フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

なぜ170cmがないのか――「KKO」「かわいそうランキング」「ガラスの」と

2025.03.02
フェミニズムではわれないたちのための
  •  さて、は、れたシステムし、SNSでのなどでいられている「KKO」「かわいそうランキング」「ガラスの」というや、うインフルエンサーのたぬかなが「170cmがない」というったのかそのなどをえていくことにする。

     つのかれており、Ⅰで「」のし、Ⅱでインターネット・SNSについてじる。そしてⅢで、う。ぐねぐねしたであり、かつんでいるのでかりにくいかもしれないが、ごいただきたい。

    Ⅰ 「」と「リアリティ」

    ではなく、によりつくりあげられるものとしての「

     に、「」から、「」と「リアリティ」というすることにしよう。「」については々ながネットであるが、『するたち とケアのジェンダー』というもあるによる、『』(2024)のから、によるへ」というしいしてみると、そのイメージもされるのではないかとわれる。ここには、ネットでフェミニズムにっているたちがわれるタイプの「」があり、この使うことはであろうとわれる。しややこしくテクニカルなだが、だけしてほしい。

     「」について、はこのようにう。「は(も)はもっとで、によりによりバラバラのはず。したがって、これこそが(これこそが)、といえるものなど、ほとんどつけられないはずなのである」(p10)「そのようながたしかにあるにもかかわらず、そのたちにするかがあるようなができているのはなぜなのか。そのができあがるために、々のたちのてられ、され、いされているのか」(p10)、これをえるのが「」だとう。

     のうち「そのうちのかがハイライトされ、かはさせられ、そのようにしてつくりあげられたするリアリティ(「とはふつうにこういうものである」)が(p8)なのだ。「」というの「」とのいは、にインストールされたとしてえがちであるのにして、では々がそのいをどうするのかというが「」のリアリティをす、ということにいていることにあるのだとう。つまり、このの「」をげているのは、したことや、だけでもなく、たちもしているのである。

     されるとして、「」というがある。じようにりをしても、は「」とされ、は「なヒステリー」とされるケースなどがそうである。をしたには「められてってしまった」のだとがされやすい。だがそれをに「」とうこともである。そうならないのは、あらかじめするみ(リアリティ)がし、しているからである。そして、その「」「」の「リアリティ=」は、々にしてしていないことがい。

     アメリカのトランプなどは、「された」のだとされることがあるが、のリベラルや、SNSでのポピュリズムなフェミニズムにおいて、このようなすることはきがちであり、それは々のやそこにあるなっており、それがんできたのであろう。や、はこうであるというステレオタイプによってられる(かない、ではない、ケアするべき、けるべきではないなどの)「リアリティ」がであるのとに、するられた「リアリティ」もなのである。

     するリアリティをもうひとつげよう。ができないのは、だ、というものである。このような「リアリティにするたちはにいるはずだし、だからこそそれがリアルにめられているのである。は、そうではないれることのである。たとえばがどうあれ、かとつけてのらりくらりとから『れる』もまた、ずいるはずである」(p11)のリアリティを「」のすことで、の「」なされ、きる々にネガティヴなこることがある。きているとそこでじているが、々の(リアリティ)のされ、なかったことになってしまうのである。

     それは、などのにもこる。くのからいだせないので、ったうのはセカンドレイプではないか、という「リアリティ」がある。へのがネットであたかもであるかのようにしたのは、くのがこのリアリティ()をっており、その「」「」にしたことをえたからである。にはの(もいるのだという、たりできなくなってしまうことがなのである(に、やパーソナリティされているからみて、そのようながいないとえることはしいだろう)。DVなどがまでになりにくかったのも、そのようなであるという「リアリティ」のによるものであり、りや、などにまでる、「」とばれているものは、この「」「」の「リアリティ」のフィクションをこそしているのだとされるべきであろう。は、「」などのうことで、な「」がするいであり、であることをしてきたが、には、ともにしていない「リアリティ」はめられるべきであろう。

     にはがあることもえば、々のさやさそれし、「」のようなすることめるべきである。もちろん、するように、そのような「リアリティ」をえることのえてすることもである。では、のネットのフェミニズムやへのカウンターは、な「リアリティ」をけるく、「」のパワーバランスにおいてするようなのようなものがく、それもまたするべきであろう。なのは、やかにすることと、こっているすること、そのである。

    こそが「」であるという「リアリティ」

     についてし、システムというについてれた。システムではないし、ではなく、も、システムいるにもわらず、「」「」であり、「しない」「」などの「」「」のステレオタイプがされているのは、このようなさなを「」として、々のされ、リアリティとなったのではないかというべた。

     では、SNSでの「」のいのは、システムと、を、ってさせたものだとすることがる。2ちゃんねるのから、「」をてきた。でも「おち」や、には「エビデンスがない」などのをされるに、そのような「」がされている。そしてそれは、「」というそのものをするタイプのフェミニズムのにもしている「」のである。にたくさんおり、やかにするもたくさんいるというからすみやかにされるこれらは、フィクショナルな「リアリティ」にぎない。だが、それがであるようにえるのは、かにあるからであり、それがしており、などのにおいてはじられるからではないかとわれる。ジョン・グレイ『から、からやってきた』などをとするも、=システムってさせているようにわれる。

     それはともあれ、SNSにしたいは、く、2ちゃんねるにまでっている。そしてそれは、となっているインターネットやSNSのアーキテクチャ、メディアの、そこにまってきているのタイプ、カルチャーのからされるがある。まずはに、のインターネットのを、「」のからしていくことにしたい。

     Ⅱ インターネットとSNSにおけるシステム

    インターネットにおけるシステム

     2000のインターネットは、「」がい、つまり、システムであり、であった。このにインターネットにできるできるからして、これはのことであろう。2ちゃんねるでは、りをして「れ()」などの使っていることがかった。

     におけるオタクとコンピュータにつながりがあることは、がオタクになったことがそのである。は「え」のだが、それは「」であり、などをっていた。

     』の「なぜパソコンマニアはアニメむか」というで、とオタクさをしこうべる。「でマッチョなっているのにし、で、エンジニアい。(やパソコンのマニアは、アニメするい」(p112)。つまり、これは「システムというがあるのだと、る。

    「オタク」をしたである『』(2004である2005)において、れておらずコミュニケーションがであるはシステムエンジニアだとされ、の2ちゃんねるにめていた。「オタク」「システムエンジニア」「ネットでコミュニケーションする」「」「コミュ」などのしていたことがかる。

     のインターネットは、えばであったことはめないが、におけるコミュニケーションやからされがちなたちのアジールであり、ケアでもあった。2ちゃんねるにおける、クリスマスにゲームのキャラクターをにケーキをべるでアップするなど)は、そのようなユーモアによる、ケアもあったのだとわれる。

     しかし、システムたちがコミュニケーションしやすいであったのインターネットは、スマホのなどによってきくわっていく。ツイッターが2006にローンチされ、iPhone2007された。LINEがサービスしたのは2011では、2011が、ツイッターなどのSNSきなだった。により使えなくなり、インフラとしてSNSまったのだ。ネットで、としてってできるようになったのは、SNSだというにはある。

     これをに、いわゆるオタク・ギークではないにネットにし、とはかれしかれされていたインターネットカルチャーとするこるようになる。「」たちは、たちがしたに、からんで、のルールやけてくることにしていた。西くれたちと、されたへののジレンマとねてそれをするたちもいた。フロンティアは、ノーマルされた。そのがミソジニーなどのだと『ネット』でじたので、しくはそちらをしてほしい。

     SNSは、がネットでえた。それは、スマホなどでネットにアクセスするがったからである。のパソコンはMS-DOSのようにだけのにコマンドをいちいちこむようなもので、システムかったとうが、にアクセスできるインターフェイスがすれば、それえていく。そのようなにしたのがグラフィカルユーザーインターフェイスであり、ジョブズのAPPLEはそのようなにこだわったであり、iPhoneもそのにある。

     SNSは、つメディアであるので、これまでよりもびとにになった。ユーザーのとメディアのわったことにより、システムと、とがしやすくなっていった。

     2010は、ポピュリズムのだが、それはこのようなSNSのと、そこにする々のしていた。いたた。2010のフェミニズムのは、SNSとしたポピュリズムとのさがあったのだとすることができる。SNSは、て、り、つメディアである。そして、むことがになるのであり、けたわけではないもうとするのなら、インターセクショナリティや、したや、のようなものは、い。「」などのし、「あいつらがい」「せばになる」というってしまう(は、オルタナしている)。つまり、があらかじめっているの「リアリティ」がちやすく、やかなしつぶされがちになるのだ。

     これをフェミニズム、びつけてするがいるが、れば、このような「」にされているのはである。なっているもあるが、フェミニズム、ではなく、SNSにしたポピュリズムのであるとしたがいいだろう。

     デヴィッド・フィンチャー『ソーシャル・ネットワーク』がしてかりやすくいたように、フェイスブックは、コミュニケーションがであったザッカーバーグが、「ナード(オタク)」いされ、られ、そのけサイト」をったことからまった。そのたちとうための「ハーバード・コネクション」というサイトされたことからてフェイスブックをり、にモテるようになる。つまり、コミュニケーションがなシステムつオタクが、になる(ではなく、システムく)いのげたのが、ソーシャル・ネットワークののひとつなのだ。

     システムたちは、よりもがあり、なやりりをとするなどをとしており、・システムされたコミュニケーションをがある。インターネットやスマホ、SNSは、らのになるへとえているようににはえる。

     のインターネットは、オタクやギーク、つまりシステムたちがかった。そのタイプのし、それにいものたちがそもそもネットにはかった。それが、スマホやSNS、「」のになり、していくようになる。

    」はくしない?――「KKO」「かわいそうランキング」

     そのようなインターネットのアーキテクチャ・ユーザーので、「」というが、つようになっていく。によりけ、していったのだ。それにして、するきもあったが、「」という「」のリアリティをは、それをとしてすることがかったし、することが「ミソジニー」や「」だとしたもいただろう。すが、これはと、ったづけである。

     「には、①にミソジニーやであるもの、②システムいにしているもの、③、のつがざりって、させている。ここでは、ミソジニー使われがちな「KKO」「かわいそうランキング」をするため、③のとして、イェールであるポール・ブルームの『』をとしてきたい。

     ブルームは、くするのはではなくであり、くさせるがあるとする。ここでう「empathy」はかなりであり、じているのとじようなでもじてしまう「」をしており、する「」とはけられている。

     「」は、かにスポットライトをてるがあるにはきにくいので、すると、もっとえたはずのえなくなるので、えることがであるというがされている。

    「スポットライトはそれがけられたしからしさないがゆえ、にはされやすい。たちは、らぬらす々のが、々のわらずひどいものであるとしていても、った々、あるいはに、よりえる々、かえる々、それほどじない々に、はるかにすんなりとできる」、そして「するせず、なデータやになる」(p42)。だから、にかけたうためになコストをい、テレビでげられたにはするのに、じようにのどこかでんでいるにはけをえようとしないということになってしまう。

     々なから、々はしているや、「のせいでったとられる」にはしにくいっているとブルームはう。さらに「となるがいかなるしているかによってもされる」(p87)、だから、「われわれ」のはどこなのかにくアイデンティティポリティクスがになる。ホームレスやしては、「する」(p88)こともされる。

     つまり、は「する」のであり「えるかかは、するべきか、かなどにする(p88)し、そのからとしてっているするというがあるという。これが、だけにると、がりにくいとえるである。「するは、か、あるいはかのであり、またてくれがかなどといったことにである」(p113)。 

     つまり、しやすいものだけにがされ、そうでないされかれる。さらに、スポットライトをてられたかだけがめ、かそれされるがある。そして、されやすい。そのような、おそらくはのプロセスでバイアスがあるので、いてしまうと、されず、ひどいことになっていくこともあるのだとブルームはする。

    KKO(キモくてのないおっさん)」「かわいそうランキング」というネットがある。2017が「「かわいそうランキング」がする」というめたであり、するにのネットをとするつのはやすいたちであり、姿のないないため、されしようというきになりにくいというしたものである。

     ブルームは、「そこには、づかうべきかにするバイアスがいている」(p114)、そのは、や、するいやなどがになりがちであるとう。そして、「たちやたちがせる々にわるできごとに、どんなときでもとりわけっている」(p114)。それは、と、しんでいるかがいた、どちらをよりさせるかをえればすぐにかることだろう。よって、しんでいる「モテ」「」たちは、のスポットライトからもされやすい。そもそもらにえるがいないというからかれるとして、そのされ、くのの「」によりすべきであるとされることが、こりにくいのである。

     しないが、このについては、『』のしたキャッチフレーズだとうことができるだろう。このは、えられてしかるべきであるが、めつけ、のある「リアリティ」をけているというにおいてがあり、ミソジニーにいものだとされやすいもあるだろう。

    のどちらがいのか

    」のとなったが、へのがネットでび、などの「」をさせたケースや、したしようとし、らがめたケースなどである。これは、「」によるちにしいとはえないである。

     すが、「」というのはであり、によるすることはではなく、それらのするときにするべきではない。めているにはがいた。

     「」へのし、ではないか、たちをであり、なことをえ、していることによってきているのではないか、もっとするようにすればくなるのではないか、というもいるだろう。

     これにするブルームがげるのは、ツェル・クラヴィンスキーというである。4500ドルをしただけでなく、した。そのは、ピーター・シンガーにると、「した40001にすぎない」というみ、「しないことは、4000するとうにしい」とし、「づいた(p36)したのだ。これは、いかにもシステムさへのりのようにえるが、ではなく、のためをっており、「」のよりも、みてしいことをしているのかもしれない(にはにやりすぎながするが)。

     では、その「か。についてのワークショップにし、たちのしたキャロル・コーンは、「たちのにおけるセックスと」ので、そのが(「」とびつけられやすい)するっていることをしている。「すことは、に、そのからめだして、使くことになる」p217)、だから、としてえることもなくなるし、してしまうるのだとっている。これは、アウシュビッツにおけるを、したことへのであり、を、「という「」とびつけるにおいて、されてきたことである。だから、そこでになる(される)々のするこそがであり、それこそがくのだと。このは、くの「」をするフェミニストが使である。

     がズレるが、は『する ケアの』ので、ホッブズであるがゆえになどにさせると、いがつきやすくであることをとするケアのがあるとべている。

     (「」とされることがい)は、し、によるつので、することがない。、あるいはなるけ、く。そのがある。ホッブスでは、「ひとはえ、びるためには、としてまでえようとする、である。は、したがってするからになれない」(p183)、ケアのについては、「としてのつきやすさにであるということ、そして、ひとはとのにあるからこそきることができる」(p215)というす。

     そのような「ケアの」は「」とびついている。ここで、のないたちがをしているで、しんでいる々をわなければならない、というになってしまいがちなのだが、しになるが、「」「=ケア・」というのは、ったリアリティである。「ケアの」をしたキャロル・ギリガンも『もうひとつので』の「はじめに」にする「への」で、はしないのだと調しているりである(☆1)。

     Ⅲ 

    「ポストモダンの」におけると「

    」はしている。2014、ガザでファラ・ベイカーというが、ガザについてツイッターでし、えるというがあった。「のようにツイートしているガザは、のほかにもいる」(デイヴィッド・パトリカラコス『140p53で、のメッセージがくのいたのは「くてテレビりがよく、かであり、い」そして「をしていた」ことであり、「きつけるかせない、ドラマチックなというした」からだという。

     しやすさ、かであるというが、のアテンションをめた=スポットライトをてた(そのに、くのした)のだ。西みの姿と、さ、であること、かいことなどが、「」をめるとしてっているのである。れた「かわいそうランキング」の、におけるである。

     、イスラエルも、20ピーター・ラーナーが、SNSにおけるした。「グラフィックやしています」「すべてがビジュアルです」(p95)が「」「」をし、それがきなえるやすいかかは、けるものであり、は「」なのだ。

     によると、「」「らしさ」のわれているようなも、では「ポストモダンの」とばれており、たすえている。における8.7%で、2018にはもほぼてなくなっている。ではなく、やイメージによるのコントロールがきなめるようになっている「ポストモダンの」において「にはさないとされてきた――やかさやへのいを調するなふるまい――が、したものとして」(というp89)されるのだとう。そして、にいることは、イメージアップにし、「のカモフラージュに(p116)するものとされてきた。

     し、において、「」のされ、かつ、いとえられたな「」としてされているとえる(になっているのだから、これはだってなくないはずなのだが)。のことは、でもえる。々なにおいて、が「するである」というイメージりのため、るためののように使われているケースはなくない。

     でも、でも、ることが、「」となり、そこには姿などがもなくするのである(がそれをらかにしている)。このるためのは、である。そのようなわったからこそ、「、「かわいそうランキング」などのしてきている。した「」と「リアリティ」などをしても、きているても、にも、で、けることがしい。にもかかわらず、の「」においては、けられているというズレがしている。そのがそのしいとらかになっているのに「」「」のにそのされているたちがめて、エロティックキャピタルやをもれるようにするこっているのだとすることもできる。おそらく、ルッキズムのブーム、なども、このにおける「」のするなのだろう。

    「ガラスの」と「ガラスの

     さて、ここで、「ガラスの」(にはえないがある)にしてネットでわれる、には「ガラスの」(は、けにくいのでよりもかにまでちていく)があるというえてみよう。そのひとつのは、っているというだろう。もうひとつのは、「のキラキラしたばかりしたがって、などでまみれになるのはばかりだ」というすることであろう。

     になったとわれるが、において、にはなっていない。じことが、においてもおそらくえる。

     では、であることとうことはびついているので、「されてきたことをし」(p88)でのめるなどのフェミニストのがあったという。これはとはなるである。「しくはたさぬかぎり、はありえない」というえがあったのだという。

     しかし、のところ、ってをし、したりんだりに、イメージやする「ポストモダン」のされることがいようである。なぜこのことはされるのだろうか? がそうしていたは「」であった。いだけだというラディカルなするならば、このりにはないことになる。うこと、すこと、ることは「」のだというのも、された「」にぎないのであれば、くことがましいのありだという「」をしていったり、えていくこともだろう。だって、いのやしいこと、ぬことやすることもすこともであり、となる「」がないのだとすると、どうしてそれがのジェンダーにされているを「」とえるのだろうか?

     ではそのようなロジックでたちがし、れ、まれた。イスラエルやノルウェー、スウェーデン、デンマークなどのは、まさにに、している。のリスクやなトラウマをいのは、に「」「」とえるのだろうか? のことは、ダムや、などのく、しかしインフラなどのためにな「キラキラしていない」にもえるだろう。「キラキラしていない」というのは、ポストモダンのこのにおいて「スポットライトがたらない」「れのにならない」というであり、そのがこれほどまったにおいて、そのことは(などにおいても)すのである。

     こすもので、だからをするべきであり、だからかなくていいのだ、というもある。は、「のなかの」ので、びつけるして、「このびつきはでもでもない」p190)べている。くのが、たちをにするためにどれほどのトレーニングやとするかをえれば、それはらかだとう。「すべてのからているわけではないし、であるというのは、するというのとなのである」というp55)

     そしてに、びつきではないのだと、へのインタビュー調などをべる。したなどは、を「」のき、するしていたというのだ。であるから、ればになるとえる々がいるが、はどうもそのりではないようだ。それはたりで、だからしくだというのもステレオタイプにぎず、きなだっているのがであり、だからである。

     では、なぜ、され、かないのか。するしなくてもいいと々はってしまうのか。それは、はこのようなもの、はこのようなものであるという「リアリティ」を々がかされているからである。そしてその「リアリティ」は、々にしてではないのだ。

     への」――なぜ170cmがないのか

     に、「ポストモダンの」において「」がとなり、つようになったことが、にどのようなえうるのか、いことはで、したい。

     などでは、は、することでられるのだ、というがあることをした。「ポストモダンの」(と)において、が「」「イメージ」などをいたきくうようになり、ってきたことは、きくしたのではないかとわれる。

     使われるは、において、使われる。17にフリント・ロックされ、18はじめにフランスはマスケットした。1789にフランスこるが、そこで使われたがマスケットだった。をしなくてものあるマスケットくの々がにしたことが、して使することをにさせ、「」「」「」などのしたのだとえられる。じように、「」によるという「」「」によるにおいてうようになり、それをけられるようになったことが、2010SNSにおけるフェミニズムの「」のだとすることがだろう。

     このアナロジイをした、マスケットされたことがフランスし、「」「」「」などのし、1793にフランスでは「」がわれるようになり、な「(ナショナリズム)」がされたこととして、「ポストモダンの」のはどのようなされるとされるだろうか。

     このは、い。SNSそのものはもができるが、「」「アテンション」はであり、「ち」がこる。そこでは姿やキャラクター、されること、されること、することがになる。つまり、「」のえば、もがマスケットてばいにえるを「」にっているとはなっている。これは、ITAIいがあり、「ち」にになり、していく。マスケットしく、それがさせていたとはなり、「」な「」をつ「」のしないことがされる。

     んで「いをされているインフルエンサーのたぬかなが、「170cmない」とったことについて、「「170cmない」したたぬかな、“にコンプレックスを”に」(☆2)というわれ、こうえている。「はルッキズムで、がいいだけですることはいっぱいあるし、いだけですることもいっぱいある」。

     このは、「」というを、かであるとしたりするのではなく、姿などのによるからのわれしのとして使っていることをす。つまり、「がない」とは、のスポットライトがたらず、される、という使われているのだ。しくであるというもあるだろうが、では「がこのようにしているというることもだろう。

     ITでは、し、し、こっている。「」のとするたちのもまた、じように、ハイパー・メリトクラシー(きつける、コミュニケーションけなければならない)やいており、「ち」のメカニズムがいている。「」「」のようなとしてえるのではなく、し、それはであるというにむしろづくだろう。

     「」からは、「」だったしてほしいというかれ、には「をあてがえ」とまでもいるが、それはおそらく、におけると、での「」「」「」のとしたのだろうとわれる。ITAIび、アテンション・エコノミーと「」のにおいては、そのようなはもはやされにくくなることがされる。「」や「」などのではなく、「」がになれば、スポットライトのいになり、たっているだけがされて、それされかれるのである。フーコーがについて「する」とったをもじってえば、ポストモダン・SNSは「する」のである。

     したりバリバリいたり、姿やコミュでアイドルやYouTuberすることにするの「」「」たちは、ひたすらするで、われないことになっていきかねない。くのが、それでも「」「」にわれる、そしてSNSなどを使ってをぶつけ、するのは、それが「」なとしてわれるないだからなのではないだろうか。おそらくしているのは、ITAIしいと、におけるなのである。このをなんとかしなければ、「ることはないだろう。

     


    ☆1:ベンジャミン・クリッツァーも、ケアのと「システム」「びつけられるのではないかと『21』p206でしている。

    ☆2:https://news.yahoo.co.jp/articles/dbd9b1476711371a4af4542d857cd6d7cefee104

     

されている」「いや、がつらい」などと、もネットではバトルがげられている。からすれば、どちらのであるにもかかわらず、おいにい、いをめていくともえるじているのがだ。かようにネットでしがちな、フェミニズムとミソジニストのえるきほぐし、ね、からの。そのとなる「2.0」とはいかなるか。わずんでいただきたい
フェミニズムではわれないたちのための
(ふじた・なおや)

。1983まれ。システム)。に『』『シン・ゴジラ』『』『』『ネット=: AI、オルタナ、ミソジニー、ゲーム、、アイデンティティ』()、『ゾンビ』()、『としての』()、『シン・エヴァンゲリオン』()、『ゲームがえる』()などがある。にて「ネット