「お久しぶりです綾小路くん。1年と98日ぶりですね」
綾小路のもとに聞き覚えのあるセリフを放つ坂柳有栖が現れたのは、梅雨が明けた頃だった。
「どうして、おまえがここに……」
「決まっているじゃないですか。あなたに会いに来たんですよ」
らしくなく、表情を伴って一驚した綾小路に、坂柳は微笑みながら返答する。
「お訊きしたいことは山程ありますが……まずは1つ。今、どのようなお気持ちですか?」
「……どういう意味だ?」
「ふふ。どうやら、相当
「……知っているのか」
「私は理事長の娘ですから。綾小路くんがどのような過程を経てどのような負け方をしたのかまで、父から事細かに聞いていますよ」
坂柳の言葉に綾小路は嘆息する。
「とりあえず上がってくれ」
地方の山奥にポツンと建ったこの木製の平屋は、綾小路自らが作ったものだった。
高育で堀北クラス率いる学年を跨いだ"対綾小路連合"に惨敗し退学した綾小路は父親に見放され、人の目につかないこの地にて自給自足の生活を余儀なくされたのだ。
知識があってもうまくいかないことは多々あり最初は失敗の連続だったが、1週間もすればそれもなくなった。
電気などのライフラインが整っていないことに目を瞑れば、悠々自適の毎日を送っていると言える。
居間へと案内される途中、通りかかったキッチンに目を向けた坂柳の視界にあるものが入った。
「綾小路くん」
「なんだ?」
「電気も通っていないのに、なぜヨーグルトメーカーが置いてあるのでしょうか?」
それは、ひとえに坂柳の強い好奇心から生まれた素朴な疑問だったのだが。
「気に……気に、しないでくれ……」
どもる綾小路など坂柳は知らない。地雷を踏んでしまったのだと察したため、優秀な頭脳はそれ以上踏み込むべきではないと結論した。
*
目の前に座っている坂柳は、1年前の3月に別れたときからそのままやってきたかのように、全く変わっていなかった。
来客なんて想定していないので、足の悪い坂柳に1つしかない椅子を貸し、オレは直立してそれを見下ろす形で向かい合っている。
「悪いな、茶も出せなくて」
「構いませんよ。突然押しかけたのはこちらですし」
オレが訊きたいのは、まさにそれだった。
「どうしてここが分かったんだ?それと、その足でこの山を登ってきたのか?」
「私の質問にまだ答えてもらっていないのですが……いいでしょう。まずは後者ですが、近場までヘリを使っただけです。音がしませんでしたか?」
なるほど、ヘリが通るのなんていちいち気にしていないので、気が付かなかったな。
「それでも、着陸できる開けた場所は少し離れてなかったか?」
「そこからは歩きです。何度か転びましたが、久しぶりに綾小路くんに会えると思うと活力が
見えにくいが、坂柳が履いている黄土色のプリーツスカートには確かに少し土が付着している。
坂柳がそこまで強くオレに会いたいと思ってくれていたことに、柄にもなく喜びを感じてしまった。
「それで、前者は?」
「航空写真で、日本全国を探しました」
「は?」
「父の知り合いにお願いして、めぼしい山々の航空写真を片っ端から撮影してもらいました。出世払いです」
淡々と答える坂柳。
確かに、坂柳ならオレが山に篭らざるを得ないことなんて考えるまでもなく分かってしまうだろう。
と、なれば当然、日本全国の航空写真を撮ってもらおうと——するか?普通。
怖い。先程までの喜びが一周して、坂柳の執念が、怖い。
「乙女の一途な恋心を怖がるだなんて、失礼ですね」
「心を読まないでくれ」
「失礼しました。ついうっかり」
「うっかりで読めるものなのか?」
そう尋ねると、坂柳は吊り上げていた口端を下ろし、至って真面目な顔で思案に耽る。
少しして、再び唇に笑みを乗せて答えた。
「あなたが、感情豊かになっているからでしょうか」
「オレがか?」
「ええ。綾小路くんの胸中を読むことに長けている自負はありますが、それ以前に今の綾小路くんは感情の起伏が分かりやすい」
「おまえが言うならそうなんだろうな」
どうやら高育での3年弱は、想像以上にオレを変えたらしい。
ぱんっ。と、坂柳が両手を叩いた音が居間に響く。
「今度は私の質問に答えていただきますよ。繰り返しになりますが、今、どういうお気持ちですか?」
「…………」
最初に質問されてから今に至るまでずっと考え続けていた。
しかし、一向に答えは見つからない。
「……分からない。オレは、オレの感情が分からない」
俯いてそう答えると、右手が柔らかい感触に包まれる。
顔を上げると、それは坂柳の両手だった。柔らかくて、温かい。
「人肌の温もりは知れましたか?」
慈愛に満ちた面持ちで、訊かれる。
「ああ」
「そうですか」
「相手が誰なのか訊かないのか?」
「私は『最初』にも『途中』にも興味はありません。私が欲しいのは、あなたの『最後』ですから」
坂柳は微笑む。しかし……
「そのわりには目が笑ってないが…」
「そんなことはありませんよ、放蕩ボーイさん?」
「やめろ、高円寺のことを思い出させないでくれ」
「ふふ。随分とトラウマを植え付けられたようですね」
「…………」
オレは黙秘権を行使する。すると、坂柳がおもむろに口を開く。
「それが、答えじゃないでしょうか」
「どういうことだ」
オレを見つめてくる藤色の瞳に、意識が縫い付けられる。
「あなたは今、傷付いている。他ならぬ、トラウマによって」
「高円寺に対する、か?」
その質問に、坂柳は鷹揚に
「それだけではありません。綾小路くん。あなたは、常に勝ち続けることに自らの存在意義を見出していたのではないですか?」
ハッとした。
「あなたは勝負に負け、肉親に見放され、存在意義を見失ってしまった」
否定したかった。だが、できない。間違いなく芯を食った指摘に、呼吸が浅くなる。これも初めての体験だ。
動揺しているオレを見つめる坂柳はふいに、ずっと離していなかったオレの右手を指の腹で優しくさすってきた。
口元にたたえる笑みは
「あなたは今、ひどく傷ついている。そして傷ついている自分に、ひどく戸惑っている。どちらも生まれて初めてのことでしょう。それならば、慰めてあげるのが伴侶の務めというものです」
「いつからオレの伴侶になったんだ?」
軽口を叩く坂柳に毒気を抜かれて、冷静さを取り戻す。
「遠慮なく甘えていいんですよ?あなたが1年前深く傷つけた私に」
「うっ」
そうだった。傷つくという感情を知った今、1年前の学年末特別試験でそれを味合わせてしまった坂柳に対してどうしようもない罪悪感を感じる。罪悪感というのも初めての感情だった。
「……すまなかった」
「ふふ、冗談です。でも、そうですね……では、抱きしめてくれますか?」
「ああ」
坂柳の手を引いて立ち上がらせ、いつかのように抱擁する。
上品なシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
下を向くと、坂柳が心地良さそうに瞑目していた。
今日、この短い時間でたくさんのことを教えてくれたその少女を眺めながら、問う。
「オレはどうすればいいんだ、坂柳」
心からの言葉だった。どうすればいいのか、分からない。
しばし続いた静寂は、名残惜しむようにゆっくりとオレから離れた坂柳の提案によってほどかれる。
「綾小路くん、私と勝負をしませんか」
「勝負?なにでだ」
「愛してるゲーム、というものをご存知ですか?」
「なんだそれは。いったいどんな合コン用のゲームなんだ」
「……ご存知のようですね。もしかして、やったことがあるのですか?」
渾身のボケをスルーされた挙げ句に胡乱げな視線を向けられて、オレは体を小さくする。
「まあいいです。それでは、愛してるゲームをしませんか?」
「何か意味があるのか?」
「綾小路くんに教える必要はないかと」
「そうか」
「負けた方は何でも1つ言うことをきくというのはどうでしょうか?」
「それは別にいいが、オレは負けないぞ」
「さて、どうでしょうか」
坂柳は、穏やかな笑みを浮かべた。
*
坂柳は自分の敗北は想定してない一方、綾小路に勝てるとも思っていなかったが、綾小路の心境の変化への期待も少しあるのは事実。
万が一負けたとしても、ゲームとはいえ綾小路から愛の告白をしてもらえるのならお釣りがくると思っていた。
もし勝てたのなら、綾小路を食客として坂柳家に迎え入れる。そんな意気込みを持って、坂柳は一世一代の勝負に臨む。
「綾小路くんからどうぞ」
深呼吸をして、今から飛んでくるであろう世界を揺るがしかねない
綾小路は坂柳の瞳をじっと見つめて、それを放った。
「坂柳、好きだ」
「へっ……?」
あまりの衝撃に年相応のあどけない声が洩れ、思わず杖を手放してしまう。
バランスがとれず前に倒れ込んだところを、綾小路に抱き止められた。動揺に1歩遅れて羞恥が生まれ、坂柳は頬を紅潮させる。
胸から伝わってくる鼓動が、生まれてこのかた走ったことのない彼女にとって信じられないほど強く速く響いていた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
「オレの勝ちだな」
「あの、これは愛してるゲームなのですが……『好きだ』は反則ではないでしょうか?」
「続けて『愛してる』を言うつもりだった。その前に動揺したんだから坂柳の負けだ」
「確かに、筋は通っているかもしれませんね……しかし、私のターンはまだですよ。それで引き分けにしてみせます」
「いや、坂柳は先行だぞ?」
「はい……?どういうことでしょうか?」
「一昨年の12月、あれが坂柳のターンだな」
「ず、ずるいです」
「オレは『好き』の時点で動揺はしなかったぞ。それに、不意打ちであれだったからな。むしろハンデマッチだ」
「……解せません」
「勝負は勝負だからな、オレの願いを1つきいてもらう」
釈然としない坂柳だったが、早鐘を打つ心臓を押さえ込むように深呼吸をすると、負けを認めた。
「言い出しっぺは私ですからね。何でも甘んじて受け入れましょう」
それを聞いた綾小路はしばらく考える素振りを見せたのち、いつになく真剣な表情になった。
いつもの無表情とは違って、様々な感情を混ぜ合わせたような。
不自然な綾小路の様子に、坂柳は何をお願いされるのかと少し身構えてしまう。
告げられたのは、思いもよらぬ言葉。
「オレの、新しい存在意義になってくれないか?」
「え……?」
放心して完全に言葉を失った坂柳は、普通の女の子と化してしまう。
抑えたはずの動悸が再び暴れ出す。
「それは……プロポーズ、ということでしょうか?」
「そうとも言えるな」
なんとか言葉を搾り出して尋ねた坂柳だったが、綾小路は至って冷静に肯定する。
「理由を伺っても?」
坂柳の心中には驚きはもちろん、信じられないという気持ちが大きい。
綾小路に自分を求めてもらうことは、あの学年末試験の失意の日から、半ば諦めていたから。
「ホワイトルームにいたころはなんとも思わなかった孤独が、高育で賑やかな日々を過ごした今、ひどく苦痛に思えるんだ。オレは、『寂しい』という感情を知った。だから今日ここに坂柳が来てくれて、オレを見つけてくれて、嬉しかった」
それは、人の温もりを知ろうとも、孤独から逃れられなかった悲しい青年の告白。
当然、坂柳の胸にもくるものがあった——が。
「しかしそれは、言ってしまえば誰でもいいということではないでしょうか?今日ここに来たのが私でなくとも同じだったのでは?」
面倒な女であると自覚しながらも、坂柳は抑えきれない不満をあらわにした。
しかしそんな不満は、綾小路の次の言葉で
「それでも、最初にオレを見つけてくれたのはおまえだ。11年と156日前も、今日も」
「……覚えていたんですね」
「初対面の相手に8年と243日ぶりなんて言われたのは生まれて初めてだったからな」
「ふふ。……これから、何年と何日一緒にいてくださるんですか?」
「坂柳が望んでくれる限り、だな」
「つまり、
「………有栖」
「はい、清隆くん」
「オレと一緒に、歩んでくれるか?」
手を差し出して、綾小路が笑った。
初めて目にする、綾小路の笑み。
対照的に、瞳から涙を溢れさせた坂柳は、泣き笑いもかくや——といった満面の笑みでその手をとる。
「よろこんで」
幼少期、初めてあなたを目にしたときから、今日までずっと。
私は、ホワイトルームの
人肌の温もりを知って欲しかった。笑って、欲しかった。
気づいていましたか?
私はずっと、あなたの笑顔が見たかったんですよ。
「清隆くん、私はあなたを愛しています。これからも、ずっと」
〈Fin.〉