女帝からは逃げないと。   作:霧江牡丹

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開幕「鶺鴒吧者」

 鄭景(ヂォンジン)のすぐ近くにある大霊園『牟亀(モゥゲィ)』。

 緑州の大半の人間が入る墓地であると同時に、天染峰の中でも最も広いとされている霊園だ。

 死者に貴賤は無い。平民も貴族も等しくここに土葬され、楽土へ向かうまでの安寧を願うそこ。

 

 その直前。そこへ入る本当に直前まで談笑をしていた烈豊(リィェフォン)たち四人の中で、霊園に足を踏み入れた瞬間に雰囲気を変えた者がいた。

 

「……どうした、祆蘭」

「祆蘭?」

 

 少女だ。

 普段から仲の良い二人が違和感に気付く程度には、おかしい。

 目を見開いたまま……愕然とした表情で動かなくなった彼女。「あ、ああ」なんて生返事はしているから、いつもの気絶癖ではないのはわかる。

 

 けれど、烈豊らにはわからない。

 彼女の目に何が映っているのか、など。

 

「……烈豊。大霊害の被害者たちは、全員意識を取り戻した、のだよな?」

「ああ。使われていた薬物……というか毒物が少々以上に危険なものではあったけれど、種類が分かれば解毒は簡単だったからな」

「それでいて……三人には、何も見えていないのか」

「なにも、って? ……なにか、いる?」

 

 目を細める祆蘭。周囲をじっくりと見渡して……ふぅ、と。

 

「なんと言えば良いのだろうな。……消えかけの幽鬼が沢山見える。お前達に見えぬということは、恐らく見得る必要がないからなのだろう」

「消えかけの幽鬼……?」

「ああ、そうか。お前達は幽鬼を消してしまうから、消えかけの幽鬼というものを見ないのだな」

 

 害ある幽鬼は、千切り飛ばすか圧し潰すか。

 幽鬼が消える……ただ消える、という現象を、烈豊は見たことがない。

 

「楽土へ行く幽鬼は薄らとなって消えていく。楽土へ行かぬ幽鬼は光の粒となって消えていく。ここにいる幽鬼たちはほとんどが前者だ。……すまん、余計なことを言ったな。お前の両親の墓のもとへと向かおう」

「気になるなら輝術で薙ぎ払う、か?」

「莫迦者、害のない幽鬼だ。恐らく家族が来るのを待っているだけなのだろうよ。放っておいてやれ」

 

 そこから少女は、三人の道程とは少し離れたところを歩くようになる。

 何かを避けるように。恐らくそこに「消えかけの幽鬼」がいるのだろう。

 

 して。そうして。ようやくして。

 

「ここだ」

 

 烈豊の両親の眠る墓。本来であればとっくに楽土へと旅立っているはずの二人が現れる場所。

 現れる、どころか。

 

「……いる、な」

「祆蘭」

「ああ、少し会話をしてみる。この辺り、少々異様だから、周辺警戒だけしておいてくれ」

「うん」

 

 いた。ずっと二人が、佇んでいた。

 鬼に殺された時のままの無残な姿で──記憶に強く残る二人が。最期の二人が。

 

 その口が、開かれる。

 当然声は聞こえない。幽鬼の声は生者には届かない。届いてしまえばそれは、生者が死者へと近づいていることの証左にほかならないから。

 

 けれど。

 

「ああ、そうか。それで」

 

 音にならぬ幽鬼の言葉を聞き届ける少女。見るも無残な姿の二人から、何かを確実に聞き届けている。

 その姿は、ある種祭事などにおける巫女にも見えるもので。

 

「……ならば、聞かせてくれ。十一年前……お前達が死した時、なにがあったのかを」

「え」

「……蛇? ああ、あれか。やはりあれはもっと昔から実用化されていて……。……なに? 輝夜術は……ああ、だからニホンゴなのか!」

 

 会話が弾んでいる。所々聞き取れない箇所があるし、何を言い合っているのかはわからないけれど、少なくとも何かが解決していっていることは見て取れた。

 

 そうして最後に。

 

「ん。……いや、ダメだ。その言葉は……渡せない。けれど、本当に心から、ただそれを伝えるためだけに……あるいは再度の苦を呑む可能性をも肯定するのなら」

 

 一歩。烈豊の両親、その幽鬼へと近づく少女。

 

「私の魂に触れるがいい。道先は照らしてやる。望みの通りに進んで行け」

 

 両親と少女が重なって。

 瞬間、光の粒が……烈豊らが物質生成を行う時に出るような光の粒が、空へと舞い上がっていった。

 呆気の無い終幕。ただそれだけの終わり。

 

「……二人は」

「"次"へ向かった。……長生きをしろよ、烈豊」

「い、いきなりなんだよ」

「お前が死んでいては意味がないからだ。……さて、それじゃあ用事も済んだことだし、帰るか……と言いたいところだが」

 

 少女は懐から、出発前に作っていたおかしな木彫り細工を取り出す。

 

「また、細工? それは何?」

鶺鴒吧者(ジーリンバァジェァ)。ここをこうして跳ねさせると、首と尾が動く玩具だ」

 

 竹のしなり。それが鶺鴒だと言い張っているそれの首と尾を動かす。

 ただそれだけの細工物。ただそれだけの細工物に何の意味があるのか。

 

「首と尾……別々……連動……」

「緑涼君、少々よろしいでしょうか」

 

 考え込み始めた少女をよそに、進史が話を振る。「こう」なったらなかなか帰ってこないと知っているが故だ。

 

「ん、なんだ進史」

「どう思いますか?」

「抽象的だな。何がだよ」

「消えかけの幽鬼が残っている、という事実です。この墓は……戦死したものばかりが集められた場所、ということでもないのでしょう?」

「む……確かに」

 

 言われてみれば、であった。

 烈豊の記憶する限りでは、無論彼の両親のように鬼に殺された者もいるし、害ある幽鬼に殺された者、輝術師同士の争いにて死した者もこの霊園に眠っている……けれど。

 消えかけの幽鬼。つまり、楽土へ行くに行き切れない魂がなぜこうも残っているのか。

 

 未練。……烈豊は緑州のために尽力してきたつもりである。

 平民にも貴族にも、そこまで未練に思われることなど無かったはずだ。

 それが、少女曰く見渡す限りの墓に残っているというのなら、烈豊の与り知らぬところで何かが起きていた、ということになる。

 

「点展は、違うと思いますよ。こうなってしまった以上何の慰めにもなりませんが……彼は無辜の民を実験に使うような性質ではなかったと、少なくとも私は信じたい」

「ん、大丈夫だよ進史。おれも疑ってない。……いや、心の片隅では……まさか、なんて思っていたのかもしれないけれど……そうだな。おれも信じたい」

 

 二人して馳せるはあの老人。

 早い内から裏切りを、いいや、そもそも人類側ではなかった可能性のある彼の在り方など、全てが虚像である可能性もある。

 けれど……ただ、ただ。

 

 信じたい、のだ。

 

「……進史様」

「む。どうした、祆蘭」

「私が鬼と親交を持っていることは既に知っているな?」

「……まぁ、流石にな。青清君も要人護衛も何も言いはしないが、そこまで私は鈍感ではない。それが……ああ、ここに鬼を呼びたいのか?」

「呼びたいというか、既にいる。その上で情報交換をしたい。……鬼嫌いの烈豊に加え、進史様に暴れられようものなら流石の私も申し訳なさが勝る。鬼というより霊園に対してだが」

「ひとを戦闘狂のように言うなよ。……大丈夫、おれはもう理由なく鬼を嫌うことはないよ。少しだけ、心を改めたんだ」

「祆蘭。それは必要なことか? つまり……鬼でなくとも代用できること、ではなく、か?」

「ああ。鬼でなければ分からないことだ」

「ならいい。私達では役に立たぬのなら、認可するほかあるまい。……しかし、なぜ祭唄には聞かない?」

「諸事情だ。察せ」

 

 横暴であった。この平民の少女は、どこまでもどこまでも。

 

 ──して。

 霊園に、三つが降り立つ。

 

 美しい音を奏でる弓を持つ、赤き反物の女。

 青い炎を噴射し、それによって姿勢を制御する白髪交じりの男。

 砂塵を纏って現れる、切れ長の目の特徴の男。

 

 唾を飲む烈豊。それと同じ音が進史からも響く。

 わかるのだ。青い炎を扱う男であればまだ、一対一という条件下であれば対処できようものの──他二人は、無理だ。

 氷漬けにして逃げるか、風で吹き飛ばして逃げるか。生き延びることはできようが、討滅するとなれば……決死の覚悟がいる。

 

「はぁ。……五千米は離れた場所から観察していたというのに、どうして気付けるの?」

「勘だ。どうせ見ているのだろうな、と、見ているのならその辺だろうな、というところに目を向けたらいた。米粒ほどの大きさでもわかるさ、お前の赤は鮮やかだからな」

 

 肌の粟立ちが止まらない。

 砂塵を扱う方は先日相対したばかりだけど──こちらの女は、違う。

 巧く隠している。まるでその辺にいる鬼であるかのように見せている。

 

 けれど、けれど、けれどだ。

 気まぐれ一つで命を奪える。あらゆる。万象、すべて、ありとあらゆる命を……指先一つで奪うことのできる完全なる上位者。

 

 なぜあの少女はあんなにも対等そうに会話ができるのか。

 気付いていないだけか。それとも──それ以上のものを、彼女が有しているというのか。

 

「それで、なぁに? あの穢れの蛇のことなら、知らないわよ。濁戒(ヂュオジェ)からある程度は聞いたけれど、心当たりはない」

「あるならとっくに潰していただろう。そっちじゃない」

「じゃあ、なに? ……あなたの見ているという幽鬼のことなら、私達にも見えていないわ」

「急くな。話を聞け。聞きたいことは一つ。一度目の大霊害……四千七百年前の前後に生まれた鬼に知り合いはいないか?」

「四千七百年前……というと、それこそ濁戒じゃないかしら」

「桃湯。私は五千年前。三百年も違いますよ」

「誤差でしょう、そんなの」

「誤差なわけがないでしょう。これだから古き鬼は」

「安心なさい、あなたも十二分に古き鬼よ」

 

 あまりにも大きすぎる……長すぎる寿命軸に、何を言い出すこともできない二人。

 ここに口を挟む余地はない。

 ……けれど。

 

「祆蘭。……役に立つかわからないけれど、点展から得られた情報で、一つある。聞くか?」

「当然だ早く話せ莫迦者」

「う。……はぁ。……点展は、盤古閉天(シュェングービーテン)より一万五千年を四度、という言葉を吐いていた。おれには意味の分からない言葉だけど、君にはわかる、のか?」

 

 問えば。

 目を見開いて、口元に手を当て……「そんなにか」と小さく呟く少女。

 

「何か役に立てたか?」

「いや、私の欲しい話とは欠片も掠っていないが、意味は理解したし、有益な情報だった。……まて、なぜ点展がそれを知っている? それを知る者がいるとすれば、それは鬼ではなく……」

「私からの意見も一つ、いいかな」

「……この中で一番若い鬼たるお前が、何か言えるのか今潮。いいぞ言え、なんでもためになる」

「だったら初めからいいぞ、とだけ言ってくれたらいいのだけどね……。……私が鬼となるために燦宗(ツァンゾン)と接触した時の話だ。彼は愚か者ではあったけれど、情報を握らされるくらいの理由を有していたらしくてね。計画の決行前夜に上機嫌な振る舞いで話していたよ」

 

 今潮という鬼は、そこで一拍入れる。

 入れて、再度口を開いた。

 

「青州で最後なんだ、これでようやく全てが結実する、ってね」

「……ふむ」

「結実……。青州で、ということは他州では終わらせていた、ということよね」

「ああ。何の捻りも無く考えるのなら、人工的な穢れの主……穢れの蛇の作成か、あるいは信念無き鬼の話だろうな。……気にはなっていたんだ。燦宗らが鬼となるのに、生霊は必要なかったはずだ。あの頃はただの目晦まし、もしくは紋様用の起点だとしか考えていなかったが、此度の緑州の事件を思うに、燦宗らの目的は謂わば馬前の人参で、その計画書を渡した者には別の意図があったんじゃないか? その上青州で最後だと……甘い目的をちらつかせて誘っていた」

「そういえば、点展は穢れの蛇をして、"我らはこれを竜と呼びます"と言っていた。つまり、前例があるということだ。おれが消し飛ばしたやつ以外にも、もっとたくさん……」

 

 繋がっていく。

 真実なんて欠片も理解できていない烈豊だけど、智者の集まりにいるからこそ、それを理解していく。

 

 ああ、けれど。

 ここには「埒外の直感」を有する少女がいるのだ。

 

「鶺鴒吧者……頭と尾で、別々の動きを……けれど連動している。だから……進史様、烈豊、祭唄。今すぐ墓の中の死体を精査してくれ。私の想像通りであれば……毒物が検出される」

「……褒められた行為ではないが……緑涼君、よろしいでしょうか」

「楽土へ旅立った奴らの墓を暴くような行為は……少し前のおれなら、認可していなかった。けれど……ああ。構わない」

「特に芋貝の毒だ。烈豊は一度感知しているからわかるだろう?」

 

 言われるままに、言われるがままに、地面の中を精査する三人。

 朽ち果てた死体も多かったけれど、残っている死体には、ああ。

 

「……本当だ、ある。……あるな」

「こっちも。可哀そうに、小さな子供にもあった」

「老若男女問わず入れられているな。これは何だ、祆蘭」

「気付いていることをわざわざ聞くな」

「……緑州の尸體處(シーティチュ)が、か?」

「あるいは全州の、だ」

 

 ゾッとする話である。

 でも、そうだ。それなら納得が行ってしまう。

 死者を管理し、死体を自由にし得る尸體處が徒党を組んだのなら、あるいは間者が入っているのなら……これほど楽な調達場所も無い。

 そうして得た死体を使い、何千年と実験を繰り返してきたのだとしたら。

 

「そうか。青州では尸體處に入った死体を土葬する前に、水で清める、という習慣がある。だから」

「毒が残らなかった。あるいは仕込む隙が無かった、か。ゆえに燦宗らは……彼らを操っていた者は強硬手段に出た。内通者を使い、鬼を……」

 

 今度は進史も、だった。限界まで目を見開いて、顔を上げて。

 

「あの瘤は、竜の卵、とでもよぶべきもの、ということか?

「──いや、研究している間に穢れは確認されていない。だが……穢れに触れた瞬間に孵る、という可能性は零ではないな」

「ああ、あの気色の悪い瘤のこと? そういえば正体分かっていなかったわね」

「ム? 鬼……桃湯と言ったか。なぜお前があれについて知っている」

「黒い輝術の中で、こいつに助けられたからだ。報告はしていなかったがな」

「……それは、私達が信用するに値しなかったから、か?」

「ああ。今でもそうだが、いずれ敵になる可能性を孕むと思っているよ。なんだ、気分を害したか?」

「いや……いや、そうだな。お前側はそれでいい。私達が違えばいいのだから」

 

 何かある、ということはわかった。それしかわからない。

 現状、烈豊に渡されている情報は限りなく少ない。ただ、それをイチから聞く彼でもない。説明とは手間であり、察することのできる部分は読み取り手の能力に委ねられるからだ。

 

 して、である。

 では燦宗なる人物らにその指示を出したのは誰なのか。

 そしてもし、青州で「結実」が為されていた場合、何が起きていたのか。

 

「とりあえず死体の毒を除去してやれ。消えかけの幽鬼はそれで消えられるだろう。……つまり、未練ではなく縛り付けられていたのだろうな。……他州の墓地も確認する必要がある、か?」

「祆蘭が行く必要はない。伝達を入れてもらって、毒を除去してもらえば良い」

「まぁ、そうか。……ふむ。……濁戒」

「おや、私ですか。なんですかな」

(ウァー)から伝言だ。緋玉(フェイユー)なるものを私に渡せ、と」

「……よろしいのですか? あれは……あなた様の遺物。……私達にも抜き出せない量の穢れが溜まっておりますが」

「ん……構わんそうだ。私なら浄化できるらしい」

「成程。……承知いたしました。とってまいりますので、しばしお待ちを」

 

 ざぁ、と砂塵が舞い上がる。刹那、濁戒の姿はなくなっていて、見えるのは空を舞う砂ばかり。

 

「で、緋玉とはなんだ」

「あの方の遺体の一部、かしらね。さっきも濁戒が言ったように、穢れが溜まり過ぎていて輝術師に処理できるものではないから、土葬、あるいは海洋葬にするのよ」

「なぁ鬼。あの方、というのは誰だ? 鬼の首魁か?」

「さて、誰かしらね。言っておくけれど、私は人間と仲良くするつもりはないから。祆蘭とは因縁があるからこその協力関係よ。州君やその付き人に落とす情報なんてあるものですか。……加えて、そっちのは前に私の頭を吹き飛ばそうとした奴でしょう。仲良しこよし、なんて無理よ」

「む……当然か。こちらからもそう在るべきとは思わない。……すまん、進史、おれたちはあくまでこちら側でいよう。全員が染まり過ぎることもない」

「ですね。その役割は祆蘭か……祭唄が果たしてくれるのでしょうから」

「いえ、あの、進史様。私は色々な意味で致し方なく、であって、鬼に与するつもりはありません」

 

 そんな。

 多少険悪な、多少困惑気味な雑談をしばらくしていると──また、進史と烈豊の肌が粟立つ。否、今回ばかりは祭唄もだ。

 

 うすら寒く、今すぐにこの場から逃げ出したくなるような……魂を直接鑢で削られているような感覚。

 それは当然大量の砂と共に落ちて来て。

 

「ただいま戻りました。……ですが、そうですね。今は砂で覆って穢れを抑えておりますが、輝術師、及び幽鬼にまで害がでる可能性があります。輝術師皆様方はある程度退避すると同時に、件の消えかけの幽鬼とやらの毒素を抜くことを先決すべきかと」

「っ……ああ、そうさせてもらう」

「……なんて穢れの……」

「私は残ります。慣れているので」

 

 正気を疑う、というのはまさにこういう時に使うのだろう。

 この規模の穢れから離脱しない、など自殺行為に等しい。況してや州君でも付き人でもない、一般の輝術師に耐えられるものであるはずがないのに。

 

「問題ない。万が一があれば私が消し飛ばす」

「それこそ問題ない。全身を蝕む穢れの浄化はもう何度もやってきた。……桃湯と奔迹(ベンジー)のせいで」

「せい、ってあなたねぇ、こっちは付き合ってあげているというのに」

「勿論冗談。感謝してる」

「……冗談ならもう少し声の張り方を変えるとか、ないの?」

 

 本当に何でもないようだった。いや、緊張自体はしているけれど……緊張に慣れている、というべきか。

 

 ここには沢山の鬼が集まっているけれど、鬼というものは基本そう多く遭遇するものではない。だから同時に、穢れにもまた……全身を蝕む穢れの浄化など、何度もやるものではないのだ。

 烈豊は戦慄する。要人護衛というのは文字通り要人の護衛。つまり、輝霊院にいる輝術師や遠征に出る兵士ほど戦闘を主とする職業ではない。

 それがこうも経験豊かであるということは、やはりあの少女に振り回され過ぎて……。

 

 彼は進史に贈ったものと同じ胃薬を彼女へも贈ることを決めた。

 

「では、開封します。爆発的な穢れが周囲を包み込みますので、再三言いますが──」

「構わん、早くしろ」

「……ええ、仰せのままに」

 

 砂が。

 

 剥がれて。

 

 黒。

 

 

 

 目を覚ます烈豊。げほ、げほと何度も咳き込んで……思わず心臓に手を当てる。

 

「……生きている、か」

「やぁ、おはよう緑州の州君。起きたのなら、可能であればこっちの眠っている一人を担いでほしいのだけど、構わないかな」

「鬼……!?」

「おっと、私はあの二人ほど人間を嫌っていないんだ、そう殺気を向けないでくれ。それよりこれ、重いからお願いしても良いかな」

 

 いつの間にか高空にあった。いつの間にか持ち上げられて運ばれていた。

 烈豊を運んでいたのは今潮という鬼。彼のもう片方の手には意識を失った進史が吊り下げられている。

 重い、というのは本当であるようで、時折高度が下がったり上がったりを繰り返しているようだった。ので、すぐに進史を浮遊の輝術で浮かせる烈豊。

 

「アイタタタ……。いやぁ、浮遊の輝術でも、触れると痛いね」

「あ、ああ。すまん、そうか」

「いやいや、素直過ぎるよ。謝ることじゃない。私は鬼だよ?」

「……けれど、助けてくれたんだろう? だって、これ」

 

 これ。

 真下を見やる彼の目に映る──漆黒の半球。

 わかる。

 

 これは、これは、全てが穢れだ。

 恐らくは緋玉なるものから出て来た穢れ。

 

「ま、そうだね。退避距離が足りなくて穢れに呑まれかけた君達をあの子……祆蘭が浄化して、あとは私に押し付けだよ。二人を連れて範囲外に行け、ってね。流石はお姫様、横暴の権化だ」

「……祆蘭と祭唄は、無事なのか」

「お姫様に関しては何も問題ないだろうけど、祭唄は努力の賜物だね。しっかり君達と同様に穢れに呑まれかけているけれど、意識を失っていないし、己で浄化している。鬼が発破をかける話でもないけれど、君達良いのかい、あんな小さな子たちに負けていて。……ああ祭唄は成人しているんだったか」

「良くはないけど、単純に尊敬する。……穢れの浄化は、意思の強さだ。どれほどの修羅場を、死線を潜れば……そうなれるんだろうな。おれは……おれには何が足りないんだろう」

 

 遠い、と。

 素直に思った。烈豊がもっと凄い州君なら。最強の二指と名高い玻璃や青清君のような輝術師であれば、点展のことを含めて、別のやり方があったのではないか、と。

 無論、烈豊は自己評価が低い、というわけじゃない。己に行える範囲をしっかりと理解しているし、目標地点を見上げ過ぎていることも自覚している。

 それでも──もし、を願わざるを得ない。

 

 ピシリ、と。

 真白が零れる。

 

「お……もう、か。いやはや、言葉も出ないね」

 

 ピシリ、ピシリと。

 真っ黒な半球に入っていくひび割れ。孵化を思わせるソレは、けれど生まれ出でるためのものではない。

 これほどの穢れを。州君の魂さえも一瞬で染め切ってしまう程の穢れを。

 

 内側から、強く、強く、掻き毟るように食い破る──「己は己である」という、自我。

 

 私はお前に勝っている、という絶大なる余裕。かかってこいよ意気地なしという果てのない剣気。

 幾重にも織り重ねられた穢れが、少女の魂というただそれだけの存在に食い尽くされて行く。

 

「……きれい、だな」

「鬼からしたら堪ったものではないけれどね」

 

 綺麗だった。

 黒が晴れていく様子が。白が零れ行く様子が。

 崩れ行く黒が。形成されていく白が。

 

 少女。祆蘭。あるいは──シェンラン。世界を破る者。世界を壊す者。

 

 ああ、なんと、これほどまでに説得力のある光景も無いだろう。

 満ちる。白が──魂が、満ちる。

 

 黒は消滅し、静謐な暴風がその場に腰を下ろすのだ。

 

「おい、今潮、戻ってきていいぞ!」

「無茶をいうものだね! 私がここに入れば穢れを扱えなくなって地面に激突するよ。だから」

 

 だから──ぽい、と。

 

「へ?」

「輝術師は問題ないだろう?」

「ちょ──やるならやるって言え!」

 

 そう、進史を浮かせた烈豊だけど、己は今潮に掴んでもらっていたのだ。

 なので、ぽい、と捨てられたのなら、待ち受けているのは自由落下。

 

 無論、多少驚くだけに終わる。すぐに姿勢を制御し直し、浮かせていた進史を引っ張って……少女らの元に戻る。

 

 一瞬、海に入ったのかと錯覚した。

 

「っ……?」

 

 そんなことはない。呼吸はできるし、圧力を感じるわけでもない。

 ただ。

 心臓を掴まれているかのような。

 鰐か獅子の顎の中にいるかのような、そんな感覚のある場所。

 

 また無意識に生唾を飲む烈豊。

 穢れとは違うけれど……この魂も、あるいは気まぐれで、他者を奪えるものだと刻みつけられる。

 

「──どうした、深刻な顔をして。腹痛か?」

「……なわけないだろ。……そっちの鬼二人は、平気なのか。ここ……とんでもないけど」

「平気かどうかでいいますと、気が気でない、とは言っておきましょうか。私達はそこまで弱き鬼ではないので浄化程度でどうにかなることはありませんが、通常通り、とは行きませんね」

「本当に。これで輝術師ではないのだから、どうかしているわ」

「最近は祆蘭の威圧の中だと落ち着くようになって来た」

 

 威圧。これが威圧?

 烈豊もそれと似たようなことはできるけれど、こういう「範囲」を持つものではない。あくまで指向性のある、他者に向けて放出するものだ。

 こんな全方位に、誰に向けたのかもわからないものが威圧であるとは……口が裂けても言えない。

 

「あ……で、それで、緋玉というのは浄化できたの……って、おいそれ、ヒトの心臓……?」

「ええ、これが緋玉ですから。前代依代の心臓。とはいえ生きてはいませんよ。それこそ点展が止めてしまったので」

「あら、直近のものを持ってきたのね。流石は濁戒、悪辣に気が利くじゃない」

「お褒めに与り恐悦至極です。──つまり最も新鮮で、最も穢れの詰まっているもの、ということです」

「なんであろうと構わん。……で? 私はこれを……は? 食え? いやいやいや、流石の私も人間の心臓を食うのは躊躇いがあるぞ?」

 

 良かった、と安堵する烈豊。そこまで「良いだろう」とか「ふん、どうということはない」というような態度を取られていたら、少女を同じ人間とは思えなくなっていただろうから。

 

「どうにかして食えって……茶? いやむりむり。流石にそこの倫理はある。……なんか無いのか方法」

(私達)に縋られてもねぇ。別に、好き好んで、ではないとはいえ、人は食べられるし」

「ですね。アナタもいずれは成る可能性があるのですから、試してみては?」

「断る。……とりあえず寄越せ。なんとかする」

 

 それ。既に萎びている……乾涸びているはずなのに、未だヒトの心臓であることを理解させられるそれが、濁戒から少女の手へと渡る。

 

 瞬間。

 

「お……?」

「……崩れた? いえ、溶けた?」

 

 消えた。少女がそれに触れた瞬間、烈豊が見間違えているのではなければ、取り込まれるようにして、吸い込まれるようにして……消えた。

 既視感を覚える。

 この消え方は。

 

「……そうだ、さっき幽鬼が……爸爸たちが消えた時と、同じ……」

「言われてみれば。祆蘭が幽鬼を諭して消す時と同じような消え方だった」

「……でも心臓は、幽鬼ではないだろう。物質じゃないか。……理屈を言え理屈を。……は、知らぬ? あんたなぁ、説明責任というものを」

 

 いつのまには静謐な暴風は消えていて。

 いつのまにか静寂が戻ってきていて。

 

 ゴォ、なんて音を立てて降りて来た今潮という鬼が合流し、進史が目を覚まし。

 改めて、という様子で少女が全員へと向き直る。

 

「とりあえず、だ。輝術師も鬼も、聞け」

「ん」

「う……ぁあ」

「なぁに」

「なんでしょうか」

 

 三者三様の問い返しの後に。

 

「──此度の事件の黒幕は、ほぼ百で現帝だ。信用筋からの情報と照らし合わせを行っている。故に各自気を付けてくれ。利用されないように、そして気付いたことを悟られないように」

 

 そんな、とんでもない発言をしたのであった。

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