教養主義はどこへ消えた? その正体は男子の「純粋さ」競争だった

聞き手・石川智也

 「教養の没落」が言われて久しい。「人格修養」とか「○○くらい読まなければ」という言葉もすっかり聞かなくなった。一方で「教養」と名のつく本は山のように出版されている。高田里惠子・桃山学院大教授は、日本的な教養主義のルーツと、付きまとう「いやーな感じ」を考察してきた。愛憎半ばしながらそれに接してきたという高田さんに尋ねた。教養はどこへ行ったのか――。

立身出世主義への反動で生まれた

 「教養があるね」は褒め言葉の半面、ある種の揶揄(やゆ)を含んだ言い回しです。インテリ気取りでエリート臭が鼻につき、嫌みをまとった「教養」のイメージは、実は近代日本特有のもので、始まったのは大正期です。

 教養を私は「自分自身で自分自身を作りあげること」と定義しています。いかに生くべきかを考え決めるのは、他ならぬ自分だという認識こそが、最も重要な出発点です。当たり前に聞こえるかもしれませんが、身分制社会では自分の生き方を自ら決めることはできませんでした。その意味で、教養は何よりも解放の思想でした。

 とはいえ明治期の青年、特にエリートにとっては、一身の独立は一国の独立と結びつき、新国家の普請と自己形成は不可分でした。日露戦争前後に近代国家がひとまず完成し、対外的危機が遠のいたことで、新たに自己を満たすものが必要とされます。そうして生まれたのが大正期の「教養主義」です。その大きな特徴は、明治的な立身出世主義への反動です。教養の殿堂である岩波新書を考案し、後に月刊誌「世界」の編集長となる吉野源三郎が著した教養論のタイトルが「君たちはどう生きるか」なのは示唆的です。

余裕ある特権者たちの「甘え」

 高踏的でありながらスノッブな文学や芸術の趣味、授業エスケープや飲酒・喫煙などの露悪的な反抗心、受験勉強への軽侮、進歩的で反体制的な政治メンタリティー、自己愛と裏返しの自己批判精神、個性的で天才肌の同級生たち、変人への包摂力……。旧制高校とその弟分の旧制中学を覆ったこうした文化は、戦後も伝統校に長らく残存していました。1960年代末の東京都立日比谷高校生を主人公にした庄司薫の小説「赤頭巾ちゃん気をつけて」には、山の手の良家出身の学歴エリートたちが送る青春の「いやったらしさ」(笑)が、これでもかというほど描かれています。

 教養主義とはいわば、男の子たちによる「自分はどれだけ純粋か」競争です。前途洋々のエリートの卵たちが、あえて立身出世に背を向け、自分が単なる受験秀才や優等生ではないことを自分にも他人にも示す。見栄や背伸びとも結びついたこの不思議な志向が、日本的教養主義の土台でした。思想書や文学を読むだけでは自分を作り上げられない、人格を陶冶(とうや)できないぞ、という教養主義批判も、それ自体、教養主義の一種に他なりません。

 ではなぜ、この競争の主体は「男の子」だったのか。音楽家に対して「音楽の教養がありますね」とは決して言わないように、教養とは専門性の反対語。そんな利益にならないものを好んで身に付けようという精神的・金銭的・時間的余裕のある人は、少数の特権的な男子に限られていました。20世紀初頭、旧制高校生や帝大生らの間で、まさに教養の一種として登山がはやりましたが、労働でもないのに身体を使う意味が庶民には理解できなかったといいます。

 結局のところ、彼らの芸術や文学への没入も、反抗も、すべて身を滅ぼさない限度をわきまえたもので、甘さと甘えを抱えていたことは否めません。

「コスパ」の対義語として生き残っている

 教養や教養主義の衰退とは、それらが少数の特権的地位にいる人たちのものではなくなり、「脱・優等生戦略」としての役割を終えたことを意味します。1980年代の「ニューアカ」ブームでは、難解な現代思想書を読む「カッコよさ」がパロディーになるまで極められましたが、これが教養主義の最後の花火でした。

 本を読まない人が覇権を握り、昨今の高学歴の若者は、もはや文化的カッコよさを求めたり、知的ヒーローへの憧憬(しょうけい)を抱いたりはしない。月刊誌「ユリイカ」を小脇に抱えデリダとかラカンとかゴダールなどとつぶやく場所を与えられるより、ネットの世界で評価される方が楽しいでしょう(笑)。背伸びをしなくなったし、それはまさに、ネットでは背伸びをした人を冷ややかに見てたたく風潮があるからかもしれない。また単純に、教養を追い求める余裕を多くの人が失っているという側面もあると思います。

 ビジネスマン向けの「教養本」は売れているようですが、これは単に知的好奇心や、人口の一定数いる「歴史好き」によるものでしょう。私の定義する「自分自身を自分自身で作り上げる」「純粋さ競争」という意味での教養とは、ほぼ関係がないと思います。

 とはいえ、教養が完全に死んでしまったわけではない。昔のように声高に人格修養を叫ばなくても、人は自分の人生を自分で構築している手応えが欲しい。その手段や対象は、かつては文学や哲学、芸術でしたが、現代ではボランティア活動とか社会奉仕、田舎暮らしに変わっているのかもしれません。それらをあえて選んで実践するには、やはり余裕が必要です。教養の対義語は以前は「立身出世」。そして今は「コスパ」「タイパ」なのでしょう。

 自己形成と純粋さ競争という教養の根本がある限り、それはなお続いているのです。

高田里惠子さん

 たかだ・りえこ 1958年生まれ。桃山学院大学教授。専門のドイツ文学の他、教養主義や学歴社会も研究。著書に「グロテスクな教養」「学歴・階級・軍隊」「文学部をめぐる病い」など。

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この記事を書いた人
石川智也
オピニオン編集部
専門・関心分野
リベラリズム、立憲主義、メディア学、ジャーナリズム論
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    綿野恵太
    (文筆家)
    2025年4月4日11時40分 投稿
    【視点】

    教養の対義語が「コスパ・タイパ」というご指摘はとても面白いです。確かにその通りだと思います。 コスパ・タイパブームと関係する言葉として、「地頭(のよさ)」という言葉もネットでよく目にします。人格的な修養や陶冶なんて必要ないし、めんどくさい。専門的な知識や教養の蓄積なんてなくていい。インターネットを駆使してデータやエビデンスを集めて、効率よく暫定的な結論に辿り着ける「地頭」の良さがあればいいのだ、と。 また、ビジネスマン向けの教養本を見ても、『銃・病原菌・鉄』や『サピエンス全史』など分厚いビッグヒストリーや人類史系の本が、「この一冊を押さえておけばいい」という売り文句で推薦されているのをよく目にします。つまり、「この本を読んでおけば、他の無駄な本は読む必要はない」というコスパ・タイパ重視の価値観になっているんですね。 記事にご指摘があるように、多くの人から教養を追い求められる生活の余裕が失われた。その余裕のなさによって「コスパ・タイパ」的な価値観が叫ばれているのかもしれません。

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    杉田菜穂
    (俳人・大阪公立大学教授=社会政策)
    2025年4月4日13時4分 投稿
    【視点】

    「教養の対義語は以前は「立身出世」。そして今は「コスパ」「タイパ」なのでしょう」と。 立身出世の実現に必要なものは“学歴”と“集団主義的適応能力”といわれてきたこと、1990年代以降の価値観の多様化や情報の加速度的な増大を踏まえての指摘だと思う。独力で知と情を深めていくかたちが多様になっただけという捉え方もできそうだが、活字に接することで自分と向き合う時間はいろいろな楽しみのなかに相対化されている時代を生きているというのは共通認識になっているではないだろうか。 この記事を読んで、岩波新書が教養主義の象徴的存在だったという話をしてくださった方がいたことをふと思い出した。

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