二日目の授業。
一夏はまるで呪文が書き連ねられているかのような教科書を前にして、頭を抱えていた。
決して彼のオツムが弱いわけではないが……IS学園は高度に専門的な知識を詰め込み、それを実践の中で身体に叩き込むというサイクルを極めて短いスパンで行う。
それ自体こそが基礎的な知識を前提としていることは言うまでもない。
つまり織斑一夏は、生徒としては論外だった。
(わ、わかんねぇ……! 何だこれ、何が書いてるのかちっとも理解できねえぞ……!)
助けを求めるようにして視線を巡らせる。
教室隅の席に座る箒は、我関せずといった様子で授業に集中していた。
右隣の東雲は、しばしテキストを熟読していたが、一夏の視線に気づき顔を上げた。
「当方に何か?」
「わ、悪い、ちっとも分からん……」
東雲はしばし黙った。
「確かに授業は高度な内容を扱う。ただ理解が及ばないというのは不可思議である。テキストの内容を事前にある程度理解できていれば、授業についていくことだけはできるはず」
「……教科書、間違って捨てちゃったんだ」
「…………其方の落ち度」
表情は変わらないが、恐らくあきれかえっているんだろうな、と一夏は感づいた。
「早朝に伝達してもらえれば、座学でのサポートに切り替えたというのに」
「す、すまん」
早朝の鍛錬は、基礎的な身体トレーニングであった。
そこで一夏は東雲との隔絶した差を思い知らされた――というわけでもなく、実に標準的な、身体をほぐし柔軟性を高めることに重点を置いた簡単なトレーニングを二人でこなしていた。
何事も積み重ねが肝要であり、これだけのトレーニングでも毎日続ければ、成果は目に見えて出る、とは東雲の言である。
「あの、何か分からないところでも……?」
と、小声とはいえ授業中に会話をしていた東雲と一夏に、授業を行っていた山田先生が声をかける。
ぎくりと一夏が身体を強ばらせた。
対照的に、東雲は落ち着き払った声で返す。
「簡単な疑問点があり、それを解消していました。授業に支障はありません、続行をお願いします」
「はいっ。分からないところがあれば、いつでも聞いてくださいね~」
全部なんですよ、全部分かんないんですよ。一夏は唇をかみながらそう思った。
自分は一体何をしているのか。
――いいや、自分に何故非があるのか。
(望んで飛び込んだ環境じゃない。そこで勝手に常識を押しつけられたって、困る)
半ば意固地になったような考えだった。
壁に背を預け静観していた織斑千冬が、弟の様子を見て目を細める。
それよりも早く。
「環境のせいにするな」
東雲の言葉は一夏以外に届かないほど、小さく、けれど鋭く、彼の心臓をえぐった。
「人間は誰もが、置かれた環境で、自分のできることを成して勝負しなければならない。織斑一夏、今、其方が考えたことは、敗死を招く甘言に過ぎない」
「……ッ」
見透かされていた――
羞恥から頬が紅く染まり、一夏は黙った。
(俺は、何をしているんだ)
歯がみしながら、必死に山田先生の解説を書き留めていく。
意味は分からなくとも、後で理解の手助けにすればいいと思い至った。そんな簡単なことに気づかないほど、集中できていなかった。
積み重ねが肝要だというのなら。
何もない自分は、零から積み上げていかなくてはならない。
ただそれだけの事実だった。
それが一夏にとっては、この上なく荷が重かった。
「織斑、お前には専用機が用意されることになった」
教室がざわめく。
授業終了直後の、織斑千冬の言葉。
それを聞いて一夏は、静かに頷いた。
(東雲さんが言ってた通りか。データ取りのためと、あとは……)
『織斑一夏。当方は『世界で唯一ISを起動できる男子』という肩書きに価値を見いださないが、そうでない者は世界中にいる。あらゆる企業が其方の専用機を製造し、押しつけようとすることが予想された。故に日本政府が先手を打ち、企業ではなく国家という単位から専用機を送る運びになった』
誰もが、自分に何かを期待している。
誰もが、自分に何かを背負わせようとしてくる。
「受領は一週間後の予定だ。恐らくクラス代表決定戦には間に合うはずだろう」
「……分かりました」
「……?」
一夏の返事に、千冬は訝しげな表情を向けた。
事前に説明されていただろうが、それにしても、反応が薄い。喜びも、困惑もない。
何より、自分の弟は、こんなにも諦観が染みついてしまったような声音を出す男だっただろうか。
「まあまあ、安心いたしましたわ。専用機でないから、という言い訳でもされたらどうしようかと思っていましたもの」
金髪がふわりとなびく。
セシリア・オルコットが空気を切り裂き、一夏の前に立ち塞がった。
「ああ、そうだな。俺もとっておきの言い訳が使えなくなって、困ってたんだ」
「残念でしたわね。専用機とはIS乗りとして第一の栄誉。それをクリアしてしまった以上、無様な敗北には無二の恥辱が付属いたしますわ」
「あいにく、そこまでIS乗りとしてのプライドがあるわけじゃない……あれ?」
自分の発言に、一夏は自分で首を傾げた。何か、違和感を覚えた。はっきりとは像を結ばないぼんやりとした異物感。
「ふん、それならせいぜい、わたくしに踏み潰し甲斐を与えてくださいまし」
「……善処するよ」
毒にも薬にもならない言葉の応酬。
特に一夏の、覇気のない切り返しを聞いて、セシリアは不満そうな表情を浮かべた。
「オルコット、そこまでにしておけ」
「……分かっておりますわ」
千冬の制止を受けて、セシリアはきびすを返す。
「……織斑。ずいぶんと乗り気ではないようだな」
「ああ、いや……いえ。俺なりに、やれるだけはやろうと、そうは思ってます」
言葉に嘘偽りはないはずだった。
けれど一夏は、やはりどうしようもない違和感を拭えず、顔をしかめた。
その様子を、東雲令は静かに見ていた。
「うっわ、混んでるな」
昼休み、一夏はとりあえず学食に赴いていた。
生徒でごった返しており、注文口には長蛇の列が並んでいる。
これでは席もないか――と思いきや、そこはさすがIS学園、十分なスペースが確保されており、席の空きはある。
列に並び、順番が来たので日替わり定食を注文し、一夏はトレーを抱えて周囲を見渡す。
否が応でも、自分に注目が集まっているのが自覚できた。
嘆息しながら、パンダを見るような視線を意識的に無視する。
「……お」
視線を感じなかった一角。
見ればそこには、テーブルに一人で座る東雲令がいた。
渡りに船だなと天運を感じつつ、彼は東雲の席へと近づく。
「東雲さん。ここ、いいか?」
無言の首肯。それを確認して、一夏は彼女の対面に座った。
「いや、ここまで混んでるなんてな。弁当に切り替えた方がいいかもしれないぜ」
「……当方は学食で構わない」
「毎日作るのも難しいだろうしな、って」
そこで一夏は、東雲の昼食を見た。
彼女はそれを細い指でつかみ取ると、小皿の醤油に少しひたして口に運ぶ。
「………………………………東雲さん、なあ、それは」
「ふうわりとシャリがほどけ、ネタが口の中で跳ねる。当方が考えるに、この握りは極めて高い技量の職人が握ったものに勝るとも劣らない出来である」
「いやなんで寿司食ってんのッ!?」
昼間の学食で彼女はヒラメの握りを食べていた。
トレーというか木製の皿には、伝統的な江戸前の寿司が並んでいる。
「当方の好物。効率的な栄養摂取を行いつつ、英気を養うことが可能」
「いや栄養偏るよな、すっげえ栄養偏るよな」
「偏りはサプリメントで補うことが可能。当方は食事を、栄養摂取よりもモチベーションの向上面に置いて重視している」
確かにこのご時世、最悪サプリメントだけでも栄養バランスを取ることは可能である。
東雲の意見はやや極端だが、食事を娯楽として割り切ることは十二分に考えられた。
「分からなくはないけど、なんか違う気がする……!」
自炊に慣れた一夏にとって、寿司なんてものはよほどのことがない限りお目にかかれない代物だ。
ちらとメニュー表を確認すれば、やはり通常の定食類よりも割高である。
「まさか毎日食べるつもりなのか」
「その予定」
「……弁当、作ろうか?」
「握りよりも其方の弁当に価値があるとは思えない」
にべもなく斬り捨てられ、一夏は肩を落とした。
寿司に負けた。いや負けて当然なのは確かだが、言い知れぬ敗北感を植え付けられたのも事実である。
(あああああああああああああああああああああああああああああああ)
ガリで口の中をリセットしながら、東雲令は内心で絶叫していた。
(お弁当! お弁当ッ!! なんで! なんでそんな不意打ちで言うの! 断っちゃったじゃん! あああああああああああああああああ!)
お弁当イベント。
東雲令にとってその瞬間、確実に天が味方していた。だというのに条件反射で、東雲はそれを跳ね返してしまった。
(サイアク……サイアクだよ……もうやだ……もう一回、もう一回チャンスをちょうだい……)
彼女の懇願は、しかし言葉に出していない以上、織斑一夏に伝わるはずもなかった。