アイズ・ヴァレンシュタインはカーテンに隠れながらじっと様子を伺っていた。
小さな身体を窓との間に上手いこと滑り込ませ、カーテンに小さな穴を開けて警戒心も露わに覗き込んでいる。
穴を開けたなんてリヴェリアにバレたら拳骨ものだが、そんなことも思いつかないくらいアイズは真剣だった。
この日、ロキ・ファミリアの
真っ赤なおめめに真っ白な雪のような髪をした少年。
彼は応接間に案内されてフィン、リヴェリア、ガレスの三首領と主神であるロキと話し込んでいる。
アイズの視線は兎のような少年――ベル・クラネルに釘付けだった。毛皮を逆立てた子猫みたいに警戒している。
人畜無害そうな顔をしているが、ベルは危険なヒューマンだった。
「ベル。改めて僕達から君に感謝を。君とポケモンのおかげで、前回の
「それに加え、敵幹部であるオリヴァス・アクトの捕縛もあるのう。『くさりもち』による
「いえ。これも皆さんの協力があったからです。僕とポケモンだけなら完全に守ることはできませんでしたし、『くさりもち』をここまで上手に活用することはできませんでした」
フィンとガレスの賞賛にベルは謙遜で返した。
建前でなく本気でそう思ってるベルに対し、ガレスは半ば呆れフィンは苦笑してしまう。
ベルのいうことに一理あるが、それはそれとしてベルの功績の割合が大きすぎる。
「……裏切者なあ。出オチ芸かましたディオニュソスには、うちも思わず絶句してしもたわ」
「『神酒』の酔いによる善神への偽装か。まだ碌な活動をしていなかったらしいが、今回の件で表出しなかったら何をしでかしたかわからない空恐ろしさがあったな」
昨日の惨状を思い返しロキがぼやく。キビキビのトラウマが未だ深いのか、少し顔色が悪かった。
リヴェリアは流石に悪いと思っているのか、話しながら軽く背中を擦ってあげていた。
もう片手では膝の上で寛いでいるラルトスを堕ちないように支えている。
更に勝手にボールから抜け出しているリオルが、茶菓子をフィンにあーんしようとしていた。
断ろうとしたフィンだが、キラキラした目で押し付けられ頬を引きつらせながらあーんを受け入れた。
モンスターが人間と共に仲良く共存している。
例えアレが異世界の生物であろうとも、この世界のモンスターとは異なる存在だろうと、アイズにとって直視し辛い光景であった。
隠れ潜んでいるアイズの瞳が複雑そうな色に染まり、細められた。
――アイズの初めてのポケモンとの邂逅は、あやうく血の色に染まる所であった。
フィンが散々これから見せるのはモンスターではなくポケモンであると説明し、リヴェリアが少しでもアイズが受け入れやすいようあえて進化させずにラルトスのままにしていたが、全て無駄であった。
確かにフィンが説明した通り、モンスターに対峙した時の悪感情は湧かない。
リオルやラルトスの見た目は醜悪なモンスターと異なり愛らしいものだ。
フィンとリヴェリアにも良く懐いている。
人間の味方をしているフリをしているが、いつか絶対に牙を向く。
フィンやリヴェリア達を悲しませる。
誰かが
リヴェリアの制止を押し切って、アイズは剣を抜いて斬りかかろうとした。
寸前でフィンが止めなかったら、未進化ではあるが高レベルであるため大怪我はしないが、確実に血が流れていただろう。
あの時のアイズは憎悪と興奮で頭の中が真っ白になっていた。
「アイズ! 憎悪に飲み込まれるな! この子達はお前が憎むモンスターとは違う!」
「アイズ……。これだけは駄目だ。心を怪物にしてはいけない」
リヴェリアの叱責もフィンの説得もアイズには届かなかった。
押しとどめられ、行き場のない衝動に駆られてアイズは『黄昏の館』から逃げ出した。
……こちらに怯えながらも心配そうに見つめるラルトスと、刃を止めているフィンを守ろうと身を乗り出すリオルの姿だけが、やけにアイズの記憶に鮮明に残っていた。
その光景を振り払うかのように、夕日に照らされる街中を我武者羅にアイズは走った。
驚くいつもよりも多い道行く人を掻き分け、走って、走って、走って――。
ようやく足を止めた時、広場の一画にアイズはいた。
一人顔色を悪くしているアイズと異なり、広場に集う人々の常の鬱屈とした表情は少なく、むしろ明るく噂話に興じている。
先日の
とりわけフィンが演説したゼウス・ヘラの眷属の帰還という特大なネタが大きく取り上げられていたが、それと並行して、あるいはそれ以上にポケモンという未知の生き物に対しての話題が中心であった。
「聞いたか? 冒険者様がモンスターを使い始めたって噂」
「遅れてんな、お前。モンスターじゃなくてポケモンだよ、ポケモン。
「なんていうか、色眼鏡を外せば随分と可愛らしかったわね。リヴェリア様に抱き抱えられて大人しくしていたり」
「いやでもさあ。それでも怖くないか? 流石に石を投げようとか思わないけどよ」
「
……信じられなかった。
力のない民衆がモンスターを受け入れようとしている。
怯えている者ももちろんいるにはいる。だが、積極的に排除しようとしない。
(なんで……? モンスターなんだよ? なのに、どうして怯えないの? 憎まないの?)
アイズはその場に座り込んで、耳を塞いだ。
これ以上モンスターを肯定する言葉を聞きたくなかった。
小さなアイズを心配して話しかけようとする人もいたが、相手が【剣姫】だと気づくと慌ててその手を引っ込めた。
そんな気は相手になかったのだが、まるでモンスターよりも恐れられたかのように感じて、アイズは一層心を閉ざして膝を抱え込んだ。
そうしてアイズは塞ぎこんでいる間も時間は瞬く間に過ぎ去っていき、日が暮れようとしていた。
だが、アイズは『黄昏の館』に帰りたくなかった。
ポケモンという名のモンスターがいない場所に逃げたかった。
――もし、この場に以前のように邪神タナトスが現れ、アイズを
だが、それがエレボスであった場合。
言葉巧みに甘言を吹き込まれ、ポケモンからリヴェリア達を守るためという名目で誘われたら。
アイズは闇に堕ちていたかもしれない。
それほどまでにアイズは追い詰められていた。
しかし、そうはならなかった。
「…………ここにいたか、アイズ」
リヴェリアが心底安堵した声で、アイズに語り掛けた。
ある意味一番聞きたくなかった声に、アイズの身体が震える。
アイズはリヴェリアの顔が見られなかった。頑なに顔を膝に埋めたまま、貝のように閉じこもっている。
そんなアイズにリヴェリアはため息を吐き――。
「この、馬鹿者が!!」
「ひぐぅぅぅ!?」
レベル5のパワーで思いっきり拳骨を食らわされた。
あまりの激痛に地面をごろごろと転げまわり、大きなコブを両手で抑える。
「昨日
リヴェリアが怒鳴っていることはわかるが、アイズの耳には意味を成して入ってこなかった。
目の前では星が瞬き、激痛がファンファーレを鳴らしている。
アイズは痛みに悶えるしかなかった。
だが、そんな痛みが急速に引いていく。
「…………えっ?」
驚いてアイズが思わず顔を上げると、ラルトスがアイズの頭のコブに向かって暖かな光を両手で放っていた。
相手の傷を癒す『いやしのはどう』がアイズのタンコブを急速にへこませていく。
リヴェリアに命じられることなく、ラルトスは自分を斬ろうとしていたアイズを癒していた。
モンスターが自ら率先して自分を癒す姿を見て、アイズが身じろぎすらできずに固まる。
モンスター相手にあり得ない失態を晒していた。
「……ラルトスに感謝しろ、アイズ。傷を治しただけじゃない、お前を探し出したのもこの子の感情を読み取る力のおかげだ。ずっとラルトスはお前の事を心配して、必死にお前の感情を追ってくれていたのだぞ」
本来ラルトスは臆病なポケモンで、敵意を感じれば物陰に隠れてしまうポケモンである。
なのに、リヴェリアのラルトスは逆にアイズの敵意を読み取って追いかけてきてくれた。
慣れない事をして疲れているであろうに、さらに『いやしのはどう』でアイズを癒してくれている。
「この子はお前に怯えていた。だが、それでもお前を心配してここまでしてくれたのだ。……これでもまだラルトスの事が憎いか、アイズ」
「……………………」
リヴェリアが先ほどと打って変わって優しく諭してくる。
アイズは何も言葉にしなかったが、自分を癒すラルトスを見つめる目に、憎しみだけではない何かが確かに宿っていた。
(…………確かに、ラルトスは優しい子なのかもしれない。……でも、それが本当なのか私にはわからない。他のポケモンも信じられるかどうかわからない)
だからアイズは、こうしてポケモンを見極めようと隠れて様子を伺っている。
とりわけこの世界にポケモンを持ち込んだベルの事を警戒していた。
見た目は人畜無害の兎みたいだが、何を考えてポケモンを受け入れさせようとしているのかわかったものではない。
(……でも、真っ白な髪がもふもふしてる)
触ってみたいなという誘惑に駆られるが、アイズは慌てて頭を振って断ち切った。
「――で、うちの団員達と話をした結果、追加で三匹預けてくれるってことでいいんか?」
「はい。今はあくまで貸し出しているだけですが、
「……だ、そうだガレス。君の手腕が問われるね?」
「小生意気な
「こちらこそ、お願いしますガレスさん」
「あとはベルが入団するファミリアの件だが……私達のファミリアに入ってくれればこれほど頼もしいことはないな」
「あはは……すみません、リヴェリアさん。他のファミリアと話し合ってから決めさせてもらいますので……」
「冗談だ。大事なことだ。よく考えてから選ぶといい。」
しばらく意識を向こうにやっていたら、とんでもない話が纏まろうとしていた。
追加で三匹のポケモンを預ける? しかも場合によってはベルが入団してくる?
「あわわ……」
突然の非常事態にアイズはとても慌てた。
どうにかしなくてはと思うものの、何の打開策も浮かばない。
「あわわわわ……」
ただカーテンの中で右往左往するしかできなかった。
「あの、リヴェリアさん。あのカーテンは…………」
「…………すまないベル。後でよく叱っておく」
窓から入ってきた逆光で、カーテンにわたわたするアイズのシルエットがくっきりと浮かんでいた。
翌朝、アイズは昨日リヴェリアから食らったタンコブを撫でながら、またも懲りずに物陰から警戒を続けていた。
視線の先には年上だが後輩冒険者であるアナキティとラウルが、ソファーに並んで座っている。
アナキティは膝の上に居座る緑色の猫の背を撫でながら、苦笑してラウルに話しかけていた。
「いきなりベルにこの子を預けられた時はびっくりしたけど、こうして見るとちょっと変わった猫にしか見えないわね」
「確かにそうっすね。大人しくしていると、とてもじゃないけど強そうに見えない……いてっ!」
「なにやってんのよ……」
ニャオハを撫でようとした手を引っ掻かれ、ラウルが慌てて手を引っ込めた。
それを呆れた風にジト目でアナキティが見遣る。膝上のニャオハは引っ搔いたことなどなかったかのように暢気に欠伸をしていた。
「ていうか貴方の相棒はどうしたの? ちゃんと仲良くしないとダメじゃないの」
懐かせてロキ・ファミリアの戦力を増加させる意味合いも含んでいるが、同年代で話も弾んだベルがせっかく託してくれたポケモンをないがしろにするなとアナキティが責める。
「いやそれが……なんかロキがやけに気にいったみたいで、昨夜自室に連れ込んじゃったんすよ……」
「この前引きこもったことといい、何やってるのよロキ……」
キビキビダンスをした件を名誉の為に他の団員に隠していたため、奇行を繰り返しているようにしか見えないロキにアナキティがため息をついた。
ちゃうんや、癒しが欲しかっただけやったんやというロキの嘆きが何処かから聞こえてきたような気がした。
「でもまあ、予想以上にポケモンも馴染んでるっすね」
「主に支援だけとはいえ、前の襲撃であれだけの力を見せつけたもの。疑心暗鬼だった団員達も認めつつあるわ」
「ノアールさん達も褒めていたっす。あいつらは頼れる奴だって。……でも」
「アイズがねえ……」
自分の話題が出たことに、アイズが身体をびくりと震わせる。
「日頃のアイズを見ていたら、まあ仕方ないとは思うわよ。むしろ警戒するだけでよく斬りかからないで我慢してると思うわ」
「初日はあやうく惨事になりかけたみたいっすけどね……」
「でも、これから先ポケモンが冒険者と共闘することは絶対に避けられない。仲良くしろとまではいわないけど、わだかまりはなくして欲しいわ」
「そうっすね。
二人がロキ・ファミリアでの現在の最大の懸念に思いを馳せる。
アイズは申し訳なく思うが、それでもポケモンを警戒することをやめられなかった。
ラルトスは確かに自分に寄り添おうとしてくれた。優しくしてくれた。
でも、そう簡単に信じることなんてできない。
アイズのモンスターへの憎悪はそれほどまでに根深かった。
顔をうつむかせ、アイズが項垂れる。
「ポケモンが憎いんか?」
そんなアイズを見かねた声が、真後ろから掛けられた。
アイズはその疑問に悩み、答えを出せずにただ項垂れたままでいる。
「じゃあ、ポケモンが怖いんか?」
数秒反応がなかったが、アイズはゆっくりと頷いた。
「そか。でもまあ、境遇考えたらしゃーないわ。むしろようやっとると褒めてやりたいくらいや」
「……でも、みんなに迷惑を掛けてる」
アイズが頑なにポケモンを受け入れないでいるから、それに釣られてポケモンと距離を取ろうとする団員も極少数だがいる。
本心なのか、アイズの心情を気遣ってのものなのかはわからないが、ロキ・ファミリアにとって良いことではない。
「ええって。可愛い子に迷惑掛けられても、甲斐性やって笑って許してくれるわ」
「……そうかな?」
「せや。安心してええで。だからゆっくり、心の整理をつけぃ。焦ったってなんもええことないしなぁ」
「……いいの?」
「そう聞き返す時点で、ポケモンが心底悪い奴やと思っとらんやろ。なら大丈夫や」
笑いながらアイズの頑な心を否定せずに、受け入れてくれた。
――嬉しかった。
自分の迷う心を否定せず、急かさず、ただ見守ってくれている。
ロキのことはあんまり尊敬できない神だと思っていたが、今日初めて心から尊敬することができた。
ロキのいう通りどれだけ心を偽ろうとも、このポケモンへの不信感と恐怖心は拭えない。
でも、後ろで見守ってくれているのなら、少しずつでも歩み寄ってみようとアイズは思えた。
「ありがとう――」
笑顔でロキへ礼をいおうと後ろへ振り返った瞬間、アイズの時が止まった。
そこにはおっちゃんみたいな丸々と太ったデカい栗鼠がいた。
齧りかけの木の実を片手に持ちながら、にっこりとええ笑顔でアイズにサムズアップしていた。
「お礼なんてええんやで。アイズはんが元気出してくれたら、それだけでおっちゃん嬉しいわ」
そういって木の実を口の中に押し込み、ふさふさの立派なぶっとい尻尾から新しい木の実を何個も取り出す。
「ほい、モモンの実や。甘くて美味しいでぇー? これ食って今日も元気に気張っていこうや」
呆然として身動きのとれないアイズに桃のような木の実を手渡すと、ほななーとアイズに手を振ってラウル達の元へと歩いて行った。
「ラウルはん、アキはん、おはようさんやでー」
「……!?!?!?」
「あっ、ヨクバリス! ロキに捕まってたけど、大丈夫だったっすか!?」
「おっちゃんは平気や。それよかロキはんをあんま責めんとってくれんか? ちょっと辛い事があって落ち込んどったんや。おっちゃんのモフモフな尻尾に顔を埋めさせて励ましたったけど、心の傷は浅くないんで優しくしたってや」
「……ちょ、ラウル?」
「まあ、ヨクバリスがそういうなら、俺から文句いうことないっすけど」
「ラウル! ラウルってば!」
「なんすかアキ。そんな人の言葉を話すモンスターを見たような顔して」
「喋ってる! 今実際に喋ってるから!?」
「え? なにがっすか?」
「アキはん。朝からそんな血圧上げてると昼からしんどなるで」
「ほらぁ!」
「だからなに……………………うわあああああああああ!? ヨ、ヨクバリスが人の言葉を話してるっす!?!?!?」
「のあぁ! びっくりした! ラウルはん、いきなり耳元で大声上げられるとびっくりするやんか」
「お前、なにいきなり喋り始めてるんすか!? 昨日は普通に鳴き声上げてるだけだったじゃないっすか!!」
「ああ、なんやこんなことでびびっとったんか。昨日ロキはんと話して言葉覚えただけやで? いやあなんかロキはんの喋り方がしっくりきてなあ」
「そっかー。なら良かった………………って、んな訳ねえっす!? 何一日で人の言葉覚えてるんっすか!? お前、本当にポケモンっすか!? 絶対中に小さいおっさん入ってるっすよね!?」
「おっ? 今のなかなかええノリツッコみやん。将来有望やで、ラウルはん」
向こうでなにやらギャーギャー喚きあっているようだが、アイズは何の反応も示さずただひたすらその場で棒立ちになっていた。
三分ほど経ったであろうか。ようやくアイズがぎこちなく動き出し、ヨクバリスに渡されたモモンのみを一口齧ってみる。
「……あっ。甘い…………」
アイズの意識はまだまだ現実逃避していた。