エッセイ 未熟なカウセリング
私が文字を書こうと考えたのは、最近、エッセイの本を読み触発された影響だ。特に自分がどういう存在かを再認識するにおいて、誰でも読める文字として発信していくことはとても面白いことになるのではないかと考えている。とりあえず。練習として、文字書きではない以上つたないところばかりなのだが、それはまた新たな楽しみとして消化していけると思うのだ。
ポジティブシンキングとはまた違う、出来ることをやるだけなので、ご覧になる皆様も適当に流し見してくださると非常にありがたい。
そして、文章を書く以上テーマが必要なわけなのだが、このエッセイ初心者は自分の過去について話したいと考えている。私の過去は他人にはなかなか話せない、からこそ、ある程度距離を置いて閲覧できる文章に残そうと考えた。
過去の自分 今の自分 どれも自分自身であるが
過去の自分というのはそれはもう未熟で仕方なく、それでいて幸運であったように思える、良いことばかりが起こったわけではなく それは嵐の中に飛び込むような危険な道。 それを水筒一本で走り切ったのだ。
人には心というものが存在しているという、しかし私は残念ながら
その心というやつが無くなってしまったようで、いつ落としてしまったかも分からない、ロボットとはまた違う、自己犠牲の精神をもって生きてきた
自分のことは常に二の次だったため、これがいけなかったのだろう。
しかし。後悔はしてない。その苦しい出来事が次々に私に学びを運んできてくれたのだ
人生は、再発見 自己発見 変化 そんなサイクルで回っているように感じられる
いままで見守ってきた友人たちを見ると、余計そう思える
私は介護士として資格を持ち、働いていたが パワーハラスメントと家族が主体となった毒親の存在によりうつ病にかかり、今に至る。そして、せめて手の届く範囲では私のように心を見失い、混乱してしまう人、苦しんでいる人、生き方が分からない人に対して介護の専門学校で習った 触りだけの簡単なアセスメントの技術を使い心理士のまねごとをしているのである。
無様だ 自分でもそう思う もし、ちゃんと会話ができたのならどれだけ喜ばしいことか、しかしダメなのだ。インターネットというこのバーチャル社会は、人と人、魂がぶつかり合うには遠すぎる。
どんなに辛くても その人に寄り添っても。所詮インターネット、何万メートルのつながりであり 肝心な時、そばにいることができない。
そもそもチャット、通話、ネットも便利になり様々な交流手段が増えたが、そこまで行けない 活力がない そんなひとは星の数ほどいて、私の声が届く前にすっかり参ってしまい、パニックを落ち着かせるのが精いっぱい、なんていうことはザラだ
私はどうしても不安定な人を助けたいと考える しかしインターネットというのば非常に不適切であり、たかが一時間、三十分話して終わるのが関の山である、その上、カウセリングのように長期的に寄り添うこともできない。
インターネットというのは自由に自分の時間を楽しむツールだからだ
楽しみを求めて、居場所を探して、自己肯定の一環として様々な人から活用されるツールであるが、相談に乗ることに関しては、相手の声色も、目を合わせて話すこともできない、しかも時間もまちまちで、長期的に見守る、寄り添いつつ話すこともできないツールでもあるのだ。
一回話して 辛みを聞いて、それでおしまい、たった一回しかチャンスがない、しかしインターネットに悩みを持ってくる人はほとんどが重傷だ、リアルで解決できないからこの広いネットの海を彷徨う訳だから訳であるからして、たかが一回の会話で解決することはまずない。それどころか、相手の声が分からず、傷つけてしまうことさえある やさしさでは人を守れないのだ
インターネットの距離感というのは現実とまるで違う、実際私が人のカウセリングをするときも私は、もしくはお互いが怯えながら、どの言葉が地雷になるのか、ない心を削りながら話すことになる 幸い私はうつ病で 身を削ることには慣れているため(まったく推奨できないが)なんとかなっているというのが本音だ
しかし正直カウセリングというものは定期的に少しずつ寄り添い、人の話を聞き、氷を溶かしていくかのように長期的に続けるものであるからして、私のこの真似事の行動では 信頼 信用 どれだけそれがあったとしても
定期的に話を聞けない以上不適切とも捉えることができる
私のモットーは 話した人がほんの少しでも気が楽になって、一日だけでもいいからゆっくり寝れるようにしたいという考えで行動している。
とかと私は重度の鬱であり、適切な言葉を紡げないことも多く、自分の未熟さを恥じる毎日だ
実際、症状として記憶 具体的には短期記憶が著しく低下しており、自分が何を話したのか覚えていないことも多い。カウンセラーとしては失格である
しかし私は、常に変化を続けており学びを得ることによって何とか保っている状態だ。
そんな私でもなんとか頼りにされている以上、行動に移すしかないのだ…が、残念なことに私は嫌われることが多い それもすべてインターネット特有のロジックで起こっているのだから 私からしたら非常に困ったものである
例を挙げてみよう スペースが始まったころの話だ
私は楽しい空間と人と会話するのが唯一の癒しである
しかし、私はスペースには入れないのだ、なぜなら自分のつらい現状を知ってほしい、という思考にとらわれるからである。うつ病の発作のようなものだ。
その苦しさと、気を使いながら話題をチョイスして会話をするのは私にとって、重労働である 私が求めているのは理解者であり、友人であって、楽しく誰でもワイワイ話せるスペースは、極端に相性が悪かった
惨めな気分になるのだ、うつ病で苦しみを耐え続けて生きている私は、どうしてもその明るくてまぶしい空間には居られず、相互フォロワーのスペースでも、私が話すと暗い話になっいしまうのが怖くて、楽しい空間を壊してしまうのだから参加できないのだ。
そんな中でも一時的に居場所としていられる場所があったのだが
残念ながら大きな問題が起き、身を引かざるを得なかった
単純な不幸である
いきさつを話せば簡単なことで、私は同年代、少し私より年下の絵を描く友人とスペースで交流していた
しかし問題が起こった、私は話し始めるとどうしても不幸自慢になってしまうため、会話内での相槌や、ツッコミに徹していた、
しかしその友人の一人が私のことが嫌いと言い出したのだ
それだけなら、良かったのだがこの話はどんどんこじれていくことになる
彼と会話をした結果 人格を否定するような言葉を言うのはやめてくださいとのことだった。が、心当たりが全くない。
しかしそれは彼の中では確定してしまった事象であり わたしはいわゆる嫌な奴になってしまったのだ
答えは簡単だ、彼は数字ばかり見ていて、自分の価値を他人に依存していた、そこでツッコミというちゃちゃを入れることが
「自分のことを全否定」されたように考えてしまったのだ
未熟といえば愛嬌だが、私はそのことに一年以上悩まされた
彼は私をもう悪者だと考えていて、話もしたくなかったようで
謝罪は受け入れられず 態度を直しても うわきた 等
自分が何を言っているのかわからないのだろうがとことん嫌われてしまった
そして謝罪やまじめな会話をDМで展開したものの、あなたが私の人格否定をするのが悪いと、突っぱねられてしまった。
どうやら、関係修復は見込めないらしいと諦めていた所にこれまた困った問題が飛び込んできた。
第三者があらわれ、関係を修復しろと迫ってきたのだ
私はこれに関して大いに困った、今までは一対一の問題で、距離を置けばすむ話だ、しかし第三者が現れたことによってすべてが崩壊してしまった
私はすでにツッコミを入れたりなどの言動はやめていたが、彼は私に敵意を向けたままだった、つまり関係の修復は無理なのだ、彼が私に張ったレッテルを取り除かない限り、しかし それと同時に彼は非常に不安定な人物だ、プライドが高く、 何とも言えない愛嬌のある人物だった
しかしそれと同時に自分の居場所に固執する人物でもあったのだ
これはまずい、私にだけDМで仲直りしたほうがいいといわれたが
彼の中ではすでに私は敵なのだ
もし私が彼に合わせて関係を築いたとしても 嫌われているのは変わらない
そして彼は真剣な話には拒絶反応をしめしていた
つまり、もし私が言動を更に直したとして、それでは何の変化も起きない。そうなれば今度は第三者は彼に仲直りを要求しに行く可能性がある、そしてその出来事は彼にとっては負担でしかないのだ
だからとって真実を話してしまえば彼の悪さが広まって、彼の居場所がなくなってしまう
私に最初に話したからいいものの、もし第三者が彼に最初にその話をしていたらと思うと恐怖心が勝つ、彼からしたら他人に指示されるのも、私と仲良くするのもまっぴらなのだから
私は彼がストレスを感じないようにするかつ、第三者が「私が悪い」と判断し、身を引くことで解決する必要が出てきてしまったのである
悪役を演じるのも楽ではないが、私が問題児になればすべて解決するのである
結果としてはうまくいった 彼は第三者と仲が良好なまま、私だけが悪者になって二人の前でブロックしてもらうことに成功した
「やっぱりわかってなかったか」と第三者はこぼしていたが、諸悪の根源は君たち年下コンビである、自分が何をしているのか分からないなら黙っていてほしいというのはここだけの話だ
第三者には一応事情を話したのだが「ほとんど主観だったね」とも言われてしまった。主観というのはとても大事な情報源の一つなのだが…正直、心配である。
名前は伏せているが、彼の居場所を守るために神経をすり減らして対応したものだから、こんなことしてるからうつ病になるんだなと自責の念が沸いていたのはここだけの話だ
それにさも正しいのかのように書いているが、実際はこの対応は間違っていると言ってもいい、第三者に素直に事情を話して協力してもらえば、こんなことをせずに済んだのだ。私が全部自分でやらないといけないというエゴが、この結果を生み出したといってもいい。心をすり減らす必要というのは一切なかったのだ。
こんなことも起きるのだ 私は所詮エセカウンセラーである
そのあともひどかった
共通の友人が一方的に私の活動範囲を狭める約束をとりつけて
裏切られたとブロックし始めたり 私の人間関係はたった一人の人間にめちゃくちゃにされたのであった。
多少のことなら愛嬌だと澄ます私でも、こたえたが、さらに不幸のドツボ入っていくことになる
親友が死んだ 彼女は私にインターネットの距離感の取り方を教えてください、と話しかけてきた、少しずつ会話をしていくにつれどんどん元気になり不登校から学校に行くようになり、恋人を作り、ゲーム仲間も作りどんどん活発で元気な子となっていった
しかし、死んでしまった、インターネットという距離の離れたシステムを初めて呪った出来事だった。私には何もできなかったのだ
インターネットというシステムはとても便利なうえ、刹那的に時間が進む。
待っていてほしいとき、時間が欲しいとき、一人でいたいとき、そんなのお構いなしに、違う人生を歩んでいる人と繋がれるものだから大変だ。普通に顔を合わせるような仲なら問題にならないであろう友人も、たった一つのすれ違いですぐに縁が切れてしまい、二度と会うことはない。リアルであればしばらく時間をおいて落ち着いてきたとき、出くわしたら謝るなんてことが出来る可能性がほんのちょっぴりあるわけだが、謝罪のチャンスすらない、常に内に秘めて、燻ぶらせることしかできないのだ。これは生きやすい方法の一つであるし、人にとっては重圧になるし、インターネットというシステムに順応できるかという問題になってくる、私はてんでダメなのは、さっきの文章から分かっていただけると思う。インターネットは言葉が重すぎる、相手の目を見て話す。というのはコミニケーションの技術の一つだが、そんなことお構いなし、気軽につぶやいた冗談でも、ただの自己への戒めであっても、インターネットでは砲弾のようにすべての言葉が力を持ち、とても大きな影響を与えていく。それが非常に怖いのだ。
私は幼少期から人の顔色を窺って生活してきた、というのも父親がお酒を飲んで日々の仕事のストレスを発散しており、その間、話し相手が必要で、その矢印は私に向いていたからだ。例えば社会の苦しさ、例えば仕事の話、そして適切な答えをした相槌が得られないと、不機嫌になったり、伝えようとさらに話が長くなったり。生まれたからずっと重圧に耐えてきたのであるがその間に私はすっかり心が擦れてしまった。自分のことよりも他人のことを優先して考えるようになり、そしてお父さんが話していた、さっても恐ろしい社会へ飛び立つ準備を進めなければいけなかった。
指にダメージを与える自傷行為をしながら なんとか専門学校まで行って、そしてどうにか社会に出られないかという賭けだった、そして失敗した。
私は絵を描いているがきっかけはここだ、父親にどんなに辛くても「私は元気ですよ」とアピールするのにちょうどよかったのだ。そして同時にお父さんの仕事場のフローリングに描いてあった幾何学模様に感動し、図画工作が得意だったことも影響し、ただのアピールからすっかり趣味になった。そして中学でジョアン・ミロ、岡本太郎と出会いドツボにはまったのだ。
そんなキーパーソン的な存在のお父さんだが、今は仲は良くない。うつ病であることを認めてくれないのだ。ましてや薬を飲まないほうがいい、飲み始めてからおかしくなったとまで宣う始末、何十とも説得を試みたが効果はなかった、残念である。
ネガティブなことなら延々と書けることが良くわかったが、こんな偏見にまみれた文章などあまり参考にはならないだろう 反面教師として受け取ってほしい。 ポジティブなものを次はかければいいが、今までと同じようにネガティブをさらけ出していくのか自分でも分からないので、時間に任せることにする。


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