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【SCP短篇】「義眼」

明け方の春霞は遠くの山々に薄桃色の輪郭を作り、
うねるようにゆったりと流れる川の水面にも、
白い靄を溶かし込んでいる。

川のそばに立つ大きな春楡はるにれの木は、
先日の強風ですっかりと葉を落とし、
細く筋張った針のような枝を薄明かりに揺らしていた。

季節外れの虎落笛もがりぶえとともに
攫われていった春楡の葉が
いくつか川の岸辺に集まると、
古い硝子のようにぱきぱきと割れ、
白く泡立った水流に消えていった。

春に向けてこの木が若々しい緑に色づくのは、
もう少し先になるだろう。


重く閉じかけた目を擦りながら、
ミナは持っていた竹籠を下ろし、
夜明けの川縁に座り込んだ。

竹籠には、土埃や雪に汚れた衣服や靴が、
雑多に放り込まれている。
少しだけ溜息をつくと、
彼女は竹籠の中からそれらを引っ繰り返し、
一枚一枚を川に濯いでいった。

いくら厳しい冬が過ぎ去った春先とはいえ、
冷たいものは冷たい。炉や窯の数を増やして、
家の中で温かい湯を使って洗濯できるように
したらどうかと何度も言っているのだが、
窯では水の量が限られるからと断られてばかりだった。

第一、炉や窯が余分にあったとしても、
家の中にそれを置ける場所がないと。

正論であるとミナも頭の中では分かっているが、
それでも、という思いも拭えなかった。

まだ夏なら多少は水温も上がるが、
この時期にわざわざ早い時間から外へ出て、
冷たい水流に両手を浸すのは果たして合理的なのかと。
せめて多少気温が上がる昼にまとめても良いではないか。

「それは駄目よ。特に、あなたが昼に出歩くのは危ない」

少女の主張に、母はにべもなく反駁した。
どうせそう返されるのは分かっていたが。
それが一分の悪意も意地悪もない
純粋な心配であるからこそ、ミナには一層残酷なものとして映った。

すべての布を洗い終わると、
ミナは竹籠を抱え直して、
そそくさと家への帰路を歩き出した。
母は昼を危険だと言ったが、朝方の川辺も、
特に向こう岸はそれなりに危ない。

気温が高い春先は冬の雪解け水が増水し、
突然に流れが速くなることがあるのだ。
水汲みだろうと洗濯だろうと、
生活用水を要する作業は早いうちに終わらせるのが鉄則だった。

たっぷりと水分を吸った衣服の入った籠は、
感覚としては来たときの数倍ほどの重さに変わっていた。

片手に引っ掛けて運搬すると、
その重量すべてが相応の痛みとして圧し掛かるので、
ミナは両手で竹籠の底を持ち、抱え込むような体勢でそれを運んだ。

籠の隙間からじゅくじゅくと染み出した水が
少しずつ体の前面にへばりつき、
何とも言えない不快を伝える。
しかしもたもたしていると状況はさらに悪くなるので、
彼女はより一層帰路への足を速めた。


川の流れを横目に、所々雪の残った丸石の上を
ざくざくと歩いていると、近くの痩せた木に
灰色の小さな影が動いた。
何かの鳥であろうかとミナが目を凝らすと、
果たしてそれは山から下りてきた五十雀ごじゅうからであった。

薄藍色の羽を朝の透き通った風に流しながら、
地面に顔を向ける形で逆様に木にとまり、
木の幹をくるくると回るように降りていく。

空や他の木に目を向けて移動する啄木鳥きつつきなどと違い、
それは地面に目を向けて
螺旋階段を降りるように木を歩く習性があるので、
その地域に住んでいる者であればすぐに分かる。
暖かい時季になり、番とともに、
新しく住む場所を探しているのだろうか。

ふと、小さな鳥が枯れ木に遊ぶ景色の向こうに、
ミナは川縁を動くやや大きな影を見た。
少なくとも五十雀よりはずっと大きい。
野兎でもあれほど大きくはならないだろう。

あれは何だろうかと少しだけ目を凝らしたが、
その時点で川は随分遠くにあったためにうまく見えなかった。

「お洗濯、終わったよ」

ミナは数分ほどで家に辿り着き、
両手が塞がっているので片足をうまく使い、家の扉を開いた。
中からは暖かで潤った空気がふわりと漏れ、
彼女の顔や腕を優しく撫でていく。

どうやら家の中はすでに新しい火を
起こし始めているようで、
暖炉のあるあたりからは、
乾いた木が焼ける匂いが漂っていた。

近くの窯ではふつふつと蒸気が上がり、
中では昨日採った山菜が煮えている。

「ああ、ありがとう。今日は気持ちよく晴れそうだから、服も一日でちゃんと乾くかもしれないな」

氷柱の滓がこびりついた窓を掃除しながら、父は言った。
母は外で保存していた山菜を水で洗っている。
家の中にはあってもそれなりに冷たいと思うのだが、
母はそれを表情ひとつ変えずに洗っては、
煮え湯の中に放り込んでいった。

ミナは家の扉のあたりに竹籠を下ろすと、
床の上に寝転んだ。冷え切った体には、
家の中に籠る蒸気の湿気さえも心地いい。

休むのはいいけど眠ってしまわないでよ、
と笑いながら母が言う。

分かってるよ、と返すミナの瞼は、
しかしそう言っている間にも少しずつ重くなっていた。
一応は寝ないようにしているという意思表示のために
上半身を少しだけ起こすと、彼女は父に話しかける。

「お父さん、今日はどこに行くの」

「今日は、川を下りたところにある、
ふきの森のあたりに行くかな。
雪が解けて栄養のある水が下りてきたから、
魚がたくさん出てき始めているらしいんだ」

「へえ」

ミナは、先ほど自分が衣服を濯いでいた冷たい川を思い返し、
そこにたくさんの魚が泳いでいる様子を想像した。

先ほど私があれほど苦労して両手を浸したあの場所で、
魚たちは全身を浸して悠々と暮らしているのだろうか。

たくさんの魚が出てきたということは、
そこには私たちのような家族が集まって
暮らしているのかもしれない。

昼下がりのきらきらとした木漏れ陽が点々と、
虹色の鱗のように反射し、川面を輝かせている。
春先の透き通った水の中で陽光は琥珀色の帯を作り、
魚は全身を優美にくねらせて、その帯の間を泳いでいく。

そんな、くらくらとするような自由をミナは夢想した。
彼女は、わかりきった返答を想像しながら、
成句のように父へ質問する。

「ねえ、私も付いていったら駄目なの」

「駄目さ。春になったとしても、危ないものは危ない。
むしろ、今からの方が『彼ら』に遭う可能性は高くなるのだから」

「ふーん」

想像通りの返答に、ミナはわざとらしく頬を膨らせ、
父に背中を向ける形で寝返りを打った。
このまま目を閉じて眠ってしまおうかと思ったくらいであった。

それは、ここら一帯の村に伝わる「掟」であった。
ミナはこれまで、家族を含めた様々な者から、
その掟を厳命されていた。曰く──

無闇に外へ出てはいけない。明るい時間帯は特に。
何故なら、「彼ら」と会ってしまうから。

親や古老の云う「彼ら」が何なのか、
ミナにはよくわからなかった。

夜半の語りに聞かせてくれた昔話では、
自分たちによく似た、しかし自分たちとは
全く異なる種類のいきものなのだと、よく教えられていたが。

肝心の「彼ら」自身をこの目で見たことはないから、
ミナにとってそれは想像上の存在でしかなかった。

だから、彼らにまつわる情報は、
断片的な説話を通してしか知らない。

彼らは私たちと同じく二足歩行で、
手足をもち、煮炊きをし、言葉を喋る。

しかし当然、話す言葉は違うので、
言葉を介して意思疎通をすることはできない。

また、彼らはミナと同じような体つきをしてはいるが、
その体は明らかに私たちとは違い、
粘土や煮凝りのように柔らかい体表を
ぐにぐにと動かして生活するというのだ。

その体表はわずかに湿っており、
例えば陸に揚げた魚のように、
しっとりとした弾力を帯びているらしい。
そして場合によっては、彼らの体長は
私たちの数倍も大きいこともある。

そんな特徴だけを口頭で聞かされているから、
幼い私にとって彼らは辺境に棲まう怪物としか思えなかった。
だから小さい頃は特に、親類の言いつけを厳格に守り、
間違っても彼らと会うことのないように、
細心の注意を払って生活していた。

朝の洗濯を初めて申し付かった時も、
明るい時間に外へ出ることを怖がり、
半泣きで拒否していたほどだった。

しかし、彼らに全く会わないとなると、話は変わってくる。

説話による戒めは、信頼性のある脅威を
経験しなければ意味をなさない。

何の脅威もない朝の洗濯を一か月ほど続けたあたりで、
ミナもその脅威を、あるいは「彼ら」の存在自体を懐疑的に思い、
外に出ることを志向し始めるようになった。
精神的にも成熟した遊び盛りの子供としては当然であろう。

むしろ、「彼ら」とは子供たちが無闇に外に出ることを
戒めるためにつくられた虚像なのであろうと、
ミナは早くから考えるようになった。

元来、子供たちの中では聡明であった彼女は、
それを前提として交渉を行った。

つまり、それが戒めのための虚像であることは
理解していると親に伝えたうえで、
その訓戒は当然しっかり頭に入れるから
好きに外出をさせてくれと主張した。

親の返答はきわめて単純で、
だからこそミナには理解できないものだった。

それは作り話などではない。
だから、まだ言いつけを解くことはできない。

父に背中を向けて寝転がった体制のまま、彼女は父に話しかけた。

「お父さんはいいのに、私は駄目なんだね」

「別に意地悪をしているわけではないよ。
自分だけで外に出るには早い、というだけの話さ」

「じゃあ、その時期っていつなの」

「そうだなあ。ミナが母さんくらいの歳になれば、確実に制限はなくなるだろうけど」

「冗談!」

彼女はもはや嘲笑するような響きを込めて、父に返答した。

母の年齢ということは、あと十年、いや二十年ほどは、
この狭い家と川とを洗濯物を持って往復する
生活を続けるということである。

そんなことが、彼女に耐えられるはずはなかった。

「そんなの無理ね。それなら、どんなに危険だろうと、
その『彼ら』とやらに食べられて死のうと、無理矢理ここを出るしかない」

「極端なことを言うもんじゃない」

「なにが極端よ、これは歴とした本気の計画だもの。
それを言うなら、私がお母さんの歳になるまで
ずっとこの家にいるって方が、ずっと極端な言い分じゃない」

つい語気が強まったことに心の中で
少しばかり罪悪感を覚えたが、
しかしミナの言葉はこれまでの生活で
鬱屈していた本音でもあった。

父は少しだけ考え込むように唸ると、「よし」と小さく呟いた。

「──わかったよ。考えてみれば、
これから彼らに遭う可能性はずっと高まるのだから、
ただ何の知識も与えないで家に閉じ込めておくのは却って危険でもある」

父は、魚を捕るための網や長靴などを用意しながら言った。
その片目は、先ほどはなかったレンズのような道具で覆われている。

「今日の夜、少し話をしようか。
村の掟のことや、彼らに会ったときのことについて。
それを最低限分かっていれば、外に出ても、恐らく問題ないだろう」

「ってことは、外に出るのを許してくれるの」

ミナの語調が軽やかに跳ねた。
先ほどの眠気も吹き飛び、
彼女は気色に満ちた笑みを浮かべながら体を起こす。
父は「そうさ」と返答した。

「ただし、しっかりと掟を守ってさえいれば、の話だ。
今日の夜にする話は、いわば免許みたいなものさ。
その免許を取ったときのことを覚えていて、
それをちゃんと守ったうえでならば、外に出ても問題ない」

ミナは夢中でこくこくと頷いた。

暖炉の近くで昼食の準備をしていた母が、
「あら」と父に話しかける。

「ミナも、もう外に出るようになるの。
確かに、頃合としては今が良いのかもしれないわね」

「そうだね。夏や冬よりは、気候としても
ずっと過ごしやすいだろうし、何より僕たちも安心だ」

父はそう言いながら出かける支度をし、「じゃあ」とミナに向き直った。

「今日の夜、また話をしよう。
さっきみたいに早く寝入ったら、また別の日にしようか」

「安心して。手に針を刺してでも、ずっと起きているから」

じゃあ早く帰らなきゃいけないな、と父は笑って、家の扉を開けた。


陽が暮れる少し前に帰ってきた父が携える籠や網には、
数匹の魚と、少しの山菜や果実が入っていた。

魚は一等大きいものを今日の料理に使い、
少し小さい残りのものは下処理をして保存しておくらしい。
ミナは、小さな籠の中に入った山の恵みをふと見遣る。

ミナは蕗のとうが特に好きだった。
洗濯で向かう木々の近くにもたまに生えていることがあり、
特に朝方に獲れるそれは寒さで甘みが増して美味しいので、
よく自分でも持ち帰った。

それは蕗の森だとよく獲れるらしいと聞いてはいたが、
自分がそこまで行くことは禁止されていたから、
春に父がそこへ行くときはよくせがんでいた。

今日の夕食は、大きな魚や好物の蕗の薹、
甘みのある果実が食卓に並ぶ、
比較的豪華なものであったが、
それを食べているときのミナはほぼ上の空だった。

これを食べ終わったら父から外の世界に関する話を聞けて、
翌日にはすぐにでも外を出ることができる。

たまに誰もいない夜や朝方にそっと扉を開けて、
山々の向こうにある世界を夢想していたころを
思い出しながら、ミナはいつもよりも早く機械的に、
食べ物を口に運んでいた。

すっかり夜も更けて、
暖炉の陽が家の中を暖かく照らすようになった頃。

父は「さて」と声を出し、ミナに向き直った。
母はそれを聞くでもなく横目に入れながら、洗濯物を畳んでいる。

「それじゃあ、話をしようか。この村の掟と、村の向こうに住まう『彼ら』の存在について」

父はそこから、滔々と話を始めた。
その内容は彼女にとって非常に興味深く、
同時にそこはかとない恐怖を感じさせるものであった。

「ミナも色んなところで話だけは聞いていたと思うけれど、
この村のあたりでは、大きく分けて二種類の生き物が生活している。
ひとつが僕たちで、もうひとつが『彼ら』。
彼らは僕たちと同じように言葉を話し、計算をし、
村をつくって生きている。いわば同じ種類の動物なわけだ」

父が使った「種」という言葉に、
ミナは新鮮な感覚を覚えた。

自分たちをひとつの動物の種とする考え方それ自体が、
幼いミナには慣れないものだったから。

「僕らと彼らは、仲が悪いというわけではない。
むしろ客観的に見ても、かなり友好的な関係だと言える。
だけどそれは毎日のように遊ぶとか、
一緒に暮らすとかいうことではなく、
お互いを理解したうえでお互いの生活に関わらない、
という関係なんだ。そしてそれは今も続いている」

「ってことは、『彼ら』と話したり、会ったりすることもあるの?」

「そうだよ。食べ物を交換することもあるし、
彼らと話すことができる者も、かなり少ないけどいるらしい」

それはミナにとって少々意外なことだった。
てっきり、彼らが非常に攻撃的な性格だから、
猛獣としてあまり近づかないようにしているのだと思っていたからだ。

むしろ友好的な関係を築き、
場合によっては生活を助け合うこともあるなんて、
なんと素敵な話ではないか。ミナはそう思った。

ならば。ミナの脳内にひとつの疑問が浮かんだ。

「じゃあ、なんで私も、というかみんな、
彼らとたくさん会おうとしないの?
もっと仲良くなって、一緒に暮らせばいいじゃない」

「そこが、お互いに課せられた『掟』なんだ。
もちろん、僕らが一緒に生活するのであれば、
一緒に仲良く暮らすのは不可欠の前提だよ。
でも、今回は違う。似て非なる種であるからこそ、
できる限り不干渉を貫く方が、お互いにとって良いとされた」

そう言われても、若いミナにはよくわからなかった。

近縁の生き物と「仲良く」暮らすことが、
互いになんのデメリットを生むのかと。

「違うルールを持つ生き物同士が、同じ生活をすることはできない」

父は淡々と、しかし有無を言わさぬ口調で言った。

「今朝、ミナは『彼らに食べられても』と言っていたね。
別に、彼らが僕らを捕食の対象として見ているわけではないよ。
僕らだってそれは同じだ。
だけど、この二つの種が二つの種のままに、
全く同じ生活圏で仲良く暮らしていくことはできない」

「なんで」

「試しに考えてみようか。僕らとよく似た──
いや、ほぼ同じ姿の、そこそこ頭のいい動物に、
僕たちが生み出したルール──例えば『道具の使い方』や、
『計算の仕方』なんかを教えたらどうなる?
この二つの種は、それでも『対等』な関係を築けると思うかい?」

ミナは押し黙った。その例え話の真意は分からないが、
父が何を言わんとしているかは何となく想像できたからだ。

「別に、彼らを下に見ているわけではない。
悪いやつらだと思っているわけでもない。
それは彼らだって同じだろう。
だからこそ、ごく普通の危機管理として、
僕たちは交流をしすぎてはいけないんだ。
どこに爆弾が隠されているか、分かったものじゃないからね」

だから。父はミナの目を見据えた。

「ここからが本題だ。これからミナが外に出るにあたって、
覚えておかないといけない掟。とはいっても数は少ないし、
それを守るための知識も殆ど要らない。
さっき言った前提さえ理解していれば、
掟それ自体を覚えておかなくても、
十分に守ることができるものだよ」

 そして、ミナにこの村の「掟」が伝えられた。

 掟は大きく分けて三つだった。

 彼らと仲良くなってはいけない。
 彼らに自分たちの知識を与えてはいけない。
 彼らとの交流には、必ず「嘘」を交えないといけない。

「仲良くなってはいけない──」

「別に、喧嘩をしろと言っているわけじゃない。
互いに節度を持って接しましょう、と言っているだけだよ。
二つ目の『知識』の掟だって、
言っていることは一つ目の掟と同じさ。
二つの種が初めて出会った頃、互いが互いのために定めたものだ」

「じゃあ、この三つ目の掟は何なの?」

「これも、『知識』の掟の延長線上だよ。
彼らに『本当のこと』を教えてはならない。
さっき言った通り、何が彼らにとっての新たな知識、
すなわち『爆弾』なのか、分かったものじゃないからね」

例えば、と父は懐からひとつの道具を取り出した。

それは父が朝に家を出るとき、
片目につけていたレンズのようなものであった。

「これは、村の中でも彼らと接触する可能性が
高い者に与えられる『義眼』だ。見ての通り、
これは僕たちの目を模してつくられているから、
少なくとも似て非なる種が初対面で見たときには、
それがつくりものの目だとばれることはそうそうない」

「その義眼が、さっきの掟と何の関係があるの」

「当然、これが義眼であることは、彼らにも伝えていない。
つまり、どんなに密に交流をしていても、
彼らは僕の『本当の顔』を知らないんだ
嘘を交えるというのは、そういうこと。
常に彼らとは一線を引いて接するんだという、
戒めの表れでもある」

「本当の、顔──」

ミナは父の言葉を反芻した。

「いわば、友達と話すときに、
必ず覆面をしているようなものだ。
どんなに親しく話をしていたって、
話し相手は自分の『本当の顔』も知らない。
さらに、その友達はそれが偽物の顔だということさえ、
知る由もないんだ。彼らと接しているとき、
自分は常に、否が応でも、
そのことを絶えず自覚し続けることになる」

「…………」

「義眼で片目を隠すのだから、
最初は視界の狭さに少々戸惑うけどね。
慣れれば、どうということはない」

ミナは父の言葉を聞きながら、顔に手を当てて考え込む。

仲良くしてはいけない。
本当のことを教えてはいけない。

恐らくこの義眼は、それらの村の掟を強化し
個々に内面化するための、
象徴的な道具なのだろうとミナは思った。

呪術的、と言い換えてもいい。

「ミナも、外に出てみれば分かるわよ」

 部屋の隅で、洗濯物を畳み終えた母が、ミナに話しかけた。

「違うルールで生きる者どうしが、
『本当のこと』を教えあう必要はないの。
むしろ、うまく見えないくらいがちょうどいい。お互いのためにもね」


翌朝、ミナは父から『義眼』を貰った。
義眼は、住民に対してひとつずつ、
村の長から与えられるものらしい。

ミナの義眼は、黒色の固い円盤のような、
少々粗雑なつくりのものだった。
本当にこれで誤魔化せるのだろうかと心配になるくらいだ。

「ミナの義眼は、真ん中に小さく穴が開いているから、
まだ動きやすいだろう。完全に視界が塞がっているわけではないからね」

ミナは左目に義眼を嵌めて、
家の中をきょろきょろと見回したり、歩いたりした。
少々違和感は覚えるが、確かに、
行動が完全に阻害されるというほどではない。
足元にさえ気を付ければ、外でも問題なく歩けるだろう。

遠くまで出歩くのは明るい時間帯までにすること。
家を出る前には外出場所と帰宅時間を必ず伝えること。
そして、村の掟をしっかりと守ること。

この三つの条件付きで、
ミナは今日から外出の許可を得ることができた。

昨夜の話ゆえに多少の緊張と不安はあるが、
それでもまだ見ぬ外の風景に対する
憧れと高揚感のほうが、ミナにとっては遥かに大きかった。

今日、父は村民と会う予定があるというので、
ミナは自分だけで扉を開けた。

附いていこうか、と母が言ったが、
ミナは感謝しつつそれを断った。

遂に、自分だけで、外に出ることができる。
その感動を共有する相手は、今はいなくてもいいと思った。

ミナはいつも洗濯に向かう川に沿って、
下流をゆっくりと歩いていくことにした。

上流になると川の流れが速くなり、獣の類も多いと聞く。
父の話では、なだらかな坂を下って
川下に達したところに蕗の森があるそうだから、
初めての外出で野草や果実を採って、
親を驚かせることもできるかもしれないと思った。

道を急ぐ途中、近くの家に住む友達の母親に会い、
外出を許可されたことを一緒に喜んでくれた。


初めて歩く外の風景は、彼女にとって未知そのものであった。

丸石を踏みしめながら川岸を下るうち、
点在する草木にぽつぽつと色が増え始めた。

赤、紫、桃色の点をつくるそれらが
何の花なのかは分からなかったが、
朝の陽光を月のように反射するとりどりの彩色を、
ミナは心から愉しんだ。

坂は少しずつその傾斜を弱め、
ゆったりと谷川を満たす水も広く、浅くなっていく。

透き通った雪解け水は、
川底の白い丸石を一層白く輝かせる。

水面をきらきらと照らす光の波は不定形で、
真珠のような石を清澄に濯いでいった。

ミナがその川にふと手を入れると、
その水は朝に衣服を洗うそれよりもずっと温かく、
やわらかな涼しさを湛えていた。

川の水面が広くなったことで
水が温められているのだろう。

川の水が、ただ針のように暴力的な冷たさを
与えるものだと思っていたミナは、その心地よさにすら驚いた。

歩いていくうちに外は朝から昼に変わっていたようで、
暑くもなく寒くもないあたたかな陽気がミナの体を包んだ。
気付けば川の傾斜はほぼ無くなっており、
平野のようになった川と草原の少し先には、
緑色の雑木林が広がっていた。

あれが蕗の森なのだろう。

中に入ってみたいという欲に駆られたが、
ミナは母に、昼食の時間には戻るという約束をしていた。

今の具体的な時間は分からないが、
これだけ陽が昇っているということは、
そろそろ戻っておかなければ、
昼食時間には間に合わないだろう。

初日から親との約束を破っていたら、
折角の外出許可を早くも反故にされかねない。

ミナはその雑木林と川の輝きを名残惜しく思いながら、
やや急いだ歩調で川を上っていった。
ただいつもの川を道なりに下っただけだから、道に迷うこともない。

やがて、川が見慣れた狭さと温度を取り戻したころ。

川を離れて家への帰路に向かう直前に、
ミナは再び、枯れ木の向こうに目を遣った。

やっぱりだ、とミナは思った。
川を隔てた向こう、背の高い木々が並ぶ
緑色の景色の中に、先日見たものと同じ、
やや大きな影を見つけたのである。

鳥よりも、野兎よりも大きなあれはいったい何なのか。
以前よりはその姿も鮮明に見えるが、
鮮明に見えてもそれが何であるかは分からなかった。
ミナが知らない生き物だったのである。

もしかして──
ミナはその影をぼうっと見ながら考える。

あれが、かの「彼ら」なる種なのではないか。

そう思った瞬間、
ミナは今自分だけがそれを見ていることに、
共犯者意識のような昂揚感のような、
言いようもないざわざわとした感情を抱いた。
そのまま踵を返して、ほぼ走るようにその場所を後にする。

家に帰ると、ちょうど母が昼食を
食卓に並べているところだった。
扉を開けたミナを見た母は、
あら、と少々意外そうな顔で彼女を迎え入れる。
てっきり外で遊びすぎて、
昼食には少し遅れるものだと思っていたらしい。

ミナは荒い呼吸をなんとか平静に保ち、
恰も余裕を持って帰宅した風を装った。

母にも父にも、先ほどの影のことは言わなかった。
あれが何なのかは分からないが、
少なくとも彼らが予期しない何かであろうことは分かっていたからだ。

昼食を食べたらその場所に行き、
あれが何であるかを自分で確かめようとミナは思った。
探検家めいた悪戯心と、少しの好奇心によって。

昼食を終え、ミナは母に、
「近くの川岸で遊んでくる」と伝えた。
溺れないようにしなさいよ、と台所で母は答えた。

親は私が、初めての外出の昂揚感のままに、
それこそ蕗の森のような「彼ら」の
領域に行くことを懸念しているのだろう。

逆に言えば、親の目が届き、
かつ私も勝手知ったる場所の範囲内であれば、
それほど厳しい目は向けないはずだ。

ミナはそう推測し、実際その推測は当たっていた。

ミナは、いつも洗濯をしている地点から
川を大きく下り、水が温かく水深も浅い、
先ほどの場所へ向かった。
そこからなら、比較的簡単に川の向こう岸へ渡ることができる。

向こう岸に渡ったうえで川を上れば、
先ほど謎の影を見た場所まで、
負担なく行けるだろうと考えた。

着く場所はいつもの川岸だから、
間違ったことは言ってない。ミナは誰ともなくそう呟いた。

ざりざりと丸石を踏みしめて、ミナは浅い川を渡った。
足首のあたりが多少濡れるが、
水温や外の陽気も相まって、不快感を覚えるほどではない。
少なくとも、朝の洗濯で自分の服を濡らすときよりはよっぽどいい。

先ほど下った川を、反対側から上っていく。
あの朝に影を見たあたりまで来たところで、ミナは足を止めた。

いる。

彼女は坂の上をじっと注視して、足を止めた。

それは薄桃色の手足を胸の前で折り畳み、
まるで獲物を待ち伏せているかのように、
じっと動かなかった。

「彼ら」だ、とミナは直感した。
私たちと似てはいるが明らかに異なっている体つき。
私よりもやや──いや、数倍は大きく、
どこか父に似た体毛や骨格。
恐らく性別としては雄なのだろう。

その姿は、夜に物語で語り聞かされる、
巨躯の怪物を思わせた。

ミナは、父から厳命された掟を思い返す。

彼らと仲良くなってはいけない。
彼らに自分たちの知識を与えてはいけない。
彼らとの交流には、必ず「嘘」を交えないといけない。

仲良くなるつもりはない。
知識を与えるつもりもない。ただ接触を図るだけだ。

「嘘」もしっかりついている。
ミナは左目を隠している義眼に少し手を添えた。
父の話では、彼らは私たちを、
捕食対象としては見ていないという。

仮に危害を加えられたとしても、
この場所であれば地の利を知っている私の方が優位だ。

逃げられなくとも大きく叫べば、
川の向こうから母や他の村民が飛んできてくれるに違いない。

よし。ミナは小さく息を吐いて、
それに向かって歩を進めた。

ねえ、と彼女が声をかける、その直前で。

「────あ」

言葉ではない、何らかの音を発して、
それがこちらをぐるりと向いた。

焦点の合わない目が、ミナの方を見据える。
ひっ、と彼女は声を出しかけたが、
声を出すのが正しい反応なのかもわからず、ただ硬直する。

ミナや親とよく似た顔立ちの、何者かは。
ミナよりもずっと長く、大きな腕を動かして、
私に向かってこう言った。

「────だれ」

「……え?」

ミナは、思わず声を出して、聞き返した。
彼らは私たちと違うルールで生きているから、
私たちの言葉を話せる者なんていないのではなかったっけ。

いや、ごく少数はいると言っていたか。
じゃあ、この者はその少数に該当するということなのか。

「あなたは、だれ」

しかし、そこにいる者は間違いなく、
「私たちの言葉」で話していた。
話し方は多少たどたどしいが、
明らかに「私たち」にとって意味のある
文法と語彙を使って、ミナとの会話を試みていたのである。

少し考えて──ミナはこう答えた。

「私は──私に、名前はありません。
川の向こうの世界から、ここに来ました」

義眼の少女は、初めて嘘をついた。


その者は、ミナの世界でいうところの
「少年」に該当する生き物であるようだった。

性別は雄で、彼の属する集団の中では若い部類に入る。
恐らく年齢に換算すれば、ミナと同じか、
少し上の男性であると分かった。

彼はたどたどしくも正確な文法で、
ミナと同じ言葉を話した。ミナが思った通り、
彼は種の中でもごく少数の──
いわば「通訳」のような役割を担っていたらしく、
それによって日常会話レベルの言語は習得していたのだと言った。

「生まれてから暫くは、僕たちの世界の言葉を
話していたような記憶はあるのですが──
もう遠い過去のことのように、覚えていません。
たぶんあっちの言葉で話しかけられても、
僕は応答できないと思います」

彼は目を伏せてそう言った。
次いで、ミナの方を向いて質問を投げかける。

「あなたは、何故僕に話しかけたのですか。
名前がないということは、恐らく、僕と同じだと思うのですが」

「同じ? ──えっと、そうですね。
私も、あなたと同じような生活をしています。
川岸を歩いていたら、見慣れない方がいたので、
気になって声をかけたのです」

彼の言葉に引っかかりを覚えたが、
ひとまずそれは無視して、ミナは話を合わせた。

村の掟──「自分たちの知識を与えてはいけない」
という規則をどの程度まで勘案すべきなのかが
分からなかったから、とにかく彼の話に合わせて
嘘をついていくしか、彼女にできることはなかったのである。

ミナの言に、彼はどこか悲しそうな笑みを浮かべた。

「なるほど。やはり、大変そうですね。
僕も、こんな風になってしまってからは、
日々の寝床にさえ困るようになってしまいましたから」

「──はあ」

ミナは、彼の言葉の裏に、
穏やかではない陰のようなものを感じ取った。

彼がどのような理論を経て
私に同調しているのかは分からないが、
少なくとも衣食住もままならないレベルで
満足な生活を送れていない状況にあることは理解した。

それはつまり、生活が困窮しても、
一緒に住まう村民からの最低限の援助すらないということで。

これは、いったい何なのだろうか。

この者を取り巻く「彼ら」の世界に、
いったい何が起こっているのだろうか。

不意に、ミナは肌寒さを感じる。
気が付けば陽光が射していた青空には雲がかかり、
もう少しすれば陽が暮れるという時間帯になっていた。

春先とはいえ、まだ日没の時間は早い。
川の往復を考えると、もうそろそろ、
帰路につかなければならないだろう。

「あの」

ミナは、遠い目で川のあたりに視線を向けている彼に言った。

「また、ここで私に会ってくれませんか」

彼は少し驚いた表情でこちらを見つめ、ややあって薄く笑った。

「もちろん。仕事も、行く宛もありませんから」


その日の夜、父は定刻通りに帰宅したミナを見て、
安心したように笑った。

何もなかったか、という内容のことを聞かれたので、
ミナは何もなかったと答えた。

川のあたりで遊んでいただけだから、
「彼ら」が住まうような森や草原の向こうまでは
行っていない。そう付け加えて。

そうか、それなら安心だね、と朗らかに父は言った。
その反応を見て、やはりあの少年が
ぽつりと川縁に座っている状況は、
少なくとも自分たちにとっては
起こり得ない事態であることをミナは理解した。

「お父さん。ところで、聞いておきたいんだけど」

「何だい」

「この村の掟の、二つ目。
『自分たちの知識を与えてはいけない』っていう掟」

「うん」

「万が一、彼らに会ったときのために、
聞いておきたいんだけど。
これって、どのくらい厳密に守ればいいの。
例えば『あなたは誰ですか』と聞かれたとして、
それには偽名で答えないといけないの?」

「ああ、なるほどね──」

父は、少し考え込んでから答えた。

「さっきの質問の答えとしては、
偽名が望ましい、ということになる、かな。
そもそも、彼らは僕たちの素性や生活について、
根掘り葉掘り聞かないように取り決められているんだ。
彼らと僕たちの間でする会話なんて、
せいぜい『この茸は食べられますか』
『はい、食べられます』とかそれくらい」

「なるほど。生活を助け合う上で必要な、
最低限の会話しかしないようになってるのね」

「そう。だから、もしその取り決めを破るような者が出て、
ミナに話しかけるようなことがあったら──
できるだけ話をせず、その場を離れること、
というのが正しい対応になる。
少なくとも『彼ら』からは、
そう要請されているみたいだよ。
僕も、詳しい経緯までは知らないけどね」

「ふうん」

ミナは世間話の体を装いながら、父の話を咀嚼していた。

つまり、彼はその種の中でも、ルールの埒外にある。
断片的に聞いた彼の話を繋ぎ合わせるのならば──
彼は何らかの事情で、それまで暮らしていた集団に
いられなくなったのだろう。そういうことになる。

しかし、何故そんなことになるのだろう。


翌日、ミナは再びあの川岸で、彼に会った。
昨日と同じように、昼を少し過ぎた時間帯に、黒い義眼を嵌めて。

一応、誰かがこの川のあたりを訪れたときに
密会がばれないよう、
ミナは川岸から少し陸へ上がったところにある、
背の高い山林の中に入るよう申し出た。

彼はミナの来訪を歓迎してくれた。
彼は大層耳がよく、遠くで少し丸石を
踏みしめただけで彼女の足音を感じ取った。

ミナは、屈託のない彼の笑顔を見ながら考える。

当初の予定では、昨日の話の延長線上で、
彼の身の上や「彼ら」の生活のこと、
この川岸で孤独に座っていた理由などを聞く予定だった。

少なくともこの川を渡って彼に会うまでは、
そう思っていたのだが──

ミナの脳裏に、昨日いろいろな話をした時の、
彼の悲しげな表情が浮かぶ。

──それはまあ、後でもいいだろう。
むしろ今は、あたかも友好的な存在であるように装い、
彼を懐柔する方が先決だ。

ここで少年を泳がせておけば、
ほぼ初対面に近い今よりも、
もっと有用な情報を引き出せるに違いない。

そう。私は戦略的に、彼を懐柔するのである。
だから、村の掟にも反していない。

私は今から彼に向かって、
本心からではない、嘘の提案をするのだ。

「ねえ。一緒に、遊びませんか」


ミナは彼を連れて、彼女自身も行ったことのない
様々な場所を探検し、一緒に野苺や果実を食べ、
追いかけっこや劇の真似事などをして遊んだ。

あくまでも懐柔のために泳がせているだけだから、
仲良くなっているわけではない。

自分も知らない場所で今までしたことのない
遊びをしているのだから、
私たちの知識を与えているわけではない。

ちゃんと義眼を付けたうえで、
自分の名前も教えず、嘘の関係性を構築している。

だから。

だから、私は掟を破ってはいない。

ミナは、心の中で何度も何度もそれを確認した。

少年は、ミナの申し出を大層珍しく、
そして嬉しいものだと受け取ったようで、
初対面の時とは比べ物にならないほどによく笑った。

彼はよく、ミナに両手を差し伸べ、
その頬や顔を撫でるようにぺたぺたと触れた。

いつだったか説話で聞かされた通り、
その手や指はミナとは比べ物にならないほど大きく、
ミナの父母や友達とは明らかに異なる
ぶよぶよした弾力や湿り気を帯びていたが、
彼女はそれを気持ち悪く恐ろしいものだとは思わなかった。

頬のあたりを愛玩するように撫でる、
その少しばかり不躾な手つきには、
多少のくすぐったさと、
言いようもない恥ずかしさを覚えたが──
ミナは不思議と、それに本気で反抗しようとする気持ちは湧かなかった。

「やっぱり、かわいらしい顔をしていますね。おにんぎょうみたいだ」

「──あは、なにそれ。よく分からないけど、
誉め言葉として受け取っとくよ」

ミナにとって、彼は少々愚鈍ではあるが、やさしい子供だった。
どこを見ているのかわからない、ぼうっとした目つき。

ことあるごとに丸石や草に躓いたり、
ままごとの数を数え間違えたりするそそっかしさ。

最初のほうは、戸惑いや異種としての
心配のほうが勝っていたが、
それがどちらかというと「個性」に該当するものなのだと
理解すれば、それもどこかいじらしいものとして感じられた。


それからミナは、異種の少年との密会を毎日のように繰り返した。

家族は外出を繰り返す彼女の様子を、
遊び盛りの幼気な欲動として捉えた。

定刻には必ず帰ってくるし、森や村の向こう、
山奥といった「危険」な場所に興味を示す様子は見せなかったから、
ある種の拍子抜けにも近い安心感を覚えていたのだろう。

初めて彼に会って、二、三か月が経過したころ。

春の陽気もすっかり過ぎて、
もうすぐ梅雨に入ろうという時期だった。
何やら、数日分の食べ物が村の倉庫で配られるらしいからと、
父母が昼頃に家を出たころ。

いつものように彼に会おうと川を上ったミナは──
いつもの川縁から少し離れた山中で、
血にまみれたぼろぼろの状態で蹲っている彼を発見した。

「ねえ。ちょっと、どうしたの」

ミナは思わず声を出し、彼に駆け寄る。

その声と足音に彼は少しだけ顔をあげ、
「ああ」と苦しそうに笑った。

「少し──僕たちの、仲間に会って」

「仲間って──それで、どうしてこんなことになるの」

「蕗の森で、今日の分の食べ物を、採ろうとしたんです。
僕としては、ばれないように、
彼らの迷惑にならないように、
少しだけ拝借するつもりだったんですが──
運悪く見つかって、罰を受けてしまったんです」

「……罰? ただ食べ物を採ろうとしただけのことが、どうして」

「いえ。これは、狩場を間違えた僕が悪いのだから、あなたは心配しなくていい」

ミナは彼の状態に、
そして彼が途切れ途切れに話す言葉に、
ひどく混乱していた。

私たちだって、村民の間で取り決められている
狩場や農場、家畜に関する掟はある。

例えば誰かが栽培している畑の作物を
勝手に盗めば、相応の叱責と罰を受けることもあるだろう。

しかし、蕗の森はそれこそ私たちだって
自由に使える共用の狩場である。
なぜ、そこを使ったからと言って、
同じ仲間から、これほどの虐待を受けなければならないのだ。

ミナは彼の治療をしようとしたが、
何も持ち物がないことに気付いた。

待ってて、と彼女は彼の顔に触れて、
浅瀬に回ることなく、目の前の川をざぶざぶと渡った。

春に比べても随分と水深が深くなった
その場所を突っ切って、彼女は家へ向かった。

家には誰もいなかった。
まだ父母は帰宅していなかったらしい。

ミナは衣服入れの中から自分用の服を取り出し、
台所の刃物を使って力任せに引き裂いた。

嘗てはお気に入りの服だった、
帯のような端切れを持ち、
ついでに今朝自分が採ってきた野苺をひったくり、
彼女は再び深い川を渡って向こう岸に辿り着く。

曇天の川の水は、いやに冷たく感じられた。
ミナは、特に出血が激しかった腕のあたりに
その布をぐるぐると巻き、見様見真似にきつく結んだ。

自分の服が彼の体液によって赤黒く汚れていく。
自分と異なる種の治療の術など
ミナが知る由もなかった。

しかし、魚や獣がそうであるように、
傷ついたところから赤い体液が流れ出たら
多くの動物が衰弱することをミナは何となく知っていた。

彼は明らかに苦しげな呼吸を繰り返していたが、
彼女が治療の真似事をしている様子を見ると、
明らかな作り笑いを浮かべた。

ありがとう、おかげで気分が良くなってきた、
と彼は言ったが、彼女が持参した野苺を口に運ぶ様子はなかった。

何か、まだ何か、できることはないか。
彼女はきょろきょろと辺りを見回したが、
いま自分にできることは何も思いつかなかった。

彼女の心中にあるのは、
ただ今の状況に対する戸惑いと、
彼女を取り巻く様々なルールに対する懐疑心だけであった。

「違うルールで生きる者どうしが、
『本当のこと』を教えあう必要はないの。
むしろ、うまく見えないくらいがちょうどいい。お互いのためにもね」

いつだったかの母の言葉を、ミナは思い出していた。

ミナの周囲を取り巻く状況は、
あの日に母が言っていたことと一部重なっていた。

自分はまさに今、「本当のこと」を何一つ知らない。

なぜ彼が傷だらけで転がっているのかも、
そもそもなぜ彼が誰もいない川辺で暮らしているのかも。

視界を遮られているかのように、一切分からなかった。

私は、どうすればいいのだろうか。

「──待ってて。確か今日、お父さんとお母さんが、
たくさんの食べ物を持って家に帰ってくるはずなの。
私、うまく嘘ついて、明日その食べ物を持ってくる。
そしたら、きっと、もっとよくなるから──」

ミナは、殆ど譫言のように、
ただ彼を──というよりも、
自分を安心させるためだけの言葉を繰り返した。

その言葉は結局彼の身を案じたものではなく、
その行動をすれば自分は彼の手助けができる、
だから自分はまだ無力ではない、
と自分に言い聞かせるための言葉でしかなかった。

ミナ自身もそのことはよくわかっていて、
それでも、その言葉を止められなかった。


たくさんの食べ物を持って帰ってきた両親に、
びしょ濡れのミナは「遊んでいたら川に落ちた」と嘘をついた。

「何やってるの。あまりはしゃぎすぎたらいけないわよ。
これから、あの辺りはもっと危なくなるんだから。
当分、川の近くに行くのは止めておきなさい」

母の言葉に、ミナは上の空で相槌を打った。
濡れた後ろ髪を拭く時も、
体を乾かして布団に入る時も、
これから彼に何をすればいいのか、
ただそのことだけが彼女の頭の中に渦巻いていた。


翌日。
ミナは家の壁をかたかたと揺らす轟音によって目が覚めた。

翌日と言っても、朝というにはまだ少し早かった。
家に時計の類はないが、恐らく午前四時くらいだっただろうか。

家の外はまだかなり暗く、月明かりもない暗闇であった。

元来眠りは深く、親も難儀するほど、
一度眠ると起きない性質だったのに、何故だろうか。

ミナは親も寝静まった家の中で悄然と、
暖炉の火だけが明るい家の中を悄然と見回していたのだが──
段々と頭が冴えてきたころ、その理由に気が付いた。

雨。

家をかたかたと揺らすほどの強風と、
大粒の雨が、家の屋根を打っていたのである。

季節は春をとうに過ぎ、雨期の真っただ中にあった。
ミナは、わざわざ両親が家を出て、
大量の食糧を貰いに行っていたことと、
帰宅した直後の母の言葉を思い出す。

「これから、あの辺りはもっと危なくなるんだから。
当分、川の近くに行くのは止めておきなさい」

あれはつまり、翌日からの大雨を危惧した村民たちが、
当分の蓄えを家々に保管しておくための策だったのか。

上の空で母の言葉を聞き流していたミナは、
そこでようやく親の行動の意味に気が付いた。

と、いうことは。

居ても立ってもいられず、ミナは家を飛び出した。
いつも歩いている道はすっかり雨と泥にまみれ、
いくつもの水たまりを作っているらしい。
夜明け前の黒い道の中、ミナの足音がびしゃびしゃと響いた。

「あ──」

川は、すっかり増水していた。

少し前までの静謐で透き通った川の情景が嘘のように、
川の水位はずっと高く、汚泥のような濁流に満ちている。

川岸の丸石はもはやその姿すら見えず、
川岸まで下りる坂の途中のあたりまでが、
すでにごうごうと流れる雨水に飲み込まれていた。

暗い夜道と雨脚に遮られ、
川の向こうにいるはずの彼の姿は見えない。

最後に見た彼が、
殆ど自力では動けない状態であったことをミナは思い出す。

たとえ今はまだ無事であったとしても、
この雨に曝された傷病者が、
誰の介抱も受けずに無事でいられるはずはない。

「…………」

ミナは。

一度だけ、深く息を吸い込むと。

助走をつけて、濁流の中に飛び込んだ。


身を刺すような冷たさが彼女を襲う。
幾度となく見てきた朝のそれとは圧倒的に異なる、暴力のような水の圧。

恐らくは彼女の足に流れてきた大岩が膝に当たり、
経験したことのない痛みに彼女は声を上げ、
ようとして体内に侵入した泥水が、
彼女の呼吸と平衡感覚を奪う。

もはや、殆ど意識は途絶えかけていた。

水の流れに抵抗する余力もなく、
ただ向こう岸を目指して体を動かそうとする、
ただそれだけを本能的に繰り返すだけの身体。

どれだけの時間が過ぎたのかは定かでないが、
次に彼女が意識を取り戻した時には、
空は少し白み始めていた。

「───う、あ」

雨は依然として降り続けていた。
ごうごうと流れる水の音も、
むしろ先ほどより大きく響いている。

ごつごつとした岩肌の上で目を覚ましたミナは、
自分が見たこともない山の中にいることに気が付いた。

そこは、川がなだらかな坂道から再び急流に入る、
その中腹あたりの岩場であった。

自分は向こう岸に泳ぎ着いたというよりは、
水が跳ねるような川の流れにあてられて、
奇跡的に向こう岸へ打ち揚がったという方が
正しいのだろうとミナは理解した。

自分の肌が、服が、刃物で切られたかのように、
ざっくりと切れている。

体を動かすたびに気が狂いそうなほどの痛みが走るが、
それでも彼女は無理矢理に足を動かし、
棘のような石と植物にまみれた急坂を一歩一歩上っていった。

空が明るくなり始めたため、
山の上流のあたりにかけて、
真っ黒い雲が滞留していることにも、彼女は気付いていた。

山の岩壁に阻まれて滞留した雲が、
一時的に異常発達した雨雲を作り、
わずかな残雪とともに巨大な水流となって雪崩れ込んでくる。

今日の朝から昼にかけて、その雨脚は一層強くなっていくだろう。

何度か、べしゃりと倒れ込みながら、
やっとの思いで見覚えのある道まで辿り着いたとき、
川はもう少しで氾濫するというところまで増水していた。

川の向こう岸には雑木林があるばかりで、
ミナの家のような民家がないのには理由がある。

川を隔てたふたつの陸地は微妙に高さが違い、
ミナの家から見て向こう岸の陸地のほうが、
少しだけ低いのである。

そのため、雪解けや大雨など、
何らかの理由で川が増水したときなどは、
まず向かいの陸地のほうが水浸しになる。

つまり、川が一時的に増水するとき、
真っ先に被害を受けるのは、
向かいの川岸に近い陸地にいる者だ、ということになる。

「──あれ」

ぼやけたミナの視界に、彼の姿が映る。
彼は、前夜に倒れていたところから
殆ど場所を変えることなく、同じところに寝転がっていた。

正確には、その場を離れる前にミナが
何とか近くの木の下に動かしていたから、
位置は少しばかり異なるのだが。

べたついた体液は雨で流れているが、
逆に体温を著しく奪われているためか、
彼の体は断続的にがたがたと震えていた。

「よかった」

掠れた声で、ミナは彼に声をかける。
ひとまずは彼がまだ生きていたことを、
彼女は心から嬉しく思った。

「──ごめん、食べ物、持ってこれなかった。
でも、私、ちゃんとここに来れたよ。
約束、してたから」

ミナはそこで、自分が義眼を忘れてきたことに気付いた。
今、彼には、掟を破った私の「本当の顔」が見えているのだろうか。

しかし、彼女にとって、それは既にして些末な問題であった。

「──私、嘘ついてたの。名前がないっていうのも、
あなたと一緒の境遇だっていうのも、
あなたに見せていた顔も、嘘」

彼の目が、驚いたように開かれた。

「ただ、外に出たときに、あなたがいて、
さびしそうだったから、一緒に遊ぼうって言っただけ」

彼女のいる方を、茫洋とした顔つきで見詰める
彼の顔をじっと注視して、ミナは途切れ途切れに話しかける。

「ねえ。あなたは──あなたはなんで、こうなったの?
こんなにやさしいあなたが、なんで、
こんな目にあわなきゃ、いけなかったの」

彼は──
少しだけ黙り込んだ後で、ミナに返答した。

「僕は、目が見えないんです。生まれつき」

「──え」

ミナは頓狂な声を上げる。
彼女は、彼の言に少なからぬ戸惑いを見せていた。

「僕がいた村のみんなは、目が見えない僕の処分に、
明らかに困っていました。畑仕事も、いや歩行さえも、
自分だけでは満足にできないから。
しかし、邪魔だからといって、
すぐに村民を殺せる時代でもありません。
流石に世間の目というものがある。だから僕は、通訳に選ばれた

ミナは、彼と一緒に遊んでいた時のことを思い出す。

彼が、不思議なほどに発達した聴力で、
私の足音をすぐに聞き分けたこと。

通常はすぐに避けられるような山道の石や木に、
頻繁に躓いていたこと。

私の顔を、まるで両手で撫でるように触り、
その輪郭をなぞっていたこと。

話しているときはいつも、
どこか焦点の合わない不思議な目で、
私のいる方を見つめていたこと。

あれは、彼の視力が失われていた故に起きていたことだったのか。

いや、でも。

ミナには、どうしても分からないことがあった。

「でも、なんで、あなたが痛めつけられて、
村から放り出されないといけないの。
目が見えないのなら、いや目が見えないのだからこそ、
一緒に仲良く助け合って暮らせばいいじゃない」

「それをする余力が、他の村民たちにはなかったのでしょう。
それに、彼らは僕に、最低限の仕事を与えてくれました。
それが、あなたたちの種の言葉を理解する『通訳』でした」

彼はそこで一度咳き込み、再び話を続けた。

「異種のものたちが、
同じルールを共有して生活することはできません。
それと同じように、全く異なる生き物の言葉と、
僕たちの母語を同時に話すことはできないのです。
僕はあなたたちの言葉を習得すると同時に、
元々持っていた母語を失いました。
もはや僕には、あの頃の語彙は殆どありません」

ミナは、以前にした父との会話を思い出した。

「彼らと僕たちの間でする会話なんて、
せいぜい『この茸は食べられますか』
『はい、食べられます』とかそれくらい」

「それでも、通訳としては問題ありませんでした。
取り次がれる質問は『あれは食べられますか』
程度のものばかりだったから、
少しのジェスチャーや文字を覚えておけば、
発話が制限されても意思の疎通はできます。
僕が失ったのは母語を『話す』能力だけで、
『文字を書く』能力は失われていなかったから」

父の言によれば、もし通訳者の間で
私たちと詳細な会話を試みる者が現れたら、
それには応答しないように──と、
「彼ら」は要請していたらしい。

そして、私たちの種もそれを受け入れていた。
そこに何らかの後ろ暗いものが隠れていることは
分かったうえで、それに触れずに共存することを選んだのである。

何故なら、違うルールで生きる者どうしが、
『本当のこと』を教えあう必要はないから。

むしろ、うまく見えないくらいがちょうどいいから。

だから私たちは義眼を嵌め、
「彼らと仲良くなってはいけない」という掟を定め、
必要最小限の交流のみを行うように努めた。

そういうことなのだろう。

「僕の言葉と引き換えに、役立たずの僕は、
村で生存する権利を与えられました。
しかし、ある程度僕の通訳による情報が
村に共有されると、僕には新たな『権利』が与えられました。
元々いた村とは異なる広大な土地で、
好きに暮らしていいという権利。
要は、用済みになった僕を放逐したかったのでしょう。
それで僕が蹴り出されたのが、あの川の畔でした。
そこで僕は、あなたと会ったのです」

彼は焦点の合わない目で、ミナに笑顔を向けた。

「あなたは、唯一、僕に心から優しくしてくれた。
手を引いていろんなところに連れ出して、
今もこうして僕を気にかけてくれている。
最初は、僕と同じ境遇だったと聞いたから、
とても心を痛めていたのだけれど──」

ミナは最早、耳を塞ぐこともできなかった。

「あなたの言葉を聞いて、安心しました。
あなたは、僕のような扱いを受けていないんだ」

ミナはそこで、この世界の掟の意味を知った。
私たちが、父と母が、この村の住民が、
彼のいた村の住民が、お互いの村の祖先が、
何のためにその掟を作り、愚直に守ってきたのかを。

彼らは、怖かったのだ。

今、自分たちが生きている「この世界」が壊れることが。

目の見えない彼のような、
全く異なる種の生物たちのような、
日常生活における「異物」が、
必要以上に自分の領域を侵食することが。

「──あはは」

ミナは、突然に馬鹿馬鹿しい気分になって、ほぼ無意識に笑った。

彼は、そして私は、
頭の良い誰かが作った「掟」に翻弄されてきた。

異なる種が、異なるルールを持つままに共存することはできない。
言語も、計算方法も、集団での暮らし方も、
何もかもが異なっている。

だから私たちはささやかな共生も叶わぬまま、
理不尽なひずみに満ちた共存を強いられてきた。

なら。

彼を、私の「ルール」に引き込んでしまえばいいじゃないか。

「ねえ」

ミナはその笑みのまま、彼に話しかけた。

私、ミナっていうの。私の本当の名前。
もう嘘をついたって怒るやつはいないから、
あなたに伝えることにする」

「…………え」

「呼んで」

「──えっと」

「早く、呼んで。私の名前、あなたの声で」

「…………ミナ」

ミナは、その声に、心がざわざわとするような喜びを覚えた。
今、彼だけにその名前を教えているという、
共犯者意識のような昂揚感のような、言いようもない感情。

そうだ、どうせだから、
「私たち」の名前も教えておこうか。

どうせこれから使うことはないけれど、
折角だし、彼とできるだけ多くの知識を共有しておこう。

「そう。私の名前は、ミナ。
そして──コロポックルkorpokkur、これが『私たち』の名前。
こっちは、別に呼ばなくていい」

ミナの膝に、冷たい感触が伝わった。
どうやら、川が増水の末に氾濫し、
こちら側の陸地に水が入ってきているらしい。

「あなたの名前は、何ていうの」

「……ごめんなさい、覚えていないんです。
ずっと、名前も呼ばれずに暮らしてきたから。
でも、『僕たち』を意味する言葉は、職業柄、よく覚えている。僕たちの種は、ニンゲンNingenという音で表されるそうです」

「そう。なら、あなたのことは暫くそう呼ぼうかな。
どうせ、他のニンゲンに会うことはないだろうし。
その呼び名が気に入らなかったら、
私たちで話し合って、適当に変えてしまえばいい。
ルールを作るのは、あなたと私だけなんだから」

ミナは、彼の片手を取り、自分の頬に押し当てた。

大粒の豪雨や、
背中のあたりに流れる水を気にも留めず、
彼は薄い笑みを浮かべる。

「やっぱり──あなたは、かわいらしい顔をしています。
見なくても、触っていれば分かる。
それこそ、おにんぎょうみたいで」

「それ、あの時からよく分からないんだけど。
『オニンギョウ』なんて音の言葉、
私の知ってる言葉にはないから──
誉め言葉ってことで、いいんだよね?」

「ええ。──あれ、
前に目の辺りにあった、ボタンがありませんよ。
小さな穴が開いた、それこそ人形につけるような……
大丈夫なのですか」

「ボタン? ……ああ、あの義眼のこと。
大丈夫だよ、あれは偽物の目だから、もう必要ない」

「……そうですか」

「そう。だから、今あなたが触れているのが、
私の『本当の顔』なの。見えはしないだろうから、
この感触を、よく覚えておいて」

「──はい、勿論です」

ミナの心の中で、何かが変質するのを感じる。

今、自分がやっていることは、
二つの種族の双方からして、
絶対に駄目なことなのだろう。

彼らとは異なる世界に棲まう異形が、
人間(とやら)を勝手に引き込み、
すべての掟を破ってでも、
その者を自分のもとに引き込もうとしている。

しかし、それでもいい。

私はもう、人間でも、
ましてやコロポックルでもないのだから。

彼の温かな手を、私の頬に、強く強く押し当てる。

水流が強まっていく。


夕方になって豪雨が止んだ後、
コロポックルの村の人々は、
朝から行方を晦ました少女を懸命に捜索した。

ひとりの通訳の姿が見えなくなったという
人間の村にも接触を図り、
大規模な捜索が行われたが、
そのどちらの姿も発見されることはなかった。


SCP-579-JP「コロポックル」(一部抜粋)

画像
HINATA-BOKKO.jpg
SCP-579-JP「コロポックル」より
原著者: soilence 公開年: 2015
http://scp-jp.wikidot.com/scp-579-jp

虚偽の説明:
SCP-579-JPは人型の生命体です。
人間の8分の1ほどしかない大きさにかかわらず、
SCP-579-JPは器用に手足を動かし、
立って歩き、言葉を話し、文明を築きました。

SCP-579-JPの姿や振る舞いは人間と同じに見えますが、
その本当の意味を理解することは、
人間の価値観では不可能です。

人間は、人間と関与(交流)する能力を
犠牲にする事でSCP-579-JPとの深い交流が可能になります:

これまでに、以下のような影響が
人間にもたらされることが確認されています。

SCP-579-JP-甲: SCP-579-JPの「人形」でない顔を見た人間は、人間に対する相貌失認を発症します。

SCP-579-JP-乙: SCP-579-JPの言語で会話が可能になった人間は、人間に対する言語障害に陥り、あらゆる人間の言語の再教育が不可能になります。

SCP-579-JP-丙: SCP-579-JPは現在の人類が一般的に用いる数字に、未知の数字を1つ加えて計算を行います。

かつて日本人は、
特定の人間を口語のみか筆談のみで
SCP-579-JPと交流させる事で、
常に人間の先を行く文明を持っていた
SCP-579-JPの技術や知恵を手に入れていました。


SCP小説集『此岸』より、
「義眼」という話を再構成・公開しています

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共同創作サイト『SCP財団』で活動しています。 様々な理由で上記サイトに載せるには至らなかったおはなしや、怪談関係の二次創作などを、此処に掲載しています。
【SCP短篇】「義眼」|梨
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