あれも鬱、これも鬱、ザックリした人間観

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半世紀くらい前だと、だいたいの精神的不調はフロイトの本に従って神経症と説明されていた。なにかしら「無意識の原因」があり、その無意識の魔物が神経症をもたらしているので意識化すれば治る、ということだ。こういうカウンセリングみたいなのでかえって悪化するケースが多々見られたので、流行らなくなった。そして、今は何でもかんでも鬱である。あれも鬱、これも鬱。一昔前だと、かなり重篤でなければ鬱病と診断されなかったと思うが、今はカジュアルである。人間生きていれば、誰でも心身の不調があるはずで、毎日毎日気分爽快という人は稀であるはずだが、その心身の不調は鬱病ということになった。「心身」と書いたが、心と身体が切り分けられるのかよくわからない、というより、心と身体もザックリと含めて、その気怠さを鬱と呼ぶ。神経症と説明していた時代の方が、精神世界の苦悩を芸術によって昇華するという意識が高かったし、精神的な苦悩は芸術の源泉であった。今だと、鬱だから心身ともに休めということで、布団でゴロゴロすることになる。ここには「理由」の探究がない。理由を探しても見つからないし、ほじくり返すと病状が悪化するので、考えないほうが無難というのもあるが、精神世界の衰退ではある。精神世界というのは仮想的なもので、心と身体は切り離せるという価値観に基づくものだが、これはこれで何かしら精神文化を生み出していたのである。鬱だから休むということだと、いわゆる創造的退行とも違う。苦悩を美化する自己陶酔や自己愛もないので、その苦悩の理由を純文学的・哲学的に書き綴るような作業は過去のものであり、完全に消滅した。苦悩を突き詰めても治らないし、大芸術家になるよりは境界性人格障害になるのがオチなので、深く考えないのはひとつの正しい判断ではあるが、中高生の自殺者が少子化なのに過去最多を更新していたり、悩んだら休むという考えで本当に解決しているのか、そこは判然としない。
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