勇者の物語

プロローグ ブレーブスの戦士たち今再び 虎番疾風録番外編1

格好いい縦じまのユニフォーム。左から梶本、長池、足立
格好いい縦じまのユニフォーム。左から梶本、長池、足立

なぜ今『勇者(ブレーブス)』なのだろう。この物語を企画するきっかけとなったのは、多くの読者の声だった。

「昔、ぼくは阪急の大ファンだったんです。よく西宮球場に行きました。米田に足立、長池にスペンサー…昔からいい選手がたくさんいた。懐かしいな」

プロ野球界から「ブレーブス」というニックネームが消えて今年で30年になる。その間、親会社の阪急は阪神と合体。オリックスはニックネームを「バファローズ」に変えた。阪急のOBたちやファンの心の中で、行き場を失った寂しさが大きく膨らんでいたのだ。

筆者は昭和60年12月1日から阪急ブレーブスを担当した。当時の監督は闘将・上田利治。〝花の44年組〟といわれた加藤秀司は広島-近鉄へとトレードになっていたが、山田久志や福本豊は健在。そして投手の目玉は暴れん坊のアニマル。担当記者も一緒にペナントレースを戦う〝仲間〟として扱われた。球団や選手との距離がとんでもなく近い。阪神とはまた違う〝温かさ〟があった。

『物語』を始めよう。まずはこの日のことから-。

60年12月14日の夜、筆者は兵庫県宝塚市にある「宝塚グランドホテル」の大宴会場をのぞいていた。中では浴衣に丹前姿の監督やコーチら阪急の球団首脳たちによる納会が賑(にぎ)やかに催されていた。阪神ではここまで近くに寄って取材することはできない。記者は筆者しかいなった。そのときである。

「田所君やないか。何してんの?」と声がかかった。<しもた…入り過ぎたか>と一瞬、後悔した。声の主は小川友次広報課長。当然、追い返されると思った。ところが-

「そんなところで立ってんと中へ入りぃな」と腕を引っ張られて宴会場の中へ。そして上田監督の隣に座らされた。「まぁ一杯、飲めや」と監督がビールを注ぐ。「えっ、いや、まだ仕事中なので…」と意外な展開に戸惑った。するとまた、小川が立ち上がった。

「ええぇ、みなさんご静粛に! ご紹介します。この12月からウチの担当になりました田所龍一記者です。拍手ぅ! では一言、ご挨拶を」。なんとマイクを持たされ舞台のど真ん中へ押し出されたのである。(敬称略)

■勇者の物語(2)

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