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タイトルとか名前とか、生まれてこの方決まったためしがない

お疲れ様です。暇です。

現在二時三十四分、俺は、何もしていません。
ただPCを開いて閉じたりして、電気もつけず、いつものように適当に音楽も動画も流すことなく、暗闇と静寂の中にいます。最低の暇つぶしTwitterのTLさえ動かず、割くべきほかのことは多くあるけどまったくやる気にならない、そんな状態です。

たぶん真実の時間があるとするならば、今、この時間なのだと思います。

十代の頃、そもそも中途覚醒しかしない俺は、ふと深夜に目を覚ますことがありました。あるいは、眠れない夜だったのかもしれません。スマホなんてものもなく、あったときは触る気さえ起きず、とりあえず椅子に座るけれど、何もせず、ただ、ぼーっと部屋を見回すだけ。当然なにもなく、カーテンから差し込む灯がほのかに揺れるだけのような、その程度のささやかすぎるものしかない時間です。

ふとすべてが懐かしくなるのですが、記憶の抽斗が固く閉ざされていて、感傷の感覚だけがあり、その形がなんだったのか、さっぱりわかりません。もはや匂いみたいなものになっていて、冬の夕暮れ前、夏の木漏れ日に当たった時に感じるそれと、大差ないように思います。

その昔、記憶力だけには自信がありました。
特に小学生の頃なんて、誰と何の会話をしたかだいたいすべてを覚えていて、キモがられたこともあるほどにです。今は純粋に存在がキモがられることしかありませんが、かつてのそれは純粋に、学校まで遠く離れていて、一緒に帰ろう、などということが友達とできなかった寂しさ由来のものかもしれないけれど、色々を覚えていられました。

けれど今は、さっぱり覚えていられないんです。

昔のことさえよく思い出せなくて、ただあった感覚だけが残っている。

もはや大切だと思うことすらないのかもしれませんね。それがさらに寂しくさせてくる。結構人間は麻痺できるというのに、そしてそれは適合と言い換えられるのに、掴んでいたそれを忘れても手触りが居座って、逆算のようにその不在を言い渡してくる。器官が備わっている限り逃れようもなくふと香ってくる。そこに昔みたいな心地よさはない。辿ることも立ち止まることも見つめることもできないものにそれはなってしまっている。抗ってつべこべ言ったとしてもそれは間違いだけを重ねる徒労でしかない。

ですが。

ただ、この時間だけは――真っ暗闇の中、ちらちら無機質な光が揺れるこの、なにもできない時間だけは、あのときと重なる気がするんです。きっと少しはずれているけれど、およそ手と手をつないだ時に触れあう範囲くらいはしっかりと重なっている。

 

そんな気が。

 

学校の中では生きられない人もいる。
そんな人をたくさん見てきたし、そんな人は美しいまま、死んでいきました。
その軽やかさと鮮やかさは目を背けたいくらいで、けれど見つめる以外は重大な罪を犯しているようで、許されざる背徳のようで、それが失われていくことを見ることしかできないし、そこに宿る永遠性で自分を慰めることしかできない。

酷い欺瞞を許して呼吸をする自分が情けなくなるとき――失われたはずのそれや、損なわれた美質が問いかけてくるんです。

そのとき思うことは、やはり、
学校の中でしか生きられない人もいる、ということです。

思い出さえ霞んだ場合、
果たして、俺たちの同一性はどうやって保たれるのでしょうか?
あのときの俺たちは今の俺たちとどう接続されるのでしょうか?

 

ようやく最近思います、死にたいあのときだけがまともだったのだ、と。