日本の科学の凋落の原因は直接的にはポスト・研究費・時間の問題なのはたぶんコンセンサスですが、その背景にある真のラスボス的原因はこのあたりにあると(自分としては)確信してます。「対話の不足」と表現してますが、上から目線、皮肉・嘲笑を含む攻撃的言動で対話を遠ざけてしまう態度が主。
やたら上から目線で反応してくる人が多いんどけど、ルサンチマンを感じる…ごめんだけど。オレ、30年間、ひたすら日本科学の応援団やって来たし、今もやってるよ。あと、皮肉が多いのが人々の鬱積を反映していて気になります。もちろん皮肉には返信しませんけどね。

Mar 31, 2025 · 4:35 AM UTC

3
61
5
265
科学の重要性を伝えるためのいわゆる「科学コミュニケーション」の不足ももちろんあるのですが、研究関係者を始めとする「インテリ」層が、他者へのリスペクトを持ちつつ対話を粘り強くするということでなく、いきなり陰から/外から攻撃的言動に走りがちであることが、問題の背景にある、と。
1
15
1
48
自分が知っていたり理解していることを相手が知らなかったり理解しなかったりする、意見が異なっていたりするとイラッときたり腹がたったりして上から目線になりがちなのはかなり自然なことなはずですが、自然であるが故に、それらを表出してしまうのは本来文化・教育の力で抑制されるべきこと。
1
10
35
ところが日本のアカデミアは歴史的になぜかそういうプリミティブな感情を文化の力で抑制し対話を進める方向に進むのではなく、むしろ変に小難しい言葉・表現・概念等でそういった「プリミティブな感情」の表出を正当化し対話を遠ざけ、攻撃し戦うほうに重きをおいてきてしまったという不幸な歴史が。
1
11
1
33
この意味で、日本は世界の最先端をいってしまっていて、世界の中でいち早く科学・学術が凋落したのではないか、と。米国のインテリ層は、活発に科学コミュニケーションを行ってきたわけですがネットの進歩もありそういう「プリミティブな感情」の表出が派手めに表面化してしまったのではないかと。
1
10
25
コミュニティとしてせっかく長年努力してがんばって行ってきている「科学コミュニケーション」も、一発ですべて吹っ飛んでしまうくらいの破壊的な力が、他者の人格への攻撃的な言動、「上から目線、皮肉・嘲笑を含む攻撃的言動」にはあるんですよね。
1
13
36
ポスト・研究費・時間の問題をなんとかしないと本当にまずいんですが、X上の(匿名の方々も含めた)研究関係者の皆さんにどうかご協力いただきたいのは、いくら正しい内容であっても、そういう他者の人格を踏みつけるような攻撃的な言動はできるだけお控えいただけないでしょうか、ということ。
1
10
2
38
また、他者の人格を踏みつけるような攻撃的な言動には、(いくら正しい内容であっても)いいねをしたり、リポストをしたりしないことも、ぜひご協力いただけないでしょうか、と。 研究関係者のそういった言動一つで、ポスト・研究費・時間が減る、というイメージをしてもらってほぼ間違いないかと。
1
10
39
これは、他者への批判をしないで、という意味では全くないです。 主張すべきことはきちんと主張する「是々非々」、自分が誤っていると思ったらすぐに変える「君子豹変す」、リスペクトは欠かさないが思慮の浅い同調をすることもしない「和して同ぜず」という方向性があれば他者への批判も全然可能。
1
5
27
というわけで、いつもの主張でした。共感していただける人が増えることを期待して、(繰り返しですみませんが)粘り強く言い続けたいと思ってます。
1
5
20
このあたり、倉本圭造さんの『論破という病』のご主張の内容とおそらくほぼ同じなので、こちらのスレッドもご参照いただければ。
『論破という病』を拝読。 「異なる意見を持つ相手を敵認定し罵りあうだけでは何も解決しない。相手の正義も理解・尊重しつつ自分の正義と「乳化」させ共に問題解決を試みる「メタ正義」が必要。」 という考え方が丁寧に説明されてますがXやアカデミアの知識人にも必要なのはまさにこれだな、と。
1
4
16
研究者関係者が、現在の日本の研究環境について、不安や怒りを持ってしまうのは至極当然であって、不安も怒りも「全く持たない」という研究者がいらしたら、むしろそれもいかがなものか、という感じかと。
表面的にはそういう解釈ができると思うが、攻撃的言動の背景には、研究環境を破壊されかねないという不安があると推察します。その不安が攻撃的言動にかわる閾値は、研究コミュニティで有意に高いのだろうか。学会大会等の、心理的安全性が確保された場では攻撃的言動を目にするの極めて少ない。
1
2
5
研究コミュニティ内/ムラの内部(学会とか)でそれらが攻撃として出にくくく、その外(官僚、政治家、国民性等)への攻撃として表出されがちなのは、主に「内部矛盾の外部転嫁」の一例として説明できると思ってます(「内部矛盾の外部転嫁」はヒューマンネイチャーなので研究者特有のものではない)。
1
2
7
Outgroup aggressionとか、intergroup biasとかも。 不安や怒りの表出はどのように行うかが重要でしょう。一呼吸置き、人格攻撃になってしまわないこと、是々非々であること、建設的な提案を伴っていること等を満たすように調整し確認してからの表出が吉でしょうね。
他者の人格を踏みつけるような攻撃的な言動は、どんな内容であれ許されるべきではない。 「正しい内容」は「人格を傷つける言動」とを同居させた段階で、正しくなくなると思います。 ただ、このことは、不安や怒りの表出を抑制するものではなく、社会に不安や怒りの感情を示すことも重要と考えます。
2
2
4
「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ。」 というのを 「知が人や社会の役に立たなければいけない、という発想をしていると、好奇心が萎縮し真理の探究への動機づけが弱くなったり、その範囲が限定されるなどして、真理探究の目的が達成しにくくなったりすることがある。」
1
1
4
という表現とし、役に立たなければいけないという発想の方々にもある程度の配慮をした形であれば角はたちにくいかと思われます。
1
1
2
さらに、 「好奇心の萎縮の結果、人や社会の役に立つための知の探求、という目的にとっても大きな視点からはマイナスになることが想定される。実際、真に役に立つ科学技術上の大きな発見・発明は、純粋な好奇心による探求に由来するものが多い。」 というポイントを例示とともに加える、と。
1
3
そうすれば、 「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ。」 ということの真意は、研究者でない方々にもかなり理解されるように思います。 ここだけ切り出して研究者が外の世間に対して開帳してしまうと、反発があるのももっともなこと。
1
1
3
「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ。」 の直前・直後や、さらに「チ。」の全体を読むと、研究者でなくても共感される方々が多いのでは、と思うのですが、どうですかね。以下、ご参考までに「チ。」の第8集の該当部分の文字起こしをしてみました。 ----- アルベルト:「タウマゼイン?」 ラファウ「ああ。それは古代の哲学者曰く、知的探求の原始にある驚異。 簡単に言い換えると、この世の美しさに痺れる肉体のこと。そして、それに近付きたいと願う精神のこと。 つまりー 『?』と、感じること。 神がこの世界を創り、人はそれを知りたいと願った。 これ以上に尊い欲望を、僕は知らない。この成功の為だったらどんなことも厭わない。 たとえそれが命だけだったとしても、平気で投げる。 …君は、悩んでると言ったね。無意味だともダメだとも言った。 自分のやってることがなんの役に立つかわからないことが。 自分がただ漠然と知りたいと思ってることが。 それに対して、僕は今から極めて不適切な発言をするけど、」 ラファウ「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ。」 ラファウ「知りたいからやる。それだけだよ。そしてね アルベルト君。 これだけは覚えていてくれ。真理の探求において、最も重要なことだ。 信じろ。自分の直感を。世界の絶美を。 僕は何があろうと、君の好奇心を否定しない。 さ、話しすぎたね。次の代数(べんきょう)に移ろう。」
2
2
3
さらに、文脈を考えてみると、そもそもこの「チ。」の作者の魚豊さんは、研究者ではないわけです。一般市民側、納税者側の作者が、作品中の登場人物に、意見を述べさせているわけですね。 それに研究者が感銘を受けて、学生さんに見えるように印刷しドアに貼っている、という文脈。
1
1
3
文脈を考えれば作品中の発言にも何ら問題ないし、それをドアに貼って学生さんに紹介しているのも何ら問題ないようには思います(研究費の原資を出資している納税者の皆さんへの配慮と説明はあったほうがベターではありますが)。
1
1
このような発想や発言についてリスペクトのある活発な議論を行うことは好ましいことと思われますが、どちらの発想にも理はあるわけで、十分な背景・文脈・真意などの考慮を欠いたまま、過剰に攻撃的な言動を行うのはどちら方面からでも適切とはいえないのではないか、と。
1
1