいつは妃というタマじゃあない。普通に脱走しそう。

 

「そういう貴女は、どうなんですか?」

「恋愛は、無いな。削ぎ落とさなければならん」

「祭唄に青清君。桃湯……あとは、結衣もでしょうか。貴女に思いを寄せている方々」

「結衣はまず違う興味だろう……。桃湯も、鬼子母神を大切にしているだけだ。……祭唄と青清君は……どうだろうな。祭唄のは愛情というより友情という方がしっくりくる。……青清君は、まぁ、あれは確かに愛情なのだろうよ」

 

 けれど。

 申し訳ないけれど、その要素は削ぎ落とさなければ……世界が面倒臭くなってしまうから。

 

 空を見上げる。

 明るくなってきた空。

 

「なんでもなくなったら、そういうのもアリかもしれんがな」

「なんでもなくなったら?」

「ああ。……なんせ、なんでもなくする予定なのだから」

 

 当分先の話にはなるけれど。

 その時がもし来るのなら、答えを明かすくらいは、してもいいだろう。

 

「あとひと月を切った、か」

「はい」

「……最後まで、よろしく頼む」

「こちらこそ」

 

 それは、朝の。

 月の見えなくなった空の──。




11/18、11/19は更新お休みです。
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