あの御方を独りにはできない。
自棄になって死にかけた中で、僕の頭に浮かんだのは『帰らなきゃいけない』という強い意志。
その決意を僕は今、貫こうとしていた。
紅の柄を握り締めて1階層を走り抜ける。はじまりの道を突っ切って地上へと繋がる螺旋階段へと。不規則だった呼吸が整っていくのを感じた。
(帰れる……ハトホル様のところに)
今回は幸運に恵まれた。次に同じようなことをしでかしたら、きっと僕は死ぬだろう。考え無しにヤケクソで死地に突っ込むなんて真似、ダンジョンはきっと見逃してくれない。二度目はないと馬鹿な頭を叱咤し、螺旋階段に足をかけた。
『フフン、流石は私が目をつけた子! 見事乗り切ったわね!』
その時、女性の快活な声が聞こえた。
階段への足を引っ込めて振り返ると、はじまりの道の向こう側に立っていたのは、6階層で僕を助けてくれた女の人。今度は情熱的な紅の髪が、ハッキリと見えた。
もしかして見守ってくれていたのだろうか……?
そう考えると涙が出そうになって、お礼くらいは言わなければと僕は一歩引き返した。
『こちらに来てはダメよ!』
「えっ?」
けれど、大声で拒否されて足を止める。彼女は右手を出してストップの合図をしていた。バーン、と音が聞こえてきそうなほど、凄い勢いで手の平を突き出して。
『私は確かに可憐で魅力的なレディだから、世の青少年達を夢中にさせてしまう! 貴方も例外でないことはわかっているわ!』
「えっ、えっ……?」
僕はたじろいだ。
頭の中が?で埋め尽くされたのだ。可憐で魅力的……そうなのだろうか。生憎と顔はよく見えないから、僕には何とも言えなかった。
何と答えていいか困っている僕に、紅の髪の女性は慎ましげな胸を張る。この時、彼女のエメラルドの瞳がキラリと輝いた……ような気がした。
『でもごめんなさい! あなたの気持ちには応えられないわ! やっぱり心配だったから尾行してきたんだけど、ここまで来れば大丈夫そうね! 私はアリーゼ! 縁があったらまたどこかで会いましょう! じゃあ今度こそまたねー!』
僕はやはり言葉を発することができなかった。
告白してもいないのにフラれた。貴重な体験には違いなかったけど、どうポジティブに考えても喜ぶことはできなかった。
「あ、あのっ……って、もういない……神出鬼没ってやつ?」
少しだけ俯いた後、とにかくお礼だと意を決して顔を上げると、彼女の姿は消えていた。
僕は右手を前に伸ばしたまま呆然とする。
アリーゼさん……初めて聞く名前だけど、やはり強い冒険者なのだろうか。再会してお礼が言えることを願って、僕は今度こそダンジョンを後にした。
∥●∥
日々、平穏であれ。
未来、壮健であれ。
超未来、考えることなかれ。
ハラハラドキドキするのはしんどい。
揉め事はダルいし疲れる。腹の探り合いするくらいなら読書やお酒を楽しんでいたい。美味しいものを食べるでもいい。下界には楽しいことが沢山あるんだから、好き好んで苦しいことをしなくたっていい。
誰かの死に心を痛めるのは辛い。
死に直面して変わっていく子供達を目にするのも同じように辛い。
下界の子供達にとって『死別』という現実は重たすぎる。将来を誓い合った愛する者との死別。親愛なる仲間との死別。啜り泣きとドス黒い
──『なぜ復讐させてくれないんです!?
かつて私の元にはベルとは違う少年がいた。
将来有望で優しくて、性格もどちらかというと穏やかな方だったけど、19階層で幼馴染を喪ってからは酷く壊れた。
──『辛うじて戦えるのは君とネルナッティ。後はルクソールくらいのもんか。全員ってことは駆け出し含めて総動員で特攻ってことー?』
──『家族のためです! どうかご決断下さい……たとえ命を落としたとしても、それは名誉の死ですッッ!! 拒むんだったら家族なんかじゃない!』
彼は弔い合戦のために家族を犠牲にしようとした。いや、
──『そっかー。でもね、君の選択はその家族を無駄死にさせようとしている。少し頭を冷やしなさい。大体さ、敵の拠点って具体的にはどこ? 19階層には既に討伐隊が向かってるし、私達の出る幕はもうないと思うんだけど』
私は妙に冷静だった。というか冷めていた。
表情に乏しいなどとはよく言われるけど、実際はこれでも色々と考えているし感じてもいる。ただ、この時は本当に無感情に冷めていた。
だから、こんなことをのたまってしまった。
『それにさ、君の言うそれは名誉の死なんかじゃない。犠牲者を無駄に増やして、ローザを悲しませてどうするの?』
『彼女がどう思ってるかなんて、彼女自身にしかわからない。それに、死んだ人は天に還って白く染まる。何も感じないし考えられない。貴方が教えてくれたことですよ……!』
『そうだっけ。忘れちゃった』
『もういいです。失望しました、貴方
その夜のうちに、少年は私の元を去った。白髪赤目でどこかベルに似ていた彼。仲が良かった筈の実の兄にも何も告げることはなかった。
とある少女は少年に着いていくことを選んだ。彼女は将来有望な
生還した団員達の多くは半年以内に、ルクソールは一年後に。ネルナッティは気付いたらいなくなっていた。思い返してみると、ボンヤリ恩恵を操作して改宗可能にしたような気がする。
たしか、今みたく酷く寒い夜だったか。
在りし日の少年が今どうしているのか、私は知らない。実の兄ですら居場所はわからないらしい。
「どこに行ったの……ベル」
孤児院跡の扉を開けると、中には誰もいない。深夜を回っても帰ってこなかったベルは、今はどこにいるのだろうか。捜索に出かけたものの収穫はゼロ。もしかしてと思って戻ってきても、彼の姿はどこにもない。私は小さく溜息をついた。
(まさか拉致されたりしてないよね……変態に好かれそうな顔をしているから、なきにしもというのがとても怖い)
変態に変態行為を強いられるベルの姿を思い浮かべる。
かつてない焦燥が胸を焼いたが、私は頭を振って冷静になった。
流石にそれはないだろう。ないと言い切っておかないと現実になりそうで怖い。かと言って現実逃避ばかりしていても始まらないし、ここはもっかい探しに出てみるべきだ。
(壮健であってくれればそれで良いのに、ままならないものだね)
何か事件に巻き込まれたのか。
そう考えると嫌な汗が背中に
(昨日は少しつっけんどんにしすぎたかな。私に嫌気がさしたのならそれでも良いから、ダンジョンでダンジョンされてる展開は勘弁して欲しい)
変態に変態されるのもダメ。少しくらいの家出なら広い心で許す。女の子の家に転がり込んでても、まあ今回は不問にしよう。
(とにかく探しに行こう。もしかしたらその辺のゴミ箱とかに隠れてるかもしれないし……うんそれはないよねー)
よし行こう決死の覚悟で。
私はベル探索を続行すべく、くるりと扉に振り返った。
「──おごっッ!?」
なんでって、いきなり扉が開いて私に突進してきたからだ。
私は顔面を強打!
お面の
同じタイミングで私の胸は
女神ハトホルの信仰値が十四下がった!
「お……おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
私は頬を押さえながら崩れ落ち、聞くに堪えない呻き声を漏らした。ドアで思い切りビンタされて可愛く鳴くとか無理だった。