蛇と樹とシュメールの女王

これまで「牛の頭(牛頭)」、あるいは牛冠を戴いた王が、どうやら古代アジア全域で共通の象徴として残っているのではないかというお話をしました。

当然、牛頭天皇(ごずてんのう)の異名を持つ日本神話のヒーロー「素戔嗚命」(すさのおのみこと)もその中にに含まれることになります。

そして、前回記事「世界の中の素戔嗚伝承」では、東京都町田市の綾部原で見つかった縄文時代中期頃のものと見られる石の上に、古代シュメールの円筒印章(*1)と同様のパターン

 牛頭とその象徴三(3)、蛇とその象徴二(2)

が刻まれているのを確認しました。

*1: 粘土の上を転がして文様を刻む円筒形の印章

この石がシュメールの円筒印章と同一コンセプトを象徴すると見るならば、牛頭(あるいは牛冠)は男性の王を表し、蛇はその王妃を指すことになります。

日本の素戔嗚神話と比較するのは脇に置いて、今回は王妃の象徴について少し考察してみたいと思います。

■正倉院の樹下美人図

今回の話を進めるに当たって、綾部原の線刻石が紹介されていた歴史言語学の研究者である川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)を全面的に参考にしていることを先にお断りしておきます。

極めて密度の高い内容が書かれている書籍であり、ここではその中の極々一部を私がご紹介する形になりますが、浅学故に、間違いや思い違いもあるかと思いますので、その点は予めご容赦ください。

さて、今回ご紹介するのは、歴史の教科書や美術書などで見た方も多い次の絵画についてです。

画像1:正倉院《鳥毛立女屏風》(とりげりゅうじょびょうぶ)第五扇
作者不明 奈良時代(752〜756)
引用元:artscape https://artscape.jp/study/art-achive/10106681_1982.html

これは樹木の下の美しい女性、いわゆる「樹下美人図」(じゅかびじんず) と呼ばれる構図のカテゴリーで、同様の構図の美術作品は中国の墳墓、インドの寺院の彫刻などでも見つかっています。

樹下美人図(模本)伝トルファン(アスターナ古墳群出土 
原本はMOA美術館が所蔵
引用:東京国立博物館 画像検索 https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0020987

これについては、コトバンク(出典は株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)に詳しいので、少し長いですがその解説をここに転載します。

樹下美人図 (じゅかびじんず)

〈樹下美人図〉と通称されるのは,正倉院《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》やアスターナ出土の《樹下人物図》(東京国立博物館,MOA美術館)などを指し,樹木の傍らに立つ男女,ことに女性を描くことが,古代アジアにおいて特殊な画題であったと考えられる。

8世紀を中心に,唐王朝の文化の及んだ東は日本から西はトゥルファンに至る広い範囲に,この画題の作品が見られる。しかし画題の意味するところは必ずしも明確ではない。

正倉院の《鳥毛立女屛風》においても,唐装の美人が樹下にたたずんだり,あるいは岩に腰をおろして憩っている情景とみるほかはなく,特別意味ある所作をなしているともみえない。

《鳥毛立女屛風》については,用いられた鳥毛が日本産の鳥の毛であり,また裏張りに天平勝宝4年(752)の反古紙が用いられており,同年から756年に正倉院宝物が東大寺へ奉納される間に制作されたことになろう。

男女一対のアスターナ出土の樹下人物図についても,侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない。この両図は同一の墓室からの出土で,裏張りに唐の開元の年記を有する反古紙を用いており,その制作は開元中期(730ころ)以降とされる。

またこのほかのアスターナ出土の《官女図》(1972出土)や《胡服美人図》(大谷探険隊請来),さらに《春苑奏楽図》(スタイン請来。ニューデリー)では,楽器を奏でる情景や座して囲碁を打つ女性,立ち姿で鳥とたわむれる女性など,いわゆる風俗美人図ないしは官女図というにすぎない。

 中国中原地方にこの種の作品を求めると,独立した作品は見当たらないが,705年(神竜1)に造営された永泰公主墓や章懐太子墓などの壁画中に,宮廷の官女たちが庭先に居並ぶ中に樹木の傍らに鳥とたわむれる情景を描いた個所がある。しかも樹下人物図は中原やトゥルファンにおいては,いずれも墳墓内に用いられた例であり,風俗人物図と墓室内の装飾という結びつきが興味深い。

一方,この樹下人物図の起源については古くより西方説があり,インドのヤクシーやペルシアの〈生命の樹〉の傍らに立つ女神などとの共通性が指摘されてきた。しかし,現存作品はむしろ唐朝風俗画としての華麗な唐朝文化の香りこそ伝えているが,西方的要素はむしろ少ないと思われる。

執筆者:百橋 明穂

コトバンク「樹下美人図」(じゅかびじんず) から

この解説を読むと、鳥毛立女屏風については「特別意味ある所作をなしているともみえない」、またアスターナ出土の樹下美人図については「侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない」と、要するに、この構図(画題)に関してはその意味について「よく分かっていない」という言うのが本音なのでしょう。

しかし、この構図にこそ非常に大きな意味が込められているとするのが、川崎説なのです。

鳥毛立女屏風の構図について、川崎説では女性の顔に描かれている、インドの方がよく額に付けているマーク(ティーカ/ティクリ)に似た印から、その真意を見出しているのです。

 鳥毛立女図の樹下美人の額にあった菱形四点マークは「四」の枝
 をあらわすマークであり、すなわち、

   Ki-lam-ā-da (キ・ラム・アーダ) = 四枝の蛇女神キ

 をあらわすマークなのだ。また、唇の左右の「二点」はすでにの
 べておいた「三」と結ばれる(「牡牛神ハル」と結婚する)とい
 う意味のタブ(二)だった。

川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から

ここで川崎説を補足する次の図を掲載します。

画像3:シュメールの牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」

シュメールの牡牛神(男神)の名は「ハル」、蛇女神の名は「キ」と呼ばれ、中央に置かれた七枝樹はハル側に3本、キ側に4本突き出ています。

これを以て川崎説による鳥毛立女図の解読を図中に示すと次のようになるでしょう。

画像4:鳥毛立女図の分析図

要するに、ここに描かれた「樹」とは七枝樹の象徴であり、その内の四枝を示す記号として額の四点が描かれているのだろうということなのです。

川崎説で少し曖昧なのは、女神を指すのが「ラム:四(4)」なのか「タブ:二(2)」なのかなのですが、その混乱がこの図の分析にも現れています。

これについては既に説明したように

 二人の皇后(正妃と少女神)

というこれまでの古代史考察で得た知見を取り入れることで簡単に解決することが分かります。

正妃(2)と少女神(2)の二人を合わせて一組の女王「4」となりますが、記録上王と結ばれるのは正妃(2)のみであり、少女神は影の存在となり、国家シャーマンとして国家的神事に専従するというものです。

少女神の概念はあくまでも日本古代史を分析することで得た一つの仮説ですが、シュメールの印章の意味をこれで説明できてしまうのは私も少々驚きなのです。

■素戔嗚の皇后

鳥毛立女屏風は奈良時代、国内で描かれたものとされていますが、そうなると、今から1300年前の日本では

 牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」、七枝樹

の概念が、いくらか形骸化したとはいえ残っていたことになります。

冒頭で述べたように、日本神話における牡牛神とは素戔嗚であり、牡牛神「ハル」が素戔嗚に相当するなら、女王「キ」は誰に相当するのでしょうか?

記紀に拠れば

 神大市比売(かむおおいちひめ 古事記)
 奇稲田姫(くしいなだひめ 日本書紀・古事記)

となりますが、そう言えば、奇稲田姫と素戔嗚の出会いは

 八岐大蛇(やまたのおろち)

すなわち大きな蛇がそこに介在しているのです。

神話に記された牛と蛇との邂逅、東京都町田市で発見された牛頭と蛇が刻まれた縄文の石、そしてそれに類似するパターンのシュメール円筒印章と樹下美人図、これらはいったどのように日本古代史と結びついて 来るのでしょうか?


管理人 日月土

世界の中の素戔嗚伝承

前々回の記事「素戔嗚と牛頭天皇」では、日本神話の三貴子の一人で、なお且つ神話のヒーロー的存在である素戔嗚(すさのお)が、仏教説話に登場する牛頭天皇(ごずてんのう)と同一視されているというお話をしました。

そして、日本書紀の一書の中に、素戔嗚が新羅(しらぎ)の「曾尸茂梨」(そしもり)と言う土地に降り立ち、その「ソシモリ」という言葉が韓国語で

 牛頭

を意味するという点を指摘しました。

■神農と牛頭

炎帝神農(えんていしんのう)とは、古代中国の「殷」(いん)や「夏」(か)の時代より前の三皇五帝時代の統治者の一人と伝えられている人物で、様々な説はあるものの、一般には医薬と農業の神として知られています。

日本でも、大阪の他東京の湯島聖堂に神農廟があり、毎年11月23日の新嘗祭と同じ日に「神農祭」というお祭が行われているようです。

さて、その神農ですが、Wikiペディアによるとその風貌について次のように書かれています。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、
炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れ
る姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝
が姫姓を名乗ったとある。

また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、
龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間
だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であるこ
と、南方に在位すること、夏を治めること)を持ってい
たので炎帝とも呼ぶ。とある。

Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2

この「頭は牛の姿」という下りはまさに「牛頭」そのものなのですが、高句麗(現在の北朝鮮)の言葉では神農のことを

 スサ

と呼ぶらしいので、ここでも牛頭天皇と素戔嗚の間に見られた関係が古代の言葉を通して繋がってくるのです。

画像1:神農図(伝楊月筆、16世紀、東京国立博物館)

上の画像では、頭に瘤にも見える牛の様な角を生やした、草を食みつつ薬草になるかどうかを試している神農の姿(想像図)が描かれています。

この極めて特徴的な「牛の頭」というキーワードを用いて、これまで出てきた人物の呼び名を並べると

 神農(中国)
 スサ (高句麗)
 ソシモリ(新羅)
 素戔嗚(日本)
 牛頭天皇(中央アジア?)

となり、これらは同じ一人の人物(あるいは神)を指すのではないかと考えると、牛の頭の王(あるいは皇・帝)とは、アジア地域に広く行き渡っていた一人の偉大な王の伝承を表しているのではないかと考えられるのです。

しかし、やはりここで忘れてならないのは、次のシュメール文明の円筒印象に見られるデザインなのです。

画像2:王(牛頭)と女王(蛇)の象徴

牛頭の王が各国伝承それぞれの共通のシンボルであるならば、その範囲は東端の日本から始まり、朝鮮半島、東アジア・中央アジアを通り越して西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域(シュメール文明の地)にまで及ぶことになるのです。

古代期文明の広がりをそのように捉えると、素戔嗚はもはや日本国内だけのローカルな神話的ヒーローに留まらなくなってくるのです。

■東京で見つかったシュメールの象徴

歴史言語学を研究されている川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)の中では、次の様な文様が刻まれた線刻石が東京の町田市で見つかったとの報告が書かれています。

画像3:町田市綾部原で見つかった線刻石(同書 p152)

画像の中に書き込んでいますが、牛頭と蛇のペアであること、七枝樹の枝の数である3(王)、2または4(女王)までもが画像2のシュメールの紋章と構図がそっくり同じなのです。

これまで、日本古代史の分析作業はあくまでも記紀やその他の史書、漢書等の記述に頼ってきましたが、ここまで明確な類似点を見せつけられると、分析手法について再考する必要が出てきました。

神話ヒーローの素戔嗚がいったいどのような王であったのか、そして古代世界がどのようなものであったのか、新たな実像が見えて来そうです。

■多摩川流域の遺跡地帯

前節の線刻石は町田市で見つかったものですが、町田市は丘陵部が多く石器時代からの遺跡が数多く見つかっている土地でもあります。

画像4:顔面把手(縄文時代中期)
町田デジタルミュージアムから

そこと、前回の記事「ソシと祖師と世田谷事件」でお伝えした世田谷区の祖師谷とは直線距離で10km程度しか離れていません。そして2つの場所の間には多摩川が流れており、まさに古代人が好んで居住しそうな条件が揃っています。

画像5:町田と世田谷

祖師谷の祖師(そし)とはソシモリのソシ、すなわち素戔嗚と何か関係があるのではないかとしましたが、それほど離れていない町田で「牛頭と蛇」の文様が見つかったということは、言葉の類似性に加えて物的にもに説得力が増したように感じられます。

東京と言えば大都会で、古代遺跡と関係なさそうですが、これまでの現地調査では、多摩川周辺、例えば川崎や大田区などにも、多くの古代の痕跡が残っているのを確認しています。

どうやら、東京からもう一度古代史を見直す必要がありそうです。


管理人 日月土