1993年刊行の『完全自殺マニュアル』(太田出版)がミリオンセラーとなり、社会現象を巻き起こした鶴見済氏。22年7月に刊行された『人間関係を半分降りる』(筑摩書房)では、約30年間一貫して取り組んできたテーマである「生きづらさ」への向き合い方や、身近な人間関係のトラブルやストレスにいかに対処すべきか、実践的な解消法を提案している。[日経クロストレンド 2022年10月11日付の記事を転載。一部情報を更新]
いくら美化しても、人間には醜い面がある
──5年ぶりとなる著書『 人間関係を半分降りる 』は、家族や友人、恋人など誰もが悩みを抱える身近な人間関係や社会との関わり方について、「少し離れてつながろう」と距離の取り方をカギに、解決策を提案する内容です。タイトルに込められた、執筆のきっかけを教えてください。
「人間関係を半分降りる」というのは、決して人と関わって生きるのを諦めろという意味で提唱しているわけではないんです。ただ、「友人は良いものだ」「家族は素晴らしいものだ」と大多数が言うことに対して、本当にそうなのか? と一石を投じたかった。
僕は小学生の頃から20歳くらいまで、実の兄からひどい家庭内暴力や嫌がらせを受けてきました。高校に入ってからは陰口やとげとげしさに満ちた狭い人間関係の中で、他者からどう思われるかを気にし過ぎてしまう社交不安障害にも悩まされた。僕の人生にとっては、家族や友人関係はまず、大きなマイナスをもたらす存在だったわけです。
「日本での殺人の半分は家族間の殺し合い」というデータもあるくらいで、親子であっても、お互いを憎んでいたり思い通りにならなかったりする事は多い。それが、「家族は良いものだ」という美化された価値観の社会の中にいると、抱えている悩みや不満も表に出しづらくなってしまいます。
家族や友人、恋人というものは、悪いことばかりではないかもしれないけれど、良いことばかりでもない。嫌がらせもあれば、ひどい圧力にも満ちている。いくら美化しても、人間には醜い面がある。それは実際に多くの人が知っているし、感じていることですよね。家族であっても同じ職場の同僚同士でも、狭い人間関係の中で距離が近づき過ぎたり閉鎖的になり過ぎたりすると、悲惨ないじめやトラブルが起こりやすくなる。だから少し離れて距離を取り、人とのつながりを流動的にしていくことで、もっと気楽に生きようと伝えたかったんです。
──鶴見さんは93年に社会現象となった『 完全自殺マニュアル 』以来、「生きづらさ」にどう向き合うかというテーマに一貫して取り組んできました。
僕は64年生まれで、昭和期の時代の空気感の中で育ちました。その頃は、今よりはるかに人間の幸せの形や理想の生き方が固定されていた。良い大学に入り、良い会社に勤め、家庭を築いて子供を育てて……。それはある1つの生き方や価値観を押し付ける圧力ですから、受け入れられない僕はとても窮屈でした。だからこそ、世の主流に乗らなくてもいい、オルタナティブな生き方や選択肢があるということを提唱したかった。
生きづらさとは選択肢や居場所が固定されること
──90年代に比べると、社会は多様化が進みました。
今ではSNSでも、性的マイノリティーであったり、HSP(Highly Sensitive Person)であったりといった、自らのアイデンティティーや心の問題について、コンプレックスではない文脈でポジティブに話せる空気も生まれている。風通しの良い時代になってきているのは確かです。
とはいえ、僕自身が経験したような兄弟間の暴力や、成人した子供と親の間の加害などは、まだまだ語られにくい問題です。特に家族の価値のように、社会規範が強く働く物事に対しては、「みんな同じようにしろ」という圧も根強い。夫婦別姓の議論の膠着化などは象徴的です。
『完全自殺マニュアル』を書いた90年代というのは、終身雇用が崩れ始め、未婚者が増え、不登校が問題化するなど、社会の主流の生き方から「降りる」人が増え始めた時代でもありました。そうした流れの先に、今は生き方の選択肢が増えてきているのは事実ですが、それでも主流から「降りてしまった人」にとっての選択肢は、戦後ずっと育ててこなかったので、まだあまりに居場所が整っていません。
──本書の中では、そうした固定的な生き方や人間関係から離れた別の居場所を、「サードプレイス」と名付けて意味を語っています。
学生の頃は、自分の居場所は家庭や学校にしかないと思い込んでいました。自分にとっても多くの人にとっても、「生きづらさ」とは、生きる選択肢や居場所が、学校や家庭や職場の固定された人間関係の中にしかない状態から生まれてくるのではないでしょうか。
だからこそ、個々人がそこから離れた「サードプレイス」的な居場所や人間関係を持つことで、固定された人間関係に依存するきつさを緩めることができるんです。いざというときに、固定された人間関係から離れられるコミュニティーが別にあれば、家庭や職場の人間関係で思い詰め過ぎることなく、ひどいトラブルが起きても致命傷にならずに心の距離を置くことができます。
リスク分散のための「サードプレイス」
──例えば、固定の職場で正社員として働く人にとっては、副業を持つことも「サードプレイス」を確保する生き方だといえるでしょうか。
会社員の方が、働く場所をもう1つ別に持っておくというのは良い選択だと思います。僕は定期的に不要品の無料放出市を開催したり、共同で畑を耕したりもしていますが、こうした社会活動も副業をする感覚とどこか似ていると感じます。気分転換にもなるし、人間関係も広がり、本業にもいい影響が出てくる。
副業を持つのは難しいという人の場合は、何かしら仕事と離れたつながりを持つだけでもいい。今は幸いにして、オンラインでもコミュニティーをつくれるし、趣味の楽器を弾いてYouTubeにアップしてみるのでもいい。副業でも趣味でも「別の顔」を持っておく意識が大事だと思います。
誰でも人生の中で何か夢を持っていた時期はあって、なのに就職するときには諦めなきゃいけないことがほとんど。それって実は人間にとって大きな挫折ですよね。でも、仕事に全振りする生き方を選ばなければ、週のうち何日かでも音楽をやったりするのは、難しいことじゃないんです。
職場だけが居場所だと感じると、仕事がうまくいかなくなった途端に追い詰められます。自分の承認欲求や存在意義を、1つの場所に限定してしまうリスクを避け、それを分散させるという意味でもサードプレイスは役に立ちます。仕事や家庭といった「本業」から離れたゆるいコミュニティーを持っておくことで、精神的な余裕が生まれる。
人間は自分の居場所を1つに絞っていると、そのコミュニティーに依存するようになります。本当はそこにいるのがきついのに、無意識にそのコミュニティーにとどまって問題を解決しようとしてしまったり、狭い集団の中で認められることに固執してのし上がろうとしたり。そういう考えに陥っていても気付けなくなる。「ここで失敗してもまた別の場所に行けばいい」と保険をかけておくことで、気楽に振る舞えるようになります。
日本人はもっと「ちゃらんぽらん」になるべき
──SNSなど、ネット上のコミュニティーの中でストレスを感じる場合は、どのように対処すればいいでしょうか。
人間関係に行き詰まるとき、誰かを嫌いだと思うときは、だいたい苦手な人たちの言動を意識し過ぎています。SNSでも同じで、なぜかムカつく人の投稿が気になって、本来は見たくないものを過度にチェックしてしまったりしますよね。自分と他人を比較して不要な劣等感やストレスを抱いたりもしがちです。
そうしたマイナスの連鎖から離れるには、やはり適切な距離を取ることです。SNSなら、嫌な人の投稿を見る回数を意識的に減らします。相手に意識を集中させず、「人間は常に自分の良い面ばかり見せるもの。他人を羨ましがったり妬んだりしても意味がない」と言い聞かせましょう。気に食わないことに固執するのは疲れます。マイナスなことばかり考えたところで、問題や悩みの本質が解決することはないですから。
僕も若い頃は特に、心に負荷がかかることでも、つい固執してしまうタイプでした。「問題に対して向き合わないのは逃げだ」とか「自分のマイナス面について考えるのは、現状を変えていこうとする良い態度だ」と思い込み、常に改善策を考えていた。ただ、自分自身の問題点についてばかり考えるのは、すごくきついことですよね。良い面なんて1つもないように思えて、本当に死にたくなります。それで、固執するのをやめて、自分の問題からも一度心の距離を取ってみたら、結構良い状態になれたんですね。「気楽にいこう」と自分に言い聞かせて。
日本の社会には、悪い面ばかりを気にし過ぎて、心配や不安をあおる独特の体質があります。それは、真面目過ぎるがゆえだと思います。だからこそ、もうちょっと「ちゃらんぽらんになった方がいいですよ」と言いたいですね。
「ああ、せいせいした」と笑うような感覚で
──著書内では、「諦めることで気楽になれる」とも語られています。
『完全自殺マニュアル』は「いざという最悪のときには死ぬことだってできるのだと思えば、楽に生きていける」ということを書いた本でした。今でもこの考えは根底にあります。「死」だと実感が湧きづらいかもしれませんが、「老い」でも同じことです。容姿も能力も衰えていき、人はその都度、小さな諦めを積み重ねていかなければならない。
そうした自分の力ではどうすることもできない事態に直面すると、もがいているうちは苦しいですが、諦めの境地に達したところで、一気に気が楽になります。もちろん困難を乗り越えるのに越したことはないですが、世の中はそんなに生やさしい出来事ばかりではない。そのときに救いとなるのが、「もうどうしようもない」という諦念です。
──すべての人がその境地に達するのは難しいように思います。
生死に関わる極端な話ではなくても、誰でも、とことんまで思い悩んだ末に諦めたときには、「ああ、せいせいした」とか「もう失うものはない」と、むしろ吹っ切れて笑ってしまったりする局面って多少なりともありますよね。そんなときには、人間の中には割と晴れ晴れとポジティブな気持ちが生まれてくる。何もないと思えば気が楽になるというのは、そうした反転した楽観の感覚ですね。
──人生はきつい、人間は醜いという、ネガティブを突き詰めることでポジティブに転じる、鶴見さんの視点はどのように生まれたのでしょう。
僕は、世の中できれい事のように言われている通説や価値観をどこか崩したいのだと思います。みんな同じだと気持ち悪い、ばかばかしい。多分こうした考え方がずっと変わらないものとしてあるんでしょうね。世の中の規範に沿って生きていけるマジョリティー側になれれば、幸せだし楽かもしれない。ただ、世の中の「普通」に合わせて生きていけない人はたくさんいますし、僕自身も「世の中は残酷だ」と思いながら生きてきました。
なので、例えば「神様が必ず見ている」とか「誰かが救いの手を差し伸べてくれる」と言う人に対して、「神様なんていない」「甘ったれたことを言っている」と思ってしまう自分もいる。でも、それはたとえるなら、世の中の残酷さを人一倍たくさん取材したライターのような視点なんです。僕に限らず、極端に非情な出来事を経験した人が、そういう考えになるのは自然なことだと思う。
この本は生きづらさを抱えた人に対して「気楽に生きようよ」と語った内容ですが、決して性善説に基づいて論を展開しているわけではありません。人間は醜いし世の中は残酷。その中でも何とかうまくやっていこう、人には普通に優しくしておこうよと。たとえ悲惨な経験をした人でなくても、それは大事です。 「人間は醜い」と「気楽に行こう」という感覚は、30年間変わっていない部分だと思います。
例えば、老子は「無為自然」を唱えていますが、要は「何も作為をせず自然にしているのがいい」ということです。「上善如水」も有名な言葉です。これは「低きに流れる水のように生きられれば幸せ」ということを意味しています。他にも「他人と競ったり争ったりする必要はない」「生きようとし過ぎるとかえってよく生きられない」といった、現代人にこそ響く考え方が数多く見つかります。
大学時代に講義のテキストとして買いましたが、長い間読み続けている本ですね。(鶴見氏)
注)鶴見氏所持の『老子(上・下)』(福永光司著、朝日新聞出版)は絶版で入手が困難なため、同じ福永氏による後継版となる訳書を掲載した
(写真/髙山 透)