フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。

イーロン・マスクは、なぜ「リベラル」「ウォーク」「ポリコレ」とうのか

2025.03.28
フェミニズムではわれないたちのための
  • のなさがく?

     さて、は、「」や「」とえたい。そのとするのが、イーロン・マスクである。
     イーロンのに、までのしていこう。、「」にがあるとする『』のしたが、もあろうとう。、サイモン・バロン=コーエンが、ポール・ブルームにして、こうっている。「」がたない、「のようなまったくシステムをしたナチスのがある。(すべてをすることをとするナチスのからすれば、このシステムはにかなっていた。そこにけていたのは、ユダヤするものでもない」(p137)と。
     このようなが「」のとされ、それがいているというがある。しかし、それもった「リアリティ」であることをべた。するもいるし(それこそサッチャーはであったし、「リーンイン」してしまうCEOや、などがない)、いだったりもたくさんいる(や、のオタクはそうだろう)。これらは、には「」とされがちだが、そうではなく、「とはこういうものである」というフィクショナルなみ・々がいているがじているであるとしたがいいだろう。や、があまりなかったり、だったり、などが「とはこういうものである」というみでされてきたこととじである。
     っている、というのも、なことであり、はそれぞれである。いていない、というのもなことであり、にはであるよりもかにしいなどたくさんいる。し、「」「」についてしたのイメージをんでしまうことが、々な「」のみ、みにじられたんでしまうのだ。
     そのように「」と「」をしたで、えなくてはならない。そうであるにもかかわらず、「」なく、していく々はし、それはばかりではないか。それはか、どうしたらいのかが、じたいことなのである。それを、イーロン・マスクをにしてえたいのだ。

    する

     CNNが「イーロン・マスク西を『』からいたい」というした。のザカリー・B・ウルフは「のイーロン・マスク(DOGE)を使ってやっていることは、どのにどれだけのぼすのか、にもからない。DOGEはのサイズをし、1ドル(147)をえるでのしている」「しかしがマスクかしているのかについては、あるせる。つまるところそうしたみは、マスクう『える』とのいなのだ」「そこにあるのは、するにとってくつくという」であるといている。
     マスクはこうべている。「えるまらない」「西さはだ。んでくる」「らは西する。それがだ」。
    」へのリベラルたちの「」により、ってしまう。それが、の「」であり、西の「さ」だとマスクはえている。してきたのイーロン・マスクらしいだろう。
     イーロン・マスクは、アスペルガーだとしている。「」であるシステムしたである。ほら、のないシステムだからこのようなことをするのだ、といたくなってしまうが、に、なシステムしたしたことをしてほしい。システムだったとわれる(マイケル・フィッツジェラルド『』)のイマニエル・カントも『のために』などをき、けることをしている。さらに、ではなくえ、というなどは、の「」などのきなえたとわれている。だから、システムやアスペルガーであるということだけで、ただちにさやへのなど「のなさ」をするようなつわけではないのだとえるがある(『』でアスペルガーだとされるは、アンデルセン、ジョージ・オーウェル、スピノザ、シモーヌ・ヴェイユらであり、そのれば、それはよくかる)。
     では、イーロンは、どうしてこうなのだろうか。

    めとによる、きの──イーロン・マスクの

     ウォルター・アイザックソンの『イーロン・マスク』をかりに、ってみることにしよう。そこでかるのは、イーロンのったのあまりにもなさである。
     イーロンは、で、アフリカのサバイバルキャンプにれられている。そこは「きいさいり、」(p13)うだった。そこでは「かにひとりる」が、「んだうすのろみたいになるな」とするようなだった。
    はつらかった。からクラスでく、さかった。さらに、をうまくこなすことができなかった。だし、ほかのかれたいとかもわないし、られようとすることもない。だから、どこにってもいじめられ、られた」(p14)。りになられてられたりられ、し、くようなこともあった。
     そのとき、ってってきたイーロンを、たせたまま、「ばかだ、ろくでなしだ」(p15)とどやしけた。・エロール・マスクは、エンジニアであり「におぼれる」であり、でのいじめのよりもかにしいをイーロンにえた。イーロンはたされたまま、いかにイーロンがなのかなどのかされるなどの「く」(p16)。マスクは「」であるとっている――に、イーロンはについて「しています」とい、などのにもそれをすることになる。DOGEもそのだろう。
     ・エロールは、は「『しい』をしいたと」っている。アフリカのでは「ふたりががりでさえつけ、ったりする」から、のおかげでイーロンはそれは「でもなかった」はずだとっている。そして「イーロンも、々、たようなしてもしてもしいているじゃないですか」(p17)とっている。
     その、イーロンはするにつけなければいけなくなり、それがに「」にもなり、に「れ」もでき、リスクもれるようになったのではないかと、のジャスティンはっている。「れをするのは、びやなどほかのものもしないといけないのでしょう」(p18)。だから、めたり、わうということがからないのだと、んだクレア・ブーシェイはっている。「みのだとどもにたたきまれたのでしょう」(p18)。これは、ロシアによる、くのだというリアリズムへのわせる。
     そして、は「オタク」だった。におけるからのにおけるめなどので、フィクションのった。「ったのがSFだ。ゲームがきなでっかちのどもにである」(p53)「じてビデオゲームにはまっている」(p58)。そして、である『X‐MEN』などとねるようになっていく。
     は『テクノ・リバタリアン』ので、イーロンら「のテクノ・リバタリアンたちは、ヒッピーやコミューン、よりもSFやアニメのようなサブカルチャーので、どものれたをテクノロジーのちからでしようとしている」(p58-59)のだとう。イーロンがけたのが、ダグラス・アダムスの『ヒッチハイクガイド』や、アシモフのファウンデーションシリーズであり、こうというにもそれはわっている。
     それはなこのからEXITさせてくれるなのだ。

    テクノ・リバタリアンと、「する

     は、シリコンバレーにまる「」たち、ギフテッドには、「」があるとべている。「きわめてまれているものの、そのとして、がどうじるかをうまくすることができない。に『コミュ』とばれるが、それがいと、ではだちからされるになる。これは、マスクやティールのどもをうまくするだろう」(p67)
     イーロンは、「く、することになんのもない」(p73)で、しい、「つねにいたてられているようなまれ、どのようなにもたされることな」(p73)いである。
     イーロンとにペイパルをし、のバンスのでありになるのをし、トランプにもをしけてきたピーター・ティールは「」とばれている。イーロンとティールら、テクノ・リバタリアンは、のサム・アルトマンらとし、「する」がいとはいう。でないとじているのだ(これも、ロシアがかされているとえる「された Fortress Russia」というロシアのだろう)。
     そのような「れる」を、は、システムのギフテッドであることにそうとしている。「くても、がうまくできないどもは、つねに『なんでそんなことをしたの!?』とめられ、いところだとじるようになる」(p161)。
     かに、そのようなによるでのつきにがあるとえることはである。しかし、システムでも『のために』をいたカントのようながある、それだけでしい。やはり、それによるなどでのめや、でのりたてけているとえるべきであろう。「ウォーク」や「ポリコレ」へのも、がそのようなびなくてはならず、に「」をえるようにいていることからる、「」へのであるとするべきであろう。は、ウォークやリベラルを、ウィルスがするようなだとえ、ツイッターをしやすいようにアルゴリズムをえ、トランプしたが、それはな「」「」などをじにくいであるからだけでなく、がそれをびることがなく、せざるをないきてきたからなのだろうとされる(などはだとこれまでされてきたが、などのめてしいるのだとかってきている。のいま』『トラウマ』など)。
     えでは、アスペルガー、ニューロマイノリティ、、ギフテッドであることだけが、らをこのようにしたではないとわれる。ヴィトゲンシュタインやエリック・サティはこうではないからだ。それをとしつつ、め、などによって、々へのじられなさやけてでも、にやってけなければ、されないというアダルトチルドレンいてしまっていることこそが、なのではないだろうか。そして、らはトップクラスのちになり、アメリカのテロシステムをり、プラットフォームなどをり、DOGEなどでにアクセスしシステムごとえようとしているようにえる。
     において、「」のスポットライトをどこにてるかをめるいメディアはSNSであり、そこをすれば、「らがいうる。をかわいそうとうか、をなくしたりアファーマティヴアクションでをかわいそうとうかは、スポットライトのだが、それによるになるかリベラルになるかがまる。がかわいそうか、がかわいそうなのかも、そのようなスポットライトのいのだとするべきだろう。
     らがおり、プラットフォームなどをかし、テクノロジーをさせ、えていく。そうすると、らをとする「」のしていくだろう。システムなものにすることが、におけるジェンダーにおいてなのは、そのみこんでいる、・リベラルいと、さらにそのにある「」「」のきほぐすにあたってだからである。
     おそらく、なシステムであるが、であり、さでカバーされ、しさがえなくなり、されることのしかった「された」であったのだ。のように、スペクトラムについてのんでおらず、しておらず、などがわれてなかったきてきたことが、このようなんでいるのではないか(のアルトマンらが、「する」にしいが、そうさせる)。そのつきをしたや、いじめた々たちもおそらくはっており、らはいたっているのだとすることもるだろう。

    アンデルセン──システムで、めをけても、しない

     は、らのようなが、ち、するきるのはであり、々をにしないのではないかとえる。におけるし、のみならずしていいわけではない。らのなトラウマなどにづくするきずられてなどがいていくのだとしたら、バカバカしくである、とどうしてもってしまうし、そんなことのためにきるびやわいがされるのなら、しているわれ、であろうとじている。
     だから、が、になり、し、できるようになるべきであろう。には、がそういうになっていけば、いも、っていくのではないかとしたい。だからそのでは、「ケアの」によるというのは、ったではない。もしイーロンやティールが、やケアをけられていたら、のありっていたのではないかとわれるのだ。
     ジャンルもうのでないのだが、『』でアスペルガーだとわれている、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのしてえてみたい。アンデルセンはもしていたからまれ、い、ち、退し、している。められないまれ、からけてっている。である々なことでうまくいかず、そのとのしている。アンデルセンはばかりしており、をするがになってしまう「」のは、だとわれている。は、ばかりであった。
     アンデルセンの「みにくいアヒルの」は、イーロンやティールたちとのアヒルのである。だけい、たちにめられたアヒルが、えるが、いつしかになっていたことにく。それは、したアンデルセンだとわれ、アスペルガーであり、へのましのであったとされている。
     イーロンたちもたような辿り、『X-MEN』などの「つまはじきにされるっており、う」というえにしてびたが、らのは、アンデルセンのいたのようにはされていないようにわれる。そのなのだろうか。にはえないが、しみのったアンデルセンを、たちがけしたことは、きかったのではないか。イーロンやティールのように、しなければいけないというで、してきたのではなく、をしてもらっているのだ。それは、あるで、ケアのようなものだとう。
     アンデルセンのではあったが、からけたわけでもなく、されたものではなく、きでんだであった。のマスクとい、なキリストであったということもしているだろう。
     これらのにより、にシステムであることやであることを、「」や「」とびつける退けざるをなくなる。『』によると、サイモン・バロン=コーエンは、システム々は「へのさない。それどころか、っていることすらある。らはによるであるよりであることのほうがい」(p244)とっている。
     では、どうしてイーロンのように、していながらも、になっていくしているのだろうか。そのなメカニズムについてこそしっかりえなくてはならないのだが、イーロンのにおいてそのにあるものは、アフリカのからのでのめがしていること、つまり、けてきたことによる「つき」がではないかと、にはえる。

    」であり「」である

     DOGEのやっていることは、アンデルセンのようなたちをらし、イーロンのようなたちをやすになる。やケアがあればアンデルセンのようになれたたちから、イーロンのようなたちがまれてくるだろう。さらに、イーロンになろうとしたがイーロンのようになかったものたちが、だけをにもるだろう。
     らのす、のような、が、そこにきるにとっていいものになるとは、にはとてもえない。たちがをしたり、ケアをしたりするのは、に「」や「」なのではなく、それがそのしていくことになるからであり、おそらくそれはなどのためになことなのだろう。かつてきがドイツのになり、アフリカでけていたどもがアメリカのんでいるように、をすることになるのかなど、にもからないのだ。
     だから、は、だというつ。ただし、メディアやプラットフォームにコントロールされ、されたではダメだし、スポットライトするたちのにもするがあるだろう。モテえるなら、それは「」のリアリティのしていないがゆえに、さのエアポケットにってしまうたちのことなのだ。マスクやティールのえば、いがゆえに、そのしさをされされされなかった々である。
     い「」ではなく、なのはい「」である。『』において、づくや、なるまでしようとすること)はされておらず、むしろそれがだとわれており、されているのは「システム1」によるによるインスタントでな「」なのである。すが、そのインスタントな「」をびつけるのは、している。ネットをればそのようなもたくさんいるし、は、たちにたくさんってきている。
     さて、イーロンはオタクであり、の(トランスの)に「インセル」であるとわれている。インセルとは「モテ」のことであるが、どもがいて、なぜ「インセル」「モテ」なのだろうか。それは、にモテないのではなく、で、ワーカホリックで、しめないしてのなのだろう。そしてするまでのはインセル・モテであり、「であり、フィクションにおいてさからえるというでの「オタク」(としてのオタク)であった。は「」をしているようにえるが、まれたにより、は「」をしたままなのである。まされていることは、このつのしていることをすのではないだろうか。
     イーロンやトランプをするたちのには、らのようなではなく、むしろられることでけたり、いとわれ、めるであるかのようにわれることがあるが、「」と「」のというえると、パラドックスではない。でそれをんだでき、かつ、であるから、もそうなれるかもしれないというることがるのだ。におけるひろゆきやホリエモンをカリスマとたちも、おそらくであろう。
     してはいけないのは、イーロンはではないということである。どちらかとえば、ついたどもにいのではないか。ただし、『AKIRA』などでかれたように、ついたどもがきすぎるったとき、それをできなくなり、してしまうことはかにある。そのしたどものしみを、かがすことはないのだろうか。

    さやめること

     れたは、『コミュニケーション』ので、「としてのオタク」になるとして、からされなかったり、いをけたことがあるのではないかとしていた。として、しているトラウマやしさにかいうことをめる。
    にとってであったりんでいてもげることなくかいあったとき、そのるだろう。あるしむのはしむことができたからであり、それはとてもきなでさえありうるのだ」、そして「してあると、ゆたかなと、おしみないって」いくためになことは「ればいい」だけであるとう。「しむことをめることにある。それはそんなにろしいものではないしえるる――と、はここでしよう。これまでってきたゆがんだなかたちをて、そこからることはにでもろしいものである。だがそれはやっぱりもそういうかせをもっていないさとさとさにべたらまったくむなしいでしかないのだ。/なのはだけである」「すること、しみをすること」(p314、308、312、325、329)
     々――だけではない――が「さ」をめるがあるのは、われ、になってしまわないようにするためだ。そしてそのことにより、となっているトラウマをするためである。いをけたなどになり、たとえばになったられないるためにきることになりやすく、することをむための「」「」をしやすい、そして、ではなく、きやすいのだとう。イーロンだけではなく、くのしむたちが、さやトラウマにうことで、れれば――そして、そもそも「つき」をけるしないようにぐことにできていれば――、のありは、ひょっとするとうものであったのではないか。そしてこれから、そうなりうるも、あるのではないだろうか。

     

されている」「いや、がつらい」などと、もネットではバトルがげられている。からすれば、どちらのであるにもかかわらず、おいにい、いをめていくともえるじているのがだ。かようにネットでしがちな、フェミニズムとミソジニストのえるきほぐし、ね、からの。そのとなる「2.0」とはいかなるか。わずんでいただきたい
フェミニズムではわれないたちのための
(ふじた・なおや)

。1983まれ。システム)。に『』『シン・ゴジラ』『』『』『ネット=: AI、オルタナ、ミソジニー、ゲーム、、アイデンティティ』()、『ゾンビ』()、『としての』()、『シン・エヴァンゲリオン』()、『ゲームがえる』()などがある。にて「ネット