3月31日の深夜にパソコンであれこれ検索していところ、日付が変わった瞬間に「湯岡の温湯碑発見!」というニュースがヒットしました。
その記事の発信元は、愛媛県湯岡村教育委員会です。しかも、ほかの記事を読んだあと、もう一度、「湯岡 温湯碑」で検索すると、ヒットしませんでした。時間をおいてやってみるとたまにヒットすることもあります。
何年も前に予約を始めておきながら出版延期を繰り返し、「出す出す詐欺」だとしてで話題になった某明日香村育委員会の古墳発掘調査本(リンク)のことを思い出し、ちょっと不安になりました。
つまり、発表した後、何か問題があってあわてて発表を取り消し、報道を延期したものの、キャッシュがネットに残っていて、それにヒットしているように思われたのです。ともかく、その記事を読んでみました。
それによれば、年末に松山市の道後温泉に隣接する湯岡村字伊社邇波の古湯遺跡で、巨大な石碑の破片が発見され、そこにかの温湯碑の文字が刻まれていた由。字が読めるのは一部だけだったものの、『釈日本紀』巻十四が舒明天皇の伊予温泉行の部分で引用している『伊予風土記』の逸文と良く合うそうです。
冒頭部分の破片をつなぎあわせると、「法興六□□□□丙辰我法王大□□恵忩法師葛城□□□□村」となるとか。『釈日本紀』では、「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、与恵忩法師及葛城臣逍遙夷予村」としており、法王大王、つまり聖徳太子が恵忩法師などと伊予村を訪れたとしているのに、現在の注釈などでは、高句麗の「慧慈法師」と来たはずであって「恵忩」とあるのは誤りとして字を直してしまうのですが、「恵忩」で良かったのです。
「忩」は「聡」の略字です。つまり、聖徳太子は百済の恵聡と温泉を訪れたのですね。法興寺(飛鳥寺)の建立が開始された五九一年が法興元年だとすると、「法興六年」は五九六年となり、これは推古天皇四年にあたります。しかし、『日本書紀』によれば、慧慈が高句麗から来日したのはその前年の五月であって、来たばかりです。
『日本書紀』はその来日記事に続けて「則ち皇太子、之を師とす」としており、さらに「是の歳、百済僧の恵聡来たる」としているため、慧慈が尊重されており、恵聡の方が後に来ているように見えますが、「是の歳~」という表記は、何年だか分からない場合、関連する記事の最後に付けておく場合が多いのです。
実際、崇峻天皇元年(五八七)には、「百済国、使い并びに僧の恵總・令斤・惠寔等を遣り、仏舎利を献ず」とあります。この「恵總」が湯岡碑文の「恵忩(恵聡)」であって、聖徳太子は推古朝になる前から恵聡に師事し始め始めており、親しくなっていたと思われます。
この破片で面白いのは、『釈日本紀』の引文では、「日月照於上而不私。神井出於下無不給(日月は上に照らして私せず、神井は下に出でて給せざるなし)」とあるのに対し、破片では最後の部分が「無不整(整わざる無し)」となっていることです。
『釈日本紀』の文によれば、この神秘的な温泉は地下から湧いて多くの人に恵みを分け与えないことがない、としていますが、破片では、「整わないことがない」としており、現代のサウナを思わせる記述になっているのですね。
伊予の温泉は間欠泉であって蒸気も吹き出していたようですから、その蒸気を木の管などで小屋に引きこみ、サウナにしていたのでしょう。中世以前の寺の風呂は「温室」、つまり、サウナでしたので、そのはしりですね。
聖徳太子と恵聡と葛城臣は、サウナ小屋で熱い蒸気を浴びた後、道後温泉地区だけに池に「ボッチャン」と飛び込んで体を冷やし、寝台のようなものに寝転んで「いやあ、整うなあ」「まさしく整いますね」などと語りあって、裸のつきあいをやっていたのでしょう。
確認しようと思って、その記事を検索してみたところ、何度やってもヒットしないことが多くなってきました。その記事を読むことができるのは、本日4月1日限りかもしれません。
それにしても、毎年、4月1日にはいろいろなことがおきますね(たとえば、こちらや、こちらや、こちらや、こちら、こちらや、こちらとか)。