最近、アズール・アーシェングロット先輩の態度がどこか冷たい気がする。
いや、元々彼は誰にでも距離を置く人だし、私にだけ特別冷たいわけじゃない……そう思いたいのに。
「先輩!今日の補習終わったら談話室に行きませんか?」
「申し訳ありませんが、今日は先約がありますので」
「……そう、ですか、わかりました」
以前なら、それでも少しは話してくれたのに。
最近はこうやって、必要最低限の会話しかしてくれない。
どうして?
——私は、何かしてしまったんだろうか?
そう考えれば考えるほど、胸が締めつけられる。
一方、アズールの方も、悩んでいた。
(……なんなんだ、このもやもやは。まさか……)
その自覚があったからこそ、最近は意識的に距離を取るようにしていた。
彼女はまっすぐで、純粋で。
(……いや、あり得ない)
私は誰かに心を許すような人間ではない。
ましてや、特定の誰かに本気で入れ込むなんて。それも——。
「アーシェングロット先輩」
「……監督生さん」
振り返ると、彼女が真剣な表情でこちらを見つめていた。
「少し、お話しできますか?」
「申し訳ありませんが私はこれから——」
「……逃げないでください」
その言葉に、アズールの動きが止まる。
「先輩、私、何かしましたか?」
「……何のことでしょう?」
「最近、避けてますよね。私のこと」
鋭い指摘だった。
「私は……先輩ともっと話したいし、もっと知りたいと思ってるんです」
「……」
「でも、先輩が距離を取るなら、それは私にとって……すごく……」
「……監督生さん」
「先輩にとって、私は……やっぱりただの『利用価値がある』だけの存在なんですか?」
その言葉に、アズールの眉がわずかに動いた。
「……」
しかし、その問いに答えることはなく、手元の書類に目を落としながら話し始める。
「あなたも最近は他寮の生徒との交流も増えているようですし、本日は私も忙しいのでそろそろ業務に戻りたいのですが。お話ならばまた時間がある時にでも」
——でも、その瞳は、揺れていた。
「……わかりました」
私はそれ以上何も言えず、その場を去った。
その日を境に、私がアーシェングロット先輩に会いに行く頻度はしだいに減っていった。
(……私の判断は、正しいはずだ)
自室で、アズールは自分に言い聞かせるように目を閉じる。
だが、胸に広がるこの苦しさはなんだろうか。
「……私は」
自分で突き放したくせに。
彼女の傷ついた表情を思い出して、こんなにも胸が痛む。
「くそっ……」
拳を握りしめた時、不意に寮の扉がノックされた。
「アズール、ちょっといい?」
フロイドの声だ。
「……何か用です、フロイド」
「んー、なんかさ、小エビちゃん最近元気なくない?」
「……」
「モストロラウンジにも前より来なくなったし。アズール何か知ってる?」
「……いえ——」
言葉に詰まる。
(本当に、これでよかったのか……)
「……私は——」
言葉に詰まるアズールを、フロイドはニヤニヤしながら覗き込んだ。
「なーんかさぁ、アズール最近、小エビちゃんに冷たくない?」
「……何のことです?」
「こないだもオレがちょーっと小エビちゃんと話してたら、めっちゃ不機嫌そうな顔してたし」
「……気のせいでしょう」
「ジェイドも言ってたよ、小エビちゃんが『アーシェングロット先輩に避けられてる気がする』って、寂しそうにしてたって」
アズールの指がピクリと動く。
「……彼女が、そんなことを?」
「だからさぁ、オレがちょっと元気づけてあげようかなーって思ってんだよね」
「……どういう意味です?」
「小エビちゃん、最近寂しそうだったから、ちょっと遊びに誘おっかなーって」
フロイドが楽しげに笑う。
「おいしいもの食べたり~? きれいな場所に連れて行ったり~? そしたら、小エビちゃんもきっと元気になるよねぇ?」
「……」
アズールの胸に、嫌な感情が広がった。
(フロイドと……)
想像するだけで、心臓が軋むような感覚がする。
「……勝手にすればいいでしょう」
「え~? 本当にいいわけ?」
フロイドはニヤニヤと笑う。
「オレねぇ、小エビちゃんといるの楽しいんだよね~。いじると反応よくて面白いし」
「……」
「アズールはさぁ、本当にそれでいいんだ?」
フロイドの言葉が、妙に引っかかる。
「いいんだよね? じゃあ、小エビちゃんはオレがもらっちゃおっかな~」
——ガタンッ!
「っ……!」
気がつけば、アズールは椅子から立ち上がっていた。
「……フロイド」
「ん~?」
「……あまり、監督生さんに気安く接するのはおやめなさい」
「へぇ~?」
フロイドはわざとらしく口を歪める。
「なんで?」
「何でって……彼女は、私の……」
(……何だ?)
言葉が出ない。
私の——何だ?
ただの「利用価値のある人間」?
それとも……?
アズールは椅子に座り直すと、手を組んで目を伏せた。
「……監督生さんは、そんな軽い扱いをされるような人ではありません」
「ふ~ん」
フロイドは楽しげに口笛を吹く。
「じゃあ、アズールは小エビちゃんをどう思ってるの?」
「……」
「ねぇねぇ、言ってみ?」
「……」
アズールは何も答えられなかった。
フロイドは肩をすくめ、クスクスと笑う。
「ま、いっかぁ、じゃあオレは行くから」
「……待て」
「ん?」
「……私は、まだ許可を出していませんよ」
「いや、許可ってなに? アズールは小エビちゃんのなんなの?」
フロイドは笑い、ひらひらと手を振って部屋を出て行った。
「……」
アズールはこめかみに手を当て、大きく息を吐いた。
(……どうして、こんなにも胸がざわつくのか)
「私は……」
思わず、拳を強く握りしめる。
(どうして彼女に、こんなにも——)
アズールがフロイドとの会話を終えた頃、私は図書館で次の課題の資料を探していた。
「……この本、どこにあるんだろう」
ぶつぶつと独り言を言いながら、背伸びして高い棚を見上げる。
「おや、監督生さん、一人ですか?」
振り向くと、ジェイドが微笑んでいた。
「あ、ジェイド先輩。はい、ちょっと調べ物を……」
「なるほど、それはご熱心ですね」
ジェイドは穏やかに微笑むと、手に取ろうとしていた高い位置にある本を代わりにとって渡してくれた。
「ありがとうございます」
隣に並んだジェイド先輩が、ゆっくりとこちらを覗き込んだ。
「ところで、アズールとは最近お話ししましたか?」
「……いえ、あまり」
「おや、それは残念ですね」
ジェイドの言葉に、私は少し胸を痛めた。
(やっぱり、避けられてる……のかな)
「フロイド先輩とはよく話してるんですけど……」
「ふふ、それはそれは」
「……アーシェングロット先輩に、私が何かしちゃったのかな」
ぽつりと呟くと、ジェイドは微笑を崩さないまま、意味深な視線を向けた。
「それはどうでしょうね……」
「え?」
「ただ、アズールはとても繊細な人ですから」
「……繊細?」
「あまりにも自分の気持ちに正直になれないタイプでしてね」
ジェイドはさらりとそんなことを言うと、少しだけ首を傾げた。
「ですが——監督生さんは、アズールに対して随分と真っ直ぐですね」
「……え?」
「彼の態度が冷たくても、諦める気はないのでしょう?」
私はその言葉に少し驚いた。
「……はい、アーシェングロット先輩は私を突き放そうとしてるみたいですけど、ちゃんと向き合いたくて。本心を聞けてない気がして……」
ジェイドは微笑を深める。
「なるほど、それは……とても興味深いですね」
その時——
「監督生さん?」
不意に聞き慣れた声がして、私とジェイドは同時にそちらを見た。
「アーシェングロット先輩」
「……」
扉の前に立っていたアズールは、視線をジェイドへと向ける。
「ジェイド、少し席を外してもらえますか」
「ふふ、かしこまりました」
ジェイドは面白そうに微笑みながら去って行く。
静寂が訪れた。
「……」
「……」
私はアズールの顔を見上げる。
「アーシェングロット先輩……最近、避けてますよね?」
「……そんなことはありません」
「……嘘。ずっと話しかけても、すぐどこか行っちゃうし」
「……」
アズールは一瞬目を伏せ、そして小さく息を吐く。
「……あなたは、どうして私に構うのですか」
「え?」
「あなたが関わることで、私にとってどんな利益があるのです?」
「……そんなの、ないかもしれません。でも、私は——」
言いかけた時、アズールが眉を寄せ、少し苛立ったような表情を見せた。
「あなたは、フロイドと仲がいいのですね」
「え?」
予想外の質問に驚く。なぜ急にフロイドの話?
「先ほど、フロイドがあなたを遊びに誘うと言っていました」
「……ああ、それは……」
「楽しそうですね。それでは失礼します」
立ち去ろうとするアズールを引き止める。
「え、ちょっと待ってください、まさか——」
「……私のことなど、もうどうでもいいのでしょう?」
アズールの声がかすかに震えている。
「……」
「アーシェングロット先輩……?」
アズールは監督生を複雑な表情で見下ろしている。怒っているような、悲しんでいるような、なんとも言えない目をしていた。
「……僕は……」
——その瞬間、彼の目に宿る感情が、一瞬だけ揺らいだ。
低く押し殺した声が、私の耳に落ちる。
私はじっと彼の顔を見つめる。
いつもの計算された余裕の笑みはなく、ただ苦しげに唇を引き結ぶ横顔。
——けれど、次の瞬間。
「……失礼しました」
アズールはまるで何事もなかったかのように、私から目線を外し、そっと離れた。
「……先輩……?」
「では、私はこれで」
「待っ——」
彼は私の言葉を遮るように、一礼して背を向ける。
「……」
そのまま静かに図書館を出て行くアズールの背中を、私はただ見送ることしかできなかった。
(なんで……)
あの一瞬見せた、今にもこぼれ落ちそうな感情。
それを振り払うように立ち去る姿が、余計に私の胸を締め付けた。
「……アーシェングロット先輩、何を考えてるんですか……」
私の言葉は、誰にも届くことなく、静かに消えた。
それから数日、私はアズール先輩とまともに会話を交わせていなかった。
避けられている——そう感じるほどに、彼は私と距離を取るようになった。
寮の廊下で見かけても、私が声をかける前に踵を返される。
学園のカフェテリアでも、私が近づくとさりげなく席を移動される。
明らかに、不自然だ。
(どうしてそんなに、私を遠ざけるんですか)
フロイドやジェイドとは普通に話しているのに、私にだけは冷たくなったような気がする。
「小エビちゃん、なに悩んでるの?」
「フロイド先輩……」
突然肩を抱かれ、私は驚いて顔を上げた。
「アズールねぇ、最近ずーっと機嫌悪いよ?」
「え……?」
「もしかして小エビちゃんのせいなんじゃない?」
「……そんなこと……」
言いかけて、私は言葉を飲み込む。
「ねぇねぇ、アズールに直接聞いてみてよ」
フロイドがにやりと笑いながら言う。
「……それができたら、苦労しないです」
「ふーん? でもさー、小エビちゃん、アズールのこと気にしすぎじゃない?」
「……それは……」
「好きなの?」
「っ!」
ドクン、と心臓が跳ねる。
「そ、そんな……!」
「お? 顔真っ赤じゃん、おもしろ」
「……からかわないでください!」
私は思わずフロイドから逃げるように背を向けた。
頭の中がぐるぐると混乱する。
「……」
その時、廊下の向こう側——少し離れた場所で、こちらを見つめるアズールの姿があった。
(……アーシェングロット先輩……?)
しかし目が合った瞬間、彼はふいっと視線を逸らし、無表情のまま歩き去っていった。
(……また……)
彼の冷たい態度に、胸の奥がちくりと痛んだ。
アズールの態度が冷たくなった理由がわからないまま、私はもやもやとした気持ちを抱えていた。
フロイド先輩の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
——「好きなの?」
たしかにアズール先輩のことは気になる。
でも、それは寮の先輩として、尊敬する相手だからで……。本当にそれだけ?
(なんでこんなに苦しいんだろう)
彼がそっけなくなるたび、避けられるたび、胸の奥がチクリと痛む。
「……もう、わからない……」
私はため息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
「おやおや、どうされました?」
「……ジェイド先輩」
いつの間にか目の前に立っていたジェイドが、にこやかに微笑んでいた。
「先ほどから考え事をされているようでしたが……何か悩み事ですか?」
「……その、アズール先輩のことなんですが……」
思わずぽろりと口をついて出る。
ジェイドは興味深そうに片眉を上げた。
「ほう、アズールのことですか?」
「……最近、避けられている気がして……何かしてしまったのか、わからなくて……」
「……フフ」
それを聞いて楽しそうに笑うジェイド。
それはそれは……、と一人納得したような素振りを見せる。
「……?」
「彼は今、少々やっかいな状態ですので」
「やっかい……?」
「ええ、放っておけばそのうち爆発しますよ。」
「ば、爆発……?」
「まぁ、見ものですねぇ」
ジェイドはくすくすと笑いながら言う。
(……何を考えているんですか、ジェイド先輩)
——その日の放課後。
私は意を決して、アズール先輩を探しに行った。
彼が一人でいる場所といえば……。
(きっと、VIPルームだ)
オクタヴィネル寮の奥へ向かい、扉の前で一度深呼吸をする。
(……逃げずに、ちゃんと話さなきゃ)
意を決して、扉をノックした。
「……どうぞ」
静かな声が中から聞こえる。
「失礼します」
扉を開けると、アズールはデスクに座り、書類に目を通していた。
(……いつも通り……に見えるけど)
でも、どこか表情が硬い。
「……何か御用ですか」
「……その、アーシェングロット先輩とちゃんと話したくて……」
「話……?」
アズールの手が、ぴたりと止まる。
「特に話すことなどありませんが」
「でも、最近ずっと避けてませんか?」
「避けてなどいませんよ」
「……嘘です」
アズールはちらりとこちらを見た。
「……嘘とは、人聞きが悪いですね」
「じゃあ、なんで私と目を合わせてくれないんですか」
「……」
「前みたいに話してくれなくなったのは、私が何かしたからですか?」
「……あなたは……」
アズールが低く息をつく。
「……あなたは、私のことをどう思っているのですか?」
「え?」
思いがけない言葉に、私は息をのんだ。
「……私のことを気にしているようですが、それはどういう意味で?」
「……それは……」
答えようとして、言葉が出てこない。
「……答えられないのですか?」
「……そんなの、私だってわからないです」
私がそう言うと、アズール先輩は小さく笑った。
「……なるほど」
「……?」
「ならば、私も答える必要はありませんね」
「えっ……」
「では、もう失礼」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「……なんですか」
「そんなの、納得できません……!」
「監督生さんは、私の気持ちを知ってどうするのですか?」
「……え?」
アズールは静かに立ち上がった。
「——知らない方が、楽なこともあるのですよ」
私の目をじっと見据えて、静かにそう告げた。
そして、私の前を通り過ぎ、扉の方へ向かう。
「……」
私はその背中を見つめながら、胸の奥がズキンと痛むのを感じた。
(……アーシェングロット先輩……?)
「——知らない方が、楽なこともあるのですよ」
静かにそう言い残し、アズールは私の前を通り過ぎて扉の方へ向かった。
私はその背中を見つめながら、胸の奥がズキンと痛むのを感じた。
(……知らない方が楽、って)
それって、先輩も何かを隠してるってことじゃないですか。
私はその場に立ち尽くし、かすかに震える唇を噛み締めた。
(やっぱり、何かある)
アズールが私を避けるようになった理由。私に対する態度が急に変わった理由。
その答えが、もう少しで掴めそうな気がするのに——。
「……っ」
私は思わず、彼の後を追いかけた。
「アーシェングロット先輩!」
廊下に出ると、彼はほんの少しだけ足を止めた。
——だけど、振り向かない。
「……なんですか」
「私……そんなの、嫌です」
「……」
「知らない方が楽なんて、そんなの……私は納得できません……!」
「……あなたが納得できるかどうかは、私には関係のないことです」
それでも彼は振り向かず、冷たく言い放つ。
「……それに、あなたは私のことを気にしすぎです」
「……」
「私は、あなたにとって、ただの先輩でしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、心がギュッと締めつけられた。
(……ただの先輩?)
(本当に、そう思ってるんですか……?)
それなら、どうして——。
どうしてそんなに苦しそうな声をしてるんですか。
私は拳を握りしめ、一歩前に出た。
「……違います」
「……何が、ですか」
「アーシェングロット先輩は……ただの先輩なんかじゃないです」
「……」
「先輩が困っていると、私も苦しいです」
「……」
「先輩が楽しそうにしてると、嬉しいです」
「……それは、寮の先輩として当然の感情でしょう」
「違います!」
私は思わず声を張り上げた。
アズールの背中が、ぴくりと揺れる。
「アーシェングロット先輩が避けられると、すごく寂しいです……」
「……」
「だから、ちゃんと理由が知りたいんです……」
「……あなたは、本当に……」
アズールは小さく息を吐いた。
「……本当に、私を惑わせるのが得意ですね」
そして、ようやく——ゆっくりと振り向いた。
けれど、その顔はいつもの笑顔ではなく、苦しげに歪んでいた。
「……私は、あなたとは違います」
「え?」
「あなたが何も知らずにいれば、それでよかったのです」
「……それは……」
「だから、もう——」
「——逃げないでください」
アズールの言葉を遮るように、私は言った。
「……」
「私は、先輩がどんな人なのか、ちゃんと知りたいです」
「……」
アズール先輩はこめかみに指を当て、小さくため息をついた。
そして——。
「……あなたが、他の男と親しくしているのが、気に食わなかった」
「え……」
「……これで満足ですか?」
「え、ちょっと、先輩、それって……」
「もう行きます」
「ま、待ってください! それって……どういう……!」
「では」
そう言い残し、アズール先輩は本当に行ってしまった。
(……今の、どういう意味ですか?)
「……気に食わない、って……」
まるで——まるで、それは——。
私の心臓が、早鐘のように鳴り響く。
(……そんなはず……でも……)
アズール先輩の、あの表情。
誤魔化せないほどに動揺した、あの声。
私は立ち尽くしたまま、その場から動くことができなかった。
——アズールが去った後も、私はその場から動くことができなかった。
「……気に食わなかった」
先輩のあの言葉が、何度も頭の中で反響する。
(それって……どういう意味なんですか……?)
単に「信用できない」ということなのか、それとも……。
胸の奥がざわついて、落ち着かない。
まるで、自分の気持ちまで揺さぶられているようだった。
「……っ」
私は顔を両手で覆い、大きく息を吐いた。
——考えても、仕方がない。
今は、先輩に直接聞くしかない。
けれど、それができないからこそ、こんなにも苦しい。
「はぁ……どうしよう……」
そんなことを考えながら、ぼんやりと歩いていると——。
「おっ、小エビちゃん発見~!」
「わっ……!」
いきなり後ろから肩を抱かれて、私は思わず声を上げた。
「……フロイド先輩……」
振り向くと、楽しげな笑みを浮かべたフロイド先輩がいた。
「なんか難しい顔してたねぇ。アズールと喧嘩でもした?」
「えっ……」
「だって、さっきすれ違った時、すっごく機嫌悪そうだったし
「……そうなんですか?」
「なんかムス~ッとしてた」
「……」
私は無意識に唇を噛んだ。
(……やっぱり、私のせいで……?)
「ふ~ん……」
「え?」
フロイドが急に顔を覗き込んできた。
「ねぇ、小エビちゃん。アズールのこと、やっぱ好きでしょ?」
「——っ!!」
突然の直球な問いかけに、心臓が飛び跳ねた。
「な、なんで……」
「わかりやすすぎ~、アズールも小エビちゃんのこと気にしてるしさ」
「え……?」
「あんなあからさまにヤキモチ焼いちゃって」
「……えええっ!?」
「アハハ、バレバレなのに本人は気づいてないとか」
フロイドはおもしろそうに笑う。
けれど、私の頭は真っ白になっていた。
「ヤ、ヤキモチ……?」
「そ~そ~。でもアズールってさ、こじらせてるから」
「……こじらせてる?」
「そ。だから、素直に認めたくないんじゃない?」
「……」
私は唇をぎゅっと噛んだ。
(私が誰かと仲良くするのが気に食わないって、そういうことだったの?)
でも、本人の口から聞いたわけじゃない。
私が勝手に期待して、勘違いするわけにはいかない——。
「ねぇ、小エビちゃん」
「はい?」
「アズールのこと、どうするつもり?」
「え……」
「小エビちゃんが何もしないなら、まぁそれでもいいけど」
「……」
私はフロイドの言葉を反芻する。
——このまま、何もしない?
そんなの、できるわけないじゃないか。
私はアズール先輩に対して、知りたいことがたくさんある。
だから——。
「……ありがとうございます、フロイド先輩」
私はそう言って、小さく微笑んだ。
「なんでお礼?」
フロイドが目を丸くする。
「アーシェングロット先輩が……ちゃんと話をしてくれるように頑張ってみます」
フロイドはしばらく私をじっと見つめ、それからニヤリと笑った。
「そっかぁ、面白いことになりそうだねぇ」
「……」
——すれ違い続けるのは、もう嫌だから。
オクタヴィネル寮の廊下を歩きながら、心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じた。
アズールの部屋の前に立つと、一度深呼吸をする。
(……怖い)
もし、本当に「気に食わなかった」の意味が私の期待するものと違ったら——。
(……でも)
私は自分の頬を軽く叩いた。
怖くても、聞かなきゃ何も変わらない。
「アーシェングロット先輩、いらっしゃいますか?」
ドアをノックすると、しばらくの沈黙の後——。
「……どうぞ」
低く、落ち着いた声が聞こえた。
(……よし)
私は意を決してドアを開ける。
アズール先輩は書類を手にしていたが、私が入るとそっとそれを机の上に置いた。
「本日はどんなご用件で?」
普段通りの丁寧な口調。
けれど、どこか冷たい。
私と距離を取ろうとしているみたいだった。
(……やっぱり、避けられてる)
「……先輩」
私はまっすぐアズールを見つめた。
「この前の話なんですけど……」
「この前?」
アズール先輩の表情がわずかに曇る。
「私が他の人と話してたのが……気に食わなかったって、どういう意味ですか?」
アズールの指先が、机の上でピクリと動いた。
「……それを、わざわざ聞きに来たのですか?」
「はい」
私が頷くと、アズールはゆっくりとため息をついた。
「……誤解のないように言っておきますが」
その瞳が、私をまっすぐ射抜く。
「私は、あなたの行動を制限するつもりはありません」
「え……?」
「誰と話そうが、誰と親しくしようが、それはあなたの自由です」
「それは……わかっています」
(でも、それと「気に食わない」っていう言葉は矛盾してませんか?)
「……ならば、今の関係のままでいいでしょう」
「今の……関係?」
アズール先輩は静かに目を伏せた。
「あなたはオクタヴィネルの寮にとって有益な人物です」
「……」
「それ以上でも、それ以下でもない」
「……本当に、それだけですか?」
「……」
アズールの指が、ぎゅっと握られるのを見た。
私は一歩、彼に近づく。
「最初はそうかもしれないけど、今は違うんじゃないですか?」
「……」
アズール先輩の肩がわずかに揺れた。
少しの沈黙の後、先輩は静かに言った。
「……確かに最初は、あなたが有益な存在かどうか、見極めようとしていました」
「……」
「ですが、今はもうその必要はない」
「……どうしてですか?」
アズール先輩の唇が、かすかに震える。
「それは……」
アズールが何か言おうと口を開きかけた時だった。
「失礼します」
突然、ドアが開いた。
「ジェイド先輩……」
私は思わず声を上げた。
「おや、監督生さんもいらしたんですね」
ジェイドが、少し驚いたように微笑んでいる。
「アズール、先ほど頼まれていた書類を持ってきました」
「ああ……ありがとうございます」
アズールは一瞬表情を引き締めると、書類を受け取った。
(……ジェイド先輩が来なかったら、もしかして……)
(アズール先輩は、もっと何かを話してくれたのかな……?)
そんなことを考えていると——。
「では、私はこれで」
ジェイドが静かに部屋を出て行く。
そして、その場には私とアズールだけが残された。
だけど——。
「……すみませんが、監督生さん」
アズールはもう、いつもの冷静な表情に戻っていた。
「本日はここまでにしましょう」
「え……」
「今後も、あなたとは良好な関係を築いていきたいと考えています」
そう言って、先輩は私をそっと見つめた。
「それでは、失礼」
そう告げると、先輩は机に向き直った。
私は何も言えず、ただその背中を見つめることしかできなかった。
——迷惑になるかもしれない。
アズールのことが頭から離れなかった。
私はオクタヴィネル寮を出て、自室へ戻る途中、静かにため息をついた。
先輩の気持ちはわからない。
でも、今はどういう顔をして会いに行けばいいかわからない。
(……しばらく距離を置こう)
そう決めた私は、次の日から意識的にアズールとの接触を減らした。
「おや、監督生さんがオクタヴィネルに来ないとは珍しいですね」
数日後、廊下でジェイド先輩とすれ違ったとき、彼が穏やかに微笑んだ。
「何かあったのですか?」
「い、いえ!ちょっと忙しくて……」
私は笑顔を作りながら、適当に誤魔化した。
(……本当はただ、距離を置いてるだけなんだけど)
ジェイドは「ふふ」と笑って「そうですか」とだけ言うと、そのまま去っていった。
(……バレてるかもしれないな)
オクタヴィネルのラウンジ。
その一角で、アズールは何も言わずに書類を整理していた。
しかし、時折視線を動かしては、店内を見渡す。
(……来ないな)
監督生がここ数日姿を見せない。
以前はあれだけ頻繁に声をかけてきていた監督生が、校内で見かけても話しかけてくることはなかった。
(別に……どうということはありません)
(彼女がどこで何をしていようと、私には関係のないことです)
アズールはそう自分に言い聞かせる。
けれど——。
「アズール~、何探してんの~?」
カウンターの奥から、フロイドがにやにやしながら身を乗り出してきた。
「いえ、なにも」
「小エビちゃん、さっきも外で見かけたけど、こっちには全然来なかったね」
「……別に、何も言っていませんが?」
アズールは淡々と答える。
しかし、その指先が無意識にペンを強く握りしめていた。
私が意識的に距離を取るようになって、一週間が経った。
それでも、アズールから何かアクションがあるわけでもなく、私も自分から話しかけることはしなかった。
(これでよかったんだ)
私はそう自分に言い聞かせる。
だけど——。
授業中、ふと横目でアズールを見ると、彼もまた静かにノートを取りながら、どこか考え込んでいるように見えた。私たちは、まるで分厚いガラスの向こう側にいるみたいに、お互いの気持ちが伝わらないまま過ごしていた。
モストロ・ラウンジの閉店後、厨房の隅でひっそりと集まる三人の影。
「……それで、小エビちゃん、やる?」
フロイドがワクワクした表情で私を覗き込む。
「うーん……」
私は少し迷って、隣に立つジェイドを見た。
「本当にアーシェングロット先輩には内緒なんですか?」
「ええ。アズールには知らせない方が、きっと面白いですからね」
ジェイドはいつもの微笑みを浮かべながら、さらりと言ってのける。
「最近モストロ・ラウンジの人手が足りなくて……少しの間だけでも手伝ってくれると助かります」
「それって……ちゃんと正式な依頼じゃなくて、二人が勝手に頼んでるってことですよね?」
「うんうん、そうそう~」
フロイドが楽しそうに頷く。
「アズールにはナイショでこっそり小エビちゃんを働かせたら、どんな顔するかな~って思って!」
(……アーシェングロット先輩、怒るかな)
でも……私はしばらく距離を置いていて、なんとなくモヤモヤしていた。
直接話すのは難しくても、そばで様子をうかがうことができるかもしれない。
「……わかりました。短い期間だけなら、お手伝いします」
「じゃ~決まりね」
フロイドが嬉しそうに笑い、ジェイドは「ふふ、楽しみですね。」と意味深に呟いた——。
そして翌日。
モストロ・ラウンジに入ったアズールは、一瞬足を止めた。
「……監督生さん?」
フロアで慌ただしく働く私の姿を見て、明らかに驚いている。
私は気づかないフリをして、注文を運ぶ。
だけど、アズールは何も言わず、静かにカウンターへ向かっていった。
「フロイド」
「んー? なに、アズール?」
「どういうことです?」
アズールは笑顔を浮かべながらも、どこか冷えた声でフロイドに尋ねる。
「何がー?」
「監督生さんがここで働いていることです」
「ん〜?さあ?」
フロイドはわざととぼけているように見えた。
「……ジェイド」
「ええ、ちょっとした人手不足で、お手伝いをお願いしたんですよ」
ジェイドは涼しい顔で答える。
「別に問題はないでしょう?労働力が増えれば、お店の利益にもつながりますし」
アズールは黙り込んだ。
「問題……ありませんよね?」
ジェイドが優雅に微笑む。
アズールは小さくため息をつき、視線を私へ戻す。
「……問題は、ありません」
そう言ったものの——アズールの表情は、どこか納得がいっていないように見えた。
(……気にしてる?)
ちらりとアズールを見ると、彼もこちらを見ていて、目が合った。
「——っ!」
私は慌てて視線をそらし、仕事に集中するフリをした。
だけど、アズールの視線がずっとこちらを追っているのを、私は感じていた。
モストロ・ラウンジでのバイトが始まって数日。
私はホールでお客様の対応をしながらも、ずっと視線を感じていた。
(アーシェングロット先輩……絶対見てる)
ちらっとカウンターの方を盗み見ると、やっぱりアズールは優雅にティーカップを傾けながら、作業を行っている。時折、監督生の方をチラチラと気にしてる素振りが窺えた。
(き、気まずい……)
いつものように完璧な笑顔を浮かべて、冷静さを装っている。
——だけど、視線だけはずっと私を追っていた。
「小エビちゃん、そっちのテーブルお願いね~」
フロイドが声をかけてくる。
「はーい!」
私は注文を受けた料理を運ぶため、笑顔で応じた。
しかし、その時——。
「監督生?ここで働いていたのか」
——シルバー先輩だった。
「シルバー先輩!?いらっしゃいませ!」
思わず驚いてしまったけど、すぐに接客モードに戻る。
「今日はお…リリア先輩と一緒に来たんだ」
「えっ、リリア先輩も!?」
すると、シルバー先輩の後ろから「やっほー、監督生!」と軽やかな声が響いた。
「いやぁ、まさか監督生がここで働いているとはのう、マレウスにも声をかけるべきだったな」
リリアは愉快そうに笑い、シルバー先輩も「似合ってるな」とぽつりと呟いた。
(シルバー先輩に褒められると、ちょっと嬉しいな)
なんて思いながら注文を取っていると——背筋がひやりとした。
視線を感じる。
しかも、いつもの優雅な観察の目じゃない。
恐る恐るカウンターを見ると、アズール先輩が静かにカップを置くところだった。
表情は崩れていない。
けれど、目の奥にある感情が明らかにいつもと違う。
「……随分と楽しそうですね」
アズール先輩が静かに言う。
「えっ?」
(……えっ、これ、怒ってる?)
「アズール、顔こわ~い」
フロイドがニヤニヤしながらアズール先輩の肩をぽんぽん叩く。
「……は?何がだ」
「あかさらまに態度に出しておきながらそれはないでしょ~」
フロイドがさらに煽るように笑うと、ジェイドも微笑んだ。
「確かに、アズールがこんなに態度に出すなんて、珍しいですね」
「クラゲちゃんとメンダコちゃんが来た途端にとか、わかりやすすぎ」
「全く、言っている意味が分かりませんね」
アズールは言い切ったけれど、その指先が無意識にカウンターをトントンと叩いているのを、私は見逃さなかった。
「……シルバー先輩に、この制服似合ってるって言われちゃいました」
カチン、とカウンターに置かれたティーカップの音が響いた。
「……そうですか。それは、おめでとうございます」
アズール先輩は静かに言った。
だけど、目は笑っていない。
「ふふ、これは面白くなってきましたね」
ジェイドの含み笑いが聞こえた。
「ねぇねぇアズール〜今どんな気分?」
フロイドが面白がって追い討ちをかける。
アズール先輩は冷静を装っていたけれど、耳がうっすら赤くなっていた。
モストロ・ラウンジの閉店後。
店内の灯りは少し落とされ、客の賑わいが消えた空間には静寂が広がっていた。
「ふぅ……今日も忙しかったなぁ」
私は軽く伸びをしながら、カウンターの上を拭く。
「まだ残っていたのですか?」
低く落ち着いた声が響き、私は振り返った。
「アーシェングロット先輩……?」
そこには、制服のジャケットを脱ぎ、シャツの袖を少し捲ったアズールがいた。
普段は乱れのない彼が、少しだけラフな格好をしているのが新鮮だった。
(珍しい……)
「片付けが終わったら帰るつもりです」
「……そうですか。ジェイドとフロイドなら、先に寮へ戻りましたよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ、”たまにはアズールに任せてもいいんじゃないですかねぇ”などと勝手なことを言って……」
アズールは溜息混じりに言いながら、ワイングラスを拭き始めた。
(ってことは、今ここには私とアズール先輩だけ……!?)
急に意識してしまい、手が止まる。
そんな私を気にする様子もなく、アズールは淡々と作業を続けていた。
静かなラウンジに、グラスを磨く布の音だけが響く。
——と、その時。
「楽しそうでしたね」
不意に落ち着いた声が降ってきた。
「え?」
「仕事中とはいえ、あれほど嬉しそうに笑っているあなたを見たのは初めてでしたよ」
アズールは私に背を向けたまま、静かに言った。
その声のトーンは普段と変わらないのに、どこか棘を感じる。
(……まさか、気にしてる?)
「シルバー先輩のこと、ですか?」
「……さあ、何のことでしょう」
とぼけるように言うけれど、明らかに耳が赤い。
「別に特別な意味じゃなくて、普通に褒めてもらっただけですよ」
そう言うと、アズールは静かにグラスを拭く手を止め、ゆっくりと振り返った。
「あなたは、誰にでも愛想がいいんですね」
「え?」
「それとも、私が知らないだけですか? いつも、あんな風に笑っているのですか?」
穏やかな口調なのに、その言葉は妙に鋭かった。
(え……?)
なんだろう、この感じ。
まるで——拗ねてるみたい。
「え、えっと……?」
「……いいえ。失礼しました」
アズールはすぐに表情を整え、淡々とした声に戻った。
「私は少々、疲れているようですね」
「……」
私は内心ため息をつきながら、ふと彼の手元に目をやった。
(グラス、もう十分すぎるくらい磨いてるのに……)
同じ動作を繰り返しているのは、明らかに落ち着かないからだ。
「……アーシェングロット先輩」
「なんでしょう」
私は一歩踏み込んだ。
「……嫉妬してますか?」
——ピタリ。
アズールの手が止まる。
グラスを持つ指が、ほんの少しだけ震えた気がした。
「……貴方って人は、ずいぶんとおめでたいですね」
アズールは、少しだけ伏せ目になりながら低く呟く。
「私はただ、従業員が仕事中に他の客とあまり親しげにしているのは、店の品格に関わると思っただけですよ」
「ふぅん」
私はカウンター越しにじっと彼を見つめた。
「……先輩は嘘をつくのが上手ですね」
「……」
「でも、わかりやすいです」
アズールの肩がわずかに跳ねた。
「別に、シルバー先輩とどうこうなるつもりなんてないですよ」
「当然でしょう」
食い気味に返ってきた言葉に、思わず笑ってしまった。
「……何がおかしいのです?」
「いえ」
アズールはまだ視線を逸らしたままだった。
普段なら余裕の笑顔で言いくるめてくるのに、今はどうしても隠しきれない感情が滲み出ている。
(もっと、先輩の本心が知りたい)
「……もう遅いですね」
アズールは軽く咳払いをして、話を切り替えた。
「寮まで送っていきましょう」
「え?」
「こんな時間に、一人で寮へ帰るのは危険です」
「……アーシェングロット先輩が送ってくれるんですか?」
「ええ、”従業員を無事に寮へ帰すのも雇い主の役目”ですから」
またそうやって、もっともらしい理由をつける。
でも——
「……じゃあ、お言葉に甘えますね」
私は微笑んで、彼の隣に立った。
アズールは一瞬だけ目を丸くしたけれど、すぐに「当然です」と静かに歩き出す。
ラウンジの鍵を閉めて、二人きりの帰り道。
夜の静けさが、妙に心地よかった。
夜の静寂の中、私とアズール先輩は並んで歩いていた。
モストロラウンジの閉店作業を終えた後、自然と帰る方向が同じになった。
「……」
横目でアズールを見ると、彼は落ち着いた表情をしているけれど、どこか考え込んでいるようにも見える。
その歩幅は、わずかに私のペースに合わせられていた。
(こういう気遣い、いつものことだけど……やっぱり先輩は優しいな)
「今日はありがとうございました」
「別に、礼を言われるようなことはしていませんよ」
「でも、アーシェングロット先輩が送ってくれるおかげで安心して帰れますし」
「……当然のことです」
そっけない返事。
でも、歩くスピードを緩めたのは、気のせいじゃない。
しばらく無言のまま歩き続けた。
けれど——ふいに、アズールがぽつりと呟く。
「……あなたは、なぜ私のことだけ苗字で呼ぶのですか?」
「……え?」
思わぬ問いかけに、私は足を止めてアズールを見上げた。
「ジェイドやフロイドのことは名前で呼んでいるのに、なぜ私だけ”アーシェングロット先輩”なのです?」
アズールは正面を向いたまま、少しむくれたような表情をしていた。
それは彼なりの「不満」の表れで——
「……だって、先輩だから?」
「それはジェイドやフロイドも同じでしょう?」
「そ、それは……二人は最初からそう呼んでたというか……」
「ああ、なるほど」
アズールはゆっくり頷いた。
「彼らには最初から心を許していたというわけですか」
「え、そういうわけじゃ……」
なんだろう、この雰囲気。
アズールは普段の余裕たっぷりな態度とは違って、少しだけ拗ねたような表情をしている。
「……別に構いませんが」
その言い方が、妙に引っかかった。
夜道の静けさが、余計に緊張感を煽る。
(ど、どうしよう……)
アズールの視線から逃げるように、私は少し考え込んで——
「……じゃあ」
小さく息を吸い込んで、決意する。
「……アズール先輩」
「……っ」
アズールの肩がわずかに跳ねる。
「……」
なんだか予想外すぎたのか、アズールは一瞬フリーズしたように固まった。
「……どうしましたか?」
「……」
「……」
「……はぁ」
小さく息をついたアズールは、目を伏せながら口を開く。
「……まるで、無理やり言わせたみたいじゃないですか」
「……やっぱり、元に戻しましょうか」
「いえ」
アズールは少しだけ顔を背けた。
「別に……好きに呼べばいいでしょう」
その言葉は、ほんのわずかに照れくさそうだった。
(え……もしかして、照れてる?)
「ふふ……」
「何を笑っているのですか」
「なんでもありません」
「……」
しばらく沈黙が落ちたけれど、今までと違って心地いい空気だった。
そして——
オンボロ寮の門が見えてくる。
「……では、私はここで失礼します」
「はい、今日は本当にありがとうございました、アズール先輩」
「……」
もう一度、名前を呼んでみた。
すると、アズールは少しだけ目を伏せた後、
「……おやすみなさい、監督生さん」
そう小さく呟いて、背を向けた。
月明かりの下、彼の後ろ姿を見送る。
ほんの少しだけ、距離が縮まった気がした。
—錬金術の合同授業—
「今日の授業は二人一組で課題に取り組んでもらう」
トレイン先生の言葉に、教室内がざわつく。
「ペアはくじ引きで決めるぞ」
黒板に映し出された組み合わせを見て、私は思わず息をのんだ。
(……アズール先輩!?)
アズール先輩も、私の方に視線を向けてくる。
でも、その表情は……読めない。
「あなたが私のパートナーですか」
「はい。よろしくお願いします、えっと、アズール先輩」
「ええ、こちらこそ」
アズール先輩の声はいつも通り丁寧だけど、どこか少し冷たく感じた。
「では、錬金薬を作る作業に入ってもらおう」
課題の内容は、魔力を安定させるポーションの調合。二人で協力して、慎重に分量を測り、手順通りに作業を進めていく。
私は材料を慎重にすくいながら、アズール先輩の様子を盗み見た。
いつも通り、冷静で計算された動き。
けれど、どこか……無理をしているようにも見える。
「……あの、先輩」
「何でしょう?」
「最近、モストロラウンジであんまり会いませんでしたね」
アズールの手が、一瞬だけ止まった。
「ええ……まあ、色々と忙しくて」
「……もしかして、迷惑だったとか?」
冗談めかして聞いたつもりだった。
でも、アズールの反応は予想と違った。
「……別に、あなたがどうこうという話ではありません」
それだけ言うと、アズールは視線を落とし、ポーションの瓶に魔力を注ぎ込んだ。
(……そっけない)
「……」
私はそっと口をつぐんだ。
「おっ、監督生! アズール先輩とペアかよ、大変そうだな」
授業後、エースが肩をすくめながら言った。
デュースも、ちょっと微妙な顔をしている。
「な、何が大変なの?」
「いや、アズール先輩って……ほら、厳しそうだし」
「そんなことないよ」
私は思わず言っていた。
「先輩は、ちゃんと丁寧に教えてくれるし、説明もわかりやすいし……」
「お、おお?」
エースとデュースが、なんとも言えない表情をしている。
「お前、もしかしてアズール先輩のこと、結構……」
「べ、別に!」
「へぇ~」
(……なんでこんな話になるの!?)
私は慌てて誤魔化しながら、廊下の向こうを見た。
すると——そこには、ジェイドと話しているアズールの姿があった。
アズールは私に気づくと、一瞬だけ視線をこちらに向けた。
でも、そのまますぐに目を逸らし、またジェイドとの会話に戻ってしまう。
小さなモヤモヤが、胸の中に広がるのを感じながら、私はその場をそっと離れた。
—モストロラウンジ・VIPルーム—
「……アズール先輩、ですか?」
ジェイドが薄く微笑みながら、ワイングラスを吹き上げる。フロイドはソファにだらしなくもたれながら、興味深そうにアズールを覗き込んでいた。
「小エビちゃん、いつの間にアズールのこと名前で呼ぶようになったの~?」
「……何の話です?」
アズールは眉一つ動かさずに紅茶を口に運ぶ。
けれど、その手がほんの僅かに硬直しているのを、二人は見逃さなかった。
「今日の錬金術の授業中、監督生さんがしっかりと“アズール先輩”と呼んでいたそうで」
「そうだねぇ。前は“アーシェングロット先輩”だったのに、ね?」
ジェイドとフロイドの視線が突き刺さる。
「別に、たいしたことではないでしょう」
「ふ~ん?」
フロイドは唇を尖らせながら、アズールの横にずいっと寄る。
「もしかして、アズールから頼んだの?」
「……」
「おや、アズール、そうなんですか?」
面白半分のジェイドの言葉に、アズールは目を細めた。
「……ただの呼び方の違いです。そんなことを気にするほど、お前たちは暇なんですか?」
「そんなこと言っちゃって、本当はアズール先輩って呼ばれて嬉しいんじゃないの?」
「フロイド、くだらないことを言っている暇があるなら……」
「うっわ~、耳まで赤い、ゆでダコじゃん!」
「……っ!」
アズールはカップを置くと、乱暴に眼鏡を押し上げる。
「話は終わりです。お前たちは本当に、余計なことばかりに興味を持ちますね」
「ふふ、そういうところが面白いんですよ」
ジェイドは意味ありげに微笑む。
「さて、それでアズール。あなたはどうするんです?」
「……何がです?」
「せっかく“アズール先輩”と呼んでもらえる関係になったのに、また距離を取るんですか?」
「……」
「そうそう、小エビちゃん、寂しそうだったしね」
「……」
アズールは口を引き結んだまま、何も言わなかった。
—数日後・モストロラウンジ—
夕方、モストロラウンジの一角で、一人メニュー表を整理していた。
「……」
(これでいいはずだ)
距離を取る。それが一番合理的。
それを忘れるな。
けれど——
「アズール先輩」
名前を呼ばれる声に、心臓が跳ねた。
振り向けば、そこに立っていたのは——監督生。
(……何故)
「何かご用ですか?」
「今日のバイトの件で……」
「ああ」
「元々はジェイドとフロイドが無理に頼んだことですから、いつでも断ることはできますよ」
「……でも、やるって決めたので」
彼女は以前と同じように、まっすぐな目でこちらを見ていた。
「アズール先輩が迷惑なら……やめますけど」
「……」
迷惑?
彼女は、こちらがまた距離を取っていることに、勘づいているのだ。
そして、迷惑なら引く——そう言った。
(違う……)
迷惑なわけじゃない。
むしろ、気になって仕方がない。
けれど、今さらどうすればいいのか——。
「……先輩?」
「……そうですか、わかりました」
アズールはそれだけ言うと、再び視線をメニューに落とした。
(もう……これ以上、余計なことを考えたくない)
けれど、その後もずっと。
自分の名前を呼ばれた時の感覚が、胸の中にこびりついて離れなかった——。
——夜の廊下に響く足音。
放課後の校舎、モストロ・ラウンジの手伝いを終えて、ようやく寮に帰れると思った矢先だった。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
背後から聞こえた声に、思わず足が止まる。振り向くと、そこには他寮の生徒が数人、にやにやと笑みを浮かべて立っていた。
「最近、オクタヴィネルに入り浸ってるらしいじゃん。アーシェングロットと仲良いんだって?」
「えっ……?」
彼らの口ぶりには、明らかに探るような意図が含まれていた。オクタヴィネルといえば、取引や契約で有名な寮だ。まさか、自分まで利用価値があると見なされている……?
「別に、そういうわけじゃ……」
言いかけたその瞬間、廊下の向こうから響いたのは、ゆっくりとした足音。
「——なるほど、あなたがたは、うちの大切な従業員に何かご用ですか?」
その声を聞いた瞬間、空気が変わった。
廊下の影から現れたのは、淡い光に照らされたアズールだった。柔らかい笑みを浮かべているものの、その瞳には微かな冷たさが宿っている。
「げ、アーシェングロット……!」
「おや、どうしました? まさか、監督生さんに無理なお願いをしていたわけではありませんよね?」
彼はゆっくりと歩み寄ると、私の横に立ち、そのまま肩の後ろにそっと手を添えた。
「……っ」
「もし、何かお困りごとがあるなら、ぜひ私にご相談を。モストロ・ラウンジでは、あらゆる問題を解決する手助けをしておりますから」
アズールの穏やかな声に、相手の生徒たちは気圧されたのか、軽く舌打ちして踵を返した。
彼らが去った後、私は小さく息を吐いた。
「……助けてくれてありがとうございます」
「助けた? 何のことでしょう。私はただ、モストロ・ラウンジの評判を守っただけです」
「……でも、私のこと、大切な従業員って」
「ええ。あなたは、ラウンジの大事な労働力ですから」
アズールはそっけなくそう言って、眼鏡を軽く押し上げた。その顔は、あくまでも冷静で、いつもの商売人の顔。でも——
(違う。たぶん、違う……)
彼の手はまだ、私の背中に添えられたままだった。
「……アズール先輩」
「なんですか」
「本当は心配してくれたんじゃないんですか?」
「……」
アズールの指先が、かすかに強くなる。でも、彼はすぐに手を離し、フッと笑った。
「あなたは、もう少し自分の立場を考えたほうがいいですよ。誰とでも無邪気に話していると、また変な勘違いをされる」
「……?」
「つまり、これ以上、他寮の生徒と気軽に話すのはやめた方がいいということです」
彼はあくまで淡々と告げる。でも、その声の端には、微かに拗ねたような響きがあった。
——まるで嫉妬しているみたいに。
「まさか……嫉妬してるんですか?」
「は?」
その瞬間、彼の顔が少し固まった。そして、すぐにムッとした表情を浮かべる。
「……馬鹿なことを。私はただ、あなたが余計なトラブルに巻き込まれるのを防ぎたいだけです」
「ふふ、そうですか」
「な、何ですか、その笑いは……!」
「いえ、なんでも。先輩、ありがとうございます」
アズールは何か言いかけて、ぐっと言葉を飲み込むように口を閉じた。そして、少しだけ頬を染めながら、そっぽを向く。
「……もう遅いです。寮まで送りましょう」
「えっ? でも——」
「早く行きますよ」
そう言って、彼はすたすたと歩き始めた。
私はその背中を見つめながら、小さく笑って、後を追った。
——本当はただ、心配してくれたんですよね、アズール先輩?
モストロ・ラウンジを出ると、夜の静けさが迎えてくれた。ランプの淡い光がぼんやりと道を照らし、月が水面に揺れている。
「……どうしましたか?」
先を歩くアズールが、ふと立ち止まって振り返る。
「……すみません、先輩。でも、本当に送ってもらう必要は──」
「あります」
彼の言葉は、いつもの冷静な敬語よりも少しだけ強い響きを帯びていた。
「遅い時間に一人で歩くのは危険です。先ほどのようなことが、また起こらないとも限りませんから」
確かに、さっきのことを考えれば、アズールの言う通りなのかもしれない。でも……。
「先輩は、私のことを『利用価値がある』って言いますよね。でも、そうじゃなかったら……先輩は助けてくれましたか?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
アズールは少し目を細め、静かに私を見つめた。そして、短く息を吐くと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……それは、愚問ですね」
そう言って、彼は私の目の前で立ち止まった。
「あなたがどうであれ、私は……あなたを助けましたよ」
「……!」
アズールの瞳は、いつものような計算されたものではなく、静かだけれど、どこか誤魔化せない色を帯びていた。
「あなたが巻き込まれるのを見て、放っておけるほど非道な人間ではありません」
「……じゃあ、どうして突き放すような態度をするんですか」
「……」
「なんで優しくしたり避けたりするんですか」
困ったように、視線を横へずらしながら、アズールは、少しだけ自嘲するように笑った。
「……私は今まで、誰かに情を持って動くことがありませんでした。すべての行動は利益のため。契約を結ぶことでしか、人との関係を築けないと、そう思っていたんです」
夜風が静かに吹き抜ける。彼の白い髪が、ふわりと揺れた。
「……でも、あなたは違う」
「……え?」
「あなたは、何の見返りも求めずに私と関わる。いつも、まっすぐに私を見てくる。その意味が、最初は理解できなかった……いや、今も完全には理解できていないのかもしれません」
アズールは眼鏡を軽く押し上げると、ふっと目を伏せた。
「アズール先輩……」
「私は寮長です。完璧でなければならない。誰よりも立ち回りを上手くし、誰よりも努力しなければならない。でも、あなたといると……それが上手くできなくなる」
彼の声は静かで、それでいて切実だった。
「あなたとの距離の取り方が分からなくなっていたんです」
「……それが、原因だったんですか?」
「ええ、そうでしょうね」
アズールはかすかに苦笑すると、私をじっと見つめた。
「監督生さん……私は、あなたが思っているほど器用な人間ではありません」
「……私だって、そんなに上手く立ち回れるわけじゃないです」
「……」
「私は……先輩ともっと話したいんです。先輩が私をどう思っているのかわからなくて不安だったけど……ただ、先輩のことをもっと知りたいだけなんです」
思わず、本音がこぼれた。
アズールは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。でも、すぐに、ふっと小さく笑う。
「……本当に、恐ろしい人ですね」
「えっ?」
「私に、こんなことを言わせるなんて」
そう言って、彼はそっと手を伸ばし、私の髪の端に触れた。
「……正直に言いましょうか」
「……」
「あなたが他の寮生と親しくしているのを見て、私は……面白くなかった」
「……」
「他の誰かと笑い合うあなたを見ると……なぜか、無性に苛立ちを覚えた。ジェイドやフロイドと楽しそうにしてるのでさえ……そんな感情、今まで抱いたことがなかった」
アズールは、眼鏡を外して軽く額を押さえた。
「……計算が狂うのは、嫌いなんです」
「……」
「だけどあなたといると……どうにも、予想外のことばかり起こる」
アズールは少しだけ拗ねたような顔で、私を見る。
「まったく……あなたのせいで、僕は随分と余計なことばかり考えてしまっている」
彼は顔を逸らしながら、そっけなく言った。でも、耳がほんのり赤いのを、私は見逃さなかった。
「……でも、もう少しだけなら、考えてみてもいいかもしれませんね」
「え?」
「……あなたとの関係を」
そう言うと、アズールは軽く咳払いして、眼鏡を掛け直した。
「さあ、もう行きますよ。……寄り道はしませんからね」
「……はい」
さっきまでのすれ違いが嘘みたいに、心が軽くなっていた。
アズール先輩は、素直になれないけれど、確かに私を気にしている。
それが分かっただけで、夜の道は少しだけ、暖かく感じられた。
──それからの日々は、何気ない会話の中で少しずつ、確かに変化していた。
相変わらずアズール先輩は素直ではなかった。けれど、以前よりも私の言葉に対して即座に切り返さなくなったり、ふとしたときに視線が合えば逸らさずに受け止めてくれるようになったりと、小さな違いが積み重なっていった。
そんなある日のこと──。
「アズール先輩、魔法理論について教えてもらってもいいですか?今日授業を受けたんですけどよくわからなくて……」
モストロ・ラウンジの閉店後。片付けを手伝いながらそう声をかけると、アズール先輩は少し驚いたように目を瞬かせた。
「私に質問するよりも、クルーウェル先生に直接聞いた方がいいのでは?」
「でも、先輩が一番分かりやすく説明してくれるから」
そう言うと、彼は少しだけ目を伏せ、指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ふん」と小さく鼻を鳴らした彼の表情は、一見冷静を装っているようだったが、わずかに口元が緩んでいるようにも見えた。
「まあ、あなたがそこまで言うなら、特別に教えて差し上げますよ」
「ありがとうございます、アズール先輩!」
私が嬉しそうに微笑むと、アズールは言葉に詰まったようにこちらを見つめた。
それから視線を逸らし、咳払いをする。
「……そんなに喜ぶことでもないでしょう」
「でも、先輩に教えてもらえるの、嬉しいです」
「……!」
彼の肩がほんのわずかに揺れるのが分かった。
「……あなたは、本当に……」
彼が何か言いかけて、そこで止まる。
そのまま沈黙が落ちるかと思ったが、彼はふっとため息をついて続けた。
「……まあ、いいでしょう。では、そこに座ってください」
私はカウンターの端に腰を下ろし、アズールの言葉に耳を傾けた。
彼の説明は、やはり分かりやすかった。専門用語もかみ砕いてくれるし、例え話も的確で、気づけば私は夢中になって聞き入っていた。
「なるほど……!」
「理解できましたか?まぁ私が直接お教えしているのでわからないはずありませんが」
ふと顔を上げると、アズール先輩はいつもより少し柔らかい笑顔を浮かべていた。
それは、彼のいつもの計算された商売用の笑顔ではなく、本当に心から何かを伝えようとしているような、そんな表情だった。
「……先輩?」
「……」
私がじっと見つめると、彼は急に顔を背け、咳払いをする。
「あまりじろじろ見ないでください。……恥ずかしいでしょう」
「えっ、今の笑顔、すごく素敵だったのに」
「っ……!!」
彼は驚いたように目を見開いたあと、すぐにむすっとした表情になった。
「……とんでもないことをさらっと言いますね」
「えっ、そんなつもりは……!」
「ふん」とそっぽを向いた彼だったが、耳の先がほんのり赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
──こんなふうに、少しずつ、先輩は心を開いてくれているんだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「先輩、これからも、もっと色々教えてくださいね」
「……気が向いたら、です」
つれない言葉とは裏腹に、彼の表情はどこか優しかった。
私はその変化が、何よりも嬉しくて──。
この距離を、少しずつ縮めていこうと、そう心に決めた。
「ねえねえ、小エビちゃん」
フロイドが、いつものように気まぐれな調子で話しかけてくる。
「ん?」
「最近、アズールとよく一緒にいるよねぇ?」
「……そうかな?」
「前はアズールが小エビちゃんに絡むのって、なんかこう……“利用できるか”って感じだったのにさぁ、今は違う感じ」
フロイドはじっと私の顔を覗き込み、にやっと笑う。
「えっ……」
「小エビちゃんが他の人と仲良くしてると、アズールおもしろ~い顔するんだよねぇ」
「おもしろい顔?」
「ん~、なんて言えばいいかなぁ……?カキみたいにぎゅ~って閉じちゃうっていうか?」
フロイドは楽しそうに笑いながら、私の肩をぽんぽんと叩く。
「ま、オレはどっちでもいいけどぉ。 小エビちゃん、今はアズールのこと、どー思ってんの?」
「えっ、それは……」
答えに詰まる私を見て、フロイドはさらににやにやと笑う。
「ま、いーや」
そう言い残して、フロイドは軽やかに去っていった。
その翌日、今度はジェイド先輩と話す機会があった。
「監督生さん、少しお時間をいただいても?」
ジェイドは、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていたが、目の奥には何か鋭いものが宿っているように感じた。
「もちろんです。どうしましたか?」
「……最近、アズールの様子が少し変わったと思いませんか?」
「えっ……?」
驚く私をよそに、ジェイドはくすくすと笑う。
「アズールは昔から、人を信用することが苦手でした。利用価値があるかどうか、それが彼の基準でしたからね」
「……はい」
ジェイド先輩の言葉を聞きながら、私は少し胸が痛くなった。
「ですが、監督生さんと接する時の彼は、どこか違うように思えるのです」
「違う……?」
「ええ。あなたには、何か“利益”以外のものを感じているのではないかと」
ジェイドは、紅茶をゆっくりと口に運びながら、少しだけ目を細めた。
「……ふふ、これは興味深いですね」
その言葉には、どこか愉快そうな響きがあった。
「……先輩は、それをどう思うんですか?」
私がそう尋ねると、ジェイドは少しだけ考えるような仕草を見せたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「さあ、どうでしょうね?」
「……えっ?」
「ただ、私は見守るだけです。アズールがどのように変わっていくのか、近くで観察できるのが非常に楽しみですから」
その言葉には、何かを含んだような響きがあった。
ジェイドは、まるで全てを見透かしているような笑みを浮かべたまま、静かにカップを置く。
「監督生さん、あなたは……アズールにとって、どのような存在になりたいですか?」
不意に投げかけられた問いに、私は答えを見つけられないまま、ただジェイドの微笑みを見つめることしかできなかった。
──モストロ・ラウンジの営業が始まってしばらくした頃、妙な変化に気がついた。
最近、ある寮生が頻繁にラウンジを訪れるようになったのだ。
彼はもともとそれほどラウンジの常連というわけではなかったはずだ。
けれど、ここ最近は毎日のように足を運び、決まって監督生がホールにいる時間帯を選んで訪れる。
「あ、また来たね。いらっしゃいませ!」
私がそう声をかけると、その寮生は少し照れくさそうに微笑んだ。
「君がいるから、つい寄っちゃうんだよね」
「えっ?」
私は首を傾げる。
「いや、ほら、君って接客がすごく丁寧だし、話してて楽しいからさ」
「えへへ、ありがとうございます!」
軽く流してしまったけれど、彼は私が話すたびにじっとこちらを見つめているような気がした。
気のせいかもしれない。でも、こうして通ってくれるのは嬉しいことだ。
だから私は、彼が来るたびに笑顔で接した。
ただ、そのやり取りを静かに見つめている視線があったことには、気づかなかった。
──カウンターの奥。
アズールは何も言わず、ただグラスを拭きながら、二人の様子を見ていた。
──いや、正確には「監督生さん」を見ていた。
彼は気づいていない。
自分があの寮生から向けられる特別な感情に、まるで無自覚なこと。
だからこそ、無邪気に笑いかけ、親しげに会話を続けるのだろう。
それを見ていると、胸の奥が妙にざわつく。
「……ふぅ」
アズールはそっと息を吐くと、静かにグラスを置いた。
モストロ・ラウンジの常連が増えるのは悪いことではないし、彼女が誰と親しく話そうと私には関係のないことだ。
……そう、関係のないことのはずなのに。
自分でも驚くほど、その光景が目障りに感じる。
「先ほどから不機嫌そうな顔をしていますが、 大丈夫ですか?」
「……不機嫌などではありませんよ」
いつの間にか隣にいたジェイドが、面白そうに微笑んでいた。
「おや、そうでしょうか?」
「……何が言いたいんです?」
ジェイドは口元に指を当て、くすくすと笑う。
「いえ。ただ、監督生さんがあの寮生と仲良くしているのを、熱心にずっと見ていらっしゃるものですから」
「……従業員やお客様を観察するのは当たり前でしょう」
「ふふ、まぁそういうことにしておきましょう」
アズールが何かを言い返そうとした瞬間、ジェイドがちらりとホールを見やる。
「ですが……あの寮生……」
その視線の先では、相変わらず監督生が寮生と楽しげに話している。
ジェイドの言葉に、アズールは小さく舌打ちしそうになった。
「どうするかはアズール自身が決めることです」
そう言いながら、ジェイドはさりげなく言葉を付け足した。
「──けれど、気づいた時にはもう手遅れ、なんてことにならないといいですが」
アズールはその言葉に一瞬動きを止めた。
ジェイドの言葉は、どこか意味深で、からかうような響きもあった。
でも、そこに含まれた真意に気づいた時、アズールは目を伏せるしかなかった。
モストロ・ラウンジの営業が終わり、最後の片付けが終わった頃。
私はスタッフルームにいた。
店内の喧騒が消え、心地よい静けさが広がるこの場所は、一日の終わりにホッと一息つける時間でもある。
そんな時、不意に扉が開き、アズールが入ってきた。
「……監督生さん」
その声の調子が、いつもと違う気がして、私は思わず振り返った。
「あ、アズール先輩。お疲れさまです」
「ええ、お疲れさまです……と言いたいところですが」
そう言いながら、アズールは眼鏡を押し上げる。
淡々とした声の奥に、微かに苛立ちが滲んでいるような気がした。
「あなた、最近妙にあの寮生と仲が良いようですね」
「え? あぁ、あの人ですか?」
私は特に気にすることもなく、素直に頷いた。
「たしかに、最近よく来てくれますよね。接客を褒めてくれたり、話しかけてくれたりするから、嬉しくて」
「……そうですか」
アズールの表情がわずかに曇る。
「……嬉しくて、ですか」
その言葉を繰り返すように呟くと、彼は少しだけ目を伏せた。
「あなた、警戒心というものが少し足りないのでは?」
「えっ?」
私はぽかんとして、アズールを見つめた。
「彼があなたに対してどんな感情を抱いているか、まったく気づいていないのですか?」
「え……?」
思いがけない指摘に、私は目を瞬かせた。
アズールは苛立たしげに息をつくと、私をじっと見つめる。
「あなたが気づいていないだけで、彼の態度はどう考えても普通の常連客のそれではありませんよ」
「そ、そうですか……?」
言いかけたところで、廊下の方から足音が聞こえてきた。
このタイミングで来るなんて、もしかして──。
そう思った瞬間、アズールが私の腕を引いた。
「ちょっ、アズール先──」
言葉を最後まで言い切る間もなく、私はふわりとした感触に包まれた。
それがアズールの寮服のコートだと気づくのに、数秒かかった。
──アズールが、私を自分のコートの内側に隠したのだ。
アズールがいつもつけてるコロンの香りが鼻を掠めた。すぐ近くから、鼓動が聞こえる。私のものか、それともアズールのものか、わからない。
「……っ、アズール先輩?」
驚いて顔を上げると、すぐ目の前にアズールの顔があった。
「……静かに」
その低い声に、私は息をのむ。
その直後、扉が開き、例の寮生が姿を見せた。
「すみません、監督生、いますか?」
扉の向こうから、私を探す声が響く。
けれど、アズールは表情を変えないまま、私を隠したまま顔だけ彼に向けすっと冷静に言葉を返した。
「……あいにく、彼女はもう帰りました」
「えっ、でもさっきまで──」
「今日はずいぶんと遅くまで残っていましたからね」
アズールは微笑を浮かべながらも、その瞳は鋭かった。
「お疲れのようでしたし、もう寮に戻られたはずです」
しばらくの沈黙の後、寮生は諦めたように息を吐いた。
「……そうですか。わかりました、失礼します」
その足音が遠ざかっていくのを感じる。
私はずっと、アズールのコートの中で息をひそめていた。
彼がこんな行動を取るなんて、思ってもみなかった。
扉が閉まる音が響き、ようやくアズールは監督生を解放した。
私は彼を見上げた。
「……あの、どうしてこんなこと……?」
アズールは何も言わず、そっと眼鏡を押し上げる。
その指先が、わずかに震えているように見えたのは、気のせいだろうか。
「……無防備すぎますよ、あなたは」
そう言って、アズールは目を伏せた。
その言葉の意味を考えるよりも先に、アズールの表情に目を奪われた。
どこか、悔しそうで。
どこか、苛立たしそうで。
けれど、何よりも──優しそうだった。
「……私の契約書でも作りましょうか?」
ふっと彼が微笑む。
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
──私を守るための、契約書。
心臓の音が、うるさく響いていた。
──ラウンジを出ると、夜の冷たい空気が肌を撫でた。
私は、アズールの少し後ろを歩きながら、自分の顔が熱いことに気づいていた。
──さっきのことが、頭から離れない。
「……無防備すぎますよ、あなたは」
静かだけれど、どこか怒ったようなその声。
私を自分のコートの中に隠して、扉の向こうの寮生に冷静に嘘をついた彼。
そして最後に、あの含みのある言葉。
「私の契約書でも作りましょうか?」
あの時の彼の表情が、頭の中で何度も繰り返される。
──ずるい。
いつも、私が彼に歩み寄るばかりだったのに。
最近は、気がつくと彼の言動に振り回されてばかりいる。
心臓が落ち着かないほどドキドキしてしまう自分が、悔しいような、でもどこか嬉しいような。
そんな気持ちがぐるぐると渦巻いて、まともにアズールの背中を見ることができない。
「……監督生さん?」
不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を揺らした。
「えっ!? な、なんですか!?」
思わず大きな声を出してしまい、アズールが驚いたように振り返る。
「……いや、なんだか急に黙るものですから。疲れましたか?」
アズールは落ち着いた声音で尋ねてくる。
それが、余計に私の動揺を加速させる。
「つ、疲れてません! だ、大丈夫です!」
ぎこちなく手を振る私を、アズールはじっと見つめた。
そして──
「……ふふ」
静かに笑った。
その笑顔が、今まで見てきたどの笑顔よりも自然で、どこか楽しそうで。
私は、思わず目を見張る。
(……今、すごく楽しそうに笑った)
契約を交わす時の営業スマイルでも、交渉時の余裕の笑みでもない。
まるで、ただ心から楽しんでいるような、そんな柔らかな笑顔。
それが、私の心をまた強く揺らした。
──どうして?
いつもは私が積極的に絡んでいくのに、今日は完全に振り回されている。
なのに、そんな私の様子を見て、アズールはどこか楽しそうにしている。
いつも完璧に立ち回る彼の、こんなふうに笑う姿を、私は知らなかった。
「……もう、なんなんですか」
思わず小さく呟くと、アズールが首を傾げる。
「何がです?」
「……アズール先輩って、ずるいです」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を見開いた。
けれど、すぐにまた柔らかく微笑んで、
「……それは褒め言葉として受け取っておきます」
と、どこか楽しげに言った。
──また、振り回されている。
でも、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、この距離が少しずつ変わっていくのを、感じずにはいられなかった。
「じゃあ、私はここで──」
自分の寮の扉の前で、私はアズールに向き直った。
今日は、なんだかいつも以上に彼の言動に振り回されて、疲れたような、でも心が浮つくような不思議な感覚が残っている。
アズールは相変わらず落ち着いた様子で、「ええ、おやすみなさい」と静かに微笑んだ。
──その笑顔が、また私の心を揺さぶる。
「……あの」
ふと、言葉が零れそうになった。
──今日はありがとうございました、とか。
──本当はどういう気持ちで私を庇ったんですか、とか。
──今、どう思ってるんですか、とか。
でも、そんなことを聞けるはずもなく、私は慌てて口をつぐむ。
「……なんですか?」
アズールが目を細め、問いかけてくる。
「……なんでもないです」
誤魔化すように微笑んで、私は寮の扉に手をかけた。
だけど──
「──っ!? うわっ!」
不意に足元がふわりと浮く感覚に襲われた。
寮の入り口に続く階段。
その一段目を踏み外して、バランスを崩してしまう。
──やばい!
そう思った瞬間。
「……っ!!」
ガシッ──と、強く腕を引かれた。
そして、背中に何か柔らかいものがぶつかり、私は強く抱きしめられるような形で止まった。
「……?」
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
けれど、すぐに気がつく。
「──っ!?!?」
私の身体をしっかりと支えているのは、アズールの腕。
彼はとっさに私を受け止め、まるで抱きしめるような形になっていた。
「大丈夫ですか?」
すぐ耳元で、静かな声が落ちた。
──えっ、近い、近い、近い!!
「わ、私、大丈夫です!!」
慌てて離れようとしたけれど、アズールの腕はまだしっかりと私を支えていて、動けない。
「……何が大丈夫なのです?」
彼の声は冷静だった。
だけど、私を支える手がわずかに震えている気がした。
「……急に離れたら、また転びますよ」
そう言われて、私はぴたりと動きを止める。
アズールの腕の中で、私は彼の鼓動を感じた。
静かな夜の中で、やけにそれが耳に響く。
そして、自分の心臓もそれに負けないくらいにドキドキしていることに気がついた。
「……あの」
息を呑んで、アズールの顔を見上げる。
ほんの少しだけ、彼の表情が硬い。
それが、私の心をさらに掻き乱した。
──アズール先輩、もしかして、今……。
「……」
彼はじっと私を見つめたまま、何も言わなかった。
その目が、まるで何かを探るように私を捉えていて。
──呼吸するのが苦しい。
「あなたは本当に無防備ですね」
そう呟いたアズールの声が、少しだけ低くなった気がした。
私の心臓が、大きく跳ねる。
「……っ」
何かを言おうと口を開いた瞬間──
アズールはふっと表情を和らげ、少しだけ私の肩を押した。
「……もう、大丈夫そうですね」
名残惜しげに、でもどこか優しく。
私は、ようやく自由になった自分の腕を見つめる。
──逃がされた。
そう思ったら、なんだか悲しくなってしまう。
アズールは、どこかいつもの余裕を取り戻した表情で、「気をつけてくださいね」と微笑んだ。
「……おやすみなさい、監督生さん」
その言葉に、私は少しだけ不満げに唇を噛んだ。
──ずるい。
こんなに私をドキドキさせておいて、何事もなかったみたいな顔をするなんて。
「……おやすみなさい、アズール先輩」
小さくそう返して、私は扉を開けた。
だけど、背中に感じる彼の視線が、しばらく消えなかった。
「うわー!海だー!!」
遠くまで広がる青い海を目の前にして、エースとデュースが駆け出す。
「ちょ、デュース!競争しようぜ!」
「は?負けるわけねーだろ!」
ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、二人はどんどん沖へ向かっていく。
「ちょっと!授業中なんですけど!」
慌てて追いかけるも、もう聞いちゃいない。
「はぁ……」
ため息をつきつつ、グリムが砂浜を走り回っているのを見て、思わず笑みがこぼれる。
──そんな様子を少し離れた岩場の陰から見ている二つの影があった。
「おやおや、楽しそうですねぇ」
「ねーアズール、混ざらなくていいの?」
ジェイドとフロイドが揃ってニヤニヤしながら、隣に立つアズールを覗き込む。
アズールは腕を組み、わざとらしく咳払いをした。
「私はあくまで監督の立場ですから」
「ふぅん?」
「そういうことにしておきましょう」
楽しそうな二人の視線が、さらにアズールを追い詰める。
「まさか。私はただ、授業の目的を忘れては困ると思っただけですよ」
砂浜でデュースに水をかけられて笑っている監督生の姿が、視界に入る。
(……あれだけ楽しんでると、心配になりますね)
アズールは小さく息をつき、足元の砂を蹴った。
ゆっくりと近づいていく。
「監督生さん」
呼びかけると、振り向いた監督生が、ぱっと笑顔を向けた。
「アズール先輩!」
アズールは軽く眼鏡を押し上げると、柔らかくも釘を刺すような口調で続ける。
「はしゃぎすぎないように。波の流れは予測不能ですからね」
「え、あ……はい、わかりました!」
一瞬驚いたような顔をした監督生だったが、すぐにこくりと頷く。
(……あまり無茶をしなければいいのですが)
不安を抱えつつも、アズールは少しだけ表情を和らげた。
──監督生が砂浜を歩いていると、少し離れた場所でグループで話している女の子たちの声が耳に入ってきた。
「あ、あそこにいる人かっこよくない?」
「ほんとだ! 声かけてみる?」
監督生はその声に引き寄せられるように、視線を向けた。
すると、そこにはアズール、フロイド、ジェイドが並んでいるのが見えた。
(……あれ?)
その瞬間、アズールがぴたりと動きを止め、グループの女の子たちに向かって、あの特有の営業スマイルを浮かべて話しかけているのが見えた。
監督生は目を細めて、少しだけその様子を見つめてしまう。
──いつも通りだ。アズール先輩は、どこにいても堂々としていて、完璧に対応している。
ふと、自分の中に不安と少しの嫉妬が入り混じるのを感じて、すぐに目を逸らした。
(……?)
心の中でモヤモヤする気持ちを抱えつつ、監督生は歩き続けた。
「では、各自、指定された区域で作業を開始するように!」
クルーウェル先生の鋭い声が響き渡る。
「魔法薬学の知識を応用し、海洋生物に悪影響を与えない環境調査を行うことが今回の授業の目的だ。しっかりと取り組むように!」
生徒たちは次々と自分の持ち場へと向かっていく。
しかし——
「ふなー!なんでオレたちだけこんな地味な作業なんだゾ!」
グリムがぷりぷりと怒りながら、小さなバケツを抱えて砂浜を歩いている。
監督生もため息をつきながら、その隣を歩く。
「仕方ないよ、私には魔力がないし、授業はペアで動かないとね」
他の生徒たちは、魔法を使って海中でデータを取ったり、貝殻の成分を解析したりと、いかにも授業らしいことをしているのに、監督生とグリムは『指定された区域のゴミ拾い』という、ある意味最も地味な役割を任されていた。
「ちぇっ、つまんないんだゾ~……」
グリムは砂浜のゴミを拾いながらぶつぶつ文句を言っているが、監督生はそれどころではなかった。
頭の中にこびりついて離れない、ある光景がある。
——アズールが、笑顔を浮かべながら、さっきの女の子たちと会話している姿。
(……別に、普通のことなんだけど)
もやもやする。
あの完璧な笑顔。いつも通りの対応。何も気にすることなんてないはずなのに、心がざわつく。
「あー! もう!」
思わず拾った貝殻をぎゅっと握りしめる。
「何をそんなに苛立っているんです?」
——ひやりとする声が、すぐ背後から降ってきた。
驚いて振り向くと、そこにはアズールが立っていた。
「ア、アズール先輩?」
「今、私を見て驚きましたね?」
「べ、別に驚いてません!」
「そうですか。では、なぜそんなに不貞腐れた顔をしているんです?」
アズールは少しだけ身を屈めて、監督生の顔を覗き込む。
「私はただ、監督生さんが与えられた作業をしっかりこなしているか、見に来ただけですよ」
「……不貞腐れてなんかないです」
「ほう?」
監督生はそっぽを向き、グリムが拾った貝殻をバケツに入れるふりをしながら、視線を逸らす。
まっすぐ見られない。
アズールはそんな監督生をしばらくじっと見つめた後、わざとらしく溜め息をついた。
「……それならいいんですが」
ふっと目を細めたアズールは、潮風に揺れる眼鏡を押し上げた。
「……まあ、何かあるなら、話くらいは聞いてあげますよ」
「っ……」
監督生は、一瞬だけ迷った。
けれど、心の中のもやもやを言葉にすることはできなくて。
「……なんでもないです」
「……そうですか」
アズールは監督生の様子を観察するように見つめた後、何かを悟ったのか、それ以上は何も言わなかった。
「くれぐれも、危ない場所に一人では行かないでくださいね」
「……わかってます」
潮風が心地よく吹き抜ける浜辺。
アズールと話したあとも、監督生はどこかそわそわと落ち着かない気持ちを抱えたまま、グリムと一緒に作業を続けていた。
けれど——
「ねえ、あの人たち、すごくかっこよくない?」
「わかる! 特にあの眼鏡の人、知的で素敵だよね……」
「話しかけてみようかな?」
——そんな声がまた耳に入ってきた。
(また……)
振り返れば、数人の女の子たちがこちらをちらちらと見ながら話している。その視線の先にいるのは、やはりオクタヴィネルの3人だった。
特にアズールに向けられる視線が多い。
彼は女の子たちの視線に気づいているのかいないのか、相変わらず完璧な立ち振る舞いで立っている。
(……先輩って、やっぱりモテるんだ)
それは当然のことなのかもしれない。
整った容姿に、知的で計算高い頭脳。どこか余裕を感じさせる話し方。加えて、あの完璧な営業スマイル。
モストロ・ラウンジの経営者として多くの客を惹きつけているのだから、魅力があるのは当たり前だ。
(別に、どうってことない……)
そう自分に言い聞かせながらも、なぜか心の奥がちくりと痛む。
目の前の作業に意識を向けようとするのに、どうしても気になってしまう。
そして、その様子を——
「おや、監督生さん」
「小エビちゃん、なんかさっきからおもしろい顔してるねぇ」
見逃すはずがない人物が二人。
ジェイドとフロイドが、にやりと笑いながら監督生のそばに近づいてきた。
「……え? 何がですか?」
「あのねぇ、小エビちゃん。顔に出てるよぉ?」
「そうですね。まるで、自分でも気づいていないうちに誰かに嫉妬しているような……」
「!? そ、そんなことないです!」
反射的に否定するものの、ジェイドとフロイドの表情は変わらない。
「へぇ~? でもさっきから、アズールのほうチラチラ見てるよねぇ?」
「あんな風言い寄られているアズール、学校じゃ見れませんからね」
「ち、違います! そんなつもりじゃ……」
慌てる監督生を見て、フロイドは楽しそうに笑い、ジェイドも口元を押さえながら微笑んでいる。
「フフ……これは、なかなか面白いことになりそうですねぇ」
「ねぇ、小エビちゃん、アズールに直接言ったら?」
「だから違いますって……!」
監督生の必死の否定も、彼らにはまるで届かない。
そのとき——
「……何を話しているんです?」
ひんやりとした声が降ってきた。
振り返ると、そこにはアズールが立っていた。
「ア、アズール先輩……!」
「おや、アズール。ちょうどいいところに」
「小エビちゃんがアズールに聞きたいことがあるんだって」
「ちょ、ちょっと先輩……!」
フロイドの余計な一言に、監督生は焦った。
「何ですか、監督生さん」
「え……いやなんでも……」
「……?」
訝しげな表情のアズール。
「どうしたんです、話があるなら聞きますよ」
「…………先輩って、モテるんですね」
ぽつりと、監督生の口から零れた言葉に、アズールは瞬きした。
「……は?」
彼が聞き返す前に、監督生は顔を逸らしながら続けた。
「さっきも女の子たちが先輩のこと見てましたし、声をかけようとしてたみたいですし……その、やっぱり素敵だなって思われるんですね」
自分で言っておきながら、どうしてこんなに胸がざわつくのか。
それがただの社交辞令のようなものだとわかっていても、どうしてこんなにも気になってしまうのか。
「……はぁ」
そんな監督生を見て、アズールは深いため息をついた。
「監督生さん……あなた、まさかそんなことで悩んでたんですか?」
「そんなことって……」
「そんなの、あなたがいちいち気にする必要はないでしょう?」
「あんなに楽しそうに対応してたのに……?」
「それはビジネスですから」
さらりと言われ、監督生はぎゅっと拳を握った。
(わかってる、わかってるのに……!)
「……もういいです!」
感情が抑えきれなくなって、監督生はその場から駆け出していた。
「……え?」
「おやおや、これは……」
「アズール、やっちゃったね」
ジェイドとフロイドが呟く声が遠ざかる。
どうして走っているのか、自分でもわからない。
ただ、どこかへ行きたかった。
「はぁ……」
アズールは軽く額に手を当て、深く息を吐いた。
目の前には、腕を組みながらにこやかに見下ろしてくるジェイドと、ニヤニヤと笑いながら頬杖をつくフロイド。
「ねぇアズール、さっきのはちょーっとマズかったんじゃなーい?」
「そうですねぇ。監督生さん、明らかに怒っていましたよ」
「……私のどこが悪かったと言うんです?」
不機嫌そうに眉を寄せるアズールに、ジェイドは穏やかに微笑みながら答えた。
「どこが、ではなく、全て、かと」
「……っ!」
「流石に少しはフォローしてあげないと、あれでは監督生さん、ずーっと怒ったままかもしれませんよ」
ジェイドがクスクスと笑いながら言う。
「なんでそうなるんです?」
「アズールのそういうところがダメなんじゃね?」
「……何だと?」
「小エビちゃん、ぜーんぶ自分で納得しようとしてるけど、本当はアズールのこと気にしてるんだよ? だから拗ねたんでしょ?」
フロイドが指をくるくると回しながら続ける。
「それを『そんなこと』なんて言っちゃったら、余計に機嫌悪くなるのは当然じゃん?」
「……っ」
「それに、監督生さんがどういう気持ちでそれを言ったのか、考えましたか?」
ジェイドの言葉に、アズールは何も言えなくなった。
「『そんなこと』、ではなく、監督生さんにとっては『大事なこと』だったのかもしれませんよ」
「……」
「このまま小エビちゃんがふわーっといなくなったら、どーするの? 泡みたいに」
「……」
アズールは視線を逸らしながら、小さく唇を噛んだ。
(監督生さんが……いなくなる?)
ふと、胸の奥がひどくざわついた。
ジェイドとフロイドはそんなアズールの様子を見て、どこか楽しげに微笑んでいる。
「さて、どうします? このまま監督生さんを放っておくのもいいですが……」
「……私は……」
──波の音が、どこまでも響いていた。
水面は静かに揺れ、陽の光を受けてきらきらと煌めく。
──本当に綺麗。
そう思いながら、私は辺りを見渡した。
「グリム──! どこ!?」
風にかき消されないように、大きな声で叫ぶ。
このあたりは魔力を持つ者は立ち入り禁止の区域だったはずだけど……。
──グリムがいない。
ほんの少し目を離した隙に、彼はどこかへ駆けて行ってしまった。
誰かに伝えようとした時にはすでに道に迷ってしまっていて、戻ろうにも戻れなくなっていた。
「くれぐれも気をつけるように」とあんなに言われていたのに……!
焦燥感に駆られながら、私は奥へと足を踏み入れる。
草木が生い茂る岩場の先、波の音がどんどん近づいてくる。
「グリム……」
不安が胸を締め付ける。
──まさか、海に?
グリムは魔力を持っている。
もしこの近くで何かに引き寄せられたのだとしたら……
ザザァァァ……
波の音が、どこか異様に響く気がした。
「グリム──!!」
足を速めて、視界が開ける場所へ飛び出す。
──そこには、崖があった。
「……!!」
風が、強く吹きつける。
下を覗き込むと、険しい岩場が広がり、荒々しい波が打ち寄せていた。
そして、その中に──
「ふ、ふなぁぁぁぁぁ!! た、助けるんだゾぉ!!」
「グリム!!!」
彼は岩に引っかかるようにして、海の上で必死にもがいていた。
──間に合わない!
咄嗟に体が動いた。
「グリム!! しっかり掴まって!!」
夢中で崖の端まで駆け寄る。
手を伸ばして、必死にグリムへと叫んだ。
──だけど。
その瞬間、ぐらりと足場が崩れた。
「……え?」
視界が、傾く。
身体が、ふわりと浮く。
──落ちる?
理解したときには、すでに重力に引かれていた。
「あっ……!!」
冷たい風が髪をなびかせる。
景色がぐるぐると回る。
水面が、どんどん近づいてくる。
──怖い。
足が地面についていない感覚。
重力に逆らえず、ただ落ちていくしかない恐怖。
「だれか──!!」
無意識に叫びそうになって、私はぎゅっと目を閉じた。
──そのとき。
心に浮かんだのは、彼の姿だった。
──アズール先輩。
助けて。
心の中で、無意識に彼の名を呼んだ。
……ザッ。
どこかで、何かが駆ける音がした。
「──!!」
崖の上で、誰かの影が見えた気がした。
青みがかった白い髪。
そして、目を見開く見慣れた表情。
──アズール先輩?
錯覚かもしれない。
だけど、その姿が、私の視界の最後に映った。
ザァァァンッ──!!
冷たい水が、私を呑み込んだ。
——仄かに塩の香りがした。
それが、最初に感じたもの。
瞼をゆっくりと持ち上げると、天井のシャンデリアがぼんやりと揺れる。
「……ここは……?」
微かに頭がぼうっとしていた。
上品な内装の部屋。
そして、自分はふかふかのベッドの上に横たわっている。私は宿泊先のホテルの部屋にいた。
──思い出す。
崖から落ちた。
海に飲まれた。
グリムの名を呼んだ。
そして──
「……アズール先輩……」
自分が最後に思ったのは、その名前だった。
不意に、胸がぎゅっと締めつけられる。
あの後、どうなったのか……?
グリムは……?
私は……。
「っ……」
少し、頭が痛んだ。軽いめまいがするが、大きな怪我はなさそうだった。
ふと、視線を横に向ける。
──そこで、息をのんだ。
ベッドのすぐ隣。
大きな椅子に、アズールが座っていた。
けれど、彼は目を閉じたまま、静かに息をしている。
──眠っている。
彼が、こんな風に無防備な姿を晒しているのを初めて見た。
いつもはまっすぐ整えられた銀縁の眼鏡は少しずれ落ちており、背筋はまっすぐだが、ほんの少し、肩が力なく落ちているように見えた。
規則正しく上下する胸元。
深く、静かな呼吸。
月明かりに照らされた横顔は、驚くほど穏やかで、優しかった。
「……アズール先輩……?」
小さく名前を呼んでみる。
だが、返事はない。
本当に、眠っているのだ。
どうしてここに……。
どれくらい時間が経ったのかわからないが、眠ってしまうほどずっと、横にいてくれたのだろうか。
──どれだけ、自分のことを気にかけてくれていたのだろう。
じわりと、胸の奥が熱くなる。
気がつくと、自分の手が、彼の髪に伸びそうになっていた。
「っ……」
慌てて、拳を握る。
触れたい。
でも、触れてしまったら──
きっと、今のこの時間が壊れてしまう気がした。
だから。
「……ありがとうございます」
そっと、囁くだけにする。
アズールは、まだ眠ったままだった。
けれど、月光の下で、彼の指先がほんの少しだけ動いたような気がした。
アズールはいまだ眠ったままだった。
ゆっくりと彼の顔を見つめながら、微かな寝息を聞く。
普段はどこか計算高く、完璧な笑顔を浮かべている彼。
でも今は、ただ穏やかに眠っている。
──いつも、こんな風に休めているのだろうか。
そんなことを考えていると、隣のベッドのほうから何やら小さな音がした。
「ん~……小エビちゃん、起きたぁ?」
ぼんやりとした声が聞こえて、反対側を見ると、ベッドの上で寝返りを打ちながらこちらを見ているフロイドと目が合った。
「……フロイド先輩?」
全然気が付かなかった。
「意外と元気そうじゃん。もう少し寝てるかと思ったけど」
フロイドは枕に顔を埋めたまま、あくびをしながら監督生を見つめる。
「フロイド先輩、私は……いやそれよりもグリムは……!?」
「あー、アザラシちゃんなら無事だよ。別の部屋で寝かされてる。あんなに暴れたくせに、今はぐーすか寝てるんだから、図太いよねぇ」
そう言って笑うフロイド。
その言葉に、胸をなでおろした。
──よかった。
「……私、どうなったの?」
自分の記憶は、崖から落ちたところで途切れている。
フロイドは少し目を細めた。
「それは~……ジェイドに聞いたほうがいいかも」
そう言った直後。
「ふふ、お呼びでしょうか?」
扉が静かに開き、柔らかな笑みを浮かべたジェイドが入ってきた。
「ジェイド先輩……」
「監督生さん、目が覚めたのですね。よかった、みなさん心配していましたよ。体調はいかがですか?」
ジェイドはそう言いながら、ベッドの脇にゆっくりと近づく。
そのまま、ちらりと隣で眠るアズールを見て、目を細めた。
「ふふ……アズールは、ようやく休めたようですね」
ジェイドの言葉に、思わず問いかける。
「私、どうしてここに……?海に落ちていくところから記憶がなくて……」
ジェイドは静かに微笑んだ。
「海に落ちた監督生さんを、アズールが助けたんですよ」
──アズールが?
思わず隣の彼を見た。
今も静かに眠る彼。
ジェイドは続ける。
「グリムさんを助けようとした監督生さんが崖から落ちたと聞いて、アズールは一番に飛び出しました。もちろん、私とフロイドもすぐに後を追いましたが……」
フロイドがけだるげに呟く。
「アズールのやつ、すごい勢いだったよねぇ。小エビちゃんのことになると、ほんと分かりやすいんだから」
「……」
「……おや? 監督生さんの姿が見えませんね」
ジェイドが辺りを見回しながら、ふと疑問を口にした。
多くの生徒がグループになって散策する中、彼女の姿だけが見当たらない。
「さっきまでいたよな?」
デュースが訝しげに言う。
「ああ、でも……」
エースが眉を寄せ、グリムの姿もないことに気づく。
「まさか……アイツ、どっか行っちまったんじゃ」
「えぇ~? 小エビちゃん、迷子?」
のんびりとした調子でフロイドが呟く。
けれど、その言葉に誰も笑わなかった。
「……おかしいですねぇ」
ジェイドの笑みが、ほんのわずかに翳る。
彼の直感が警鐘を鳴らしていた。
「あの方は、ひとりで勝手にどこかへ行くようなタイプではないでしょう?」
「……!」
エースとデュースが顔を見合わせる。
「そういえば……グリムのやつが見えない」
「まさか……!?」
「うわっ、ヤバくね!? もしかして……」
言いかけたエースの言葉を遮るように、風が強く吹いた。
ザァァァァ……
波の音が、やけに耳に響く。
その瞬間──
「──監督生が崖の上にいる!!」
「なんか落ちそうになってねぇか!?」
叫び声が響いた。
「……は?」
誰よりも先に動いたのはアズールだった。
「それは……本当ですか?」
笑顔が、消えていた。
彼の瞳が、一瞬で冷たくなる。
「ッ……どこだ!!?」
鋭い声が響く。
フロイドとジェイドも、瞬時に真剣な表情になった。
「場所は!?」
デュースが慌てて答えようとする。
「え、えっと……あっちの崖の方で──!」
しかし、彼が言い終わるよりも早く。
「アズール先輩──!?」
エースが驚きの声を上げる。
あのアズールが、躊躇いもなく走る。
「ジェイド、フロイド!!」
呼ばれるまでもなく、二人はすでに動いていた。
「フロイド、お前の脚で先回りを!」
「オッケー!」
「ジェイドは場所を確認、僕と一緒に行動を!」
「ええ、承知しました」
誰よりも冷静で、誰よりも的確に。
でも、その瞳だけは焦っていた。
──ジェイドは淡々と続ける。
「監督生さんが海の底に沈む前に、落ちる貴方を見たアズールが真っ先に飛び込んで助けに行きました。彼は魔法を使い、あなたをしっかりと抱えながら浮上してきたのです」
ジェイドの言葉に、思わず息をのむ。
そんなことを……。
フロイドが笑いながら、横目でアズールを見た。
「必死だったよ、アズール。いつもの冷静さはどこ行ったんだろうね」
ジェイドもふっと微笑む。
「ふふ、確かに。監督生さんを海から引き上げた後も、ずっと傍にいて離れませんでしたよ。こうして今も、ね?」
そう言いながら、ジェイドはアズールの肩を軽く叩く。
しかし、彼は目を覚まさない。
「アズール先輩は、怪我とか……」
「大丈夫ですよ、海の中での彼に心配は必要ありません」
あのアズールが、必死になって自分を助けてくれた。
その事実が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
隣で静かに眠る彼の横顔を見つめながら、そっと、心の中で呟いた。
──ありがとう、アズール先輩。
「まぁ、何はともあれ監督生さんが無事でよかったです」
ジェイドが穏やかに微笑みながら、ベッドに座る監督生を見下ろした。
その隣ではフロイドが、腕を組んで少し口を尖らせている。
「でもさー、小エビちゃん。もうちょっと自分の無力さを自覚したほうがいいんじゃない?オレたちみたいに人魚になれるわけでもないただの人間なんだしさ」
「……すみません、自分の能力も弁えずグリムも助けられなかったし、皆さんにご迷惑ばかりかけて……」
監督生は申し訳なさそうに視線を落とした。しかし、その言葉にジェイドがふっと微笑む。
「違いますよ、監督生さん」
「え……?」
「私たちが言っているのは、一人でどうにかしようとしたことではなく……あなたが周りを心配させたことについて、です」
「そうそう。イシダイ先生とかカニちゃんやサバちゃんもめっちゃ心配してたよ?」
フロイドが頬杖をつきながら、少し呆れたように笑う。
「……みんな……」
「ええ、もちろんです」
ジェイドはにこりと微笑み、静かに続けた。
「あなたがどれだけ周りに大切に思われているか、もう少し自覚してくださいね」
監督生は、その言葉に息を呑んだ。
「……はい」
静かな部屋の中、穏やかな寝息を立てていたアズールの指がかすかに動いた。
そして、長いまつげが震えると、薄く開いた瞳がゆっくりと焦点を結び始める。
「……ん、……監督生さん?」
彼は一瞬、まだ夢の中にいるかのようにぼんやりとした表情を浮かべたが、すぐに意識がはっきりしたのか、こちらをまっすぐ見つめてきた。
「……アズール先輩」
自分の名前が呼ばれた途端、アズールの表情がわずかに歪んだ。
まるで何かを確認するように、そっと身を乗り出し、額に手を当てる。
「……熱はないようですね。頭は痛みますか? めまいは? 息苦しさは?」
次々と淡々とした口調で質問を投げかけるアズールに、思わずたじろいでしまった。
「だ、大丈夫です。何ともありません」
「……本当に?」
もう一度、こちらの顔をじっと見つめるアズール。その目には、冷静なようでいて、どこか焦りのようなものが滲んでいた。
「本当です。ちょっと疲れてるだけ……」
そう答えると、アズールはふうっと小さく息を吐いた。
しかし、その瞬間、
「……まったく、何を考えているんですか?」
彼の声色が、急に低くなる。
「一人で、危険な場所に踏み込んで。グリムさんのことを助けようとした心意気だけは立派ですが……なぜ、誰にも声をかけずに行ったのですか?」
先ほどまでの冷静な問いかけとは打って変わって、鋭い視線を向けてくるアズール。
「それは……」
言葉に詰まる。
「グリムがいなくなったって聞いて、急がなきゃと思って……」
「だからと言って、一人で行動するのはあまりに無謀すぎる。あれだけ注意したというのに」
普段、感情を表に出さないアズールが、珍しく語気を強める。
「あなたは魔法が使えない。もし誰も気づかなかったら、本当に取り返しがつかなかったかもしれないこと、理解していますか?」
「……ごめんなさい」
アズールは深く息をつき、少しの間黙り込んだ。
そして、ふっと力が抜けたように肩を落とすと、低く囁く。
「……あまり心配させないでください」
そう呟くアズールの横顔は、ひどく脆く見えた。
「……」
アズールは目を伏せ、静かに手を組んでいた。
先ほどまでの怒りが、今はすっかり影を潜めている。
「アズール先輩……」
その様子を見ていたジェイドが、ふっと微笑む。
「ふふ……では、私たちはこの辺で失礼しましょうか」
驚いてジェイドを振り向くと、隣でフロイドがニヤリと笑う。
「そうだねジェイド、ちょっと面白そうだったけど」
「私たちがいると話しづらいこともあるでしょうし」
「えっ、ちょ、待って──」
言い終える前に、二人はさっさと部屋を後にしてしまった。
扉が静かに閉まる音が響く。
──残されたのは、自分とアズールだけ。
急に意識してしまい、心臓が、ドクンと高鳴るのを感じた。
ジェイドとフロイドが部屋を出ていった後、室内にはしんとした静けさが落ちた。
微かに聞こえるのは、壁越しに響く波の音と、遠くのざわめき。
「……」
さっきまであれだけ話していたのに、急に二人きりになった途端、どうすればいいのかわからなくなる。
向かい合ったまま、沈黙が降りる。
アズールはふっと視線を外し、ため息をついた。
「……まったく、余計なことを」
「……そうですね」
思わず、ぎこちなく答える。
けれど、アズールが少し気まずそうに目をそらしているのを見て、ふとした疑問が浮かんだ。
(さっき、心配したって言ってくれたけど……)
アズールは、普段、誰にでもそつなく対応する。
ビジネスライクに見えるし、実際、距離を測りながら接しているのを感じることもあった。
でも、今の彼の表情は、まるで違う。
「アズール先輩」
思い切って呼びかけると、アズールは少しだけ肩を揺らし、こちらを見た。
「……体調が優れませんか?」
「……いえ、その、私が海に落ちた時、アズール先輩が助けてくれたと聞きました」
「……ええ」
「ご心配をおかけして、すみませんでした。……そして、ありがとうございます。」
頭を下げると、アズールはほんの一瞬だけ視線を逸らし、口を引き結んだ。
「……当然のことをしたまでです。礼には及びません」
その声音はいつもの落ち着いた調子のはずなのに、どこかぎこちなく聞こえる。
(……なんだろう、やっぱり少し違う)
表情こそ冷静に見えるものの、視線の揺れや、微妙な仕草が普段の彼とは違う気がした。
アズールは静かに私を見つめると、もう一度、少し真剣な声で問いかけた。
「……本当に、大丈夫ですか?」
その声音には、先ほどよりもはっきりとした心配が滲んでいた。
「ええ、平気です。……先輩のおかげで」
そう答えると、アズールはふっと息をついて、どこか安堵したように視線を逸らした。
「……昼間は、申し訳ありません」
「え?」
「あなたが言っていたことを、くだらないなどと決めつけるべきではありませんでした。あの時の私は……少し動揺していたのかもしれません」
アズールが、素直に謝る。
それだけでも驚きなのに、「動揺」という言葉に思わず目を見開いた。
「……それって……」
何か言おうとした瞬間、アズールが視線を逸らし、咳払いをした。
「……今日はあんなことがあったばかりなんですから、ほら、もう少し休んでください」
「そんな、まだ話──」
言いかけた瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
「……あ」
体がぐらつき、バランスを崩す。
先ほどまで寝ていたせいで、体がまだ完全に回復していなかったらしい。
倒れかけた瞬間、強く腕を引かれる。
「……っ、危ない!」
ドンッ、と柔らかい布の感触。
そして、聞こえてくる心臓の音。
気がつくと、アズールの腕の中にいた。
「……え」
「まったく……あなたという人は、言っているそばからどうしてこう無茶をするんですか」
驚いて顔を上げると、目の前にアズールの顔があった。
月明かりに照らされる横顔。
普段はしっかりと作られた笑顔を浮かべる彼が、今はほんの少し眉を下げ、どこか困ったような、それでいて優しげな表情をしている。
心臓が、強く跳ねる。
「……アズール先輩」
「……もう少し、じっとしていなさい」
優しく、しかしどこか命令するような口調。
ドクン、と心臓が鳴る。
アズールの腕の中は、意外なほど温かかった。
「……あなたが、無事でよかった」
そう呟かれた瞬間、もう何も言えなくなった。
月の光が、静かに二人を包み込んでいた。
アズールの腕の中で、静寂が落ちる。
心臓の音がやけに響く。
──けれど、ふと、肌を撫でる空気が少し冷たいことに気づいた。
「……アズール先輩、少し、寒気が……」
ぽつりと零した声に、アズールがわずかに表情を変える。
「……それはいけませんね。少し待っていてください」
腕の力が緩み、彼はゆっくりと身を引く。
「温かいものを用意してきますから──」
「……待ってください!」
咄嗟に彼の手を掴んだ。
アズールの動きが止まる。
自分でも驚くほど、強く握っていた。
「……監督生さん?」
「……あ、えっと……」
自分の声が震えていることに気づく。
──そして、頬を伝う何かに。
「……え?」
こぼれ落ちた雫に、息を呑んだ。
──どうして、泣いているの?
さっきまでそんな気配はなかったのに。
アズールも、驚いたようにこちらを見ていた。
「監督生さん……」
「……わかりません……どうしてか、涙が止まらない……」
戸惑いながら、無意識に頬を拭おうとする。
けれど、拭ったそばから次々にこぼれてくる涙。
「……今になって……怖くなりました」
「……」
「海に落ちた時……息ができなくて……冷たくて……」
思い出した途端、身体が震えた。
恐怖という感情が、一拍遅れて自分を襲ってきたのだと気づく。
「あのまま、沈んでいったらって……」
泣きやもうとすればするほど涙が頬を伝う。
「ごめんなさい、急に、あの、やっぱり大丈夫で──」
次の瞬間。
──強く、抱きしめられた。
「……!? せ、先輩……!」
「……もう、大丈夫です」
アズールの腕が、しっかりと自分を包み込む。
「あなたは、もうここにいます」
「……アズール、先輩……?」
「海にはもう、沈まない。誰もあなたを手放しません」
静かな、けれどどこまでも確かな声。
「だから、もう怖がらなくていい」
優しく、背を撫でられる。
その温かさに、ぎゅっと目を瞑る。
「……でも、怖かったんです……っ」
「……ええ」
「──助けてくれて、本当に、ありがとうございました……っ」
「……」
「本当に、アズール先輩が来てくれて……よかった……っ」
「……ええ、ええ……そうでしょうとも」
少し掠れた声が、頭上で微かに震えた。
「……あなたが、無事でいてくれてよかった」
「……」
「あなたがいなくなるなんて、そんなこと……考えたくもありません」
その言葉に、涙がまた零れる。
彼の腕の中は、安心できる温もりに満ちていた。
——アズールの腕の中で、監督生はしばらく泣き続けた。
涙が止まるまで、彼は何も言わず、ただ静かに背を撫でていた。
温かくて、心地よくて──まるで、この腕の中ならどこへも行かずに済むような錯覚さえ覚える。
やがて、呼吸が落ち着き、監督生はそっと顔を上げた。
アズールの胸元に涙の跡が残っているのを見て、申し訳なさに頬を染める。
けれど、今はそんなことよりも──
「アズール先輩」
呼びかけると、アズールはすぐに視線を落とした。
「……なんですか?」
彼の顔を見つめ、唇を開く。
伝えたいことがある。
この胸にあふれる想いを、ずっと言えずにいた言葉を。
「アズール先輩、私──」
「……それ以上は言わないでください」
小さな声で、しかしはっきりとした口調でアズールが言った。
「……え?」
「……あなたが、今から何を言おうとしているのか……わかります」
彼は、ゆっくりと目を伏せる。
「でも……私に、先に話をさせてもらえませんか?」
「……アズール先輩?」
「……」
ほんの少しだけ躊躇うように目を伏せ、それから、静かに口を開いた。
「私は……ずっと、自分の感情に蓋をしてきました」
低く、落ち着いた声。
けれど、それがどこか苦しげに感じたのは、彼の手がぎゅっと拳を作るように強ばっていたからかもしれない。
「私は、小さな頃から周囲の人間に嘲笑われ、蔑まれて生きてきました」
──それは、彼が時折見せる冷ややかな笑顔の裏にある過去。
「“できそこない”と呼ばれ、“役に立たない”と罵られ……そんな日々の中で、私は学んだのです」
「……」
「誰かを信用することは、ただの愚かさだと」
淡々と語られる言葉に、胸が締めつけられる。
「だから、私は変わることにしました」
アズールは、ゆっくりと顔を上げた。
「誰にも侮られず、誰にも傷つけられず、誰よりも強く、賢くなると──そう決めたんです」
「……」
「そのために、努力を重ね、力を手に入れ……そして、あらゆる感情を“計算”するようになりました」
それが、今の彼の在り方なのだろう。
すべてをコントロールし、どんな時も冷静に立ち回る。
誰にも弱みを見せず、誰にも心を許さない。
「……でも」
ふっと、彼の口元が歪んだ。
「あなたは……そんな私の計算を、いとも簡単に崩していった」
監督生は、はっと息を呑む。
「最初は、ただ利用価値があると思ったんです。異世界から来た監督生……魔力はなくても、あなたはこの世界において特殊な存在でしたから」
そう言いながら、彼は少しだけ自嘲するように笑った。
「ですが……気づけば、あなたの言葉や行動に、私は何度も動揺させられていた」
「……アズール先輩」
「あなたが私に向けるまっすぐな眼差しが……時に厄介で、時に心地よく……そして、時に……恐ろしかった」
まるで、それを認めることが怖かったとでも言うように。
「私は、あなたを信用したくなかった」
「……」
「信用すれば、いつか裏切られる。それが当然だと……そう思っていたから」
どこか悲しげに伏せられたままの瞳。
「でも……」
ゆっくりと息を吐き、彼はまっすぐに監督生を見つめた。
「……今回の件で、もう誤魔化すことはできなくなりました」
静かに、けれど確かに紡がれる言葉。
「私は、あなたを失うことが怖かった」
「……!」
「あなたが海に落ちたと聞いた時……冷静でいようとしたのに、身体が勝手に動いていた」
「……アズール先輩」
「あなたを助け出した時……心臓が壊れそうなくらい、うるさく鳴っていた」
初めて聞く、彼の本音。
「その理由を、私はずっと考えていました」
彼の手が、そっと伸ばされる。
指先が、監督生の頬に触れる。
「──私は、あなたが……特別なんです」
「……っ」
「あなたの存在が、私の計算を狂わせる。あなたの言葉が、私の心を揺らす」
ゆっくりと指が動き、涙の跡を拭うようになぞられる。
「こんな感情は、初めてで……正直、どう扱えばいいのかもわからない」
彼の指が震えていることに、気づいた。
「でも、確かに言えることが一つだけある」
アズールの瞳が、真っ直ぐに監督生を捉える。
「私は……あなたを失いたくない」
「……アズール、先輩……」
「あなたがここにいてくれて、よかった」
「……」
「あなたを助けることができて、よかった」
「……っ」
「それが、今の私の正直な気持ちです」
淡々と語られる言葉なのに、どこまでも深い想いが滲んでいた。
監督生の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
今まで、彼がどれほど自分の気持ちを押し殺してきたのかが、痛いほど伝わってくる。
そして──
「……あなたは、どう思いますか?」
静かに尋ねられたその言葉に、監督生は唇を震わせた。
──どう思いますか?
そう問いかけられた瞬間、監督生の喉が詰まった。
どう、思うかなんて。
そんなの、ずっと前から決まっている。
「……私も」
震える声で、それでも懸命に紡ぐ。
「……アズール先輩が、特別です」
アズールの表情が、ふっと揺らぐ。
けれど、彼は何も言わなかった。ただじっと、次の言葉を待っているように見えた。
「最初は……私にとってアズール先輩は、少し怖い人でした」
正直に伝える。
「計算高くて、抜け目なくて……何を考えているのか、わからなくて」
「……そうでしょうね」
アズールは小さく微笑んだ。どこか寂しそうに。
「でも、知るうちに気づいたんです」
「……」
「先輩は、誰よりも努力家で……誰よりも傷つきやすくて……なのに、それを誰にも悟らせまいとしている」
アズールの目が、わずかに見開かれる。
「本当は、誰よりも優しい人なんだって……そう思ったんです」
「……優しい、ですか」
アズールがふっと目を伏せる。
「あなたに、そう言われるとは……」
「……違いますか?」
「いいえ……ただ、驚いただけです」
彼は静かに息を吐いた。
「私は、優しさというものが、どういうものなのかよくわからないので」
「……」
「これまで、誰かに本当の意味で親しくされたことはありませんでした。信頼を得るための笑顔、交渉のための言葉──そういうものなら、いくらでも使ってきましたが」
彼の指が、まだ頬に触れたまま。
その温もりが、離れそうで、離れない。
「……あなたの言葉は、私にとって想定外のものでした」
彼の指が、そっと動く。
「だから、戸惑ったんです」
「……」
「でも……もし、それを“特別”と呼ぶのなら」
アズールは、静かに目を細める。
「あなたは、私にとって唯一の“例外”なんでしょう」
心臓が、跳ねた。
「……っ」
「あなたが海に落ちたと知ったとき、私は今までの自分を捨てていた」
「……」
「利益も、合理性も、そんなものはどうでもよかった」
アズールの指が、頬から滑り、そっと手を取る。
「私はただ、あなたに生きていてほしかった」
強く、しかし優しく包み込まれる手。
「あの瞬間、私は……初めて、無意識のままに動いたんです」
「アズール、先輩……」
「そんな自分に、驚きました」
彼は小さく笑った。
「でも、それ以上に……怖くなった」
「……怖い?」
「ええ」
アズールは、真剣な瞳でこちらを見つめる。
「私は……あなたを失う恐怖に、耐えられなかった」
強く握られる手。
「私は今まで、失うものがない人生を選んできました」
「……」
「誰かに期待しなければ、裏切られることもない」
「……」
「誰かを信用しなければ、傷つくこともない」
彼の手に、力がこもる。
「でも……」
唇が震えた。
「もう、あなたなしの世界を考えられない」
「……!」
「あなたを失う可能性を考えるだけで……こんなにも、苦しくなる」
「アズール、先輩……」
「これは、もう誤魔化せるものではない」
彼は、深く息を吸い込む。
「──私は、あなたを誰にも渡したくない」
はっきりと、静かに、それでいて強く。
「あなたのそばにいたいと願っている」
心臓が、壊れそうなくらい鳴る。
「……っ」
「あなたが望むなら、どこへだって連れて行く」
「……」
「あなたがどこにいても、必ず見つけ出して見せる」
「……」
「何があっても、どんな手を使ってでもあなたを守り抜く」
アズールの手が、そっと頬に触れる。
「だから、私に……あなたの隣にいる権利をくれませんか?」
「……!」
「私は、あなたを……愛しています」
──もう、逃げられない。
彼の瞳は、どこまでも真剣で出し
言葉は、どこまでも誠実だった。
「……アズール、先輩……」
涙が、また溢れる。
けれど、それはもう恐怖の涙じゃない。
「……私も」
震える声で、でも、しっかりと答える。
「私も、アズール先輩を……愛しています」
その瞬間、彼の顔が、驚きに揺らぐ。
けれど──
「……そう、ですか」
そっと微笑んだ。
それは、今まで見たどの笑顔よりも、ずっと穏やかで。
「──後悔しても、知りませんよ」
そう言いながら、彼はそっと腰に腕を回す。
温もりが、優しく包み込んだ。
「もう、手放す気はありませんから」
夜の海の音が、静かに響く。
二人の影が、ゆっくりと重なった。
──後日談。
海辺の事件から数日が経った。
色んな人を巻き込んだあの後、クルーウェル先生には怒られ、心配したエースとデュースに大泣きするグリム。
たくさんの人に心配をかけてしまい大変だったが、オンボロ寮に帰ってくるとだんだんいつもの日常に戻ってきた。
戻ってきたはずなのに、監督生の心の奥には、まだあの夜の余韻が残っていた。
──アズール先輩に告白されて、私も応えた。
それは、まるで夢のような出来事だった。
「……夢、じゃないよね」
自分の頬を軽くつねってみる。
……痛い。
「……ほんとに、付き合ってるんだ」
何度思い返しても、信じられなくて、思わずため息がこぼれる。
けれど、実感はまだ薄いまま。
アズールとはあの日以来、まともに二人きりになっていない。
寮の仕事が忙しいのもあるけれど、あれほどはっきりと思いを伝え合ったのに、改めてどう接すればいいのかわからなかった。
「……会いたい、な」
自分から会いに行くべきか。
でも、変に意識してしまって、どうしたらいいのかわからない。
そんなことを考えながら、廊下を歩いていると──
「おや、監督生さん」
背後から柔らかな声が聞こえた。
振り向くと、そこにはジェイドが微笑んで立っていた。
「ちょうど探していたんですよ」
「……ジェイド先輩?」
「フロイドと話していたんです。監督生さん、最近どうも様子がおかしいのでは、と」
「えっ」
「ふふ、まるで恋する乙女のようですね」
「っ……!?」
いきなりの直球に、顔が熱くなる。
「ち、ちが──」
「小エビちゃ~ん、そんなに焦ってどうしたの~」
横から、ひょこっとフロイドが顔を出す。
「もしかして、アズールとラブラブになっちゃった?」
「……っ!!」
「うわ、ほんとに顔真っ赤。小エビちゃんが茹でエビになった、ウケる」
フロイドが笑いながら覗き込んでくる。
「……なんでそれを……」
「そりゃあ、アズールがわかりやすいからでしょ」
「え?」
「フロイドの言う通りです。あのアズールが、明らかに落ち着かない様子でしたから」
「なんかね~、小エビちゃんの話になると、目ぇそらしたり、黙ったまま耳真っ赤にしたりするの。超おもしろいよ」
「……っ」
想像できてしまうのが、なんとも言えない。
「だから、私たちから見ても明白ですよ。監督生さんとアズール、何かあったんでしょう?」
「……」
監督生は、唇を噛む。
今さら、隠す必要はない。
けれど、いざ言葉にするとなると、なんだか気恥ずかしくて。
「……つ、付き合うことになりました」
ようやくそう告げると──
「えぇ~っ!? マジでそうなの?超ウケるんだけど!」
フロイドが大袈裟に騒ぐ。
「おや、それはそれは……おめでとうございます、監督生さん」
ジェイドは微笑みながらも、どこか満足そうだった。
「……あんまりからかわないでください」
「いやいや、こんな面白いこと、からかわない方が無理でしょ~?」
フロイドがケラケラと笑う。
「でもさ、これでアズールもちゃんと自分の気持ちに素直になったんだねぇ」
その言葉に、監督生は息を呑んだ。
「……フロイド先輩、知ってたんですか?」
「まあ、アズールとは長い付き合いですから」
ジェイドがふっと目を細める。
「でも、まさか本人が認める日が来るとは思いませんでしたよ」
「ほんとほんと~、オレはもっと長引いてあたふたするアズールが見れると思ってたのに」
「……」
──ずっと、押し殺していた気持ち。
あの夜、アズールはそう言っていた。
「小エビちゃん、彼女ならどうにかしてよね」
「どう、とは?」
「今のアズール、小エビちゃんのこと独占したくて仕方ないけど、それを態度に出すのは恥ずかしいしプライドが邪魔をする、みたいな感じで、らしくないから。それはそれでおもしろいけど流石にウザい」
「……」
容易に想像できた。
アズールなら、そういう葛藤をしそうだ。
「だから、監督生さん」
ジェイドがふっと微笑む。
「ちゃんと、アズールを捕まえていてあげてくださいね」
「……!」
「彼は、不安になるとすぐに逃げますから」
「……わかりました」
頷くと、ジェイドは満足そうに微笑んだ。
「なら、問題ありませんね」
「アズールなら今、寮にいるよぉ」
「……はい!」
二人に背中を押されるように、監督生は歩き出した。
向かう先は──もちろん。
彼のもとだった。
──そして、再び。
寮の廊下を進むたびに、心臓の鼓動が少しずつ速くなっていく。
ジェイドとフロイドにからかわれたせいもあるけれど、それ以上に──
(……ちゃんと、話さなきゃ)
自分の気持ちも、彼の気持ちも、まだ始まったばかり。
アズール先輩は、どう思っているんだろう。
どんな顔で迎えてくれるんだろう。
ほんの数日会えなかっただけなのに、こんなにも緊張するなんて。
「……はぁ」
一度、深呼吸してみる。
心を落ち着けるために。
そして、意を決して、ノックをした。
「アズール先輩、いらっしゃいますか?」
しばらくの沈黙の後、ドアの向こうから静かな声が返ってくる。
「……どうぞ」
扉を開けると、そこには、デスクに座るアズールの姿があった。
整然と並ぶ書類。
冷静な表情。
それなのに、ほんの少し、ペンを持つ手がぎこちなく見えた。
「監督生さん……どうかしましたか?」
「……いえ、その」
言葉を選ぶ。
でも、上手くまとまらない。
じっとこちらを見つめるアズールの瞳。
今まで通りなのに、どこか違って見える。
「……会いたかった、です」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
アズールの瞳が、わずかに揺れる。
「……そう、ですか」
「先輩は……?」
問いかけると、彼はゆっくりと視線をそらした。
「……忙しかったので」
「嘘ですね」
思わず言い返す。
「……え?」
「また避けてましたよね?」
アズールの肩がぴくりと動く。
それが答えだった。
「……私、先輩を困らせてますか?」
「ち、違います」
慌てたように否定するアズール。
でも、その表情は曖昧で、どこか落ち着かない。
「じゃあ、どうして?」
「……あなたに会うと、冷静でいられなくなるからです」
ぽつりと、呟くように言われた言葉に、息を呑んだ。
「前にもお伝えましたが、私の感情は、常に計算の上に成り立っています。自分がどう動けば利益になるのか、損をしないのか、それを考えるのが当たり前でした」
アズールは、ふっと苦笑する。
「けれど、あなたに対する感情だけは、まったく計算できない」
静かな声だった。
「どう接すればいいのか、どう振る舞えばいいのか、正解がわからないんです」
彼の手が、ぎゅっと拳を作る。
「だから、少し距離を置けば……と思ったのですが……」
小さくため息をついた後、アズールはゆっくりと顔を上げた。
「……無駄でしたね」
それは、どこか諦めにも似た、けれどどこか優しい声だった。
「結局、あなたのことばかり考えてしまいました」
心臓が、跳ねる。
その言葉が、こんなにも嬉しいなんて。
「……私も、同じです」
正直に伝えた。
アズールが、わずかに目を見開く。
「先輩がいない間、ずっと考えていました。あの日のことも、先輩の言葉も……ぜんぶ」
胸に手を当てる。
「それで、わかったんです。私は、先輩のそばにいたいって」
まっすぐ、彼を見つめる。
「だから……今度こそ、逃げないでください」
アズールは、沈黙した。
やがて、小さく微笑む。
「……わかりました」
静かに、けれど確かにそう言った彼の声が、やけに心地よかった。
ふっと、緊張がほぐれる。
「……よかった」
「……あなたは、本当に不思議な人だ」
「え?」
「私の心を、簡単に暴いてしまう」
呆れたようにため息をつきながら、アズールは目を細める。
でも、それはどこか、安心したようにも見えた。
「……もう、逃げませんよ」
優しく、そう言った彼の声が、心に深く染み込んだ。
そして──
「監督生さん」
名前を呼ばれる。
「……?」
気づいた時には、彼の手がそっと伸びてきていた。
ふわりと、頬に触れる指先。
「……ずっと、こうしたかった」
そのまま、そっと顔が近づいて──
静かに、触れるような口づけが落とされた。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……もう、離れませんから」
耳元で囁かれる声に、涙が滲んだ。
(……ずるい)
それでも。
この人を好きになってよかったと思った。
「頼まれても離れてあげませんから」
──この先も、ずっと。
加我(feat. ChatGPT)先生の作品は完結しました!
次回作にご期待ください。
以下おまけ
★
「頼まれても離れてあげませんから」
そう伝えた瞬間、アズールの顔がわずかに驚きに揺らぎ、それからふっと微笑んだ。
「……そうですか」
静かに、でも満足げに言葉を零す。
「ようやく、手に入れましたね」
そんなことを言いながら、そっと腕を回し、さらに抱き寄せてくる。
「あ、ちょ……!」
「何を驚いているんです?」
「……そ、それは! だって、急にそんな……!」
「そんな?」
アズールが意地悪く微笑む。
「もしかして、あなたの方こそ……意識しているんですか?」
「~~~っ!」
じわじわと赤くなる頬を悟られまいと顔を背けると、アズールはますます面白そうに笑った。
「ふふ、可愛らしいですね」
「!? からかわないでください!」
「からかってなどいませんよ?」
「ぜ、絶対してます」
「そう思うのなら、私の目を見て言ってください」
「……っ」
そっと顎を持ち上げられ、目を合わせる形にされる。
アズールの瞳はどこまでも真剣で、それなのに、どこか楽しそうな色を宿していた。
「……やっぱり、ずるいです」
「ずるい? ほう、それは聞き捨てなりませんね」
「まるで私のこと手のひらの上で転がしてるみたいで……!」
「……転がしているつもりはないのですが?」
「う、嘘だ……!」
「あなたが勝手に手のひらに乗ってくるの間違いでは?」
思わず頬を膨らませると、アズールがくすくすと笑った。
「そんな顔をされると、ますます可愛らしくて仕方がないですね」
「~~~っ!」
もう何も言えない。素直になったアズール先輩って、こういう感じなんだ……!
「それに……私ばかりが“ずるい”のですか?」
「え?」
「あなたも今まで相当、私を振り回してくれましたよ」
「……そんなこと、してません」
「いいえ、していますとも」
アズールは優雅に笑う。
「私を嫉妬させ、焦らせ、感情を揺さぶり……そして今、こうして私をこんなにも夢中にさせているのですから」
「……!」
「……ふふ、その反応もまた、愛おしいですね」
今までの態度から急にこれは、刺激が強すぎる……!
「もういいです! 先輩のそういうところ、ほんとに……!」
「ほんとに?」
「~~~っ!」
ぷいっとそっぽを向くと、アズールはますます楽しそうに笑う。
「そうですね、ずるいでしょう」
「わかってるなら……!」
「ですが、私をそうさせたのは、あなたですよ?」
耳元で囁かれ、全身が震えた。
「……っ!」
完全にペースを持っていかれた。
もう何を言っても、この人の手のひらの上なのだろう。
でも、それが悔しいはずなのに、どこか心地よくて──
「……ずるいです、ほんとに」
小さく呟くと、アズールは嬉しそうに笑った。
「ええ、あなたの前では、私はずっとずるい男のままでしょうね」
それは、まるで誓いのような言葉だった。
「監督生さん」
「…………なんでしょうか」
不貞腐れながらそっぽを向いて答える私に、アズールはニヤリと笑いながら言った。
「私をこんな風にした責任、とってくださいね」
★
その日、アズールと監督生が付き合ったことを知ったジェイドとフロイドは、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「あのアズールが恋に落ちるなんて、おめでとうございます」
ジェイドがにやりと笑いながら言うと、アズールはそれに反応することなく、冷静な顔を作っていた。
だが、フロイドは目を輝かせ、アズールに近づいてきて、まるで遊び相手を見つけた子供のように口を開いた。
「で、アズールってば、あの日の夜、何してたわけ?せっかく気を利かせて出て行ってやったんだから教えてよ」
「フロイド、あまりこういうことを聞くのはよくありませんよ。彼にとって、それはそれは大切にしたい思い出なんでしょうから」
クスクス笑いながら問い詰める様子の2人に、アズールはあの日のことを思い出し、少し顔を赤くした。
フロイドはにやりとした笑みを浮かべながら、アズールの背後に回ってくる。
「それとも、アズールってば、何か言いたくないことでもあるの?」
「……はっ、別に言いたくないわけじゃないが?それに、報告ならしたでしょう」
あの日、体調が万全じゃない彼女を看病し、回復するまで付き合った、と伝えていた。嘘はついていない、嘘は。
アズールはふいと目を逸らし、冷静を装うが、その表情はどこかぎこちない。
ジェイドがわざとらしくうなずいて言う。
「なるほど、アズールの反応を見ると……どうやら、『何もなかった』わけではなさそうですね」
「は?」
「実際、付き合ってるしねぇ~?」
フロイドの一言で、アズールの顔が一層赤くなる。
「それは……!」
すぐさま否定しようとするが、フロイドがさらに追い打ちをかける。
「えぇ~? じゃあ、あの日の夜に何があったか、ちゃんと教えてよ」
「何もないって言ってるだろ!」
アズールがついに声を荒げると、ジェイドが悪戯っぽく笑って顎に手をあてる。
「ふふ、どうやら、あの日の夜はまだアズールが語るには恥ずかしい時間だったようですね」
フロイドも嬉しそうに声を上げる。
「確かに~、だってアズールが照れてるって珍しいもん! 絶対何かあったに決まってるじゃん」
アズールは顔を赤くしながらも呆れ口調で口をつぐんだ。
「だから、そういう話は……」
「うわ~、そんなに照れるんだ? アズール、意外だねぇ~」
フロイドのからかうような言い方に、アズールはもう耐えきれずに頭を抱えた。
「とにかく、これ以上話すことはありませんので」
ジェイドとフロイドのからかいが、ついに限界を超えてきた。
「えぇ~、面白くないなぁ」
「まぁ、アズールらしいと言えばそうですけど」
二人はニヤニヤしながら、アズールの反応を楽しんでいる。
その姿に、アズールはもう我慢の限界を迎え、深いため息をついた。
「教えてくれたら、もっと面白くなりそうだったんですけどね」
「オレ、アズールの恋バナ聞きたかったな~、あ~つまんねぇの」
フロイドが残念そうに首をかしげる。
「……ったく」
アズールはもう何も言わずにただうんざりした顔で立ち去ろうとした。
だが、その時、ジェイドがひとこと、真剣な口調で言った。
「アズール。ちゃんと幸せにしてあげてくださいね……監督生さんを」
その言葉に、アズールは立ち止まり、少しだけ目を細めた。
「……もちろん。お前たちに言われるまでもありません」
ジェイドはそれに満足したように頷き、フロイドはにやりと笑う。
「オレとしては拗れてる2人を見るのも退屈しなくていいけどね~」
「うるさいですよ、フロイド」
アズールは照れくさい気持ちを隠しつつ、二人に背を向けて歩き始める。
その背中を見送りながら、ジェイドとフロイドはニヤニヤと笑い合うのだった。
おまけ 完
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あとがき
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管理人「というわけで、無事に連載完結!読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました〜!」
アズール「……おや、“無事に”という割には、ずいぶん私を振り回してくださったように思いますが?」
管理人「うっ……いやぁ、それはほら……愛ゆえにってやつで?」
アズール「“もう離さないから”などと言わせる展開、なかなかどうして……。私のキャラ設定を根底から揺さぶる勢いでしたよ」
管理人「いやいや、先輩の愛が重くなる瞬間、読者さんもきっとキュンってきたと思うんですよ! ね!?(同意を求める視線)」
アズール「……ふむ。それが“需要”というものであれば、仕方ありませんね。ですが、次回はもう少し私の尊厳を守っていただけるとありがたいのですが」
管理人「えっ、でも読者さんのためには、もう一回くらい海に落ちても──」
アズール「落とさないでください」
管理人「ごめんなさい」
アズール「……ふっ。まあ、あなたがどうしてもというなら、次回も付き合いましょう。今度は、私の”計画通り”の展開になるよう、よろしくお願いしますよ?」
管理人「な、なんかすごいフラグ立てられた……!」
***
ここまで読んでくださってありがとうございました!
またどこかでこの二人の物語を見たいと思ってもらえたら、それだけで最高に嬉しいです!
次回作でお会いしましょう〜~~!
***
~fin~