女帝からは逃げないと。   作:霧江牡丹

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第八十五話「望遠鏡」

 波のほとんど立っていない海を進む舩。

 動力がなんであるかは……風、のようには見えるけど、多分違う。輝術だと思われる。

 

 また、漁も「釣る」とか「網を投げる」とかではなく、「輝術で持ち上げる」のが主流らしい。

 いつか桃湯とも話したけど、貴族……輝術師が漁をする、というのはこういうことだったんだなぁ、って。

 ちなみに深海は見えない。ユラユラ揺れる幽鬼も見えない。深すぎるからだ。

 

 火山湖がこんなに深くなるのは……それほど大きい火山、という話にもなるわけで。

 でも、"八千年前の組成"で見たリセットの噴火や各州地下の穴は、それほど大きいものではなかった。……調節されている、ということだろうか。

 

「……見えないな」

「何がー? ……それ、なんですか?」

望遠鏡(ワンユェンジン)という道具だ。輝術における拡大鏡を道具で再現したもの、になるか」

「え、すごい! 私も覗いてみたいのですが、よろしいですか?」

「構わないが、輝術の拡大鏡の方が倍率は高いと思うぞ」

 

 見えない。

 まーったく見えない。

 何がって。

 

「おお、面白~い! いいですね、これ。どこかで買ったの?」

「いや作った。……鈴、じゃない、衿泉(ジンチュェン)。そんな目で見るな。仕組みが単純だから出していないだけだ」

「……そうですか。貸してください」

 

 そういえば献上してなかったな、って。

 望遠鏡は私が遠くを見るために使う道具だから、小物入れに入れっぱなしだったというか。

 双眼鏡もいつか作りたいとは思っている。

 

「ああ、なるほど……眼鏡を……上手く重ねているんですね。……面白いではないですか。単純な仕組みとはいいますが……これは"世の理"ですし……」

「わかったわかった、帰ったら提出する。そのあと……蘆元(ルーユェン)様に卸して、商品化してもらうか」

「それで、何が見えないの? さすがにこれですと、魚は見えないと思いますが……」

「ああいや、光閉峰を見てみたくてな。見えないものかと……」

 

 船室の方からぶふっという何かを噴き出す音が聞こえた。それも複数。

 蜜祆さんと鈴李を見る。……笑顔だ。

 

 ……この感じ、なんか……テンセンフォンのことがわからなかった時と似ているような。

 

 ──お前、私が渡した知識で距離くらい測り得るだろう。

 

 え、いやでも。

 

「く、悪い悪い! 子供の発想は豊かでいいですね。けど流石に見えねえよこの距離じゃ!」

「親方、船長もダメだよ子供の夢を壊しちゃ! この望遠鏡があれば、見えるかもしれませんし、ね?」

「祆蘭……あなた、いつもは賢いのに、どうして時折そうなのですか……」

 

 え、いやいや。

 目視可能な距離だったって! 確かに陸からは見えないだろうけど、ここまで沖合に出たら見えていたっておかしくないって!

 え!? 私がおかしいか? 霧が出ているわけでもない、天候が悪いわけでもないこの状態で……望遠鏡まで使って、ここまで見えないこと、ある?

 

「ま……待てよ? もしや、実は光閉峰など存在せず、騙されているだけなんじゃ」

 

 なんて呟こうものなら、大爆笑が起きる。

 わからんだろう、お前達は認識をおかしくさせられている可能性があるわけで。

 

 ──ではお前はどのようにしてあの穢れの箱を作ったのだ……。

 

「では……どうしたら、光閉峰を見ることができる。もっと近づく必要がある、ということか?」

「だねー。その必要があるし、けれどそのあたりには魚がほとんどいませんので……」

「俺達漁師が近づく意味は無ぇってことさ! ああでも、行きたいというのなら行ってあげてもいいですよ」

「行きたい。見てみたい」

「お、素直じゃねえの。それでは親方、いいですか?」

「構わねえよ。充分量は獲れましたし」

 

 どう……どういう、ことだ。

 何があればこうなる? 確かに媧が私の脳に残した知識から、距離は算出できる。

 だけど……もっと近づかなければ見えない、という理由がわからない。どういう状況であればそれになる。

 

 何が必要だ。どういう状況であれば……。

 

 ──燧。祆蘭は何に悩んでいる?

 ──ふむ。私達にはわからないこと、だろうね。あるいは奴らが絡んでいる可能性はある。今回の……蜜祆、だったかな。彼女のことは、私達も覚えていないのだから。

 ──穢れの意思の関係する話には聞こえぬが……。

 

 わからん。わからんが……これは、忘れてはいけない、気がする。

 理屈は何もわからないのに、警鐘を鳴らしている自分がいる。考えなければならないことだと。

 

「あと……どれほどかかる?」

「もうすぐだよ~。しっかり抱えていてあげますので、先頭に行きますか」

 

 がっちり持たれて、舩の上を移動する。

 揺れはほとんどない。この舩自体、かなりの速度で走っているのに、だ。

 

 そうして、そして。

 

 見えてくるは……巨壁。

 壁にしか見えないそれは、確かに峰々……上の方が雲に隠れて見えない。そして、その隙間を縫うようにして雲が「向こう側」から流れてきている。

 

「あれが光閉峰……か」

「でっかいよね~。加えて、踏破した者は未だに居らず、ですからね」

「輝術が弾かれてしまいますからね。平民でなければ上り得ませんが、平民はこの壁の時点で無理ですし」

「だから私が研究してることが役立つんだよね! つまり──」

「"幽鬼にお願いして登って来てもらう"、だろ? 無理だと何度も言っているでしょうに。第一どうやって幽鬼と言葉を交わすんだよ! 交わすことができたのなら、死んでしまいますよ」

「船長そりゃ迷信だろ! ……あと、この舩はいいが、あまり堂々と幽鬼の話をしないように」

 

 幽鬼の声が聞こえたのなら、死者に近付いている証。

 水生にいた頃に聞いていた迷信がここにも根付いているとは。

 

 ……輝術師と平民が一緒にいる街なのに?

 

「あれを……あれの上の方は輝術が弾かれる、という話であるのなら、下はどうなんだ?」

「無理無理~。あの山はとても硬いので、指先程の穴を掘るだけでも一万年はかかるらしいよ~」

「衿泉なら、どうだ」

「試したことはありませんが……今それをする必要性を感じませんね」

 

 それはそうだけど。

 ああいや、そうか。別に鈴李は「この世界から出たい」とは思っていないのか。

 

 ──威力はあまり関係がないだろうな。奥多徳共が殴ろうと何をしようと、砂粒ほども削り得なかった。

 ──盤古閉天(シェングービーテン)の時に私達も試したけど、無理だったよ。恐らく何かしらの術がかかっているのだろう。

 ──揃いも揃って役立たず、と。やはり離脱して正解か。

 

 つまり、輝術ではハナから無理で、穢れは……当然に無理で。

 あとは遮光鉱か? あれなら……。

 

「っと……船長。暗雲が出てきましたね」

「はぁ? 珍しいこともあるもんだな。……申し訳ない、お嬢さん。戻らせてもらうぞ」

「ああ……ありがとう、我儘に付き合ってくれて」

「良いってことよ!」

 

 珍しく天候が悪くなった、なんて聞いたらここに留まる理由が思い浮かばなくなる。

 だって私がここにいるから。

 

 ああ、だけど……ああ、けれど。

 気のせいでなければ。いいや、それを確認するために望遠鏡をのぞけば……確かとなる。

 

「雲の下で……いや、雲から暗雲が……」

 

 まるで、「暗雲が作られている」かのように。

 ああ、そうか。これなら疑問を持たずに済む。

 この世に生まれ直して九年。天遷逢の一切を……太陽と月が重なる現象を知らなかったのは、知る必要のない者が上を見上げる時に隠しておく装置があったからか。

 天遷逢の期間の前後で雨なり嵐なりを作っておけば、雲の隙間から見える天体など、雲を挟んで空だけ明るい、などという異常な現象を隠しておける。

 

 隠す必要は。

 平民に力を付けさせないため? 知恵を──。

 

 であれば、だ。

 蜜祆さんを「失わせた」のは、穢れの意思ではない、という可能性が強まる。

 だって……仮に祭唄が抵抗できていなくとも、必ず私はいつか気付く。気付けば探しに行こうとする。勿論いつもの衝動的な犯行の可能性も捨てきれないけど、だとしたら「遠すぎる」。やってほしいというわけじゃないが、夜雀さんや祭唄が消えた方が効果的だろう。

 だから蜜祆さんが消えたことには意味がある。その意味は間違いなく。

 

「私をここに連れ出すため、か」

 

 体感が消える。時間が止まる。

 あまり連続してくれると特別感が薄まるのだがな、なんて思いつつ……空中に立ったまま、天染峰の方へ帰っていく船を見送る。

 

「テメェにゃ見せとかねぇと、意味がないってよ」

「では下手人は紊鳬なのか」

「いいや、違う。というより犯人なんざいねェってのが正解だ」

 

 同じく空中で、私の隣に立つは光のヒトガタ。時折見える地黒の肌。

 (シィェン)。華胥の一族の一人。

 

「テメェが積極的に光閉峰を見るための整合性──そのために、テメェと親交の深いモンで、ここに来るに至るに足るやつが選定された。これには陽弥の意思は勿論、その配下の意思も介入していない。このクソッタレな世が改変に対して無理矢理に合わせた辻褄だ」

「意味が分からん。ならば結局陽弥が願ったのではないのか」

「だから違ぇって言ってんだろ」

「ならばお前に"意味がない"と伝えたのは誰だ。言い方的に、伝聞だっただろう」

 

 問えば……発光する顔であるというのに、バツが悪そう、だと感じられるような仕草を取るヒトガタ。

 

 それで、それだけで、察してしまった。

 

「ああ……陽弥を操っていたのがお前であるのかと思っていたが、違うのか。()()()()()()()()な?」

「……ああ」

 

 四千七百年前、陽弥を作り出した誰か。信念の無き鬼として人工的に作られた彼は……そうか。

 

「だが、言い草が言い草だ。その者も外に出たいと、そして私を利用したいと願っている。その認識は正しいか」

「多分な。オレも、奴に関しちゃよくわからねぇ。オレは……奴から陽弥を守っていたら、いつのまにか奴の配下みてぇな扱いになってた、ってのが正しいからよ」

「流されやすいのか。自我の塊のような人格をしておいて」

「るっせぇな。オレ達は願われねえと……上手く行動できねえんだよ」

 

 ……流石に違和感を覚える。

 それはもう性格とかそういうものではなく……性質、なのか?

 

 ──そうだよ。だから責めないでほしい、という気持ちはあるかな。

 ──騙されるな祆蘭。実際、私は自ら行動を起こした。

 

「私にこの光景を見せて、満足したのなら……蜜祆様は、元に戻るのか」

「……オレは知らねェ」

「そうか。なるほど、その者にとって、人一人の人生がどう変わろうと些末なことである、と。そういうことか」

「陽弥に当たんじゃねえぞ。今回のことに関して、あいつは本当に無関係だ」

「お前の陽弥好きはわかったから、そこまで主張しなくともいい。……顕。お前はその者の名も、居場所も知らぬ、ということで合っているか」

「ああ。好き勝手現れては言葉だけ残していくおかしなやつだ。輝術師でも鬼でもなさそう、ってのは感じてるが、それ以外はわからねぇ。勿論オレ達でもねぇ」

 

 輝術師でも鬼でも神でもない。

 それでいながら神出鬼没。

 

 ……ああ、もしや……弁明のつもりか?

 

「天を遮るもの。輝術も穢れも弾かれるという高空と深海は、その性質ゆえに自分たちではないと、そう言いたいのか?」

「誰に問うてんだテメェ」

「好き勝手に現れるならば聞いている可能性は高いからな。──加えて、言葉を届ける者に顕を使ったのもそういう理由か」

 

 輝術師が集まっていたら、わかってしまうから。

 その位置が。

 

「そろそろ物質名で呼ぶのも面倒になってきたところだ。名乗っておけ」

「一百二十一二百二十一千一百二十二十一百二十二」

「……だから、わからんと」

「一度伝えた、だとよ」

「わかるのか?」

「むしろなんでオレ達のことが認識できてこっちがわからねぇンだよ」

 

 一度伝えた。前に、鏃の声を聞いた時か。

 ならば、彼らは総体なのか? 全てが同じ個体で……その中でも突出した者がいるのだとすれば。群体のリーダーのようなものが、「その者」だとすれば。

 

「お前は……お前達は、穢れを増やすことができない。だから陽弥らに、現帝陣営にそれを行わせている。顕を抱き込み、特殊な力を持つ鬼や、外法を編み出した輝術師を取り込み、そうして穢れと輝術師を、同一因子と神を分離させようとした。──だが、状況が変わった。そうだろう?」

「百二十二二百二十百十一」

「是、だとさ」

「ならば迂遠な手段はもうやめろ。浮層岩があるのだから、それで無理矢理にでも私の意識を奪えばいい。他の者を改変するな、気が散る」

 

 言いながら、だからか、とも思う。

 浮層岩があったから、青宮城に干渉したのか、とも。青宮廷に該当する人物がいなかった、というのもあるかもしれないけれど、最も探しやすい場所が青宮城であったのは事実だろう。

 

 迂遠だ。遠回りだ。

 弁明の仕方も、言葉を伝える方法も。

 

「──」

「そこまでの力……っつぅか、熱量があるとは思えねえけどな。あいつらはオレ達よりも動かねえんだ、無駄だと思う──」

 

 波が逆立つ。いや、凹む。

 パチパチと音を立てて光閉峰の山肌を叩くものは空気か。

 

「無駄なことなどあるものか。私に憤りを取り戻させるなよ」

「……オイオイ、前もそうだったが……ンだよその魂は。オレも()()な自覚があるが、テメェは……何に対して」

「これでもだんまりか。……ああ、少し……ダメだな。このままあちらへ戻るわけにはいかない。……そうだ、顕」

「ん?」

「今、この状態の私は、魂が抜けだしているような状態である、と認識しているが、正しいか?」

「……ちと違うが、まぁ合ってるよ。オレ達でもなけりゃ理解できねぇ感覚みてェなモンだからな」

「ならばこの身のまま海へ沈んだら、どうなる」

 

 どうなる、って。

 

 

 海を歩く。階段を下るように。

 

「どうもならん、か。魂が呼吸しているわけでもなし……はぁ、この憤りが無ければ幻想的な光景だったのだがな」

「別に時間を止めてるってわけじゃねェ、体感時間を引き延ばしてるみてェなモンだから、そこまで長居はできねェってのを忘れるなよ」

「ふん。どうにかなろうと何かが整合性を取るのだろう」

「それで気に入らねえことが起きたらオレが悪ィってか。テメェは聞きしに勝る姫様っぷりだな」

 

 ……その。

 それ。

 

「鬼の一部もそうだが、なんだ姫とは。未だに呼ばれ慣れん」

「女の指導者はそう呼ばれるンだよ。媧のやつもオレ達を裏切った初期の初期は姫様とか呼ばれてたぜ?」

 

 そうなのか、姫様。

 

 ──私を鬼子母神と呼び始めた奥多徳の中に夢見がちな者が多かっただけだ。

 ──そう呼ぶのをやめろ、とは言わなかったんだね、お姫様。

 ──喧しいぞ寄生虫。

 

 ゆらり、と……白っぽい影が見えてきた。

 発光こそしていないが、こちらもヒトガタ。

 

「こんな浅層にも幽鬼はいるのか」

「まぁな。深海で突っ立ってるばっかじゃねェっつゥか、未だに海面を目指してるやつもいるし、自我を保ってるやつらもいる。そういうのはこういうところまで泳いでくるが……」

「水面には上がってこない、か?」

「見える浅さまで上がっちまうと、輝術師に祓われるからな。結果残るのは自我も行動力も失くした害のない幽鬼だけってワケだ。……場所によっちゃ、色んな偶然が重なって理性のない鬼が生まれることもあるが、稀だな」

 

 そうか、と相槌を打ってから、もう少し下へと下っていく。

 止まった……いや、微かに動いている魚群。水中光芒もあればもっと幻想的だったのだろうが、生憎と上は暗雲。その辺は期待できそうにない。

 

 まだ降る。さらに。

 

「ちなみに、突然天気が悪くなったのは」

「そりゃ奴らの仕業だよ。貴族街周辺は輝術師が天候を操作してるが、他の場所は違う。テメェの見た通り、好きな時に好きな場所へ雨だの雷だの雪だのを降らせられる。テメェが光閉峰に近付いたことに気付いて、慌てて追い返そうとしたってところだろうな」

「いつも通りの衝動的な行動か」

 

 もっともっと深く……太陽光が関係なくなるくらい、深海へ。

 こうなってくると顕はありがたいかもしれない。凄まじい発光だから。

 

 と。そろそろ、かな?

 そう……奴らのそれが衝動的な行動であるのなら、だ。

 

「あと三十七(m)ほどで、その域に届くと思うのだが、この見立ては合っているか?」

「なにが"ほど"なんだよ……。完璧に合ってる。そうだ、そこを越えるとオレ達の力も鬼の穢れも消える。使えなくなる」

「この身は?」

「……あー、どうだろうな。オレ達の力で抜き出しているモンだが、テメェがオレ達の力ってワケじゃねぇ。……だが、命綱も無しに降りるってな、流石に危ねェ賭けすぎねぇか」

 

 小物入れに入っている糸を取り出そう……として、そもそも小物入れに触れることができない、という事実に気付いた。

 

「何をしようとしたのかは大体理解できるが、ここはそういう空間じゃねェってのを……おい、待てって!」

「知らないことを知らないままにする。"なぜ"を残す。そういうことをするべきではないと学んだし、教えられた。私はこのまま行く。お前は付いてはこられんだろうから……そうだな、この状態の時間で二刻半。その程度が経ったら、これを解除してくれ。運が良ければ元の肉体に引き戻されるだろう」

「……保証はねぇぞ」

「そうして尻込みをし続けて、何年が経ったんだ」

 

 何千年。下手をすれば何万年。何十万年、だろう。正確な時間は知らないが。

 

 ──恐らくだが、お前の中からは排出されずとも、私達の意識も消える。それだけは理解していろ。

 ──手助けはできない。それでも行くのかい?

 

 ああ。四十年の大義。四千七百年の大義を受け取ったからな。

 これくらいのリスクは背負うさ。

 

 踏み、込む。

 

 

 

 最初に感じたことは……殺風景だな、という印象。

 大岩が転がっていたり、海底洞窟がある、なんてことが一切ない。どこまでも続く砂と、海藻のように揺れ立つ幽鬼がいるばかり。

 ……誰も来る場所ではないから、ディティールにこだわらなかった……とでもいうような。

 

 それと、明るい。今の今まで……あの「域」を越えるまでは深海らしい真っ暗闇だったのに、このあたりは浅瀬を思わせる明るさだ。

 

 世界結界を抜けたわけではないのだろう。だが、火山湖の底ではある。

 ここに私が来ることは、慌てるべき事象。そうだろう?

 

 ……む。

 おかしいな、もう少しアクションを起こしてくるものだと思ったのだけど、何も来ない。

 指先でも見てやろうと思っての行動なんだが。

 

「無理を言ってやるな」

「……あまり出てき過ぎるなよお前。不気味さも特別感も消えるぞ」

 

 背後にいた。

 影のようなもの。影のかたまりのようなもの。

 

「前回の邂逅が特別なだけだ。今回は然るべくして起きた介入だよ。"失敗作"や"代替品"と同じであり、ズレた結果だからな」

「無駄な問答は好まん。それで、無理を言う、とはどういうことだ」

「お前が知る通りである、ということだ。穢れの意思、穢れの主らは、輝術という名の神には勝てない。搦め手で閉じ込めることには成功したが、それ以上の干渉はどうやっても遠回しなものになる。そんなやつらが、神の引き延ばした体感時間の中を動く前に干渉できるものかよ」

 

 ああ……そういう理屈か。

 そうかそうか、そういえばそうだった。

 

「この湖底には時計などないのさ。だから奴らの目は届かない」

「……そういう場所にしか出てくることはできない、ということか?」

「そんなことはなかったはずなのだが、お前が世界をそうしてしまった。本来は(まる)かった世界を立方体にまで整えたのはお前だ、祆蘭」

「お前との会話は疲れるな。面白みがない」

「全身鏡をお望みか?」

 

 歩く。砂を踏む感覚は無い。ただ、湖底を歩く。幽鬼を避けて……光閉峰と湖底の重なる場所へ向かって、歩く。

 水圧も当然感じないし、抵抗もない。ただただ歩いて、歩いて。

 

 辿り着く。

 

「……雑だな」

「言ってやるな。細かいことはできないさ」

 

 ほぼ直角だった。湖底と光閉峰の交点。簡単に作った(はこ)のような……そんな印象を受ける景色。

 

「これがぐるりと、か」

「ああ。天染峰を覆っている」

「……まるで冠だな」

「ほう、地上の王冠でも溶かすか?」

 

 くだらない話には乗らない。

 

 ぺたぺたと光閉峰の山肌を触ってみる……けれど、材質は……なんだ、石や土でも、遮光鉱でもない。

 あまりこういう言葉を使いたくはないが、「テクスチャ」という感じのサラサラした手触り。……電脳世界ではないと思うのだがなぁ。

 

「なぁ」

「なんだ」

「この状態で、この場所から……天に剣気を向けたら、何が起きると思う?」

「信仰無き祈りは天へと導かれず……だが、何が起きても良いというのならば、やってみる価値はあるのやもしれぬな」

「いや……だから、待てよ。むしろ近いのは」

 

 見る。斜め下。丁度湖底と光閉峰の交点となっている場所へ。

 あるはずだ。時間帯的に、そして伏に見せてもらった天染峰の全体像と、私の感じている「天体運行図」が正しいのであれば。

 

 立方体だという世界結界。火山であるという事実。天体の軌道……時期による日照時間のズレ。

 それらを全て頭に入れて、視線を合わせる。

 

「──良い。良いぞ、シェンラン。臆病者は死する前に幾度とない死を迎えるが、今のお前は違う。全くのサカサマだ。いいぞ、やれ。見届けてやる。──生まれ直した者が、勇気を持つということの意味を!」

 

 光閉峰を貫いて、世界結界を貫いて、その先にある……今は自分の番ではないと気を緩め切っている月へ、剣気を、そして威圧を向ける。

 ここは湖底。海底。暴走させられる手駒はいない。ここは天の陽届かぬ場所。お前達が置き去りにした場所。

 

 今、私を止めるものはない。己の肉体さえも持ってきていないのだから。

 

二百十千二百一二百二千二百(ならば手を貸してやろう).百二百二千一百十一(使え、従ってやる),百千十二零千千百二二百一(神溢るる)千二十百十百二千百千十一百十二千百一(燈火の娘よ)!」

「従うのならば名を寄越せ」

「天故理」

 

 ハ。

 奥多徳といい、この名といい、文字はわかるのに発音がわからない、という現象も解明すべきことだが──今はこっちだ。

 

 手に現れたのは矛。手触りでわかる。これは確実に遮光鉱だ。それも高純度の。

 子供の膂力で何ができる。そう問いかける己はいない。できると信じ、信仰する己しか存在しない。

 

「どれ、少しばかり力添えしてやる。ハハハ……これにて私は絞め殺されるだろうが、時代の重荷程度は背負ってやろう」

「礼は言う。また会いに来い」

 

 背後で影が消えゆくことを認識しながら。

 その槍を、投げる。投擲する。

 

 本来練習を重ねねばまっすぐに飛ばすことは難しいのだろうそれも、影の助力で軌道が修正され──飛ぶ。飛ぶのだ。

 

 まっすぐに。直線に。美しいまでの一本道を征く。

 

「神の恵みなくては為せぬことでさえ! 人がやってのけることもある!」

「最後まで煩い奴だな。大人しく消えておけよ」

「……誰か、誰でも良いから、この小娘に情緒を教えてやってくれ──……」

 

 あ、消えた。

 

 そんなことより、だ。

 そんなことより……遮光鉱の槍は光閉峰をすり抜ける。突き抜けたわけじゃない。峰肌には何の傷もついていないから。

 けれどわかる。何者にも阻害されることなく、何物にも気をかけることなく、その矛は光閉峰を、世界結界を、あらゆるものをすり抜けて──()()()

 

 (おお)きな声があった。あがった。

 (おお)きな苦しみが訴えられた。謳われた。

 

 停止していた海が荒れ始める。止まっていた幽鬼らがこちらに目を向ける。

 鋸もトンカチも取り出せないが……なぁに、無手でもなんとかなるだろう。

 

 苦しめ、嘆け、泣け、泣け。

 未だ慢心を貫くのであれば、私から逃げなければならないことを叩き込んでやろう。

 

 さぁ──。

 

 

 ……。

 ん?

 

「おはよ~祆蘭。やはり初めての海は、酔いが激しかったようですね」

「失念していたな……。輝術師は平衡感覚を輝術で補っているが、平民はそうではないのだった」

「ああそうなの? 言われてみれば確かに、貴族で船酔いをしている方は見かけませんね」

「耳……というか蟀谷のあたりにある器官が人間の平衡感覚を司っていてな。輝術師はその力量に関わらず、その部位を強化している。他にも素早く動くものを認知する力や着地の衝撃を和らげる力など、意識せずとも使っている輝術は数多くあるぞ」

「へえ……あ、うわ……うわ~」

 

 微睡み。……あれ、今から始まろうとしていた一対多の、多勢に無勢な戦いはどこへ。

 ……上空にある光のヒトガタは……。ここは……蜜祆さんの、膝の上?

 

「どうしたのだ」

「いえ……行ってみたくなってしまいまして。青宮城って、そういう、輝術の専門的な研究もたくさんやってるんでしょ?」

「ああ、まぁ。青州随一ではあるだろうな」

舞楽(ウーラ)で一生を過ごすものだと思っていましたが……青宮城に上がること、目指してみちゃおっかなぁ」

「ふむ。お前の力量ならばすぐにでも採用されそうではあるが」

 

 視界に入るは鳥。紺色の鳥。彼女の肩に止まるその鳥は。

 

阿紺(アーガン)、だったか……」

「あら……教えましたか、この子の名前。そうだよ、可愛いでしょ?」

「可愛いことは認めるが……そういう、ことか」

 

 具体的に鈴李が青清君となってからの年月を知っているわけではない。

 だけど、彼女の年齢と、幼い頃の話と。それらを考えればわかることでもあった。

 

 無理だよ。

 

「その鳥、色は見たことのないものだが、(ウォン)だろう?」

「ええ、正解です」

 

 鶲。つまりヒタキだ。

 ここまで鮮やかな紺色のヒタキなど知らないけれど、まぁ、そういうものもいるのだろう。

 

「すまないな、阿紺。私をここに導くために……駆り出されたのだな」

 

 手を伸ばして。

 触れる。

 阿紺は「クピ?」なんて鳴き声を発して……そのまま。

 

 そのまま、光の粒となって、消えていった。

 

「鶲の寿命は、長くても十年程度だ。……生きているわけがなかったよ。そして……理由も、彼だったのだろう。なぜ輝術には癒しがないのか。なぜ獣は幽鬼とならないのか。度し難く、受け止められなくて……だからあなたは輝術と幽鬼の研究を始めた。だからまだ、ずっとずっと、彼のことを恋人として扱っている」

 

 阿紺に伸ばした手で、蜜祆さんの頬に触れる。

 幸せな時間だったのかもしれないけれど。

 

「己が忘れてしまえば、世界からも忘れ去られてしまうと……知っていたのだな、あなたは」

「……はい」

「安心しろ。私が覚えた。私は絶対に忘れないから……帰ってこい。あの祭唄様が、肩で息をするほどには、憔悴していたぞ」

「それは、帰ってあげないと、だね。……ありがとうございます、祆蘭。青清君も付き合ってくれてありがとうね」

「まぁ……今のやり取りでだいたいは理解したが、お前のせいではないのだろう。であれば礼を言われることはない」

 

 金輪際、だ。

 こういうことはするな。

 そして……理解しただろう、もう一つ。

 

 私ならば、お前達を外へ逃がせると。そう証明してやったのだぞ。

 

「──……。……あら? ……この香りは……舞楽?」

「む。……む? まぁ、漁は体験できて、蜜祆は見つかったわけだが……祆蘭、蜜祆に言うべきことはあるか?」

「別に、突然里帰りした蜜祆様に理由を聞きにきただけだからな。……ソレを見れば、一目瞭然ではあるから、これ以上はないさ」

 

 ソレ。

 ああ、この場所がそうだったんだ。

 今三人で座っている倒木が。その近くに立てられた、小さな小さな盛土と石碑が。

 

「あ……はい。今日は阿紺の命日で……墓祭りの日にも楽土での幸せを願ってるんだけどね、どうしても……この日は外せなくて」

「そういう理由だったのか。突然休暇申請を出すものだから、驚いたぞ」

「実は毎年出してるんだけどね~? ふふ、青清君が私達を深く見るようになったのは、祆蘭が来てからですから、しょうがないといえばしょーがない!」

「ム。……ムム。すまぬ。……確かに今までの私にはそういう面があった」

 

 起き上がる。

 いいと言っているのに謝る鈴李と、ずぅっと笑っている蜜祆さんを背後に……石碑へ向かう。向かって座る。どかりと座る。

 

 そして手を合わせた。

 

「すまんな、正しい供養を知らん。……楽土にてか、次にてか。くだらん整合性合わせへの付き合いを感謝する」

 

 ……んじゃまぁ、帰るかね。

 

 今日の夜が楽しみだ。その表面を望遠鏡で見ることが、何よりも。

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