女帝からは逃げないと。 作:霧江牡丹
「
と。
そう言ったきり……動かなくなった少女に、
呼吸などしていなくとも、肺を使う癖が抜けるわけではない。それは
「君は、もう少しばかり考えて行動すべきだね……」
まるで石像のように、一切の反応を示さない少女。呼吸はしている。脈もある。
ただただ、意識がない。
生きているのなら、まぁ、二の次でもいい。
今潮はそう判断し……倒れている鉱夫へ再度目を向ける。
鉱夫。その全てが死しているけれど、泡を食っている様子も身体に
毒ではない。仮に毒だとしたら、今潮も知らないような証拠の残らない毒物だ。そうであればお手上げだけど──鬼となってから、「これ」には敏感になったから、それは違うと断言できる。
これは確実に鬼の食べかすだ。
弱い鬼、若い鬼が生きていくために覚えるべきことの一つ。強大な鬼の存在を、縄張りをいち早く察知する、という知覚。
基本的に鬼というのは平民の人間に紛れて生活しているか、野山で何をすることも無くじっとしているか、
平民は良い。こちらを鬼だと判別する術を持たず、疑いもかけてこない。その余裕がないからこそ、無駄な諍いを起こさない。
野山も良い。今潮にとっては害の有無を無視して植物を摘み取り得る楽園であるし、基本的に野生動物しかいないので人目を気にする必要がない。
従属も、別に良い。桃湯は適材適所な配役しかしないので、危地に遭うことが滅多にない。あれを頂点に担ぎ上げる鬼が多いのも納得だ。従ってさえいれば、同胞扱いしてくれるのだから。
……この食べかすは、そういう三択以外の行動を取る、若い鬼や暴走気味な鬼に対して行う警告のようなもの。
この地で余計なことはするな、というある種の威圧。
の、はずなのだが。
「軽勉が……というかここでそれをする意味は……」
そう。今潮が考えているのはそれだ。
ここは遮光鉱の鉱脈の奥地。無論絶対は無いけれど、わざわざこんな場所に立ち寄る鬼がいるわけもなし。
軽勉がこれを行う理由もない。小腹が空いていた……として、平民を食べたところで腹は満たされないだろう。
これは、どちらかというと。
横暴をする軽勉に対する警告である……ような。
「だとしたら誰が」
軽勉は鉱夫に紛れていた。あの開けた場所を通らなければここには辿り着けない。
つまり、彼らを殺す……魂だけを抜き取るには、軽勉の意識を失わせるか、軽勉の知覚外から侵入、あるいは作用を起こす必要がある。
姿を消すだの遠くのものへ作用を働かせるだの、輝術師だった頃は容易にできていたことも、鬼となると難しい。それができる者があるとすれば、やはり。
鬼火以外を操り得るようになった強大な鬼。
……でもここは青州。いわば桃湯の縄張りだ。そこでこんなあからさまな痕跡を……。
「──誰だ、あんた」
意識を浮上させる。声のする方を向けば、この鉱山の持ち主の顔が。
「嬢ちゃんに何して……っつぅか、オイ。……こいつら殺したのは、あんたか」
「違う、と言って信じてもらえるのかな」
「……」
そして、此度の件の元凶。
とはいえ、今潮は別に正義漢というわけではないし、殺人で言うならほとんど同罪だ。どころか坤立の方は無罪となるだろう。なぜって彼は手を下していないから。
労働条件を示し、定められた賃金を払い、食事まで出していた。鉱夫たちも働いていながらにわかっていたはずだ。ここで働き続けるのは命が苛まれると。
それでも賃金のために留まり続けたのは鉱夫の選択であり、坤立の強制ではない。ここで死者が出るのは単なる「事故」であり、「殺人による事件」によるものではない。
「……あんた、人間じゃねえな」
「驚いたな。どうしてそう思うんだい?」
「はぁ。……軽勉といいあんたといい、いつからここは人外共にまで目を付けられる場所になっちまったんだ。要人護衛は契約を守ってるっつーのによ」
人間ではない。それが分かっていながら……坤立に焦りはない。
知識がどこまであるかはわからない。ただ幽鬼の存在に驚いていなかったあたり、ただの平民よりは深い知識を持っているはずだ。
酒による酩酊で軽勉がそこまで語ってくれたのなら楽だったが、「お姫様」の血の気が多すぎてそれも叶わなかった。
やはり、この男は。
「面倒事はごめんだ。嬢ちゃんを使って何しようとしてるのかは知らねえが、今なら見逃してやる。とっとと去んな」
「いいのかい? それこそ私がこの場所を他の人外に言いふらすかもしれないのに」
「言いふらすのか?」
「今のところそういう予定はないね」
「じゃあいいじゃねえか。面倒臭ぇおっさんだな」
「私はまだ三十一なのだけどね」
「充分おっさんだろうが」
多少の懸念はある。
少女……「お姫様」の扱いについて。坤立は彼女をどうするのか。
「……わかった。お言葉に甘えて、出ていくことにするよ」
「そうか。一応ちゃんと聞いておくが、こいつらをやったのはあんたじゃない。確認だ」
「そうだね。私ではない。私の仲間かもしれないけれど、私ではないのは確実だ」
「……あぁ、それが聞けりゃ充分。んじゃさっさと帰んな。その嬢ちゃんはうち一番の顧客の要人なんでね、早く返してやらねえと」
少女の不利になることは言わない。
桃湯に従属しているのだ、それは変わらない。ただ。
「最後に一つ、いいかな」
「なんだよ……っとに面倒臭いおっさんだな」
「軽勉が人間ではないとわかっていたのだろう? なぜ雇い入れたのかな」
「あ? 働くんだ、人間だろうがそうでなかろうが使うに決まってんだろ。ったく、こいつらの補充も考えなきゃいけねぇんだ、人間でもそうでないのでも……。ああおっさん、あんたここで働いて」
「行かないね。それじゃあ、さようなら」
「おう」
採掘場を去る。
途中、
だから無視して外に出て。
「……おや」
「ッ──!!」
輝術師……だというのに、かなりの距離まで近づいて来ている要人護衛の姿を見つけた。黒州では多少の面識を得た女性。
名は確か。
「君は……
「なぜ……ここに。祆蘭は」
「無事だよ。坤立が彼女を連れて来るだろう。……ああ、彼は、私が彼女をここに連れ込んだと思っているようだから、口裏を合わせておいてほしいかな。彼女の行動が彼に露見するのは、君達としても避けたいことだろう?」
利害の一致だ。
鬼も要人護衛も、「お姫様」を損ないたくない。今潮はさらに個人的な理由も含まれるけど、概ねはそう。
「……わかった」
「素直で良いね、君は。彼女にも見習ってほしいところだ」
「……無理。祆蘭は、素直にねじ曲がっている。もうどうしようもない」
「言い得て妙だね。それでは失礼するよ」
鬼となって飛躍的に向上した身体能力を用い、ほぼ垂直に近い山肌を駆け上がる。鬼火による飛行は目立つし煩いのだ。
そうして駆け上がって……林の中に身を隠して。
音が、した。
「……初めに言い訳をさせてもらうけれど」
「必要ないわ。大体把握しているから」
「そうか。それは良かった。鼬林は?」
「久しぶりに充足を感じたわ」
──桃湯。
精力的に人間への攻撃を行う一方で……何かをずっと計画している古き鬼。
「はぁ。……あの子は、接触したのね。なんというか……本当に馬鹿ね、あの子」
「接触、とは?」
「……今はまだ知らなくてもいいことよ。あれが敵に回れば教えるわ」
「ふむ?」
桃湯は秘密主義者ではないけれど、不必要なことも教えてはくれない。
必要に駆られたら情報は落としてくれるけれど、故意に"世の理"に近しいことは避けているように感じられる。
だから今潮は……問う。
「君は、遮光鉱の正体を知っている。そういうことかな」
「言ったでしょう。今はまだ知らなくてもいいこと、よ」
「それは知っているということの証左だし、あれが敵に回る可能性がある、ということにもなるのだけど」
「……。あなたは本当に全てに対して疑いから入るのね。頭の巡りの良い鬼の誕生は歓迎だけど、雑談をすると疲れるわ」
「む」
既視感。今潮は直近で誰かに似たようなことを言った気がする。
さて誰だったか。
「私の行動へのお咎めは無し、でいいのかな」
「ええ。ただ……あなたが見つけた食べかすについてだけど」
「あれはやはり君じゃないんだね」
「私が残す必要なんてないもの。……はぁ、どうしてこう……数少ない同胞同士で争わなくてはいけないのかしら。いいじゃない、やりたいことがあるなら、鬼子母神を復活させてからで……」
「彼ら彼女らは、やりたいことをやってから鬼子母神を復活させればいい、と考えるようだねぇ」
「まず大きな目標へ最優先に取り掛かって、余裕ができたら己の目的や小事を成す。効率というものを知らないの?」
「君にとっての
大きな……大きな大きな溜息。彼女ほど長く生きていても、その機能は有したままらしい。しかもわざわざ音に乗せているあたり、伝えたくて仕方ないのだろうということがわかる。
とはいえここで優しい言葉をかけようものなら愚痴に付き合わされるのは目に見えている。
「それじゃあ、桃湯。色々と頑張ってくれたまえ」
「……あなたも早く"強大な鬼"となって、この苦労を分かち合ってくれない?」
「"強大な鬼"にはなりたいけれど、それを目標にするのはやる気が湧かないなぁ」
もう一度の盛大な溜め息。
その後……音は途絶えた。
彼女がどこにいたのかはわからない。高位輝術師と比べても、かなりの広範囲にまで音を届けることのできる桃湯だ。
少女が初めて出会った彼女に言ったらしい「比較的安全な鬼」など幻想もいいところ。
なんせ音を届けられる時点で──彼女の術中にあるといって過言ではない。
「"子"、ね」
赤州にいる
古い鬼から聞いた話。"子"と鬼子母神の関係性。
あるいは、今代に復活するのであれば……今潮も。
「私は、どちらかというと最初の鬼子母神より彼女の方が好ましいよ、桃湯」
だってそっちの方が、よほど面白そうだから。
繫華街。
「おや、今潮さん。帰ってたなら言ってよ、びっくりしちまうだろ?」
「今帰ったところなんだ」
「そうかい。……なんかちょいと疲れてないかい?」
「そうだね。此度の雇用主は今までに比べても劣悪な部類で……疲れたね」
「ダメだよ今潮さん、仕事の見極めはちゃんとしないと、いつか簡単におっちんじまうよ?」
「気を付けよう」
青州は青宮廷、そこに隣接する街の内の一つ。
花街でないので輝術師が来ることも少なく、今潮としてはゆるりと過ごせる良い場所。
雨風を凌げる屋根も食事も必要としない今潮だけど、こういう文化的な生活は保っていたい派なのだ。野山で過ごしていたら言葉まで忘れてしまいそうだからね、なんて……理性なき鬼を思い浮かべて苦笑する。
今潮は文字が読めるし、書ける。
書けることは明かしていないけれど、読めるだけで充分な技能だ。だから、ここの宿場で文字を読む代わりに泊めてもらう生活を送っている。
文字読みの前任者は急病で倒れているらしく、その間だけにはなるけれど……という条件付きだけど、何の不足も無い契約だった。前任者が戻ってきたら出て行けばいいだけだから。
鬼としての活動は、「日雇い仕事」として認識されている。ので、此度の話も同じ。
「……そういえば女将、君には娘がいたと記憶しているのだが」
「やらないよ!」
「私も既婚者だと前に説明したと思うのだけどね」
「ふん、既婚者だろうとジジイだろうと男はいつでも獣さね。……で、娘がどうしたって?」
「今日の雇用主にも娘がいてね。九歳の少女だった。……ただ、機嫌の取り方を間違えたのか、それはもう粗雑に扱われてしまってね」
「九歳ねぇ。金持ちの娘で九歳なんだ、そりゃ労働者なんて見下してるだろう。見下してる自覚があるのかは知らないけどね」
「一般的にもそういうものなのかな。私の娘はもう少し大人しい子だったのだが……」
「金持ちの娘は、だよ」
確かに。
青清君は、まぁ、金持ちといえば金持ちである。権力者でもあるし。
娘かどうかは微妙だけど、立ち位置はまぁ。まぁまぁ。
「なんだい、粗相でもしたのかい?」
「いや、横暴な雇用主だったけれど、また来て欲しいと言われてしまってね。気に入られたらしいんだ。……行くか行かないかは別として、九歳の少女との向き合い方も覚えておくべきかな、と」
「おっさんな時点で無理だね。諦めな」
世は無常である。無情でもある。
「そこをなんとか」
「……まぁ、贈り物……。ああいう手合いは割と甘い菓子でも与えておけば懐くんじゃないかい? 金持ちや貴族様では食べられないような、こういう下町にしかない菓子類なんかは結構珍しがられるよ」
「へえ。たとえば何があるかな」
「そこは自分で考えなよ……。……まぁ、ウチの主人が娘によく買ってたのは、茶の味の金状飴だね。甘苦いってのが珍しいらしくて、結構気に入っていたよ」
「金状飴か。……ふむ」
「そういや今潮さん、あんた今回の賃金は」
「ああ、全部お酒に使ったよ」
「……こりゃダメそうだね。諦めな」
鬼となってから金銭を持った覚えがない、というのは事実なのだ。
この仕事とて金銭の発生は無いし、この街でも金を使った試しがない。
となると。
「……買うより、作った方が早いかな?」
「え。……今潮さん、料理できんのかい」
「妻に先立たれてからは一人手に娘を育ててきたからね。必要最低限はできるよ」
「ふぅん。……味の違う金状飴ってだけでも売り物になるよ。あんたそんな危ない日雇い仕事してないで、茶屋でも開いたらどうだい」
「元手のお金がないし、経営資金までお酒に使う店主でも務まるものかな」
「よし諦めな」
からからと笑って、でも、と。
「贈り物の余りでもウチから売り出していいっていうんなら、材料やら厨房やらは貸してやるけど、どうする?」
「その言葉を待っていたよ」
契約成立である。
さて。
「といっても、誰でも作り得るものだと思うのだけどね……」
今潮は厨房に立って呟く。
難しいことなど何もない。砂糖と水さえあれば金状飴は作れるし、そこに抹茶を混ぜるだけで茶味の金状飴は作成可能だ。
調薬に必要な薬の分量を考えて……というような複雑な動作の必要のないそれ。
──同時に、知っている。
輝術師も人間も……「簡単にできること」程やらない。やりたがらないのではなく、やらない。
誰もが気付き得る"世の理"とて、まるで新発見のものであるかのように扱う。「お姫様」の作る玩具や細工もそうだ。あれほど単純な仕組みでありながら、「今まで誰も思いつかなかったもの」として扱われる。実際そうだし、製法の公開された現状にあっても制作に着手するものは少ない。
退屈嫌いの青清君だ。彼女を気に入ることは当然の帰結と言えたし、同時に……今まで放っておかれていたのが不思議ですらある。
四年間。少しばかり彼女の身辺調査を行ったけれど、彼女が木工細工に手を付け始めたのは五歳の時から。今に至るまでのその四年間、今潮も舌を巻くような「仕掛け細工」まで作っておいて……彼女は発見されていなかった。青清君が目を付けたという「やじろべえ」など、なんであれば雑多なものの一つに数えられてもおかしくない程に単純な仕組みをしている。
思いつく限りでも沢山ある「彼女が青清君に拾われる以前に作っていたもの」。
なぜ彼女はあの日まで発見されていなかったのか。
「……"世の理"、ね」
鍋の中で、砂糖と水が四対一の割合で混ぜられ、火にかけられる。
激しい気泡と共に加熱されて行く砂糖水。次第に水嵩が減って、黄金色に近づいていく。ある程度まで行ったら火を止めて、小皿に適量を移し替えて終了。固まる前に竹串を差しておく。
金状飴などこれだけで終わりだ。
残りの砂糖水に抹茶を混ぜれば、茶味の金状飴も出来上がる。
砂糖が高価であることは確かに理由の一つだろうが、それを金に換えられると知っていながら作らない女将を思えば──こんなものを「料理」と宣う彼女を考えれば、人々にとって「新たな事業」というものがどれほど高い塀に見えているのかわかる、というもので。
それが"世の理"だというのなら。
夜。
今潮は……青宮城にいた。相変わらず甘い警備は、けれど恐らく──故意に。
無論、詮無きことだ。問うて「ならば問答無用で追い払おうか」とされては堪ったものではない。
「ふん、私を何の説明も無しに放置した労働者が、機嫌取りに甘味を、か。……お前のせいでこっちは……」
「君の自業自得を私のせいにされてもねぇ」
献上品こと金状飴は快く受け入れられた。
甘味であるだけでいいのだとか。食の好みの薄い彼女にとって、菓子というのは欲しがるものではなく……だからこういう差し入れはありがたいとかなんとか。
"素直にねじ曲がっている"彼女にしてはちゃんとした礼を述べつつ、ぐちぐちと昼間の話をしている。どう考えても今潮は悪くないので全て聞き流しているが。
「……」
「……なんだ、何か嫌なことでもあったのか?」
「え」
「莫迦者。鬼となりて肉体の檻を脱ぎ捨て、そうも思いつめた顔をする奴があるか」
「透けたか……。はぁ、君は……他者の機微には聡いのに、どうしてそう……」
「なんだ。何か文句でもあるのか」
尊大。
向けられる目、声に乗る色。
その全てが失望に近い上に、「私はお前に勝っている」という……絶大なる自信が、彼女の「鬼子母神らしさ」を引き立てている。
彼女はそれに一切気付いていないようだけどね……なんて。
勿論口に出さない今潮。彼は少女の不利になることはしないけれど、彼女を鬼子母神にするという目標は降ろしていないから。
「……今日、それを作ったら、驚かれたよ。料理ができるのか、とね」
「料理? こんなの砂糖水を煮詰めりゃ誰だって作れるだろう。調理場にいる者達に謝ってこい」
「それが"世の理"でね」
「ははぁ。だからお前は落ち込んでいるんだな。──改めて今の世がくだらないと認識して、けれど現状それを変える手段が己に無い。鬼にまでなったというのにやっていることは下働き。……ふん、この世の星が星であるかは知らんがな。夢とは星の数ほどもあり、だからこそ手を届かせられない……など、使い古された言葉だよ」
「少なくとも私は聞いたことがないね」
「そうか、浅学な奴だ」
澱みの無い罵倒と、その前にあった「察する力」。
本当に。
「君は、天才だよね」
「……なんだ嫌味か?」
「考えずとも直感だけで真実に辿り着ける天才であり、考えてしまうと必ず迷走し、真実を逃す天才。私はそう見ているよ」
「普通に嫌味だった……。そこは……嫌味じゃない、と前置いて、嫌味にしか聞こえない褒め言葉を言うところだろう」
「褒めたつもりなんだけどなぁ」
「なら言葉を
九歳の少女。……ではないことは、勿論知っている。
楽土より帰りし鬼だ。生きた年数で言えば、あるいは今潮をも上回るのかもしれない。とはいえ「もっと」であるはずの凛凛が「アレ」なので、振る舞いというのは容姿に集約されるのかもしれない、なんて仮説を立てている今潮。桃湯と話していても「老婆」という感覚は覚えないので、これは立証できるかもしれない。
「──毒じゃなかったのか」
「……。今、どこから何を察したのかな」
「いや、察したわけじゃない。昼間のことを考えていてな。どう考えても坤立や軽勉に鉱夫を殺す理由がなく、加えて毒らしい症状も見えなかったな、と……思い出した。反応を見るに、他の鬼の仕業か?」
「君は……段階を何段も飛ばすクセがあるよね。言われる側は堪ったものではないよ」
「知るか。ふん、鬼の仕業で、お前も正体がわかっていないらしい。ハ、鬼も大変だな。どうしてそう、一つの目的に一丸となれないものかね。大事の前の小事など無視した方が効率的だろうに」
「……」
同じことを言っている、のに。
この二人はそこまで気が合うわけじゃないのが不思議だよね、なんて……言葉も、勿論呑み込んで。
「何が大事か、何が小事か、なんてのは」
「それぞれ、と? だから莫迦者なんだ、お前達は。鬼の力があれば私など容易に輝術師から引き剥がせように、内部紛争で二の足を踏む。こんな小娘一人を思い通りにできていない時点で己が大事が小事であることなど見抜けるだろうに、目先に囚われて足元が崖であることに気づかない」
「鬼が一丸となったら、君は困るのではないのかな」
「無論逃げるし拒否するし、どうしようもなくなれば決死の覚悟で喧嘩を売ろう。それで死ぬなら、それは摂理だ。大人しく受け入れるさ」
「摂理。……君が良く口にする言葉だね。潔い諦めに聞こえるけれど……その実は少し違うように思う」
「ほう? ではなんと見る」
「"仕方がないことは仕方がない"。"事象には足る理由がある"。……原理主義者の戯れ言だけど、君のはもっと……もっと何か、大きなことを経ての諦観。いや、達観かな」
「……」
金状飴のついた串を、食指と中指で挟んで拇指で支える、という妙な持ち方に変えて……少女は流し目をする。
片膝を立てて、そこに肘を置いて。寝間着に選ぶには些か少女らしくない着流しが月に映える。
幻視したのは──どこか青清君に似た雰囲気の女性。
全てがつまらないと諦めた顔をした、誰か。
「都合が良くなかっただけだよ。不都合だった。……ふん、摂理とは言うがな、諦観で合っているさ。格好つけているだけだ」
「とてもそうは見えないけれど、これ以上の詮索は嫌われてしまうかな?」
「安心しろ、とっくに、だ。……。……まぁ、なんだ」
一拍置いて。
「今は楽しい方だよ。それで充分だろう」
「そうだね。今が楽しいのなら……過去に蓋をすることができる」
「私の場合はもう飲み干した後さ。既に血肉となった価値観だ。摂理とはな、今潮。そういう削り取られた世界観を言うんだ」
「また小難しいことを言うじゃないか。聞かせてくれたまえ」
「人というのはな、誰しもが尖りに尖った世界観を有している。己が中心で、己の見えたものが全て。世界という観点から見ればあまりにも尖ったそれら価値観は、他の価値観や事象に衝突することで次第に丸くなる。よく言うだろう、大人になって丸くなった、と。あれはそういう話だ。世界観が削りに削られた者を揶揄する言葉」
悪意的にさえ聞こえる言葉。
けれどそこに悪意がないことは、もう知っている。
「丸まって、起伏を消して、転がりやすくなって……そうしていつか、どこかへ"落ち着く"。それが摂理だ。価値観とは衝突し合うもので、世界観とは傷つけあうもの。──これが諦めでなく、なんと言う」
「真理……だったりしないかな」
「だとしたらこの世は無常だよ。無常で無情だ。く、こっちじゃ伝わらんか」
「何が君をそうしたのだろうね」
「さてな。……お前はさ、今潮」
「うん?」
「お前の妻……そいつと婚姻を結んだことを、そして
「無論だよ。鬼となって尚、二人は私の誇りだからね」
「そうか。ならいいよ。お前は摂理など知らずに死ね」
「唐突な罵倒だね。今更だけど」
「ふん、今のは褒め言葉さ。そう聞こえないお前の耳が悪い」
「なら言葉を
「お前の耳が悪い、と前置いたはずだが」
「こう返ってくることがわかっていたから前置いたのだろう?」
クツクツと、あるいはニヤリと。
少女の姿をした鬼が、厭世的な笑みを見せる。
鬼子母神故、ではない。彼女は、その本質がもう。
「そろそろ行け。青清君が拗ねる」
「おや、気付いていたのかい?」
「こうも何度もだと流石に気付くさ。──金状飴の差し入れであればいつでも来て良いぞ。別の……そうだな、塩味のあるものでもいい。漬物とかないのか」
「食の好みが薄いにしては横暴なお姫様だ。わかった、漬物だね。何が好きとかは」
「無い。酸味が欲しいだけだ」
「そうかい。青宮城の食事はそんなに味気が無いのかい?」
「馬鹿言え、豪勢だよ。──こういう深夜に食うのが美味いんだろ、そういうのは」
「君、お酒を嫌っていなかったかな」
「毒だと思っているが」
「酒飲みの言葉だよ今のは」
「緩慢な服毒死専門家と一緒にするな」
「君は唐突な気絶専門家だから、かい?」
「……うるさい」
ああ、拗ねてしまった。
脳裏に浮かべる女将に伝えなければ。このお姫様は、九歳の少女よりも機嫌取りが難しい、と。
今度少女の舌に合う漬物を聞かなければならない。
「今潮」
「なにかな」
「もうすぐで
「私が行ったら警備も彼女も集中できないだろう」
「そこは仮面でも被れ莫迦者。誇りに思うのなら、彼女が誰しもに認められる姿を目に焼き付けろ。そうではない姿……敗れ、目元を泣き腫らす姿であっても、だ。お前が捨てた全てをその魂に刻め」
横暴で尊大で。
──そして、とても優しい少女。
「ああ。なんとか、頑張ってみるよ」
「絶対見に行け。命令だ」
「鬼子母神として、かい?」
「そうであることも辞さん」
「桃湯が喜ぶよ。……それではね」
「なんなら桃湯同伴で来い。じゃあな」
人にも鬼にも幽鬼にも、一切の分け隔ての無い少女。
やはりあれこそが──。
「是非とも彼女からは……逃げ果せてほしいかな」
夜は更ける。夜はまだまだ、深く深く。
月明りだけがただ。