女帝からは逃げないと。 作:霧江牡丹
輝術は穢れを弾く。
けれどそれは、決して消滅させるわけではない。
だから──。
「呼吸は整ったか、輝術師」
「……お前のような者に心配される筋合いはない」
輝術師……いや、鈴李の使った固定の輝術は、青宮城全体を覆っている。無論下部には天故理がいるから基盤までも、というわけにはいかないようだけど、それでも全体を、だ。
そして私の穢れもまた全体を。ゆえに、この「拮抗」という現象が起きている。
素直に敬服する。鬼子母神などと勝手に呼ばれてはいるが、そもそもこの力は氏族のもの。
矮小かつ愚昧たる同一因子……我々から制限を受けた、我々の一部分のみを抽出した存在で……我々に張り合う、というのは。
褒め称えられるべき事象だ。
「ハ」
小さく鼻で笑う。
そしてようやく理解する。
これが。この思考が。
いつからかお前が私に同調させまいとした記憶か。
媧。乗っ取りは……やっぱり成功しなかっただろうから、英断だよ。
「進史、動き得るのなら、逃げよ。城の者達を連れ、青宮城へ」
「……。……青清君。鬼子母神の前で、そしてあなたの前で……今生でたった一度だけの弱音を吐きます」
下がりはしても、この場から立ち去らない輝術師。冷や汗をかきながらも……ずっと我々……私を睨みつけている。
「正直、そうしたいです。本能と理性の両方が逃げろと警鐘を鳴らしています。精神論ではなく、この敵に私達は敵わないと。だから逃げなければいけないと。私には青宮城に勤める貴族、そしてあなたを守る義務がありますから、あなた達を連れて……青宮廷。いいえ、緑州の端の端まで逃げてしまいたいと」
「そうしろ。それは弱音ではない。……逃げろ、進史。私の輝術とていつまで保つかわからぬ。無論恥も外聞も捨てて、ではない。歴史上、多くの勇士たちがその時代ごとの鬼子母神を屠ってきた。多くの犠牲を払い、多大なる被害を生んで……それでも、だ。だから、必ず助けに来い。それまで私がなんとか──」
そうだ。歴史上、鬼子母神は何度も現れた。
たくさんの名を持つ鬼子母神。たくさんの性質を有する鬼子母神。
神族を見限り、我々氏族の一員とならんとした裏切り者。その浅はかな考えを嗤い、我々は彼女にある取引を持ちかけた。
奥多徳を惑わし、奥多徳を従え、奥多徳の数を……制限し。
その名を鬼と改め、穢れの調整弁としての役割を果たし続けたのなら、望む力を与えてやる、と。
彼女が望んだものはただ一つ。閉じ込められた仲間でありながら、彼女を虐げる神族への革命。彼らを支配する力。
即ち、
神意さえも上回る天意。
それを揮わせてやる、と。
ただ、鬼子母神は浅はかだ。愚かな者だ。それを我が力と思い込み、奥多徳を使って光界に穴を開けんとしたことがあった。浅ましき行いには相応の罰が必要である。
まず記憶を抜き、力の殆どを世界に戻し、そして……次現れる鬼子母神の肉体に、ある「仕掛け」を施す。これは罰である。これは二度とこの行いをさせないようにするための見せしめである。
異界から
だからそれの定着する肉体を決める。手ずから作る。どんな状況下にあっても──我々の命令を受け付ける肉体に。そして、浅ましき鬼子母神の悲願。これの成就のその寸前で……自壊するように。
だから。だから。だからだからだからだからだから。
情報提供、感謝するよ。
「いえ。青清君……先ほど申し上げた通り、今の言葉は生涯最後の弱音です」
「なに?」
「おかしくなってしまったのでしょう。恐怖にあてられたのかもしれません。……本能も理性も逃げろ逃げろと煩いのに、私の足は動きそうにありません」
「……這ってでもいけ。お前に居られると……気が散る」
「申し訳ありません、青清君。……これが最後の機会と告げられましたので」
笑う。嗤いでも嘲りでもない。
晴れやかな顔で笑う青年が、そこにいた。──純血にほど近き輝術師の前に。
鈴李の前に、進史さんが。
「下がれと言ったぞ、進史!」
「青清君。あなたが城を維持し続けてくれている限り、私の魂が穢れに食い尽くされることはないでしょう。しかしあなたは動けない」
であれば、と。再度剣を抜く彼に、私も鋸を抜く。トンカチを持つ。
「私があなたをお守りいたします」
「やめよ、進史! お前ではどうにもならん!!」
「言われているぞ、輝術師。そしてその通りだ。輝術師の中では強きに分類されるだろうが、そこな純血にほど近き者と比ぶれば天地よりも遠かろうよ」
「理解している。……平民。あるいは鬼子母神。……名を祆蘭と言ったな」
「ああ」
鞘が投げ捨てられる。
それは空中にある内に罅割れ、蒸発するようにして消えた。穢れだけではなく、尊瑤もこの場を満たしているからな。
剣の方が刃毀れをしないのは自前で固定の輝術をかけているからだろう。
「すまない」
「何がだ」
「どうやら私では、お前の隣に並び立つことはできないらしい。少なくとも今は、と付け加えようとしたが……今が無理なら、もう二度と無理なのだろう」
階下で輝術の気配。
……純血……鈴李が気絶した貴族たちを逃がしているらしい。器用なことだ。
「だからせめて、立ちはだかる機会を貰う」
「お前如きがか、輝術師」
「ああ、私如きが、だ」
彼は私を忘れているはずだ。今でさえ、自分で自分が理解できないという顔をしている。
理性も本能も逃げろと言っている。だというのに立ち向かってくるのはなぜか。
そんなもの、決まっている。
そんなものだって決まっているのだ。
「すべての始まり。すべてのきっかけ。──それは私が、珍物屋でそれを見つけたことが始まりだった。あるいは誰かに誘導されたことなのやもしれない。木串と木の実だけで作られたその簡素なもの。それが私の目に入る確率など、死した
ああ、そうかもしれない。
鈴李の神意が進史さんと私を呼び込んだのだとしても、彼女の付き人とならんとしたことも、私を青宮城へ招くきっかけを作ったことも……全て彼の意思だ。
誰かの調整があったのかもしれない。何かの操作が入ったのかもしれない。
でも。
「あの日、決めたのだ。情けのないことを言ったとしても……言い続ける結果になるのだとしても」
雨妃の事件のあと。彼は纏まらない言葉で、けれど。
「責任は負う。それが負い切れるものではないのだとしても、貴族として、大人として。何よりこの運命をお前に背負わせた者として」
理性と本能が警鐘を鳴らそうが、彼は逃げない。
責任感から、逃げない。馬鹿馬鹿しい話だ。くだらない精神論だ。
「お前から目を離すことは、もうしない。──行くぞ、祆蘭」
「来い、進史」
交錯は一瞬だ。狭い部屋で、近い距離で。
大仰な言葉も熾烈な戦闘もない。
あるのは結果だけ。
「……見て、いる」
「ああ」
「意識を……失うことは、ない」
「ああ」
「今度こそは……眠らずに、お前を」
「ああ」
鋸についた血。それを払えば、その赤さえも空中で分解された。
「──進史!!」
「案ずるな。傷には私の配下が作った止血剤を塗り込んだ。少なくとも失血死はない。……それでも気になるのなら、固定の輝術でもかけておけ。生命維持にも役立つらしいぞ、アレ」
遅い剣だった。当然だ、穢れと尊瑤に晒されている以上、思考は鈍る。言葉を吐いている時でさえ辛うじて立っている、くらいだったはず。
今まで見てきた剣の中でも最も遅く……そして、あの
ここにいるのが私でなくても斬ることができただろう。どこに来るのかが丸わかりで、そしてふらふらだったのだから。
それでも、彼以外に私へと立ち向かってくることができる者はいなかったのだろう。
「さて──」
あとは我慢比べだ、鈴李。
果たして何刻経ったことだろうか。
私と鈴李の拮抗状態は続いている。外部から何か攻撃を受けているようにも思うけれど、何のダメージにもなっていない。
輝術師……進史さんの容態は安定している。本当に意識が保たれているのかどうかは知らないけれど、ちゃんとガン見されているのは少々シュールだな。
「泣き止んだか、鈴李」
「……親しき者の声だ。お前のそれは……まるで、長い時を共に過ごした者であるような声だ」
「そんなことはないさ。そこで転がっている輝術師と比べれば、それこそ天地の差がある」
まだ一年も経っていない。各州へ出ていた時や新帝同盟を作ってからを考えれば、さらに日数は減るだろう。
その程度の仲だ。忘れてしまったことに涙を流される程深い関係を築いたつもりはないよ。
「あと何刻ほど保ちそうだ」
「わからぬ。わからぬが……ここに進史がいる以上、この意識を手放すわけにはいかぬ」
「そうだな。そうしろ。なんせ私は子供。体力的にそちらが有利だ。……私が意識を手放せば、この穢れも、この威圧も効果を失うだろう。そうなれば煮るなり焼くなり好きにしろ」
ぶっちゃけ長旅で結構疲れているしな。途中からは劾瞬や停谷というプライベートジェットで飛んできたとはいえ、三日ほど歩き続けた後に劾瞬との戦闘だ。疲れて当然だろう。
……ふむ。
「鈴李、お前はそこで動けないのだろう? 少し待っていろ、取るものを取ってくる」
「何を……」
天守閣を出る。
人っ子一人いない青宮城は新鮮なものがあるけれど、実際疲れているのは事実なので観光はしない。
向かうべき場所は決まっている──自室だ。
初めから鍵の類のないその戸を開けば、懐かしき作業部屋が。
倉庫として潰してはいなかったか。まったく、女々しいことで。
持ち出すのは主に木材だ。ただそのまま持っていくには大きすぎるので、斬ってから持っていく。……ああ、切ってから、だ。鋸だし。
久しぶりに鋸を鋸として使った感覚に満足しつつ、材料を全て小物入れに詰め込んで……また逆上がりの要領で青宮城を上がる。結界の性質を理解した以上、多分素足素手なら蜘蛛男みたいな移動もできるけど、こっちの方が早いしな。
そうして帰ってきた天守閣で……普通に帰ってきた私を見て何か言いたげな彼女に目を遣りながら、材料を広げる。
「……木材?」
「ああ。普段は手伝ってくれる者がいるのだがな、今はいないから、一人でできることをしなければならない。となるとやはり木材加工が妥当だろう」
ついでに持ってきた紙に図面も引いていく。
今回作るのはバードキューブ。組木細工の一種で、横向きに並べると長方形に、上手く組むと立方体になる玩具。
これには"世の理"など欠片も使われていないし、原理もクソもない。本当に子供向けの玩具。ま、大人が見ても面白いんだけど。
なお、デザインセンスは相変わらずのお察しなので、既存製品のバードキューブを作成する。覚えている限りのものを。
「もう少し……近う寄れ。何をしているか、見たい」
「間合いに入ったらグサり、か?」
「それを許すお前ではないだろう……」
ま、それもそうだが。
今は図面を引いている段階なので、ぶっちゃけ作業らしいことはしていない。
だけどそれが面白い、という人がいるのも理解できる。
「これは……」
「これから作るものの図面だ。なんだ、生成で一気にやってしまうか?」
「……それでは、面白みに欠けようさ」
「へえ。使えはするんだな、この状況下でも」
だから、やろうと思えば私の周囲だけ酸素消滅とか、巨大な岩を降らせて圧し潰す、とか。今でも別にできるわけだ。
それをしないのは、心のどこかが嫌がっているから、ってか。
しばらく無言の時間が続く。
自作定規に沿って動く竹筆。彼女は口出しをすることなく、たたただ眺めては……時折部屋を見渡している。
面白いくらいにのんびりした空間だ。
囁いてくる声を叩き潰しながら、黙々と図面を引く。
「……ん、よし」
計算して、間違いがないかチェックして。
あとは図面通りに木材を切っていくだけ。といっても既にブロック状になっているものを斬るだけなので、そこまでの大変さはない。
むしろ鑢が大変だ。上手く嵌るようにするためには、鑢をどれだけ慎重にかけるかが重要になる。削り過ぎると組んだ時にカチっと嵌らなくて分解するからな。
鈴李は……ようやく作業らしくなってきた作業を、ずっとずっと、ただただ見守っているだけ。
「ままならないものだな」
「……なんの話だ」
「いやなに、少しばかりお前の気持ちを考えてみただけだ。私へ抱いていた気持ちが結局どれだったのかは知らないが、努力をしたのだろう。重ねたのだろう。在り方を模索して、鬼や輝夜術の使い手とも手を組んで。結果……本当に欲しかったものが手を離れていく」
「私の気持ち……」
「ふふ、お前が全てを思い出した時にこの言葉を覚えていたら、"なぜ普段からそうしない"と糾弾してくるのだろうな」
鑢を
優しく撫でるように。けれどしっかり図面通りに。
「言葉で……理解はできる。お前の身に何があったのか。私達輝術師の記憶は酷く脆い。それが発覚したのはつい最近のことだ。……お前もその被害者なのだろう」
「かもしれないな」
「そして……私と進史とお前は、親しかった。そうでなければ、そのような声は出せまい。はじめ、私も進史も……お前に敵意を向けた。だというのにお前の声から感じられるのは、慈愛だけだ」
「慈愛。面白い言葉だ。これから世界を滅茶苦茶にしようとしている者へ向ける言葉ではなかろうさ」
一つ、また一つと、面となる鳥のパーツを作り終えていく。
正直糸鋸があればこの作業効率は跳ね上がったのだろうけど、ないものねだりは意味がない。
「何かが違えば、何かが食い違っていれば……私とお前は交わらなかった。進史さんの言う通り、彼が私の作ったものを見つけなければ、それが終わりだった。それで終わりだった」
「待て。待っていろ。……輝術師の記憶領域の中から、お前を見つけ出す。月織や閣利の時より簡単だ。なんせ、本人が目の前にいる」
「その月織曰く、私の記憶を修復することは、世界に災厄を齎すことになるそうだが」
「壁か、それは」
……ん。
「壁?」
「ああ。世界などというもの。世界に齎される厄災というもの。これから世界を滅茶苦茶にしようとしている事実。それらが私達の間に横たわる壁なのか」
「まぁ……表現として間違っちゃいないだろうが」
「であれば」
抵抗が強くなる。
尊瑤は問題ないが、穢れが多少圧され始める。……疲労から来る火事場の馬鹿力か?
「──私はそれを、何するものぞと言ってやる」
「……」
「消し潰された記憶がな、訴えてくるのだ。今……お前を抱きしめに行ってやれないのは、お前と私の間に距離があるからだ。巨岩が、巨壁が、立ち塞がっているからだ」
四個目の細工を、置く。
「この距離を埋めるために、そういう、幾重数多の壁が立ち塞がるというのなら──ああ、今度こそ、私は何するものぞと言って……お前の前に行く」
「我儘で世界を壊すか?」
「壊すし、傷つける。その覚悟を持つことにしたのだ。……だから、頼みがある」
五つ目に着手する私に。
「お前のことを、教えてほしい。お前はどういう人間で、どういう考えを持ち……何を背負い、抱いてきたのか。何も知らない私に教えてくれ、祆蘭」
「なれば聞くべきは私ではないだろうな。詭弁捏造こじつけ妄言小娘。それが私だ、鈴李。吐く言葉に真は無く、その生き方に芯は無く。ただただ……邪魔をされるのが嫌だったガキ。それが私だ」
不都合不都合不都合。
だから都合よく。流されるままをやめ、謎をそのままにしておくのをやめ、命令される立場を捨て、そうして……己が望みを持とうとしている幼子。
充分に生きたさ。地球では、まぁ、志半ばだったし道半ばだったけど、摂理は通した。道理は辿った。
ただ唯一できなかったことがそれだった。
己が望みを持つ。それだけができなかった。それができないことが最大の「不都合」だった。
喜ばしいだろう、だから。
私が……救いたい、などと。導きたい、などと。
そんな望みを持てたのだ。望みのために全てをかなぐり捨てることくらい些事だ。吐く言葉が真実でないことくらい些末なことだ。
世界を跨いで生まれ直し、変質した甲斐があったというものだ。
──五つ目のパーツを置く。
「悲しいかな、鈴李。恐らく私のことは誰も覚えていない。輝術師も奥多徳も同一因子も神も。私に関する記憶はその全てが抹消された」
「そんなことはない」
「なれば探せ。そして悲しめよ、存分に。基本的に秘匿されてきた存在だ、誰の記憶にも」
「残っている。──少なくともこの部屋には、お前が残っているよ」
部屋?
鈴李の自室に……記憶が埋め込んであるのか?
「その細工。鑢のかけ方や、面の取り方。……この部屋にあるあらゆるものとそっくりだ」
……その言葉には答えずに、六つ目に着手する。
これが最後のパーツ。
「なぁ、鈴李」
答えずに問うのだ。
「もう、やめないか?」
言葉を。
私は世界を壊す。この世界を出ていく。
鬼も輝術師も天故理も平民も、全てを導いて……世界を出る。
減らすべきだ。要素は。
剃刀で剃っていくべきなんだよ。
「叶わないよ、お前の願いは」
恋心。それを抱いているという。
好きにしたらいい、とは思う。だけど……それが余計な結果を招くのならば、私には中止を促す義務があろう。
況してや今、忘れてしまえているのなら。
余計な感傷を持たず、ただの感情のみで接することができているのなら。
「今苦しい思いをしても、必死になって私を修復しても……何も変わらない。私は誰から忘れられようと目的を遂げる。……月織の甘言に弄されたことは認めるがな。ここへ来たのは間違いだった」
あれだけ手酷い捨て方をしておいて、頼りにきた。
ああ、間違いだろう。いやはや、やはり私の生き方には芯がない。ここへきて、苦を強いて、一体全体何がしたかったのか。
鈴李は……目を開かない。口を固く閉じて、何かに集中している。
記憶領域からの修復、とやらか。
なればもう、いっそのこと。
「ッ!!」
「ん……」
尊瑤で意識を圧し潰そうとしたら、後ろから組み付かれた。
……進史さんか。鈴李の固定輝術を自力で解いたのか? けど……止血剤があるとはいえ、そんな激しい動きをしたら傷口が開くぞ。
「青清君! ご随意に!! この者は、私が引き留めます!」
「引き留めるもなにも」
あまりにも弱々しい力だった。私の腕力でも振りほどけるほどの。
衰弱している。逃げなかったからだ。逃げなかったからそうなる。だって私は今、鈴李を釘付けにするための尊瑤を発している。鈴李ほどの輝術師をその場から動けなくさせるほどの、だ。
それを……並みの輝術師が浴び続ければ、魂が弱るのも道理。
力の入っていない腕に絡みつかれたまま、最後のパーツを手に取る。
鑿とトンカチを使って細部を掘り、鱗木で面を滑らかにする。
もう終わりだ。
これを作ろうと思ったのは、「符合の呼応」が最も適していると考えたから。
自由に羽搏く鳥を匣の形に閉じ込める。
私は己が鳥だとは思っていないけれど……彼ら彼女らは、鳥のようだと思うから。
「難航するだろう。当然だ、私はさぞかし鮮烈であっただろうが、私を記録に残すことはしてこなかったはずだ。私の作ったもの。私の行い。その全てに目を灼かれた者はいようが……まだ記録に残すべきではないとしたはずだ。なんせ、短いからな」
信じられないことだけど。
この激動の毎日は、たった六か月の内に起きたこと。
一年を記念してとか、何か偉業を成し遂げたからとか、そういう「記録に残す行為」をする暇が無いほどの激動だった。
記憶にしか残らん相手が記憶から消えたのだ。どうやったって。
「──青清君! 繋げます!!」
何事かを叫ぶその声量も弱々しい。……なんだって? 繋げる?
情報伝達か?
「舐めるなよ、祆蘭」
「何が、だ。というか何をだ」
「今まで……ほとんど仕事をしない青清君に代わって全ての報告における処理を担当していた私を、だ」
え、いや舐めていないけれど。そこは普通に凄いと思っているけれど。
今言うことそれ?
「既に青州の危機。加えて──新帝は女性だったはずだ。おぼろげな記憶は、だからこそ……この声を、仲介できる」
呼吸を荒げて彼は言う。彼は言う。なんだ。何の話をしている。
彼の言葉は、なんだ。
「ああ、くそ……呼びかけたのは私だが、まだ来るか。……全て処理しきってやる。ああ、ああ、ほら。ほら、見たことか、見たことか!」
おかしくなってしまったのか。
少し狂気的な声を上げながら、彼は。
「天染峰全土!! 鮮烈で在り続けた、先を行く燈火のような存在の記憶! 朧気でも、夢のようでも、何でも構わぬからと投げかけてやれば、……集まってくる、集まってくる! 州君からも、一般の輝術師からも……夢妄のような記憶があると、消えたはずなのに焼け焦げるように残るものがあると!」
「……まさかとは思うが、倒れている間ずっと伝達を飛ばしていたのか? はぁ、休めばいいものを」
「良いから、
虚を突かれる。
それは……初めに言われた時からずっと心に残り続けている言葉だから。
さらに進史さんは、「それに」と続ける。
「忘れ去られた者は割り切ることができるのかもしれない。だがな、祆蘭。祆蘭なる者。……忘れてしまった者の喪失感を考えたことはあるか? 誰からも忘れられることを死と言うのなら、その者を忘れること自体が私達にとっての損失だ。青清君にとっても、私にとっても、他……お前によって命を救われた者達、変えられた者達全てにとっても!」
「いずれ忘れることだ。あるいは、初めから記憶しなくて良かったことだ」
「少なくとも、私は耐えられそうにない。勝手な期待。勝手な羨望。勝手な行為で背負わせてしまった咎。言ったはずだ。私は今、責任感だけでここにいる。その土台が消失することがどれほど恐ろしいか、お前にはわからないのだろう。全てを割り切ることのできるお前には。仕方のないことは仕方がないと言い切ってしまえるお前には」
ああ……わからない。
そこまで激昂する意味も理由もわからない。
進史さん。あんた、そんな激情を持っていたのか。そこまでの熱量を持って生きていたのか。
「……おい、進史」
「なんですか、青清君」
「そういうことは……私が言いたかった。言葉を全て撤回しろ」
「いえ、しません。青清君は青清君にしかできないことをしていてください。──代わりに、誰でもできることは、私が全てやります」
「ずるいぞ……代われ! くそ、この、私がいまどれほど集中して情報を押し固めていると……ああ、ああ! よく見れば、一度は強化した情報体ではないか! この……上回られたのか。それで、ああ、くそ」
なんだなんだ、どうしたんだ二人とも。
鈴李は果てしなく口が悪くなっているし、進史さんは遠慮という言葉をどこかにおいてきてしまったようだし。
何がそこまでお前達を変えたんだ。
「──お前のせいだよ、"シェンラン"」
「っ!?」
「何者っ!?」
いつの間にか隣にいたのは……影としか呼べないもの。
最近よく出てくるな。しかしよかったのか。あんまり人に見られるのはダメなんじゃないのか、お前。
「そのような縛りは無いさ。──そろそろ学べ。感情というものの激しさは、実行力までもを共倒れにさせるものだ。喜びは悲しみに、悲しみは喜びに。ああ、だが……人の感情というものは、時として逆転を起こす」
「お前好きすぎないか『シェイクスピア』」
「あまり散らばせ過ぎると察されると思ってな、絞っていたのだ。
……ああ、そういうこと。
だから私の形を取ったのか。だから散々……要所要所で助けてくれたのか。
「理解が浅かったのはお前のほうだよ、"シェンラン"。……彼ら彼女らに諦めなど促せば、結果がどうなるかなどわかりきっていただろうに」
もう、やめないか?
なるほど、トリガーとしては最上だったわけだ。
「そして……青清君」
「な……なんだ。そなたは……」
「最後の一欠片が、己だ。ただし気を付けろ。己を嵌め込めば"シェンラン"は完成するが、同時に厄災が目を覚ます。"シェンラン"という者を構成する要素の内、この世で見せ続けたものは今お前が集めた全てだが、己だけは別だ。己という要素は、"シェンラン"の形成に大きく関わっている。別の言い方をするのならば、今、この時に至るまで……記憶が砕かれる以前から、己は"シェンラン"に嵌っていなかった欠片、ということになる」
ゆえに。
「己を"シェンラン"に嵌め込めば、"シェンラン"は変質する。しかし、それを拒めば二度とお前達が"シェンラン"を思い出すことはできない。……お前達が思い出さずとも、そこにいる"シェンラン"は"シェンラン"のままだ。変質することはないし、己のような得体の知れないものが此奴の中にはいることもなくなる」
「……酷な選択をさせるものだな。それはつまり、鈴李が私を殺すか否かを選ばなければならないと、そう言っているのと同じだぞ」
「消えろ、消えてしまえ、刹那の燭火よ! 人生とは歩いている影に過ぎない! ──さぁ、選ぶ時だぞ青清君。無意識の神意ではなく、己が意志で選択をするのだ。即ち──」
大仰に手を広げる影に。
鈴李は……その手を翳した。
「己が為に
笑う影が見えた。ああ、そっくりだ、そういうところ。
求める答えが出てきた時の。求める以上を相手が出した時の。
「先に謝っておくぞ、祆蘭。──私はお前を忘れたくない」
「莫迦者め。──都合よく生きろよ、あんたも。私がそうするのだから、その隣にあるのなら!」
修復されるのがわかる。
影が、影のような何かがザァと消えて……私の中に入ってくる。
ああ、ああ、そうか、そうか。
変質。変質ね。
穢れを消す。尊瑤を消す。
そして──膝を突いた。
「っ、祆蘭!!」
……唐突な気絶専門家。称号、再取得、だ。