女帝からは逃げないと。 作:霧江牡丹
自分で淹れた薬膳茶を飲む。一人。
ぺらりと音を立てる頁をめくる。一人。
戯れに彼女が使っていた工具を生成してみる。一人。
「うーん……」
一人である。独りであった。
黒根君は今、独りである。
「うーん……」
身内贔屓と実力の双方を理解して傍に置いていた妹も、「混ぜ返す用途」の付き人も、今ここにはいない。
新帝同盟なるものの一員となり、彼女……祆蘭の指示で赤州にいるとかなんとか。
別にこの黒犀城に他の人員がいないわけではないけれど、心を許し得る者が一人もいないという状況は……それなりの精神的負荷のかかる事実だった。
「あそこで……ボクも入る、と言っておけば……」
浮かんでくるのは悔恨ばかり。
想い人、
なんなら今から元帝を糾弾することもできるだろう。その悪事を明るみに出して。
ただしそれは、祆蘭へ喧嘩を売ることにも等しく……そうでなくとも民に混乱を齎すことは間違いない。出来得るのなら秘密裡に終わらせてしまいたい。というかもう終わった話ではある。
必要な事だったと聞かされている。妹と凛凛は、軽くではあるけれど、真実を黒根君に話していたのだ。
"
加えて祆蘭の発していた昏迷の時代の訪れ。その予兆。
咄嗟に「今決めろ」と言われたせいで「無干渉」の立場を取ってしまったけれど、これではただ駄々を捏ねる子供と同じ。
黒根君とて黒州のことを愛して……いるかどうかはともかく、守るべき対象であるとは考えている。
たとえ黄州より帰還した黒根君に、行政からの罵倒が飛んでこようと。
前から見限ろうかと思っていた"華"から、最早隠す気ないんじゃないかな、と思うような皮肉が飛んでこようと。
とりあえず守ってあげよう、という気持ちはあるのだ。
個人の禍根など捨てて合流しておいた方が、得られるものは多かった。それは……もうどうしようもなく正しい事実なのだろう。
──黒根君。不躾で申し訳ございません。今、少々よろしいでしょうか。
──
伝達。珍しい相手からだ。
黒根君から伝達を入れることはあっても、彼から、というのは中々ない。
──至急、黒根君にお見せしたい……いえ、御意見を伺いたいものが発掘されまして。此度はお客様としてではなく、州君である黒根君への要請となります。
──ん、わかった。すぐに行くよ。
本当に珍しい話だ。
泉過は観客を傷つけない。どれほどの非礼を、どれほどの無礼を働かれても。一度でも『輝園』の公演を見に来た者はすべて観客として扱う彼が、黒根君にそうではない立場を要求する。
余程のことがあった、と見るべきだろう。
正直なところ、行政の絡まない仕事は気晴らしとして最適だった。
その幸運に感謝しながら──彼女は旧知の要請へ向かうのである。
さて、現場へと急行してみれば、確かに何かがあった。
「黒根君。お忙しいところ恐れ入ります」
「いや、いいよ。それより状況を教えてほしいかな」
「はい。以前、祆蘭お嬢様に提案していただいた輪鼓における芸の練習中の話です。お嬢様に頂いた設計図以外のもの……此度は金属製の輪鼓を作り、幾人かによる芸を行っていたのですが……妙に巧く行かず」
「それは、君から見ても妙だと感じるほど、ということだね?」
「そうです。演者の体調不良や言い訳ではなく、明らかに金属製輪鼓は何かに引っ張られるようにして動き、そして……ここに集いました」
ここ。
ここだ。今、輝術師ではない演者らが慎重に発掘作業をしているソレ。
円柱。ただし、周囲に何か輪のようなものが二つついていて、埋まっているというのに動いているようにみえるモノ。
「彼らを下がらせてくれ。ボクが掘り出してみる」
「私共の抱える輝術師曰く、重すぎて取り出せない、ということですので……お願いできますでしょうか」
「重い? ……わかった、覚悟するよ」
輝術は別に件の光の粒を使ってなにかを行っているわけじゃない。だから重いとか固いとか、そういうのは幻覚だ。感触を錯覚として覚えてしまっているに過ぎない。
それでも黒根君は彼らが……『輝園』の者達がたゆまぬ鍛錬を行い続けていることを知っているし、適当を言う者達ではないことも知っている。
理解もしているはずだ。彼らとて、「重い」とか「持ち上げられない」とか、輝術とはそういうことではない、ということくらい。
だから、覚悟する。
それを作用させて。
「──ッ!?」
何が起きたのかを理解するのに刹那を要した。
円柱を浮かび上がらせようとした黒根君。その足元の地面が沈み込んだのである。
……まるで、何か重い物を持ち上げんとして、逆にこちらが沈んだかのように。
ただ、彼女は黒根君だ。だから理解する。
「これ、結界だ。ボク達の普段使う輝術とは違う術理の……」
「なんと……」
「ん……泉過、君の判断は正しかったかもしれない。恐らくだけど、これをこの場所から動かすことはできない。だから」
だから──周囲を退かせばいい。
こつこつと掘られていたように。
周囲の土を、地形を、その円柱から引き剥がすようにして持ち上げる。
それは勿論人のいない場所へと移して……その全貌を見た。
「空中に……留まって」
「動いている……?」
直径三十厘米ほど、高さ十五厘米ほどの円柱。
その周囲を二つの輪……それぞれ直径五十厘米、八十厘米ほどのものが囲い、それぞれの輪には球体がある。小さな輪の球体は硝子に似た材質なのか、向こう側が透けて見える。大きな輪の方は光を発している他、水をかければ一瞬で蒸発する程度の熱を有している。それぞれの球体はゆっくりとではあるけれど回転していて、そこに輝術が働いているようには見えない。
気になるのは硝子のような球体についた疵だ。円柱から見て内側にあるそれは、何か強い衝撃を受けたかのような罅割れと共に在る。
「黒根君、これは……?」
「わからない。ただ、こっちの球体の熱は危険だね。どうにも動かせないようだし……小屋を建てて収納して、しばらく様子を見よう」
「承知いたしました」
「それと、輪鼓を使ってこれを見つけた者達に、次、似たような現象が発生したらすぐにボクへ連絡を入れるよう言ってくれ。ああ、勿論君が報告をまとめてくれても構わない」
「ではそのように」
泉過含め、『輝園』の者達が引き上げていく。何にせよ大手柄だ。特別な手当てでも考えておくべきだろう。
さて……あとで固定輝術をかけるため、建てる小屋は適当でいい。先程掘り返した土地に生えていた木材を適当に組み合わせて、「形だけの小屋」を制作。それを固定し、さらに二重固定を行う。固定輝術に固定輝術をかける……同じ州君か遮光鉱でもないと破り得ない結界。
「ああ、まぁ、彼女でも破り得てしまうかもしれないけど」
結局原理はわからなかった。天井の結界に立つ術と、青清君との戦いの最後……彼女なりの「死なず一歩手前」くらいまで加減した重圧を押しのけることのできた理由。
凛凛曰く輝術には意思があるというし、それが祆蘭に立ち上がることを許した、なんて荒唐無稽な話でもなければ説明のつかない現象。
と。
黒根君の足元に、ぴょこ、と……何らかの植物の芽が出た。
そして声がする。
「黒根君、アンタ今暇?」
「凛凛? ……近くに来ているのかい?」
「全然。赤州だけど」
「そんな遠くまで声を届けられるようになった、と?」
「はぁ? 前に説明したでしょ。これは『継草』って連絡手段で……って、ああそうだったわね。アンタ、折角説明してあげたのに"じゃあ普段から空にいるボクには意味ないじゃないか……"なんて言って不貞腐れていたっけ。アンタ昔からそうよね。自分に益のないものとわかると、興味を失くすを通り越して存在自体無かったことにするっていうか。使い方は共有したんだから、上手く使いなさいよ」
うーむ。
黒根君は唸る。このお小言。普段は図星ばかりだし、痛い所をついてくるし、それでいて実際やるべきことばかりだから何の反論もできないしで頬の引きつるものであった……けれど。
今はもう懐かしい。まだ二日三日しか離れていないのに。
「この形状の草に向けて、私へ行うよう情報伝達をすれば、私に伝わる。ま、こっちの手が空いてない時は反応できないけど」
「……ちなみにさ、それ、雑談でも良かったりするのかい?」
「忙しくなきゃね。今赤州の結構厄介なのを相手にしてるから……ああまぁ、
「うん、ダメだね」
「じゃ、直通は私だけね。……で、暇?」
州君の血縁が、同じとは言わないまでもそれなりの力を持つ、ということは珍しい。しかも姉妹で、となると稀有である。
だから事あるごとに凛凛は蓬音の改造をしていいか、問うてくる。当然ダメだ。「本当の理由はそれだけじゃないんだけどね」なんて言っているけれど、何が理由であろうとダメである。
「暇ではないかな。少し……異質なものを発掘してね」
「あ、そ。まぁ今資料を共有するから、生成できるならしてみて」
情報伝達。今しがた生えた芽から来るそれは、まぁ、凛凛と共にいればそう珍しくないことだ。
そうして頭の中に入ってきたものを……とりあえず言われるがままに生成してみる。
糸と、それの先についた黒水晶。
「生成したけ……ど……」
「ああできたの? それ、祆蘭から──」
ソレは。
輝術もかかっていないソレは……黒水晶は、円柱の方へと引き寄せられる。円柱だ。今しがた小屋を作り、二重固定の結界をほどこしたそこに。
「何かあった?」
「動いた」
「……あの子が作らなくても発動する? それともあの子の引いた図面ならなんでもいいのかしら。それ、
「別のもの、とは?」
声には溜息が混じっている。凛凛も信じていないようなそんな声色で。
「敵の手がかり、だとか。曖昧過ぎるでしょ。前からではあったけれど、ここ数日輪をかけておかしいのよね、あの子」
「……いや、おかしいというより……凄まじい、のかもしれない。祆蘭に聞いておいてほしい。そういう類のもの、他に何か思いついたらすぐに共有してほしいと」
「何かあったの? ……必要なら私、戻るけど」
「大丈夫。今は人手より想像力が欲しいだけだ。……ある程度片付いたら、ボクも新帝同盟に参加しようと思っているんだけど、彼女は許してくれるかな」
「どの彼女? 祆蘭? それとも、アンタの想い人?」
口をついて出た言葉だった。
果たして今、黒根君はどちらを指して彼女と言ったのか。
「多分、どちらも」
「祆蘭は許すでしょうけど、アンタの想い人は知らないわよ。幽鬼になって出て……って、鬼にまでなって死んでるんだっけ。じゃあ大丈夫じゃない?」
「淡々としているなぁ。これでもボクの最大級の
「他の州君の方がよっぽどつらい目に遭ってるわよ。じゃ、用件終わり。夜にでも色々噴き出して、耐えられなくなったら頼ってきなさい」
声が聞こえなくなる。
手厳しいなどというものではない。ないけれど、これくらいがちょうどいい。
それに、なんだかんだ言って凛凛は優しい。だから黒根君が本当に耐えられなくなったら、彼女が頼る前に凛凛の方から伝達を入れてくるだろう。察しも良くて面倒見も良くて。
「うん、ボクには君になぜ貰い手が現れないのか理解できな──痛ッ!?」
森の中からトゲトゲした種子が飛んできた。
無論、わかっている。
外見のせい……ではない。黒根君という手のかかる子供がいるからだ。最近は祆蘭も、かもしれないけれど。
だから黒根君らが大人になれば、彼女にも──。
「痛いっ!? ちょ、今回は口に出してないでしょ!?」
──アンタの頭の中なんかお見通しよ。
なんて。
情報伝達は来ていないけれど、言われたような気がした。
「そういうところ──って多い多い多い!!」
浮遊というより飛翔と表した方が良い速度の輝術により、彼女は連射される種子の攻撃から逃げ果せたのであった。
書庫に入り浸り、片っ端から過去を記録した書物を調べて行く。
調べるものは三つ。『
調べている理由は暇だから……ではなく。
「見覚えが……あるような、気がするんだよなぁ……記憶に残っていないってことは、消された、ってやつか、あるいは……」
それは祆蘭が新帝同盟の旗に描いていたもの。黒根君らにとっては絵の一部にしか見えないそれを、けれどどこかで見たことがある。
似ているだけかもしれない。ただ、確か祆蘭が鬼と幽鬼に襲われている時の……祭唄への伝達に使った布にも似たような絵が描かれていたはずだ。
黒根君はこれら絵画を、もっともっと昔に見ていた……はずなのだ。朧気な記憶でしかない。輝術師にとって「朧気な記憶でしかない」ということはあり得ないので、なんらかの術が働いているはず。
であれば記録ならばどうだと、今こうして文献を漁りに漁っている最中。
確か物語に類するものであったはずなのだ。
──何かが己の知識領域に触れる。
誰か……高位の輝術師が、壊れた情報体を修復しているらしい。
壊れた情報体。そう呼ぶしかないそれらは、けれど確実に存在する。
今しがた述べた通り、輝術師にとって「朧気な記憶でしかない」ということはあり得ない。意図的に隠されている、もしくは壊されているのでもなければ、個人記憶を含めて記憶喪失は起きないのである。
それでも忘却が発生するのは、記憶にも風化が存在するからだ、というのが通説である。固定輝術のかかっていない「記憶」や「情報体」は、たとえ輝術師の集合意識の中にあったとしても風化の影響を受ける。……ただし、五千年前の日常会話の一瞬ですら完璧に覚えている輝術師もいるため、この通説は賛否両論である。
輝術もまだまだ発展途上の分野。だからああして……黒州一の狂気的科学者らのようなものがいるのだけど、社会はそれを弾圧するからなぁ、なんて。
それていった意識を戻しながら、今行われている「修復」に舌を巻く。
塩で作った人形を海へと放り投げて、数十年経ったあとに「元々の塩」を基に同じ人形を作り上げるような作業である。
これほど繊細な作業を可能にする者は……まぁ思い当たる人間はそれなりにいるけれど、この面倒臭い作業を行おうとするものに絞れば……。
まず青清君はない。面倒臭がりだし。緑涼君も……忙しいだろうからない。赤積君は絶対にやらない。玻璃はそもそも壊れた情報体に興味がないだろう。となると付き人かただの高位輝術師になる。進史はない。青清君の世話で忙しいから。点展は鬼になったらしいのでない。赤積君のところの新しい付き人は、まだ経験不足である、という話を聞かされている……のと、赤州の気風から考えてこういうことはしない。陽弥は鬼なので論外。
とすると凛凛……も、ない。人間に対しては面倒見のいい彼女だけど、仕事に対しては飽き性だ。興味があることしかやらないし、興味があることでも途方もないことだとすぐに放り投げる。
では彼女と同格であろう二人はどうか。今潮……は、鬼だ。ない。笈溌は。
「笈溌、なぁ。……結局どういうやつなんだ、笈溌って」
敵であることは示唆されていた。そしてほぼ確定もしている。
凛凛の幼馴染で、虫に輝術を食わせてそれを操る狂気的科学者の一人。けれど、その実態は未だに見えてこない。
ただ、この修復作業を行っている者は笈溌ではないだろう。なんたって紊鳬……玻璃の元付き人が敵である、というのが判明している上、今までの情報体破壊や記憶風化の下手人である可能性まで浮上している状態だ。彼女がいれば、わざわざこんな回りくどくて精密である作業などする必要が無い。
考える。
考えて。
「……まぁいいか。直してくれるなら有難い限りだし……」
考えるのを、やめた。
そうした後のこと。しばらくして修復が終了し──黒根君は、「あーっ!!」と大きな声を上げるのである。
先代赤積君。いいや、先々代の帝、
砕かれていた情報体の修復によって、黒根君は思い出した。件の絵画をどこで見たのかを。
して、というかゆえに、急行する。『輝園』の……というか泉過のもとへ。
もう結構な夜であるから、『輝園』の面々は帰宅準備をしているところだった。そこへ突っ込んできた高速飛翔体を前に、平民らを守るようにして輝術師が前に出る……が。
「黒根君、こんな夜更けに如何なされましたか?」
「『
とんでもない大声である。というか泉過も輝術師なので伝達で確認すればいいものを、それすらも忘れていた、という風に彼女は詰め寄っている。
「ええ、勿論覚えておりますよ。数瞬前までは靄がかっておりましたが、私は忘れていません」
「靄がかっていたことまで覚えているのか……じゃ、なくて! ほら、確か彼に贈られた絵がある、とか言ってなかったかい? 観劇に来た彼が『
「ええ、ええ。ですから、そう声を荒げられずとも、覚えていますよ。お見せいたしましょうか?」
「すぐに!」
何事か、と演者や団員の見守る中で、『輝園』の移動式巨大舞台へと泉過が入っていく。入っていって。
帰ってきた時には、その傍らに白布の巻かれた絵画があった。
彼はそれを浮かせ、白布を取っていく。
団員の誰かが気を利かせたのだろう、輝術による灯りがその場を照らす。
布の取られた絵は。
「……やっぱりだ」
「これが、先々代の帝、月織様に頂いた『
「これ。これだよ。この……白以外の部分に描かれている絵」
「あまり見ない形状の絵画ですね。月織様は独特な方でありましたし、何かを意味しているのでしょうが……何分、お亡くなりになりましたので確認しようがなく」
思い出す、という行為さえ必要ないけれど、『
祆蘭が描いたもの。新帝同盟の旗。そして……この絵画の絵。
どれも全く違うものであるのに、通ずるものを覚える。
同時。
黒犀城の方で調べ物を続けていた輝術が……ある文献を発掘する。黒根君の知覚とて広い。だから、輝術に頁をめくらせて、そこに付着した墨を読む、くらいのことはできるのである。
文献の題名は『
あるいは、今変わったか。
「妙……ですね」
「っ、何が、だい? 今は少しでも情報が欲しい。どんな気付きでもいいんだ」
「……私は、観劇に来てくださったお客様の顔は忘れません。これにより、副次的ではありますが、その他に関する記憶力も高い方であると自負しております。……だからこそ、この絵は……足りない」
「足りない?」
「欠けている……いえ、損なわれている? ここの……白い部分。ここにも、もう一つ……絵が描かれていたはずです。賜った当初は……そこに」
精査を行う黒根君。
塗り潰されている、ということはない。塗料を剥がした痕跡もない。
けれど彼女は泉過を信じている。彼が「あった気がする」というのは、決して気のせいではないはずなのだ。
「どういう形だったかは、思い出せるかい?」
「……私は絵描きではありませんので、思い出し得る範囲ですが」
やはり見たことのない絵画。
それでも、繋がるものだと、通ずるものだという確信があった。
「ありがとう、泉過。多分これは、ボクらが忘れていてはいけなかったものだ。先々代の帝の遺した……遺言に思えて仕方がない」
「あのお方は絵を描くことを好んでおりましたし、どこかにまだあるやもしれませんね。元帝様も絵描きですし……もしや、祆蘭お嬢様も?」
「ん、んー。……彼女は多分絵画より図面の方が上手なんじゃないかな……」
何かの役に立つ。
けれどそれが何の役に立つのかは……やはり新帝同盟に入ってから、になるのだろう。
「しかし、気になるな。なぜ月織は今の『
「この紋様が、何か強い意味を持つ、ということでしょうか? 色分けも……丁度、州の色ですし」
「白がこれ、ということかい? ふむ」
倒される穢神なる存在。六人の子供ではなく六つ、という言い回し。
単なる偶然であると考える方がもっともらしいけれど、昼に見つかった謎の模型も……少しは「噛んでいる」ように思えて仕方がない。
「他に月織関連で思い出したことはないかな」
「……申し訳ございません。心当たりは……」
「あ!」
と、声を上げたのは……帰宅準備を終え、ほぼ帰りがけだった団員。
輝術師ではない、平民の青年だ。演者ではなく裏方の小道具などを担当する者。
「何か知っているのかい、君」
「あ、……っと、えーっと」
「落ち着きなさい、
「おや泉過、君、そういう些細な皮肉を言う性格だったかな」
「今日の黒根君は観客ではありませんので」
初めて知った扱いの括りに多少の歯噛みをしながらも、けれど彼女はにこやかな笑顔を浮かべる。
というより、龍画。聞き覚えがあると思ったら──黒根君がお忍びで工房街へ赴いた時に出会った青年ではないか。凛凛とも知り合いで、そして祆蘭とも色々あったらしい者。
塞ぎ込んでいた黒根君の心を開いた玩具。その製作者たる男の孫。
「……実際に見てもらった方が早い、かもしれないです。あーっと、……申し訳ございません。俺、じゃねえ、私は適当な教育を受けておらず」
「ああいいよいいよそういう堅苦しいの。君、工房街の人間だろ? ボク、多分だけど君のお爺さんと面識があるんだよ。
「え、え!? 爺さんの知り合い……というか爺さんが黒根君の知り合い!? どういう……ホントどういう人脈してたんだあの爺さん……!」
嘘である。直接の面識はない。
ただ、事を円滑に進めるためには嘘くらい吐く。息を吐くように吐く。
泉過には見透かされているようだけど、この青年は随分と純粋らしい。黒根君の普段の付き合いを考えると、こういう純粋な青年は嫌いではない。
「君の家へついていってもいいかな。大丈夫、姿は隠すから」
「ああ、了解です! んじゃ団長!」
「夜ですから、あまり騒がないように。ええ、気を付けてお帰りなさい」
「はい! んじゃ俺頑張って走るんで!」
言って……走り始めた青年。
正直言って遅い。遅いけれど、平民を浮遊させて運ぶ、なんてことはしない。
「彼、前に幽鬼の存在を見たことがない、いるわけがない、という発言をしていたけど……輝術師とそういう話はしないのかい?」
「するのですが、何を言っても"また口裏合わせてんだな! 知ってんだぞ!"の一点張りでして」
「あー」
「善人ですし、働き者ですし、周囲への気遣いも忘れない良き平民なのですが、如何せん思い込みが激しく……」
「まぁ、そのあたりは君の今後の手腕に期待、だね?」
「勿論にございます。いずれは演者もやってみたい、と本人からの申し出がありますので、そうなりました次第には、全てを」
青年に幸あれ、なんて。
焚きつけておいて他人事な感想を抱きながら、彼女は浮かび上がり……疾走する彼の後を追うのであった。