自己紹介🐢
はじめまして。かめ🐢と申します。
星の数ほどある記事の中から、こちらをご覧いただき誠にありがとうございます。
お前は誰やねんと思われる方が大半かと思いますので、まずは自己紹介をさせていただきます。
プロフィール
年齢:30半ば(2024年現在)
経歴:6大学卒⇒中小ブラック(10年程度)⇒転職活動⇒大手ホワイト
性格:温和、温厚、マイペース
趣味:さんぽ、筋トレ、投資、グルメ、美容
好物:ラーメン(二郎、中本、一蘭ほか)、お寿司等
本業:会社員(都内大手製造業システム部門)年収1,100万
副業:せどり(楽天せどり、古物市場せどり)⇒X発信
家族:妻子子
住居:持家
車両:SUV1台
簡単ですが経歴を以下に記します。
20xx年 都内大学(文系)卒業
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都内中小企業(上場)に営業職として就職
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最初の配属先は愛知県名古屋市
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3年間営業として地獄の日々(平均残業100時間/月)を過ごす
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半ば左遷される形でシステム部門へ異動
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何も知識が無い中、3か月残業500時間、話の通じない上司などを相手に
する日々。
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約10年 システム部にて様々な仕事に従事(知識が無かった為前半はほぼ体当たり)
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この先を憂い、転職活動を開始
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大手ホワイト企業から内定。年収も大幅UP!
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週3在宅勤務、週2回は下記のようなオフィスで勤務。
毎日充実した日々を過ごしています。
さてここからはもう少し詳しく、社会人になってからのお話を書いてまいります。ポテチでも食べながら気楽にご覧ください。
第1部 新入社員編
20xx年4月 私はとある上場企業(製造業 中堅)の入社式に臨んでいた。高校、大学と全てストレートで進んでいたため当時22歳のピチピチ新人だ。
同期は20名弱。多すぎず少なすぎず丁度よい人数だろうか。
幸い皆、良い人たちであっという間に仲良くなった。
社会人とはいえ、新入社員はまだ学生と何ら変わらない。年が近い人がいればすぐに仲良くなってしまうものである。
入社してからの大まかなスケジュールは
4月中旬まで :本社にて座学
4月下旬~5月下旬:製造現場、研究所、営業同行などのOJT
5月末 :配属発表
6月~ :配属、それぞれの持ち場で業務開始
と言った流れである。
これから自分の新しい社会人生活が始まるんだ!と意気揚々、していたのを覚えている。
月日はあっという間に流れ、4月下旬最初の給与日を迎えた。
いわゆる「初任給」である。
私は入社してから現在に至るまで毎月給与をエクセルに記録している為(変態?)、当時の記録も残っている。
以下が、私が初めて受け取った給与「初任給」の内訳である。
額面:203,040円
控除: 75,152円
手取:127,888円
少なwww
自分で書いていて思わず笑ってしまった。
額面もさることながら、何も考えずに財形、持株会などにお金を預けた結果
初任給の手取りは13万を切る結果となってしまった。
当時は実家暮らしだったので、特にこの手取りでも困ることはなかったのだが、まあ初任給なんてこんなもんだろう。
昨今のインフレ・賃上げ祭りから見ると心もとないが、当時はこれが
大卒で上場企業に就職したサラリーマンのリアルである。
その後、初任給で無事に両親、祖母、兄弟を連れて肉の万世に行き、美味しいハンバーグを食べたのは懐かしい思い出である。
更に月日は流れ、あっという間に5月末 配属発表の日となった。
当時私は関東在住だったため、配属先も近辺の営業所を希望していた。
そもそも当時は「配属」の意味すらよく分かっていなかった。
漠然と都内の綺麗なオフィスでスーツを着て颯爽と働くサラリーマンを
想像していた。
期待と緊張が入り混じる中、配属発表。
次々と同期の配属先が発表され沸き立つ本社会議室。
そして私の発表の出番となった。
人事「かめ🐢くんは 名古屋配属とする・・・・っ!」
🐢 「!?」
お?ん?え?なごや?
縁もゆかりも無いし希望もしてないんだが?
なぜ??
名古屋で何するの?←
当時、突然期待に反する配属先だったため、頭が真っ白だったが
同期も同じような状態だったため、とりあえずその場を取り繕い過ごした記憶がある。
配属発表されてからの動きは早かった。
その日のうちに、各自が配属先の上長に電話で
「配属が決まりましたのでこれからよろしくお願いします」 と一報。
家に帰りすぐに引っ越しの準備が始まった。
配属発表の直後は頭が真っ白だったが、よくよく考えてみると
国内だし、それなりに都市部だし、何なら初めての一人暮らしも出来るし
なんかすごく楽しそう!! と思えるようになっていた。
両親にも報告し、頑張ってきなさいと激励もいただいた。
当時の自分は新卒特有の根拠のない自信に満ち溢れていた。
やってやるぞ と。
当時の私は、配属先の名古屋で起きる激務の日々をまだ夢にも思っていなかった。
着任~怒涛の3年間
6月上旬着任。
はじめての一人暮らし。はじめての仕事。現地でのOJTを4か月経験し、10月からいよいよ本配属、当時一番の花形部署と言われていた営業所であった。
名古屋と言えば、言わずと知れた世界最強の自動車メーカー T自動車様のお膝元である。当然私も多分に漏れず、同社を担当することとなった。
あれだけの超大企業なのだから日本中に工場があるかと思いきや、親会社直系の工場は愛知県に集中している。
東南海地震が来たらどうするんだろうとおもったが、とにかくめちゃくちゃ工場が集約されているのである。
そして、T自動車に部品を供給する大手自動車部品メーカーも各所に点在しており、一つの国家のような状態といっても過言ではなかろう。
私はT自動車を中心に、大手自動車部品メーカー(いわゆる1次受け2次受け ティア1、ティア2と呼ばれる)も担当した。
事務所のある名古屋から平均片道2時間往復4時間、帰りの時間(夕方)は渋滞することもあり往復5,6時間なんて日はザラにあった。
新入社員の頃の私は、何も考えず愚直に動いてしまって、効率的な営業活動もまるで出来ていなかったように思う。
先輩に言われた通り、「とにかく現場にいけ!!」の言葉に忠実に従い、毎日、蒲郡・豊橋・田原方面(愛知県の東側)を訪問したものである。
中京地区ではT自動車が築いた、
T田生産方式、ジャストインタイム(JIT)、カンバン、カイゼン
という考えが染み込んでおり、基本的に同社の指定する
Q(品質)、C(価格)、D(納期)は厳守しなくてはならなかった。
そのため、当日の夕方に依頼され、次の日の朝に報告などというドラマのような対応も日常茶飯事で、とにかく忙しい。
印象的だったのは、5時半に定時の鐘がなるのだが、それを「第二の始業の鐘」と呼び、毎日早くて22時遅ければ2,3時まで働く日々が3年間続いた。
無論、この3年間何も無く平穏に過ごせた訳もなく、鬼のような所長に毎週月曜日は激詰めされ、課長係長には、お前は使えない 営業の才能が無い
派遣業務をしたほうが良いんじゃないか という罵声も幾度と浴びた。
しかし、若手は皆こんなものだろう、こんな辛いのは私だけでは無いはずだと思い込んでいた。
そのため、信じられない方もいらっしゃるかもしれないが、一度も辞めたいとは思わなかったのである。
(日曜の夜に心臓がバクバクして冷や汗をかき、寝られないという状態にまでなっていたが、それでも辞めるという発想はなかった)
身長179センチある私も一時期、体重が57キロまで減少していたこともある。
今思うと本当に恐ろしいし、あのまま続けていたら、確実に体を壊していたと思う。
幸い、一部のお客さんは若い私を受け入れてくれて、色々と話を聞いてくれたり、お菓子をくれたり優しいほっとする時間も少しあった。
あの時出会った全ての方々に今は感謝の気持ちでいっぱいである。
今振り返ると、なぜ自分はこの激烈な労働を続けることが出来たのか。
精神面も含めて思いつくことを箇条書きしてみる
単純に若かったから(22~24歳)
ご飯をしっかり食べていたから(一時期は瘦せていたものの、基本3食しっかり食べていた)
土日は遅くとも12時には寝ていたから
この辛さは自分だけでは無いと思いこんでいたから
一部のお客さんは親身で味方になってくれたから
なんでこんなに怒られないといけないんだという怒りが原動力になっていたから
同期が心の支えとなっていたから
余談ではあるが、当時
がむしゃらに働いて3年 貯金も大してなかった(約100万円)が、どうしても新車が欲しくなってしまい全額頭金に回して、4年目の3月に車を購入。 貯金は0円となった。(今では考えられないが、これが若気の至りか。。)
今思うと、仕事で疲れすぎて正常な判断が出来なくなっていたのではと思う。しかも購入した車はTタではなくMダ。まさに謀反。
仕事で嫌というほどTタを見てきた私には同社の車を買うに気にはなれなかった。。。
そうして、4年目の春、人生の転機を迎える。
新車を購入して2か月経過したGW明け最初の会議。
いつも通り営業所長に激詰めされると思いきや、その日は何も言われず。
会議の後に一人だけ部屋に残され、所長から衝撃の事実を告げられた。
所長「🐢くんは、、、、、
6月1日から東京本社 情報システム部に異動!!!」
🐢 「!?」
お?え?あ? 東京? 本社?? 6月1日???
情報システム部????????
頭が真っ白になった。意外にもその時思ったのは、この辛さ苦しさから逃れられる安堵ではなく、営業を続けられない 続けさせてもらえない 烙印を押された こんなに頑張ってきたのに、、、
という落胆、悲しさ、虚しさ、憤り であった。
今までの全てが否定された気持ちになり、3年間で一番落ち込んだ瞬間だったかもしれない。
誰がどう見ても左遷。 営業としてのキャリアは絶たれ、知識も経験も無い
何をやっているのか全く分からない 情報システム部 という謎の部署への異動宣告。これは辛かった。
それでも時間は過ぎていく。
新しく配属された新入社員に仕事を引き継ぎ、名古屋を出ていく準備を進めた。
縁もゆかりも無い土地 愛知で3年間仕事を頑張った思い出は私の中で一生の思い出である。
大した実績も残せなかったが、それでも毎日一生懸命がむしゃらに働いた。その結果、異動ということになってしまったが、今振り返ると無駄なことは何もなかったと思える。
あの時の経験が確実に今の自分を作っていると断言できる。
過去の経験を活かすも殺すも今後の自分次第。
まだ25歳だった私は徐々に前向きに、東京で頑張る決意を
したのであった。
第2部 中堅社員編 情報システムとの出会い
20xx年6月 私は営業所での3年間(労働時間としては約6年分)を経て、
東京本社の情報システム部(いわゆる情シス、社内SEとも言う)へ初出社していた。
営業所に比べて本社の立地は抜群であり、都内の一等地 東京駅や銀座にも多少時間はかかるが歩いていける。
毎日作業着に着替えて現場のラインに飛び込んでいた私にとっては、別世界であった。
簡単に情報システム部(社内SE)の仕事内容を紹介すると以下の通り。
1.基幹系システム※1の企画・運用・保守
2.情報系システム※2の企画・運用・保守
3.インフラ(ネットワーク、サーバー等)の企画・運用・保守
4.会計監査、情報セキュリティ、ガバナンスに関する対応
5.ヘルプデスク(ユーザー問い合わせ対応)
6.パソコンの選定、セットアップ、手配、端末管理などの対応
※1.基幹系システムとは、「販売管理」「在庫管理」「生産管理」「会計」など企業がビジネスを遂行するために必須である業務を効率化するためのシステム。
※2.情報系システムとは、社内外の情報共有、コミュニケーションの円滑化、事務処理の効率化、意思決定促進などに利用されるシステム。
メール、予定表、掲示板、文書管理、ワークフローなど。
画像引用元
営業と違って、情シスの相手は社内。
従業員の皆様が快適かつ効率よく、安全に、競争力ある業務を遂行できるよう、その土台(仕組み)を整えるのが使命。
そのため、情シスにはIT知識、プログラム知識が備わっているだけでは足りず、業務知識、コミュニケーション力、企画・提案力などが要求される。
毎日、部屋にこもってプログラムだけを書いていれば良いという部署ではない。
3年間ではあるが、営業を経験していた私は業務知識、コミュニケーション力、企画・提案力を多少身につけており、そこは畑違いの部門でも活かすことが出来、大いに役立っていた。無駄なことは何一つとして無いということを学べた時期だったと思う。
情シス時代に携わった仕事は色々あるが、初年度に担当した工場向け基幹システムの刷新対応は、とてつもなく大変であった。
開発はオフショア(インド業者に外注)でボロボロの手組システムでエラー頻発、修正→検証の繰り返しで3か月で500時間の残業も経験した。
情報システムマンとして研鑽の日々
異動して2年。完全に体当たりであったが、猛烈に働くことで強制的に基幹システムの仕組み、工場業務の概要を経験、知ることが出来た。
その後は、ネットワーク関連の運用保守。情報セキュリティ対策の企画、提案、ツール選定、導入、フォロー。テレビ会議システムの世界展開(当時、システム部では初となる社長賞を受賞)など、全て体当たりであったが、なんとかこなしていた。
一緒に仕事をする度に、関係者とは仲良くなり信頼を得る。その繰り返しで社内でのプレゼンスを高めていけたと思う。
(大袈裟だが、イメージで言うとワンピースのルフィのような感覚。旅をする先々で、相手に感謝され仲間が増えていく。)
色々な方々とふれあい、叱咤激励をいただき一度はどん底だった私も、何とか社会人生活を続けることができた。
業務を通じて得た経験も大きいが、一番成長出来た理由は、やはり絶え間ない自己研鑽だったと思う。
ネットワークや情報セキュリティ、システム全般の知識を得るためにインプット、アウトプットを繰り返した。
取得した資格は以下。
【国家資格】
ITパスポート試験
情報セキュリティマネジメント技術者試験
基本情報技術者試験
応用情報技術者試験
【民間資格】
簿記3級
特定化学物質四アルキル鉛等作業主任者
CCENT(Cisco Certified Entry Networking Technician)
CCNA(Cisco Certified Network Associate)
情報セキュリティ管理士試験
情報セキュリティ監査人試験
AWS Certified Cloud Practitioner
ビジネスプロセス革新エンジニア試験
高度試験こそ取得はしていないが、中堅上場企業でベンダコントロールしていく情シスからすれば十分な内容である。
法学部卒のバリバリ文系社員だった私が良くやったと、思いたい。
※現在は苦手な英語を絶賛勉強中。
資格を取ったら仕事が出来るようになるとは思っていない。
仕事を通じて資格を得るにふさわしい業務知識、経験を積んだからこそ取得出来たと思っている。
ここに書けない出来事もたくさんあったが(それはいずれ番外編で。。)、かれこれ異動して10年。情報システム部での日々を過ごし、気づけば30半ばとなっていた。
第3部 転職 そして大手ホワイト企業へ
入社してはや13年。社内で自分の名前を知らない人はほとんどいない程に
部署の顔となり、後輩の先導役となっていた。
一方、上司への不満や会社のデジタル投資に対する消極的な姿勢に嫌気がさしており、今後のキャリアについて考えることが多くなっていた。
市場価値も確かめたいと思い、思い切って転職サイト(最初は王道のリクナビ)に登録。エージェントと会話をした。
その時は登録こそしたものの、職務経歴書などは書かず雰囲気だけを確かめ終了。
その後1年程度働き、やはり環境を変えないとこの先何も変わらないとの念から改めて転職サイトに登録、活動を始めた。
当時の転職条件
・勤務先:都内
・業界:製造業全般
・職種:情報システム(企画、運用、保守)
・年収:1,000万(強気)
・在宅勤務あり、フレックス制度あり
・規模:プライム上場
とまぁ、条件は自由とはいえ随分とハードルを上げていたと思う。
しかしながら転職活動に向けた自己PR、転職理由、志望動機などを日々ブラッシュアップし、ESの修正、いくつかの面談練習、最低限の筆記勉強をし、隙間時間を使って活動をつづけた。
時間としては
準備期間:約1~2か月
面接期間:約1カ月
内定調整:2週間
と言ったイメージ。準備期間は人によって異なると思うが、事実上転職活動(ES通過後の面接)としては1カ月弱であった。
そしてご縁のあった企業から内定をいただき、無事に転職活動を終えることができた。
年収は前職よりも250万円アップ。
週3在宅勤務、週2回は下記のようなオフィスで勤務。
毎日充実した日々を過ごしている。
営業やシステムで激務を経験し、どん底を味わい、複数の人達から絶対に辞めると思っていた、良くあんな状況で耐えられたな、、と言われていた状況からつかみ取った現状に今ではとても満足している。
そして当時の自分と同じようにつらい思いをしている方々に少しでも力になりたいと思うようにもなった。
人生一度きりで会社員が全てではないし、仕事だけが大事なはずもない。
しかしながら、大部分の人はそこから抜け出す訳にはいかないし、実際に最も安定して暮らせる手段の一つ。
だからこそ、そこで過ごす時間を少しでも有意義にできるよう、ブラック企業での立ち回りや、転職活動のノウハウ、ホワイト企業でのリアルを発信していきたいと思う。
Xでも毎日発信しておりますので、是非かめのページまでお立ち寄り・フォローをお願いいたします。
また、こちらのnoteでも具体的な転職ノウハウなどを次回、記載していく予定です。
自分自身まだまだ未熟者で発展途上。過去の自分に恥じないよう自己研鑽をかさね、充実した日々を過ごしていきたい。
最後に、長文となりましたがここまでご覧いただき、誠にありがとうございました。
みなさまのご健康とご多幸をお祈りいたします。
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