女帝からは逃げないと。   作:霧江牡丹

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第六話「残照」

 カチャカチャと音を立てて、食器と皿が不快なリズムを刻む。

 不規則であるはずのそれは、そいつにとっては規則的らしく、不快だとも思わないとかなんとか。

 私にも奥さんにも窘められてなおこれだ。この行儀の悪さは死んでも直らないのでしょう。

 

「かのケネディ家が兄弟らの母、ローズ・ケネディ曰く"時が傷を癒すと言うが、私はそうは思わない。傷はいつまでも残る。時が経てば傷は新しい皮膚に覆われ、痛みも和らぐが……傷は決して消えない"」

「食べながら話さないで。口の中が見えて気持ち悪いと何度言ったらわかるわけ?」

「104歳まで生きた御仁の言葉には含蓄がある。だが彼女は同時にこうも残している。"嵐が過ぎ去ったあとにこそ鳥は囀る。人も注がれる陽光を喜べばいい"」

「話、聞いてる?」

「一見相反するこの言葉の双方を成立させるための条件はただ一つ」

 

 パスタを巻いたままのフォーク。その持ち手部分をガツンとテーブルに突き立てて、反対の手で人差し指を立てる。

 

「"全てが終わったその瞬間にだけ、人は何もかもを忘れて大団円を迎えられる"。時が経たば悲しみや怒り、恨みつらみを思い返し、ハッピーエンドは遠のくわけだ」

「……命の終わり際にだけ、幸せが訪れる、って?」

「そうは言っていない。己はまぁ、既に幸せの過渡期にあると言えるだろう。これから最高を迎え行く。だがお前は違う。お前は生まれも育ちもハッピーであるとは言えない。その頭の中がハッピーでないのなら、終わる時だってハッピーではないだろう。ローズ・ケネディは視点を一つ忘れているのだ」

「"渦中に死した者の傷は塞がらないし、陽光も拝めない"」

「その通り」

 

 フォークに巻いたパスタを口へ放り込み、そのフォークで私を指す男。

 毎回思っているけれど、本当に最低だと思う。マナーとかそういうの以前の問題。

 

「陽光を拝みたければ、まず嵐が過ぎ去るのを待たなくてはいけないだろう。耐えなくてはならない。不都合に愛されたお前であればその道のりは易しいものだろうが、己のような人生ハッピーな勝ち組一般人にとっては酷く険しく果ての無い高山に見えるはずだ」

「へぇ、殊勝な言葉ね。でもその後に"妻といればどんな山でも乗り越えられる"、とか言うんでしょ?」

「いいや、諦める。不屈はお前のような強い奴がやればいい。己や妻のような優しく弱い人間は、シェルターにでも引き籠って嵐が過ぎ去るのを待つのが関の山だろう。傷も負わず、嵐にも立ち向かわず、けれど104歳は迎えてみせよう。老化による身体ダメージを全て克服した上で、美しき税金暮らしを送るのがベストチョイスだ」

「羨ましい夢ね。その隣に私はいるの?」

 

 ニヤリと笑う彼は。

 大親友は。

 

「──いるワケがないだろう、この死にたがりめ。精々草葉の陰から見守っていろ!」

「はいはい、ファミレスで大声出さないの」

「ここは分類的には喫茶店だ。だから問題ない」

「余計に問題でしょう」

 

 ……遠い遠い、夢の……。

 

 目を開く。

 その後、大きく伸びをする。ほぼ反射的なその行動に血圧が上がり、脳が稼働を開始した。

 呼吸をすることで酸素を全身に行き渡らせ、今度は深呼吸にて肺の筋肉を伸ばす。

 

 一度目を瞑り、全身の血管や神経に意識を行き渡らせて、それを己の内側へと引っ込めるような感覚で落ち着きを取り戻し──。

 

 目を、開ける。

 

「おはよう、祆蘭」

「ん、おはよう」

 

 今日も朝がやってきた。

 

 

 朝食は粥。せめて、という申し出から夜雀担当。人数がいるので作るの大変じゃないか、とか思いつつ、そういえば半分くらいは食べなくていいやつらだった、とも思い返す。

 

「なんぞや、各地で色々動いているらしいが」

「うん。各州各人、何かが動いていて、何かが進んでいる」

「その報告は?」

「無し」

 

 うーん。

 もう桃湯らが赤州へ調査へ行ってから四日が経った。たった四日。されど四日。

 生存報告用の「継草」には安全確認が来ているし、そもそも報告がないというか収穫がないだけなので、音信不通なわけじゃない。ただただ──日数が過ぎていっているだけ。

 

 鬼達や玻璃、華胥の一族らも出かけることが多くなったためか、必然的に私、祭唄、夜雀、そして陽弥が新帝同盟本部に居座ることとなる……のだけど。

 

「民からの報告もない、というのはどういうことだ」

「今の小祆は微妙な扱いだからねー。ほら、ずっと前に帝と州君の権力の話をしたでしょ?」

「ああ。権力的には帝が上で、力で言えば州君が上、というやつか」

「そうそれ。でも今、小祆は州君を下した帝なわけ。だから各州の行政も扱いに困ってるんだと思うよ。どんな声をかけるのが正解か、どう対応すれば自州に不利益がないか、って」

「あと、各地の貴族街が輝術というものへの説明にも追われていることも大きい。そのせいで貴族間での意見がまとまり切っていないんだと思う」

 

 やはり、世間的にはまだたったの四日、か。

 座して待つ覚悟はせども……なぁ。

 

「祆蘭」

「なんだ、陽弥」

「今日は休日にするべきだね」

「……は?」

 

 ……?

 ん?

 

「それは良い考え」

「私もそれが良いと思います~!」

「な……にを言っているんだ、二人まで。毎日休日のようなものだろう!」

「考えるべきことを考えない時間。あなたはそれを作るべきだ。あなたは鬼でも輝術師でもないのだから、そのままでは肉体的疲労と精神的疲労の双方で倒れてしまうよ」

 

 いやいやいや。

 今も赤州で危険と隣り合わせになっている仲間がいる中で、各州に散らばって情報収集なんかをしているやつらがいる中で……考えない、というのは。

 

「吾も賛成ぞよ~! 愛し子の脳内は今、不安でいっぱいじゃし? こういう時は沐浴でもして心身を落ち着けるのが良いのじゃと、昔の輝術師は言っていたぞよ~!」

「結局温泉も最後まで楽しめなかったわけだし、うん! 一回、完全に休む、ってことをするべきだよ、祆蘭」

「……変な……変な気を回しているんじゃないだろうな。私は──」

「えい」

 

 こつん、と。

 額を指で突かれる。祭唄に。

 

 この……感覚、は。

 

「ちょ、祭唄! やるにしても食事の後にしてよ!」

「……確かに」

「輝術の麻酔か。うん、この頑固者には丁度いいね」

「なら、吾らは内側から休眠を促すぞよ~♪」

 

 ぐ、ぬ、ぬぬぬ、ぬ。

 負ける……わけには……!

 

 ──大人しく寝ておけ。

 

 プツン。

 

 

 

 カチャカチャと不快な音が響く。

 

「ちょっと、流石に連続して二回はご法度でしょ!?」

「……なんだ突然叫んで。己も相当な変人である自覚があるが、お前もこちら側へ? ようこそ、と言っておこうか」

 

 辺りを見回せば……突然叫んで立ち上がった私に驚いたというか、迷惑に思っているのだろう。

 無数の視線が突き刺さっている。

 

 はぁ、と溜息を吐いて椅子に座り直せば、親友はまたしても不快なリズムを立て始めた。

 

「やつれたな」

「いきなり……なによ」

「仕事、上手く行っていないそうじゃないか」

「勤めている会社を明かした覚えはないのだけど?」

「どういう方向性か、くらいは聞いていたからな。それで今朝のニュースだ。あとは勘でカマをかけてみたら、ほら。ものの見事に大物が引っかかった」

「ああ……まんまと一本釣りされたわけ」

 

 怒る気が失せた。

 

 目の前にはランチセット。飲み物はコーヒーで、無料おかわりのパンとマーガリン。

 夢であるとわかっていつつも、一応手を付ける。

 

 ……美味しい。けど、今の私の舌には……少し濃い。現代日本の味付けって濃いのねー、なんて、おかしな感想を覚える。

 

「何か手助けは必要か」

「互いの本名も知らないのに何ができるって?」

「金は貸さんが、まぁ、仮宿くらいにはなってやってもいい」

「結構よ。私別に何も悪い事してないもの。普通に家へと帰って、何も気にせずに眠る。それだけ」

「そうか」

 

 自然と出た言葉は……つまりは、あの日か。

 勤め先の企業。そこで行われていた複数の不正が暴かれることが確定した日の翌日。

 

 つまるところ、「今日から君が責任者だから、君が謝罪会見をしてくれ」と言われたあの日の翌日だ。

 そして数日後には、と。

 

「今生こそが最高のエンターテインメント。あなたが言った言葉でしょ? 他人に同情している暇があったら、奥さんとのイチャラブデートコースでも考えていれば?」

「そうするつもり満々だったのだがな。朝のニュースを見た妻が、記者会見に映るお前を発見して、蒼褪めた顔で言ったのだ。結婚してから初めての『お願い』が、お前に会いに行ってやってくれ、とは。己の有効活用法などいくらでもあるだろうに、本当に得難い妻と出会えたものだよ」

「じゃあカマかけでもなんでもないじゃない」

「騙されただろう?」

「ええ、奥さんから言われて来た、とバラしてしまうところまで含めて台無し」

 

 互いに平常運転。環境が変わったからといって、状況が変わったからといって、私達は何も変わらない。

 どちらかが不幸になろうと、幸福になろうと、転落しようと、駆け上がろうと。

 

 心地のいい関係だ。本当に。

 

「懐かしい、と。そう言って……今のあなたに伝わるのかしら」

「伝わるさ。ここが夢の中である、という話だろう?」

「へえ。こういう夢って、何を言っているんだ、なんて風に補完されるものだと思っていたけれど……あなたらしい答えを出せるのね。私の世界観にあなたの世界観はないのに」

「曲がりなりにも友人であった、ということだろうな。……さて、夢の中だとわかったんだ。食事に意味はない。無銭飲食をしても警察は来ないだろうし、適当にどこかへ行くか」

「本当に最低」

「なんとでも言え。『こういう夢』なら、お前の思い出の地にでも赴くのが定石だろう?」

 

 互いに食器を落とす。テーブルへ。

 それらはカラァンとも音を立てずに……景色の方が、バラバラに砕けた。

 

「歩く必要はないらしい。便利な夢だな」

「けど、私の思い出の地ってどこ? 正直……何かに執着した覚えはないのだけど」

「アルバート・パイン曰く、"自らのための行いは自らの死と共に消えるが──"」

「"──他人や世界に遺したものは、不滅である"。あなた、本当に好きよね、格言の引用」

「好きというより、楽である、というだけだ。故人が示した世界の真理を知っておけば、己で言葉を捻出する必要がない。その分の思考リソースを己のために使える。人生哲学などは最たる例だろう。類人猿診断によれば、人間など大まかには四タイプしかいない。己がどこに位置し、相手がどこに位置するかを把握することが円滑な人間関係の秘訣だろう」

「あなたに円満な人間関係が築けているとは思えないけれど」

「結婚している」

「最高のステータスね、本当に」

 

 バラバラになった景色が再構成されて行く。

 場所は……。……ここは。

 

「喫茶店のテーブルと椅子はあまりにも場違いだな。ここは?」

「赤子の頃に捨てられていた場所。そこの電柱の下に置かれた段ボール箱。なんの被せものもなく、私は放置されていたそうよ。大雨の降る中、ね」

「当ててやる。その時ですら泣いていなかったのだろう」

「らしいわ。だから捨てやすかった、とか」

 

 泣かない子供は、泣かない赤子でもあった。

 だから捨てても発覚しなかった。

 

「けど、私が生まれた病院から母親に電話があってね。軽いとはいえ心雑音が見られたから、経過観察したい、赤子を連れてきてほしい、って。──自分で産んだ子でもないのに、なんて……」

「病院は違和感を持たなかったのか?」

「さぁ? 私が覚えているのは灰色の空と同じ色の雨だけ。科学的には覚えているはずのない生まれたばかりの頃の記憶。私の原風景」

「ふむ。どうやら己も、この件に関してはお前が知る以上の情報は出せないようだ」

「なら何もないでしょうね。……強いて追加情報を挙げるなら、私は母親の妹の子、ってところかしら」

「節操のない父親だな」

「一夜の過ちだったそうよ。加えて、同じ血だから誤魔化せると思っていた、とか……逃げた本物の母親から、勝手な電話が届いたことは覚えているけれど」

「なんと返した?」

「『新天地でお幸せに』。不幸を願うほど愛していないもの。他人との別れに贈る言葉としては最上でしょ?」

 

 景色に罅が入る。どうやら次へ向かうらしい。

 何がしたいのかよくわからない夢。私に悔悟でも促しているのなら逆効果だけど、そもそも見せているのは誰なのか。

 

 次の場所は、とあるアパートの一室。

 

 そこには三人の人間がいた。距離感は決して親子のそれではない。

 ただ離婚調停を嫌った二人と、捨てることが法に触れるから、ということで仕方なしに育てている子供。虐待にならない程度に育てて、けれど「早く死んでくれ」と願われ続ける幼い少女。

 

「この二人、我が子は作らなかったのだな」

「もう愛なんて無かったんじゃない? どちらもずっと心此処に在らずよ。その上でどちらにも職があったから、家より仕事の方が好きな……仕事が恋人、を文字通りに行く親だった」

「恨んでいるのか?」

「まさか。教育費を出してくれただけ充分でしょう。大学も行かせてくれたのだし、親として見れば上等じゃない?」

「父親が教師だと言っていたのは、真実か」

「……なに、あなた。あっちでの話も知っているの?」

「夢だからな」

 

 まぁ、そうだ。

 父親は教師だった。だったけど、所謂教育パパというやつではなかったから、あの名を知らぬ神子の憶測は間違いだ。

 職業が教師だった、というだけの、ただそれだけの話。大学へ行くことを許したのは、高卒、というステータスが邪魔に思えたから、かもしれないけど。

 

「意外だな」

「何が?」

「小中高大。すべてにそれなりの友がいる。お前、己と出会うまで孤独だった、というわけではないのか」

「人をなんだと思ってるわけ? 家がどうでも友人付き合いは大事でしょう」

「典型的な高二病……周囲を有象無象と見下しているやつだとばかり」

「なに? 自己紹介?」

「正しい理解だな。己はそうだった。だからこそ驚いた。……可愛らしく笑うじゃないか。まるで普通の子供のようだ」

 

 肩を竦める。

 当然でしょ、と。親の恋人が仕事なら、私の恋人は学業だった。知識の吸収は時を忘れさせる。こいつのように格言収集家にこそならなかったけど、言語や海外を学ぶことに快を見出していたことを覚えている。ま、歴史が嫌いだったのは……"人間関係"を見たくなかったから、というのが大きいのでしょうけど。

 だって散々見ているし。

 

「大学に入ってからは、友達と日帰り温泉旅行に行ったり、カフェ巡りをしたり。どこにでもいる女子大生だった自覚があるけれど?」

「就職とは悲しいものだな。同系企業に属すると、もしもの漏洩を考えて友達付き合いが薄くなる。ひと月、半年、一年。いつしか連絡を取り合わなくなった者達を友と呼べるかは怪しく、ようやく家族から離れられる資金を捻出できてからは、恋人は仕事とネットになった、か」

「ありきたりな人生でしょ?」

「ああ、描写する価値すら感じん」

「そんな中であなたに出会ったのだから、まぁ、間違ったルートではなかったんじゃない?」

「どのルートを辿っていたところで己には会っていただろうし、そもそも人生にIFなどない。そこの結論は合致していたはずだが?」

 

 そりゃそうだけど。

 でも実際、私は今……異世界にいるわけで。

 結論を覆すことだってあったっていいじゃない。

 

「覆すのか?」

「まさか。人は死んでも変わらないものよ。馬鹿と同じでね」

「そのようだ」

 

 景色が崩れる。

 そこからは破片が流れていくだけだった。大学を出て、就職した後から……何事も無く過ぎ行く毎日。それらが写された欠片には、当然親友や、その奥さんの姿も映る。

 

 両親や本当の母親の姿は一度も映らない。生まれ故郷の土地さえも映らない。

 

 ──そうして、一瞬。

 大量のシャッター音とフラッシュが映って。

 

 雨が、降り始めた。

 

「なんだこの廃墟群は。この辺は普通の街並みのはずだろう」

「私の感情でも表されているんじゃない? 私の記憶の中でもこんな廃墟ではなかったけれど、心境は多少変わっていたのでしょうよ」

「お前の心境一つで己が店舗を壊されるオーナーたちの身にもなれというものだ」

「目の前にいる傘を差した私と、その背後に迫る昏い顔をした女に興味はないわけ?」

「夢だからな。己はお前の結末を詳しくは知らないが、ここにいる己は知っている。もう少し早送りできないのか? どこをどれだけ滅多刺しにされたのか気になる。主観視点ではなく客観視点で見ることができるのは良い機能だな、回想」

 

 いやまったく。

 どうしてこんなのと大親友なのか、ここに至って尚理解できない。

 

 して、件のシーンへ。

 まず背後から刺されて、脚を刺されて、動けなくなったところを滅多刺しだ。

 

「興味深いな」

「なにが?」

「お前、全く抵抗していない。命数尽き果てるまで抵抗する、というのがそっちでのお前の口癖だろうに」

「ま、初撃が致命傷だったし。その怒りを身に受ける摂理はあると思っていたから、でしょうね」

「道理はないだろう。そもそも殺人に道理などあってたまるか」

「縄張りを荒らされた獣が次に取る行動は?」

「報復だ。決死の、な」

「見ての通りでしょう」

 

 お前のせいで、お前のせいで、私の家族が、パパは、お母さんは、と。

 何度も何度も──既に死んでいる私を刺す女。涙を流しながら、そうして、そうして。

 

 最後に女は、己の首を。

 

「……これは知らなかった。死んだのね、彼女。折角仇敵を殺し得たのに、勿体ない」

「獄中生活が嫌だったか、家族のもとへ行きたかったか。大穴でお前への罪悪感か?」

「殺した相手に罪悪感を抱くようなやつは殺人なんてしないでしょ」

「強迫観念に襲われた人間はなんでもするさ。我に返るまでな」

「ああ……己の中の怒りをぶつけ切らないと、どうにかなってしまいそうだった、ってことね。それで、ようやく我に返って、って? ──ないでしょ。見なさいよ、この子の顔」

「晴れやかだな。歪だが」

「家族のもとへ行けて幸せなんじゃない?」

 

 この景色にも罅が入る。

 私の人生はこれで終わり。だから、そろそろ目が覚めるのかな。

 

 白。真っ白。

 ……あら。

 

「起きそうにないわ。ここであなたと二人きりになるくらいなら、初めの喫茶店に戻って現代日本の料理の味を楽しみたいのだけど」

「食に興味はないだろう」

「ええ、けど、久しぶりにコーヒーの香りを嗅いだら、飲みたくなるのが普通じゃない? コーンスープも飲みたいし」

「明晰夢なら、望めば出てくるんじゃないか。テーブルと椅子はあるのだしな」

「……難しいことを言うものね、あなた」

 

 今度は彼が肩を竦める番だった。

 そうだ。それは彼が見つけ出したこと。

 私と話してる内に、彼が気付いたこと。

 

「無理か。お前には何かを望んだ経験がないのだから」

「ええ、そう。目的は持てるのだけど、願うとか望むとか、難しいのよね。親元を離れたことは目的だったわけだし」

「とりあえず『明日天気になりますように』くらい願わないものかね、日本の子供ならば」

「スニーカーでも飛ばせって?」

「あれは高下駄でやるから意味があるのだがな。猫の背にジャムパンを括りつけて永久機関にする世界の人間ならその占いにも正当性はあるかもしれんが」

「茶柱が立ったらハッピーかしら」

「かき混ぜるようにして注げばだいたい立つだろう」

 

 本当に、夢の無い人間だ。

 それは私も同じだけど。

 

「……ね、今生がエンターテインメントさん」

「なんだ、人生が消費型コンテンツ女」

「私、誰かに呼ばれたらしいのよね。最も近いところにいて、けれどその自覚のない誰か。そんな女性に呼ばれたから、私はあの世界にいる、とか」

「死者を請う愚か者を探せばいい。いくらでもいるだろう」

「どこの誰とも知れない死者を願うの?」

「それが来なかったから代役として呼ばれた、とかではないのか」

 

 ああ。まぁ、ありそう。

 部分的であれば、私は誰かと似ているだろうし、誰とも似ていないだろうから。

 

 しかし、中々目覚めないものね。

 ……今更だけど、輝術の麻酔ってなんなのかしらね。治癒ができないのに麻酔はできる……というのは、相学とかいうのが関係していそうではあるけれど。

 

「恨まないのか」

「誰をよ。……というか、誰であっても恨まないでしょ。疲れるし」

「己を、だ。お前のことじゃないぞ」

「はぁ? なんでよりによってあなたを恨むのよ。今でも大親友だと思っているのだけど?」

「……お前が死んだ日の前。お前が"大変"になった日のあと。己は……妻にな、言われていたのだ。嘘を吐いてもいいから、一度家に連れてきてほしい、と」

 

 おかしい。

 彼は──私の知る以上のことを知らないはずなのに。いや、それを言ったら朝のニュースとかそういう話の時点で。

 

「己はお前ならば問題なかろうと、妻の忠言を無視した。またいつもの喫茶店で顔を合わせて、お前の憮然とした顔から現状を……生まれや育ち以上の不幸話を聞いて、笑い飛ばしてやるつもりだった。直接顔を合わせずともよかったさ。昔のようにネット越しでも問題なかった。一言、くだらん皮肉でも言ってやればよかった」

「ちなみに言うならなんて言うつもりだったの?」

「随分と有名人になったものだな、己も鼻が高いよ、と」

「成程、嘘つきにはぴったりね」

「長くした覚えはないがな」

 

 おかしいけど、やっぱり夢だ。

 こいつが悔恨などを吐くはずがない。後悔をしない男だった。だからこそ私は──彼を友に据えたのだ。

 常に前ばかり見ている彼ならば、私の背を追うことがないから。

 

「再度問う。今の話を聞いても、恨まないのか」

「ハリエット・ビーチャー・ストウ曰く──"墓地で流す最も苦い涙は、為されなかった言動を悔やむものだ"、だそうだけど」

「お前が己に引用を使うのか」

「あなた、泣いたの? 私のために、一粒でも涙を零した?」

「まさか。そこまでお前を知らんし、お前を愛していない。己の愛は全て妻に注がれるものだからな」

 

 であれば。

 それが本当なら。

 

「恨む必要性さえなくなったじゃない。己の不都合を他人のせいにして、何がエンターテインメントよ。──行きなさい。そして生きなさいよ。まだ、生きているのでしょう?」

「……今日は、お前が死した日だった。だから墓参りにな、妻と……共に来たんだ。手を合わせたと思えばこれだ。全く、オカルトには一切の興味を示していなかったが、これを機に研究するのもいいかもしれない」

「馬鹿ね。……いいえ──いいや」

 

 トンカチを向ける。

 口角を上げる。見上げる形になった彼に、宣戦布告するかのように。

 

「莫迦者め。そんなくだらんことをしている暇があったら、もっともっと奥方を愛せよ。私のために心を砕いてくれる心優しい彼女の心を癒せよ。まだ九年だろう? ──十周年記念にもう一度会いに来い。そして墓碑にコーヒーでもかけに来い」

「十年忌を周年などと言うのはお前だけだし、墓石にかけるのは酒だろうに」

「私は酒が嫌いだ。何度言えばわかるんだ、この色ボケハッピー男」

 

 世界が染まっていく。

 白から青へ。蒼穹へ。見渡す限りの草原へ。一本の木と、山の存在しない地平の世界へ。

 

 ああ、そうか。

 私の心象世界が土砂降りの廃墟じゃなかったのは──お前がいたからか。

 ここまで頭ハッピー人間がいれば、確かにこれほど広大で美しき世界が構築されるのも無理はない。

 

「友よ。お前の好きな花は、なんだ」

「好みなどないが、まぁ、今は──鈍色の通草花、かね」

「線香や団子を供えるより、工具を供えた方が嬉しいか?」

「ああ。一年で一式取り揃えておけよ大親友。あまりにも異色な墓にしておいてくれ」

 

 輝きが満ちて行く。

 この光は、本来ここにいるべき者達の光だな。

 

 とうとう、本当にお別れ、だ。

 

「最後に、何か言うことは?」

「ふむ。そうだな。……お前を願った者。それは恐らく、お前が最も気にしないようにしている者だ。望んだ経験がないから、望むことへの経験値が少ないから、気付いていないだけで──」

 

 光が。

 

「お前にもしっかり、望みはある。この夢を覚えていたら、小さくなったお前の姿を絵にでも描き表して、妻と共に笑い飛ばしてやろう。まさかまさか、お前が転生とは、とんだ笑い話もあったものだ、とな!」

「その悪趣味に奥方を巻き込むなよ。じゃあな」

 

 ──名も知らぬ、生涯の大親友よ。

 

 

 

 目を覚ます。

 伸びをして血圧をあげ、脳を稼働させて呼吸をし、深呼吸を挟んで完全起動。

 

「おはよう、祆蘭」

「おはよ~。もう夕刻だけどね」

「……麻酔の量、多くないか。流石に寝すぎだろう……んんっ──」

 

 丸一日昏睡とは何事か。

 はぁ、しかし。

 

「いい『リフレッシュ』になったよ、ありがとうな、二人とも」

「なんになった、って?」

「確か……気分転換? 合ってる?」

「あ! ずるーい、祆蘭語だ!」

 

 リフレッシュ、ね。

 じゃあ、やっぱり、疲れていたんじゃないか。

 

 自分のことほどわからないものだ。

 

 ──ちなみに弁明しておくのじゃ! 吾らは何もしていないぞよ! 本当だぞよ!!

 ──おい、祝。お前は嘘というものが吐けぬのか?

 ──それは君もだねぇ、媧。

 

 成程。お節介な同居人だことで。

 メゾンド祆蘭への家賃のつもりか? 足りんぞ、こんなんじゃ。

 

「夕飯は私が作ったからね。威圧で穢れを浄化してくれると嬉しいかな」

「いや……似合わな」

 

 というか夜雀の仕事を奪うなよ。実は暇なんだろ陽弥。

 ま、安心するといいさ。

 

 時は満ちたからな。

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