女帝からは逃げないと。 作:霧江牡丹
シュレーディンガーの猫。
百万回生きたやつと並んで、猫界では知名度の双璧を誇るだろう二匹。次点で背中にジャムを塗ったパンを括りつけられた猫か。
ざっくり言えば、中身を確認するまでは箱の中の猫の生死は確定しない……みたいな話。
「その中身になった気分はどうだ、祆蘭」
「すまないな、面白みのない回答しか返せん」
「私もだ。自分を隠すことができないからな」
背中合わせにいる、影のようなモノ。
真っ暗なこの世界の中にいる唯一の他人。媧と燧は声を発しなくなり、ただただ孤独にあったこの黒の中で、唯一動くもの。
それが自分の影だと知った時の絶望感は、果たしてどれほどのものなのだろうか。
「四の未来については理解したな」
「ああ」
「気付いている通りだ。一つは私が折り取ってやった。だが、あと三つ残っている」
「礼を言って欲しいのか?」
「いいや、違う。"時は破産者だ"。お前の理解すべきはそこだけだ」
魚群のようでもあった。真っ暗は真っ黒で、けれどムラがあって。
だからそれが、私の生育した穢れなのだと理解ができる。
「……夢は叶わない、とでも?」
「お前がやるべきことは、既にお前が示している。三の未来は確定していないものだが、お前の一挙手一投足が可能性を狭めていく」
結局今回、タイムスリップ、というものをしたわけではなかった。
なれば──こいつは何なのか。なぜ未来を知るような発言をするのか。
「この世界ならば、雪と火はともに暮らすことができると……私はそう思うよ」
「良い返しだ、"シェンラン"。だが気を付けろ。誰もが誰かのためを思って言葉を繰るわけではない。誰もが己が利益のためだけに言葉を繰る。それが結果的に全体の益となるのだとしても、その心の中までは目で見ることはできない」
「玻璃の話か、現帝の話か。それとも、鈴李の話か」
影は答えない。答えぬままに、にやりと笑う。見えていないのにそれがわかる。
「折角元に戻してやったというのに、お前のせいでまた、世界の関節は外れてしまった。真実を見ても吐かない自信はあるか、楽土より
「……情報を握るのは玻璃か」
「
ふ、と消えたのがわかった。影のようなナニカが。
伴い……世界も晴れていく。空を覆い尽くす穢れが、そのまま世界結界をも埋め尽くしていた穢れが……どこかへ引いていく。
太陽。見上げる太陽。
そこには、瞳があった。
目を開く。
「……いいわ。連れて行ってあげる。……あなたは、来る?」
「行く、と言いたい。けれど、祆蘭がいなくなる空白期間を埋めるために、残る。……信用する」
「ええ、ありがとう。それじゃ──え?」
弾かれるように仰け反る桃湯。
「やめた」
「……。……? どういうこと?」
「地下にはないよ、鼬林の置き土産なんて。それより調べるべきは、先代青清君だ」
「いきなり……どうしたの?」
見渡す限り、青宮廷。
見上げる限り、青宮城。
空に黒など一つもなく。流るる雲が阻むだけ。
「……成功した、のね。これは」
「覚えているのか」
「叩き込まれた、に近いけれど……。……二度も……二度も、令樹、あなたの感情を受け取るなんて」
「二人して、なに? ……行かないなら、桃湯は逃げた方が良い。私達も一緒にいるところを見られない方が良い」
困惑している祭唄には悪いけれど……ああいや。
うん、その通りだな。
「互いに時間が必要だ。早すぎ、と言われたばかりだしな。いいな、桃湯」
「……ええ。私も……無駄だとは思うけれど、八千年前の痕跡が残っていないかだけ調べてみるわ」
「八千年前……?」
「なんでもない。それじゃ。……それと、アレ。無かったら、また作って頂戴」
「こっちでは緊急事態じゃないからな。琴の後だ」
「融通が利かないのね。……ええ、どちらも楽しみにしているわ、"
「お互い様だ、"媽媽"」
本気で意味が分からない、という顔の祭唄の頭を撫で……ようとしたら逃げられたけれど、まぁ、まぁ。
うん。
とりあえず帰ろうか、青宮城へ。
ラジオメーター。恐らく符合の呼応はこれに反応したものと思われる。
穢れ漏れ発見器……ではなく、本来放射熱の検知などに使うもの。要素を取り出すのなら、「外からの線を検知して」「その強さによって風もないのに回る」。「放射熱によって温度差ができるから」「羽の表面に対流ができるから」……みたいな話。
基本的に外側から内側への干渉はできない。放射熱以外では。
だから当然、ラジオメーターのガラスを黒で覆ってしまえば……光を届かなくさせてしまえば、干渉を受けることはほぼなくなる。黒で防げないものもあるけどそれは割愛。
ゆえに今回やったことは、内側から世界を覆い隠し、奴らの目を遮って、事象の確定を遅らせる、だった。
「何もしていませんよ。むしろしていたのをやめた、といいますか」
「……黒根君はともかく、というかアイツもともかくじゃないんだが、いいのかお前、そんな普通に訪問してきて」
「良いか悪いかで言えば悪い、ですけど……必要なことでしたから。はい、結べました」
元結。現代の赤積君や緑涼君なんかが微妙な反応をしていた時から、何かあるのかな、とは思っていたソレ。
うすらぼんやりとした記憶だけど、媧が相当苛立っていたのを察するに、私に対する封か何かだったのだろう。
私が簡単に「ああ」なってしまわないようにするための。
玻璃。それと。
「ぬぅ……突然訪ねてきたこともそうだが、何を楽し気に……!」
「ふふふふ、青清君には言うことのできない楽しい時間を過ごしましたので。一緒にいられた時間は少なくありましたが、得難い経験でした」
鈴李、である。
なんだか久しぶりな気がする。するし、"八千年前の組成"にはいなかったなぁ、なんて。それを言ったら現代の赤積君もいなかったけど。
「……ん? 鈴李……じゃない、青清君」
「あら。二人だけの時は本名で呼び合っていたのですか? いいですよ、私の前でもそうしてくれて」
「……祆蘭。嬉しいが、嬉しくない。二人きりの時だけにしてくれ」
「あ、ああ。すまんすまん。……それよりあれ、まだ飾っていたのだな、と思ってな」
「アレ? ……ああ水中花か。当然だろう、帝に贈ったものは別としても、お前から私への贈り物だぞ」
「いやそっちじゃなくて、隣。すぐに飽いていたじゃないか」
水中花の横。
そこに乗せられているのは……窓際に作られた造花の枝らしきものに、嘴だけで止まる……とまっているバランスバード。
「……確かに飽いたが、だからと言って捨てるほど薄情になったつもりはない」
「し、お前からの贈り物だ。大事にせぬはずがないだろう」
「……私の声を作るのはやめろ、玻璃」
「ふふふ」
楽しそう。こいついつもいい空気吸ってるなぁ。
ただ。
なんでそんなものに、興味を惹かれたのか。普段なら……気にするほどじゃあ、ないのに。
「と……む、これは……どうしたものか」
「どうした?」
「この相思鳥の反対側にはな、こいつをかけておいたのだ。ほら、以前両親と会って来た、と言っただろう? その時に貰ったものでな」
彼女は。鈴李は、そこへわざわざ赴いて……「ソレ」を持ち上げる。
木の実のような鈴がたくさんついた、紐。
「こういったものを修繕することも可能か、祆蘭……と、どうした。そんなに目を見開いて」
一瞬で思考が発生し、いやいや、と振り払って……けれどそれしかない、と思う。
それなら彼女があそこにいた理由にも納得が行く。いなかった理由にも、だ。
「修繕は、しない。それは……千切れた方が良いものだから」
「む、そうなのか」
「へぇ……。それ、なんというものですか?」
「
そういう整合性になるのか。
いや、そんなことよりも。
「成程なぁ……そうではなかったら、ああなっていたのか……」
「……?」
確かに私に張りあうくらい理屈っぽくて、見透かしたような言葉を吐いてきて。
両親とずっと会っていなかったり、幼いままに職に就いていたり。
あまりに見た目がかけ離れていたから一切、だったけど。
「再会を喜ばしく思おう。お前には足る理由があったのだと考える」
「玻璃」
「なんですか?」
「お前に借りを作る気はないが、少し祆蘭の精査を頼む。私も今やっているのだが……おかしいところが見つからぬ」
「あらあら、想い人の身体を無断で精査するとは、大胆ですね」
「違っ!? ……い、いや、あきらかになにかおかしかったから衝動的にやっただけで、決してそういう意味ではなくだな!」
ああ、そうか。
せめて同年代に、というのも……あったのかもしれない。
どこまでの反映が為されるのかは知らないが……。
「む? ……進史が……祆蘭に小包が届いている、と言っているが……心当たりは、無い、だろう?」
「無い。というか進史様は大丈夫なのか」
「大丈夫とはなんだ。……いやあいつは大丈夫ではないかもしれないが」
「聞こえていますよ青清君。情報伝達をしていなければ何を言っても良い、とでも思っているのです……か……。と。これは……失礼をいたしました、玻璃様」
「良い、許す……なんて、帝の母御ぶるのもいいですけれど、昔のように接してくれてもいいんですよ?」
「い、いえ一応今は仕事ですし。……それで言うと、断りも無く青清君の部屋に入る私にも非があるのですが」
あ、そうか。
玻璃が黄征君だった頃……紊鳬さんが付き人だった頃から付き合いがあるから、「帝の母御口調」な玻璃じゃない玻璃を普通に知っているのか。
それより。
……名前は準圭だったとはいえ……身体は進史さんだったわけで。
胸、一刺しにされていたけれど、大丈夫だろうか。
「どうした祆蘭。私の胸に何かついているか?」
「いや、穴が開いていないかな、と」
「何を恐ろしいことを言っている。……はぁ。まぁいい、
「……妹?」
一応、受け取る。
受け取って……マナーがなっていないとは思いつつも、その場で開ける。
「……これは」
「なんだそれは。……折れた剣の……首飾り? 黒根のやつも相当だが、奴の妹もほとほと理解できん趣味をしているな」
「刃は潰されていますし、危険性はなさそうですね。どのような意味があるのかは別として」
「ふん、宣戦布告であれば受けて立つがな。ああ玻璃、お前へも言っておくが、私はまだ帝の座を諦めていないぞ」
「もちろん、たったの一度で諦められては興ざめですよ。何度でも来てください。そして何度も無様に負けてください」
……そういう、整合になるのか。
事象には足る理由がある。……足りた、と。
そうだ。だからやっぱり、聞くべきことを聞かなければ……と、この空気を壊そうとして、けれど踏みとどまる。
……早すぎる、か。でもそれは奴らの都合であって……。
──その剣。裏面を見せろ。
あ、起きたんだ、なんて感想を抱きながら、ミニミニ残骸巨剣をひっくり返す。
そこには、文字が書かれていた。……読めないんだってば。
──
──本物の過去ではなかったのだから、覚えているものがいてもおかしくはない、ということだね。……けれど、"次点の絶対決定権"だったか。つまり奴らはヒトを作ることも消すことも自在なのかな。
──そのあたりを話すために連絡だろう。
そうか。
同盟は、続いているのか。そうなると……。
「青清君」
「なんだ」
「祆蘭、お借りしますね」
「は?」
ふわり、と身体が浮く。
恐らく私が受け取ったものを精査したのだろう。あるいは剣の首飾りと聞いて何かを察したか。
彼女と私はそのまま天守閣の窓から外へ。
「何をする気だ! この……!」
「いえ、今回ばかりはほんの一瞬借りるだけです。今日来たのもそれが理由でしたし。ああ、要人護衛の方も強制的に連れて行きますので、あまり心配しなくても大丈夫ですよ」
「そういう心配をしているわけでは……くそ、玻璃、いいや祆蘭! 接吻などを受けそうになったら拒否しろ! ちゃんとだ!!」
あ、そこの心配なのね。
そしてあまりにも汚い言葉遣いに進史さんが頭を抱えているよ。窓が開いているから、声が響き渡っていてもおかしくはない……と思ったけど、その辺抜かりのある進史さんじゃないか。
さらに私の部屋の近くの窓が開き、祭唄が連れ出される。……最早何も言うまい。輝術ってすげー!
「あの、自分で飛べるから、その」
「あなたの飛行速度では遅いので。すぐに返すと言った手前、遅れてはいけません。黒州にも寄りますから……祆蘭の中の、純血さん? 連絡、お願いいたしますね?」
──おや。いつ私の存在に気付いたのかな。
──祆蘭。言っておくが、この女は相当に危険だぞ。留意はしておけ。
──呼んでおかないと私が怒られてしまいそうだし、呼んであげようか。
そうして。
"現代の組成"に、私達は再び集まることとなるわけである。
地に落ちた城、
そこに私達はいた。姑且同盟……『とりあえず同盟』が。
「玻璃、アンタね、色々唐突過ぎるのよ。そもそも唐突だったのは祆蘭だけど!」
「いやぁ、私が贈り物を出しておいてなんだけど、うん。まだ実感は……湧かないかな。そもそも私は同盟の仲間ではない、というのもあるけれど、まさか……
世界五分前説。
これも……まぁ、SFにありがちな思考実験というかなんというか。SFでもなんでもない、内容的にはスワンプマンとそう大差ない話。
周囲から見ると、当然でも。
客観できる者がいると、あり得ない。
「いなかった、というのはどういうこと? ……ここに私が連れて来られたことも含めて、説明が欲しい」
「圧縮情報と口頭説明、どっちが良いかしら」
「少ない時間を私に割いてほしくないから、前者で」
「あっそ。献身的なことね。じゃあはい」
がうん、と仰け反る祭唄。
そこから十数秒後……自分の手や身体を確認して、そして私達を、特に「妹御」を見渡す彼女に笑みが零れる。
「……信じられない」
「でしょうね。ま、信じなさい。付き人、州君、黒根君の妹、何よりあんたが一番信じる祆蘭が言っているのだから、事実よ」
「そう、みたい。……ついて行かなかったことを、後悔している」
「ついてきていても結果は変わらなかっただろうな。桃湯が私のそばにいられたのは、あいつが鬼だから、だろうし。……ま、その辺の話は後だ。お前、名は?」
「もう自己紹介も済ませたし、互いの名を呼び合った記憶もあるのだけどね。……
……そうか。
生まれてから今に至るまでの記憶が。だから、私が黒州へ行った時のことも全て、か。なんなら……共に行動した可能性もある。
「
「そろそろ名前で呼んでくれないかしら」
黄金城に現れる……黒い旗袍の美女。
お、見つかったのか。
……と、今潮? 構いやしないが、なんで。
「やぁ、唐突な気絶専門家クン。そして、黒州の二人には、久方振りだね、と言っておこうか」
「え……アンタも、なの? ……だとすると話が変わってくるわ。輝術師かそうでないか、ではなく」
「祆蘭の作ったもので防護されていたかどうか、でしょうね」
「……挨拶をしただけでここまで話についていけなくなることがあるんだね」
そんなはずはない。
手間をかける意味を、効率というものを知っている桃湯なら。
「既に全ての説明はしたでしょう。その何も知らないようなフリはやめて。あなたを連れて来た意味がなくなる」
「おや、怒られてしまった。……それより、純血、というのはどこにいるのかな」
「いる。既に」
いた。既に。
……黄金城。今皆が集まっている会議室らしき場所の奥で……お茶を飲んでいる。
こいつ……。
「祆蘭、怒っても無駄よ。庫にいる時も、ずーっとこんな調子で、もう突っ込むことも疲れてしまったから」
「流石に労わりの言葉を贈る」
「ええ、ありがとう」
いやそうだよ。やっぱりそうだ。
あの時は媧が言ってくれたからいいけど、どう考えても「できるなら初めからやれ」はおかしいだろう。
お前たちは神で、だいたいなんでもできるんじゃなかったのか。
──よし良いぞ。その通りだ。燧も含めてだが、他者に言われないと動けないくせに文句だけは一丁前な馬鹿者どもを殴り倒してやれ。
──私、今回は結構しっかり動いたような……そんなこともないような。
パンパン、と手を叩くは……蓬音さん。
「時間、無いんだろ? 手早く済ませよう。情報共有と、案出し。そしてこれからの動きについて、ね」
おおお。
……赤積君としての記憶が活きているのかは知らんが、頼りになるな……!
「まず、情報共有からだ。
「酷く簡単に言えば、穢れの主の目を一度遮り、奴らの見ていない隙に世界を改変し直した、だな。だから少しばかり時間が巻き戻っている。いや、半刻程前の組成になっている、と表現するべきか。時間は別に巻き戻ったわけではないからな」
「巻き戻る。時間に対してそういう動詞を使うのは面白いけれど、それは一度おいておく。では問いだ。君、今でもその力を使えるのかな。つまり、鬼を集めて従えて、世界を穢れで覆い尽くして……世界を改変し直す、という所業が」
ああ、そうか。
まだ時計のようなものがあるわけでもないこの世界だ、「巻き戻る」はおかしな表現か。
いやそこではなく。
どうなんだ、穢れ専門家。
──できるできないで言えばできるだろうな。その元結が無ければだが。……とはいえお前の意思さえあればそれは簡単に外し得るのだから、最終的な答えは「できる」だ。
「可能だ」
「いいね、良い言い切りだ。つまるところ、君にはこの世に対しての"決定権"のようなものが付与されている。……凛凛から、この世の成り立ちについては聞いている。だから奴らというものや、純血の彼らがどういう存在なのか、そして私達輝術師がなんなのかも理解はしていると考えてくれていい。……そっちの彼女のような恐ろしい真似はできないけれどね」
そっちの彼女。言うまでもなく祭唄のことだろう。
穢れに冒されてから浄化して、を繰り返すのは……やはり恐ろしい真似か。
「──であるならば、君はどの陣営にとっても喉から手が出るほどに欲しい人材、ということになる。私達鬼にとっても、輝術師たちにとっても……現帝陣営にとっても。そう考えると、はは、符合の呼応と言ったかな、君の力。それにも説得力が出る。つまり君は、無意識に世界改変を行い続けて来た、ということだろう」
「この世を……ふざけた世界にしたのは、私ということか」
「元からくだらない世界であったのは事実だけど、かき混ぜたのは間違いなく君だ。同時にそれは、各陣営から望まれていることでもある」
今潮と蓬音さん。
口調の似ている二人は……なるほど。
智者枠、か。
「話を戻してもいいかな、今潮さん」
「無論だとも。口を挟んで済まなかったね、蓬音」
「ああ。では話を戻す。共有二つ目、だ。遠目から見ていた限りだし、凛凛の視界の情報を受け取っただけだからどこまでが本当かはわからない。その上で……君が空に流す穢れ。建木のようにさえ見えたアレは、"一度途切れた"。この認識は正しいかな?」
「正しい。足りなかったんだ。全ての鬼から集めた穢れと、地下に溜まった穢れ。その全てを以てしても、世界結界を覆い尽くすには足りなかった」
「けれど事実、隠すことには成功した。何があったのか……いや、迂遠な問いはやめよう。誰が来たのかな」
隠す理由は──ああ、無いとも。
今引っかかった部分は、抵抗だな? 効かないぞ、もう。
「桃湯だ」
「は? 行ってないけど……」
「"八千年前の組成の桃湯"だよ。ただ、中身は違ったようだが」
「祆蘭、それは君の悪い癖だね。まず情報の足りていない言葉を出し、その後に補足して説明をする。会話のきっかけにはなるけれど、時間の惜しい今やるべきことではない。わかるかな」
思わず笑いそうになった。
口が寂しくなる発言だ。大笑いでもしてやりたい。
なぁ、親友。こちらでも言われたぞ、コレ。人は死んでも何も変わらんという証左だな。
「簡潔に言い直す。恐らくは現帝……の、混じり物だ。赤宮廷の妃らについていた瘤……人工的な穢れの主の卵を持ってきて、目の前で鬼化した。生贄は沖林。その穢れにより卵を孵し、足りない分の穢れを補填した」
「……そうですか。
「いつどこで入れ替わったのか、あるいは初めから桃湯ではなかったのか。もしくはあの場だけの何かだったのか。最早種明かしは奴らにしかできないだろうが、とにかく穢れの瘤が卵であるという推測は正解で、同時に必要なものである、ということにも気付かされた。加えて"まだ早い"という言葉から察するに」
「"現代の組成"で同じことをやるには、穢れが足りない。……ああ、だから君は半刻前まで時を戻したのだね。桃湯から聞いた、穢れを食い尽くすその前の刻限に」
「そうだ。誰の思惑がどう絡むにせよ、穢れは無闇に駆逐してはならんものだと睨んでいる。……そこで、鬼達に聞きたいことがある」
「なにかしら」
「なんだい?」
それは、穢れについて説明を受けた時の話。
毒素のようだと表現した理由。
「穢れとは、生物の中に入り込み、自己増殖を繰り返すことでそれを浸し、殺す。これは輝術師から聞いた話だが、間違いはあるか?」
「一つだけ。生物だけ、ではないわ。幽鬼も穢れに冒されることができる。……侵されたところで鬼となるわけではないけれどね」
「元より霊魂を侵すものであるようだよ。生物は肉体を経由しなければならないからそういうことが起きる……ああ、そういうことか!」
突如大きな声を出す今潮。私もそう睨んだから、まぁ、その気持ちはわかる。
「何よ。自分だけで納得していないで説明しなさいよ」
「"
「……アレの中で、穢れが自己増殖をし続ける、か。魂は既に鬼となっているから……際限なく?」
「末端が老いていたのも似た理由かな。生命維持に必要のない部分には栄養が行かないんだ。心臓と脳さえあればいい……"
外道であることは間違いない。
だけど、足りないから増やす、という考えのもとに動いているのであれば、確かに効率的だ。まさに"
「伏。
「否。我々が穢れに負けることはない。混ざった者が穢れに侵されようとも、我々は排出されるに終わる」
「──そうして、純度が高まる。そうですね?」
「……。なるほど。良い理解だ、ブァリー。確かに……同一因子を一か所に集め、穢れの増幅装置として使うのならば、我々が宿る器は減っていく。混ざった者が減っていけば、当然高純度の我々を宿す混ざった者が生まれる。ブァリー、汝のような……我々に近しき者が」
何度も言う。外道だ。
だけど、理に適っている。適ってはいる。
現帝陣営のやっていることを続けて行けば、いつか同一因子……平民と輝術の完全分離ができるかもしれない。薄まってしまった血を戻すその行為は……けれど。
「現帝陣営に何の得がある?」
「だから、裏切り者がいるのだろう? もちろん鬼子母神の話じゃないさ。君達純血……華胥の一族には、誰か、裏切っている者がいるのではないかい?」
ああ。それは、一度途切れてしまった話の続き、か。
最古をしる者。現帝陣営で動く、華胥の一族。
「……
──ふん。
「個人の感情を話すには時間が足りなさすぎる。仮定しよう。仮称、現帝陣営。その背後には純血の一人である顕という者がいる。その存在は何ができる?」
「智慧だ。顕は智慧を司る。無論、我々には然したる違いはない。顕の持つ知識は、我々もまた持ち得るものであるが、願われ、与えるに足るは顕だ。……仮に奴が自ら動いたとしたのなら、これほどの秘密主義……裏工作にも納得が行く」
「ふむ。君は要らない情報を吐き出すことをとことん好むようだね。最初の一言だけで充分だったよ。……さて、つまり、だ。現帝陣営は、私達の知らないことを知っている。それが悪しきことなのか全体の益となることなのかはわからないけれど、確定していることは一つ。彼らは話の通じない相手ではない、ということだ」
「ああ……そうだろうな。"八千年前の組成"の最後の時も、問答を行ってきた。歩み寄り得る部分はあると見ている」
「ただし、行いは到底許せるものじゃない。"
であれば。
選択の時だと──蓬音さんは。いいや、八千年前の赤積君は、言う。
「許すか、許さざるか。見逃すか、向き合うか。迎合するか、敵対するか。私達は選ばなければならない。それを選んだ上で動かなければならない」
「選ばされるのは性に合わん。選ばせる側に回る」
「……いやあのさ、こういうの、もう少し悩んでから回答をするものじゃないかな。素晴らしい思考速度ではあるけれど……しかも答えになっていないけれど」
「いやなに、今回のことでわかったことがあってな」
彼女の問いに息を呑んだ者もいる中で、普通に、いつもの調子で話す。
理解したこと。
「私も、鬼も、輝術師も、現帝らも。……彼らは"足る理由があって、それを軸に動いている"。私の好ましい動きであると言える。だが」
だが、だ。
「剣気を向けられたからとその身を露呈させたり、わざわざ睨みつけてきたり、自分たちで行った色分けを
「……そうだね。その初期化、というのも暴力的な手段が過ぎるし、組成を変える、というのも……見方を変えれば、それしかできない、ということの証左でもある」
「私達の暴走も同じね。あなたの腕が折れたのもそうかしら」
「ああ、だから、奴らというのは私達とは違うのだろう」
こちらは理屈で動いているが。
あちらは感情で動いている。そう見える。
ハンロンの剃刀で削ぎ落とし得る。
「……それで、何が言いたいのかをお願いしようかな」
「何もかも意志と理屈で捻じ伏せて、後は気合でなんとかなる。それが私の最終結論だ。選択する必要はない。各々が各々に動く。その結果、最も強き者が帝となる」
「……原始的だね。悪くないよ」
「いやなに、そう考えると最も妥当な話がある、と思ってな」
そうだ。それでいいんだ。
「現帝も、玻璃も、青清君も……鬼達も神も、何もかも従えてから奴らの頭をトンカチでカチ割りに行く」
「ふふふ……では、あなたの言葉を奪いましょうか。──
「なぜ奪ったのかはわからんが、そういうことだ。ついては玻璃、寄越せ」
「私は帝の母御なので、決定権はありませんね」
「だがお前に勝たばよいのだろう。なら寄越せ」
「青清君が泣いてしまいますよ?」
「泣かせておけあんなガキ。……寄越さんなら、せめて私につけ」
「ええ、初めからそのつもりで声をかけておりました。気付きませんでしたか?」
「ああそういえばそうだった気がするな。なら初めから言え」
「言っていましたよ。何度も何度も」
口を挟めたのは玻璃だけだった。
威圧を込めたつもりはない。だけど……理解の範疇外、あるいは気圧されている。そんな表情をしている彼ら彼女らに。
「というわけだ。ゆえに、ここに告げる。
そろそろ女帝にでもなっておかないと、な。
今回2話目はありません。