大切な人が、できたの。
世界で1番大切な人が。
本当なら、憎悪を向けるべきだった人。
それでも、好きで好きで、仕方がなくて。
愛が、恋が。憎悪を吸収して、もっと大きくなった。
私はその感情に従って、獣みたいに彼を貪った。彼も私を、受け入れてくれた。
でも、足りないの。
綾小路くんと私は、両思いの恋人なんかじゃない。期限付きの契約関係。
彼と一生を添い遂げることはできない。
あなたの隣にいるためなら、なんでもするから。
私をひとりの女として、あなたが求めてくれるまで、絶対に逃さないよ。
綾小路くんが恋愛感情を知らないのは分かってる。
それなら、少しずつ私の存在を刻み込んでいくだけ。
少しずつ、少しずつ。
*
Aクラス昇格の祝賀会を終えた翌日。
新学期前、最後の土曜日がやってきた。
この土日は幾つかやることがあるので、ゆっくりしている余裕はない。
朝食を摂り終えたオレはすぐに外出の準備をして、ある人物たちとの待ち合わせ場所に向かった。
場所は寮の裏手。
待ち合わせの時間にはまだ少しあるため、待ち受けていたのは1人だけだった。
いや、待ち受けていた、という表現は正しくないかもしれない。
なにしろその人物は、目を瞑り、耳に手を添えて突っ立っているのだから。
「何してるんだ、森下」
困惑しながら問いかけると、森下の
急に目を開けた反動で日差しが眩しいのか、双眸を細めて瞬きを何度も繰り返しているが。
「しっ、うるさいです。静かにしてください。私は今、鳥の目を借りているところなんです」
何を言っているのか全く分からない。
「鳥の目を借りるってどういうことだ……?」
少しボリュームを下げた声で問いなおす。
「俗世間でいう、千里眼というやつです」
俗世間……?千里眼……?ますます謎は深まるばかりだ。森下は仙人か何かなのか……?
「視覚的に見えちゃったら千里眼って言えないと思うんだが……」
「静かにと言ったでしょう綾小路清隆。これ以上会話を続けると、シロエリハゲワシが逃げてしまいますよ」
「逃げるもなにも、鳥なんてどこにもいないぞ。それに、シロエリハゲワシは日本では見られない鳥だ」
「千里眼ですから」
「いや、主な生息地までの距離は千里じゃ足りな——」
「細かいことはいいのです綾小路清隆。さあ、シロエリハゲワシの目を感じてください。」
「目を感じる…?」
本当に意味が分からない。森下が変わった生徒であることは分かっていたのだが、ここまでとは。
「目を閉じ、耳を澄ませるのです。手は耳に添えて——さあ!」
なぜか強烈なデジャブを感じるが、ホワイトルームでさえ学んでいないという事実にえも言われぬ好奇心が湧いているのは確かだ。
とりあえず言われた通りやってみることにしよう。
目を感じる———と、両目を瞑り、手を添えた耳を澄ませたところでカメラのシャッター音が響く。
「なにをやっているのですか綾小路清隆。あまりにも滑稽。やはり変人ですね」
「おい」
割と真面目に信じちゃったじゃないか。
「この滑稽な写真は卒業後、坂柳有栖に見せることにしましょう。百年の恋も覚めるはずです」
「いや、今すぐ消してくれ」
*
オレが呼び出したのは、森下、山村、橋本の3人。
用件は言うまでもなく、元坂柳クラスへの移籍に関する打ち合わせをするためだ。
「ったく、春休みも残り少ないってのに。すぐに終わらせてくれよ?」
「裏切り者の橋本正義に人権はありません。駄々をこねるならすぐに追放しますよ」
「ひぇーおっかねぇ。坂柳がいなくなったってのに、この学校は恐ろしい女ばっかりだぜ」
「ええ、今は亡き坂柳有栖の意志は、私が引き継ぎます」
「さ、坂柳さんは、死んでいませんよ……」
「薄葉紙の山村美紀はすぐ破けるくせしていちいち口を挟んでこないでください。資源の無駄です」
「ひどい……」
同じクラスの面々に対しても、森下は森下だな。
「そろそろ話を始めさせて欲しいんだが……」
「ああ、頼んだぜ綾小路——と言いたいところなんだけどな……」
橋本はどこか複雑な顔で言った。話を切り出すのを躊躇っているような、そんな表情だ。
一応、橋本が言いたいことには心当たりがある。
「前園のことか?」
「ああ、悪かったな。情報を流すような真似しちまって」
「問題ない。前園には報いを受けてもらったからな」
「俺には何もしないのか?」
「それはこれからのおまえ次第だ」
坂柳から橋本の裁定役を任されたことは伏せておく。
「……マジでおっかねぇな。どの道、おまえを敵に回して勝てるはずないんだ。俺は大人しくしとくさ。また山村ちゃんにトイレまでついて来られたらたまんないしな」
その発言に、山村の顔がみるみる青ざめていく。
「えっ……ど、どうしてそのことを……」
「坂柳に聞いたんだが、マジだったのかよ……冗談であってほしかったぜ」
「異性のトイレに故意に侵入したとなれば、建造物侵入罪で山村美紀は3年以下の懲役又は10万円以下の罰金が科されることになりますね。今すぐ警察に突き出しましょう」
「や、や、やめてください……坂柳さんに言われて、仕方なく……」
「ほう、では教唆犯の坂柳有栖は——」
「……そろそろオレの話を始めさせてくれないか」
話の脱線に耐えかねたオレは森下の話を途中で遮る。
森下は不満そうだったが、すぐに切り替えて先を促してきた。
「森下、準備は整ったか?」
「抜かりはありませんよ、綾小路清隆。新学期に向けた重要な話し合いと称して、クラス全員を呼び出しました。日取りは明日の夕方ごろ、教室利用の申請も済ませてあります」
「あとはクラス全員を説得するだけってわけだが……綾小路、そんなに上手くいくのか?」
「それに関してオレができることは何もない。春休み期間中で学校に来ている生徒が少ないとはいえ、オレがその集まりに顔を出すわけにはいかないからな」
「確かに、ばれてしまったらすごく大変なことになりそうですもんね……」
山村の言う通りだ。どの道新学期が始まればすぐに分かることなのだが、前日から大騒ぎになるのは避けたい。クラスの総意が得られなかった上にオレが裏切ろうとしたなんて噂が広まれば、踏んだり蹴ったりになってしまう。
それに、元坂柳クラスの信用を得るためにも情報管理はしておいたほうがいい。
「使えるものはなんでも使っていい。南雲との対決の結果でも、龍園との衝突の結果でも。これまでオレが関わってきたことを並べられるだけ並べて、クラス全員を納得させてくれ」
「へいへい、わかったぜ」
「綾小路清隆の武勇伝には私も興味があります」
武勇伝なんて大したものじゃないと思うが……いや、さっきの言い方だとそう聞こえるのかもしれない。
「わ、私も聞きたいです……」
山村も控えめに続く。
「それは橋本に聞かせてもらってくれ。オレは行く」
元々、伝えたいことは少なかったからな。あとは3人で説得の方法を考えればいい。
そう思ってこの場を去ろうとすると、森下に呼び止められる。
「待ってください綾小路清隆。まだ手付金をもらっていませんよ」
「そうだったな、悪い。今から送る」
クラス移動の申請をするためには、自らの意思でかつ自費用で行うと宣言しなければならない。
最終的に今から渡すポイントは森下たちが集めたポイントと合わせて返ってくるのだが、こうした方が色々と都合が良い。
オレが森下たちを出し抜く意図はないと示すためにも、元坂柳クラスから回収するポイントを計算するためにもだ。
オレは森下に手持ちのポイントを全て振り込み、残高0ポイントと表示されたスマホの画面を見せる。
「確認しました、綾小路清隆があのまま帰っていたら橋本正義のように詐欺師の烙印を押すところでしたよ」
「おいおい、俺は裏切り者なんじゃないのか?」
「ふっふっふ。ようやく認めましたか。藍ちゃんトラップにかかりましたね、橋本正義」
「こいつといると調子狂うぜ……」
頭を抱えている橋本に少し同情する。
「それより綾小路、おまえは俺たちを裏切らないんだよな?」
その質問にはオレより先に、森下が答えた。
「綾小路清隆が最終的にどうしようと私たちに止める権利はありませんよ。選択肢もありません。覚悟の上で綾小路清隆を服毒するのですから」
「毒呼ばわりされるのは不本意だがそういうことだ、オレは帰るぞ」
そう伝えると、またもや森下に呼び止められる。
「待ってください、綾小路清隆」
「今度はなんだ?」
今話したことに関することなら、他に言えることは少ない。しかし森下の発した言葉は、拍子抜けするほど全く関係のないことだった。
「長いんです、綾小路清隆。名前を呼ぶ度に私の口輪筋を無駄に消耗させて、申し訳ないと思わないのですか?」
「いや、お前が自ら課しているように思えるんだが?」
話すときに使う筋肉は口輪筋だけじゃないという突っ込みは心に留めておく。
「これからは略して綾鷹——いえ、綾隆と呼ぶことにします。なんなら今から市役所に行って改名しましょう。綾鷹……失礼、綾隆に」
綾隆がオレの名前を略しているのは分かるが、もう1つのアヤタカというのはなんだろうか……
あと、この学校の敷地内に市役所なんてないぞ。
「頼むから、普通に呼んでくれ」
「そうですか。残念です、綾小路清隆」
結局フルネームか。森下に普通を期待したのが間違いだったな。
「あの……私はなにか特別な呼び方があると、友達っぽくて嬉しいかな、なんて……」
「友達?私と薄葉紙は友人関係なのですか?」
「ひどい……」
本気で落ち込んでいる山村を尻目に、オレは寮への道を辿り始めた。
強く生きてくれ、山村。
*
森下たちと別れてから少し経ち、昼前、オレはケヤキモールのジムで汗を流していた。
ここ最近は、これまでよりハードなトレーニングを行い始めている。
その理由としては、今まさに高校生らしからぬトレーニングを行い周りの注目を集めている高円寺の存在が大きい。
今までオレに欠けらの興味も示さなかった高円寺が、三者面談で自分から接触してきた。
もし高円寺が動き出すようなことがあれば、オレの計画にとって大きな障害となるだろう。
備えあれば憂いなし。まずは身体能力をホワイトルームにいた頃に戻し、できればそれ以上に向上させたい。
オレがルームランナーを上限速度に設定して走っていると、ジム用ウェアを身にまとった網倉に声をかけられた。
いつの間にか隣のマシンで走っていたらしい。オレは速度を落とし、走りながら返事をする。
「奇遇だな」
「うん、ちょっと体動かしたい気分でさっ……はぁっ」
息切れしながら網倉が応える。
「そうか」
「それより綾小路くん、ずっとすごいスピードで走ってたね。足速いのは知ってたけどっ、体力もあるなんてすごいなぁ」
「そういう網倉はどうなんだ?」
メニューを終えたらしい網倉はマシンを停止させ、呼吸を整えてから返事をしてきた。
「……私?こうやってジム通いし始めて、ようやく可もなく不可もなくって感じかな」
ちょうどオレも目標の距離を走り終えたため、マシンを止める。
網倉の方に視線をやると、タオルを片手にだらんと提げ、曇った顔で俯いていた。
「どうしたんだ?」
声をかけると、網倉は困ったような表情でこちらを見上げてくる。
「……帆波ちゃんと、なにかあった?」
「どうしてそう思うんだ?」
「帆波ちゃんが言ってたの。綾小路くんに救われたって」
なるほど、数日前に一之瀬がDクラスの面々を集めて話をすると言っていたが、その時だろうな。
神崎になぜ一之瀬が立ち直ったのかを納得させるには、オレの名前を出すのが手っ取り早い。
それに、一之瀬クラスの生徒たちのオレに対する信用を上げておけば、この先の協力関係に反発する者は現れない。
恐らく全てを計算してのことだ。一之瀬は本当に強かになったな。
「確かに一之瀬が立ち直った要因はオレにある。それがどうかしたのか?」
「どうかって……その、軽井沢さんと別れたって聞いたけど、やっぱり帆波ちゃんと付き合ったの?」
網倉は口ごもっていたものの、それに反して
誤魔化すこともできるが、ここは素直に答えておいたほうがいいだろう。
「付き合ってない」
「えっ——だって……おかしいよ。帆波ちゃん、綾小路くんのこと話すとき今までと様子が違ったもん。それに、みんなの前で綾小路くんのことが好きだって……ためらいもなく言ったんだよ?特別な関係がないと、できないことだと思うの」
網倉は瞳を揺らしながら訴えかけてくる。
さて、どうしたものか。オレと一之瀬の関係は人に説明できるようなものではない。
かといって、中途半端に濁したりすれば不信感は増すばかりだろう。
そう逡巡していると、後ろから活気にあふれた声で呼ばれる。
「綾小路くんっ!」
振り返ると、笑顔の一之瀬が手を振っていた。
「麻子ちゃんも、お疲れ様」
一之瀬の言葉に網倉は曖昧に頷くと、慌てて切り出す。
「わっ、私、もう疲れちゃったから帰るね!」
そう言葉を残し、忙しなく更衣室に走っていった。
「気を使わせちゃったかな……」
「そんなことはないと思うぞ」
申し訳なさそうにしている一之瀬にフォローをいれておく。
恐らくオレと話していた内容が内容だけに、タイミング悪く一之瀬が現れて気まずくなってしまったのだろう。
「麻子ちゃんと、どんな話をしてたの?」
「世間話だな」
「そっか」
それから一之瀬とトレーニングを共にした後、その場で解散した。
昼食を誘われたのだが、一文無しのオレは『この後予定がある』と出まかせを言って断ったからだ。奢ってもらうのも申し訳ない。
一之瀬は名残惜しそうにオレの顔を見つめていたが。
寮に戻ってからは好きなことをしてゆっくり過ごした。
明日も丸々休日というわけにはいかないため、休めるときには休んでおいた方がいい。
夜も更けて、シャワーを浴びてベッドに入ったところで、ベッド脇に置いていたスマホが震える。
『明日の夕方、綾小路くんの部屋に行っていいかな?』
一之瀬からだった。
特に断る理由もないため了承の返事をする。
オレは照明を落とし、深い眠りについた。
*
明日はついに始業式、新学期が始まる。
春休み中、かつ日曜日とはいえ、教師たちにとっては関係ない。
今日は新学期の打ち合わせもあるようで、多くの教師が朝からせっせと働いている。
恐らく先週のどこかの平日に代休があったのだろう。
今日オレがわざわざ学校に足を運んだのは、私怨から暴走しようとしている星之宮先生を説得するため。
前と同じようにケヤキモールに呼び出すということも考えたが、一杯食わされてさすがに警戒していることだろう。
諸々を考慮して、携帯で連絡するのではなくこうして学校に探しにきたのだ。
あまり時間を食うようであればやむなく連絡するつもりだが。
そう思っていると、運の良いことに職員室へと続く廊下の曲がり角で星之宮先生とすれ違う。
こちらから声をかけるまでもなく、オレに気がつくと顔をしかめて近寄ってきた。
「綾小路くん、何しに来たの?こないだはよくもやってくれたわね……」
「その件について、お話があります」
「いや、もう騙されないわよ!私だって学習するんだから。期待してた私がバカだった」
苛立ちを露わにしてそう吐き捨てる星之宮先生だが、ここで引き下がるつもりはない。
「生徒と教師の結託は確かに問題ですね。でも、生徒と生徒———クラスとクラスで協力する分には、全く問題ないはずです」
「はっあぁ!?綾小路くんのクラスと協力したって、なんの意味もないじゃない!前に言ったよね?私はサエちゃんにAクラスで卒業してほしくないの!」
「落ち着いてください。堀北クラスと一之瀬クラスで組むなんて言ってませんよ」
「いやもっと意味わかんないんだけど。龍園くんのとこなんて協力してくれるはずないし、元Aクラスにはもうクイーンがいないじゃない。それじゃジョーカーは倒せない。そうでしょ?」
「———以前、星之宮先生はオレを大富豪のジョーカーに例えましたが、この学校の仕組みを考慮するなら、それは間違っている」
「どういうこと?」
「オレは、ババ抜きのジョーカーなんです。2000万ポイントさえ用意すれば、いつでも引き抜ける」
「……うちのクラスに来てくれるってこと?」
「いいえ」
「はぁっ!?ああもう!私で遊んでるならもう行くね」
憤慨したのち呆れたように肩を竦め、この場を去ろうとする星之宮先生だったが、このまま行かせるわけにはいかない。
「オレは元坂柳クラスに移籍し、一之瀬クラスと協力して四つ巴状態をつくります。遠からずAクラスは失脚するでしょうね」
「…マジ?」
「本気です。これで星之宮先生が介入する必要はなくなりましたよね」
「それはそうだけど……綾小路くんにメリットがあるわけ?Aクラスから移籍してまで、何でわざわざそんなことするの?」
「色々と事情がありまして」
「事情?……ま、いいや。サエちゃんを引きずり落とせるならなんでもいい。でも、2000万ポイントなんて集められるの?」
星之宮先生の疑問に、オレはプライベートポイントの残高が表示されたスマホを見せることで答える。
「0ポイント……手付金はもう払ってるってわけね」
皆まで言わずとも理解してくれたようだ。
「つくづく恐ろしい子。いいよ、契約成立だね」
そう言って星之宮先生は手を差し出してきた。だが、オレはその手を取らない。
「これは生徒と生徒の協力って言いましたよね。契約ならもう、済ませましたから」
「そうなの?誰と?……なんて野暮か。じゃあ、最後にひとつ聞いてもいい?」
「答えられることなら」
「さっき、綾小路くんは自分をババ抜きのジョーカーに例えたけど、ババ抜きでジョーカーを持ってると最終的には負けちゃうんだよ?」
「知ってますよ。あくまで引き抜きが可能ということを伝えたかったんです。しかし、これは星之宮先生が求めている答えじゃないようですね」
そう言うと、星之宮先生は目で続きを促してくる。
オレは短くため息を吐き、嘯く。
「何がどうなろうと、オレが負けることはない。これで満足ですか?」
「うん、満足。じゃ、綾小路くん。また新学期にね」
「ええ」
*
夕方までジムでトレーニングをして寮に帰ってきたオレは、本の頁を繰っていた。
半分まで読み終えたところで栞を挟み、本を閉じる。
それから台所へ向かって、冷蔵庫を開いた。
……見事にすっからかんだ。
ケヤキモールから寮までの帰り道を歩いている際に、橋本からクラスの総意を得られたという旨の連絡が来た。
クラス移動の申請は明日、始業式を終えてから。
森下立ち合いの下、直前でオレに2000万ポイントが振り込まれ、そのまま申請を行う流れだ。
橋本は『おかげで俺の貯金はすっからかんだ』と軽口を叩いていたが、それはお互い様だ。
むしろ1ポイントも残らないオレの方が悲惨と言える。
オレは一度冷蔵庫を閉じ、もう一度開く。二度見ならぬ二度開きだ。
……もちろん、手品みたいに食材が現れるわけでもない。
そう。今週は立て込んでいて、買い出しに行くのを忘れていたのだ。
オレは週に一度必要な分だけを買うタイプなので、週の終わりには全くと言っていいほどストックがない。
そして昨日、森下に全財産を渡したため、所持金は0ポイント。なぜこの必然に気がつかなかったのか、自分でも不思議だ。
最後の希望だった自家製ヨーグルトは今日の朝、底をついた。材料である牛乳もない。
これは非常に由々しき事態だな。山菜定食はごめんなので平日の昼食の方は橋本に奢ってもらうとして、その他の食事はこれから1ヶ月間抜かざるを得ない。コンビニに行けば救済品もあるだろうが、保存食ばかりだ。
やはり生活費を恵んでもらうしかないか、橋本に。
情けない気持ちでそんなことを考えていると、チャイムが鳴る。
ドアを開けると、ビニール袋を提げた一之瀬が立っていた。袋の中には、色とりどりの食材が詰まっている。
「一之瀬、もしかして……」
その問いに、一之瀬は満面の笑みで応えた。
「うん!ポイントに困ってたらいけないと思って……迷惑だったかな?」
「いや、今ちょうど困っていたところだ。すごく助かる」
一瞬、一之瀬の背中に天使の羽を錯視したほどだ。
「ほんと?良かった!」
オレは一之瀬を部屋に迎え入れ、もはや慣例となった温かいココアを淹れる。
その間、一之瀬は買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、仕分けしていた。オレはその背中に向かって話しかける。
「色々と悪いな。せめてものお礼に、夕飯をご馳走させてくれないか?」
「ううん。せっかくだし、私が作るよ」
「いやしかし……」
「綾小路くんに私の料理を食べてほしいの。母子家庭だったからよくお夕飯作ってたし、綾小路くんが望むなら毎日作りに来るよ?」
「それは願ってもない話だが、せめて今日は……」
「ダメかな?」
「……いや、じゃあ頼む」
「うん、任せて!」
今日の一之瀬は妙に押しが強いな。いつもなら、一度拒まれるとそれ以上踏み込んでこないんだが……考えすぎか。
一之瀬は食材を手に意気揚々とキッチンに向かい、慣れた様子で下準備を始めた。
いつの間にかエプロンを身につけているが、随分と用意が良いな……
*
「一之瀬」
「ふぇ?」
オレの呼びかけに、洗面所から間の抜けた声が返ってくる。
「なんで歯を磨いてるんだ?」
「ごふぁんたべはあとだひ、みがかないと(ご飯食べた後だし、磨かないと)」
「自分の部屋に帰ってからで良くないか?なんで歯ブラシを持ってきてまで……」
「いふぁないとわふぁらなひふぁな?(言わないと分からないかな?)」
「悪いが、もはや何を言っているのか聞き取れないな」
オレの返答に、一之瀬は口をゆすぐ。
「もう」
そう言って駆け寄ってきた一之瀬はオレの肩を優しく掴むと、背伸びをして唇を重ねてきた。
まだ少しぎこちなさの残る口づけ。
瑞々しい唇の感触に、約束の夜を思い出す。
唇が触れ合ったのは一瞬だったが、一之瀬は既に
「私、あの夜だけじゃ足りないの。だから……ね?」
オレは一之瀬に手を引かれて、ベッドに
「一之瀬、明日は新学期だし早く寝———」
「食べたよね?」
「いや、それは……」
「ご飯、食べたよね?」
……やられた。
やたらと夕飯を作りたがったのはそういうことだったか。
まさか堀北と同じ手口で嵌めてくるとは。
いや、一之瀬のことだ。この状況は計算されたものなのだろう。
昨日オレが昼食の誘いを断った理由を見抜いた一之瀬は、善意を前面に出して完璧なタイミングで救済に来た。
真意を隠し通し、受け入れざるを得ない状況を作りだした。
手段は違えど、まるであの夜の二の舞だな。
しかもあの時と違いオレの部屋でそれをやってのけたのだから、本当に大したものだ。
「綾小路くん……」
息を荒げる一之瀬に、オレは為す術もなく押し倒された。