沖縄特攻の戦艦大和にロケット弾攻撃 100発超、米空母艦載機の戦闘報告書
旧日本海軍が誇った世界最大・最強の戦艦「大和」は1945年4月7日、米軍の上陸が始まった沖縄への水上特攻の途上、多数の米軍機によって鹿児島県・坊ノ岬沖で沈められた。米軍の航空攻撃には爆弾や魚雷だけでなく、100発を超えるロケット弾も発射されていた。
今月2日に亡くなった戦史研究家の原勝洋さんが、収集した米海軍省の機密解除史料を基に3月、取材に答えていた。
史料は、大和攻撃に参加した米海軍の空母「バンカーヒル」に所属する第84戦闘飛行隊の戦闘報告書だ。
4月7日、沖縄に向けて航行する日本艦隊攻撃のため、同飛行隊の戦闘爆撃機コルセア15機が発艦。「攻撃目標」の大和に対し、午後0時30分、14機が急降下により高度1500フィート(約457メートル)から500ポンド爆弾を投下し、機銃掃射のほか、「HVAR」と呼ばれる高速航空ロケット弾112発を発射した。
HVARは44年に米で開発された。高性能爆薬が装填(そうてん)されており、射程は約4.8キロ。最高速度は秒速425メートルに達する。
太平洋戦争で航空攻撃が優位性を増す中、大和は搭載する高角砲や機銃を増設し、対空火器の強化を図った。数を優先し、シールド(防盾)が未整備のものもあった。
しかし、そうした努力もむなしく、殺到する米軍艦載機の攻撃で、対空火器は次々と破壊されていった。
「軍艦大和戦闘詳報」(45年4月20日作成)によると、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機。原さんは「日米で、兵器の質にも大差がついていた。高速で飛んで来るロケット弾など防ぎようもない。米軍機に機銃で応戦しようにも、大和自体が爆弾や魚雷への回避行動で回頭するため、たちまち照準が定まらなくなる。射撃は相当な困難が伴ったはずだ」と解説していた。
水上特攻部隊として出撃した大和の乗員は3332人、うち生還者は276人という。(時事通信解説委員 宮坂一平)。






















