【ふしぎ旅】皆鶴姫伝説
源義経伝説で語られる鬼一法眼の姫に関しては、次のような伝説が残っている。
皆鶴姫はもともとは藤原大納言の側室、桂御前の一人娘であった。
しかし、彼女が生まれてまもなく、大納言が亡くなられ、桂御前は実家に帰ることとなる。
その後、縁あって桂御前は兵法学者鬼一法眼と再婚し、皆鶴姫も鬼一法眼の養女となる。
皆鶴姫は幼少の頃より、聡明にして美女、さらには武芸にも優れていたという。
その頃、皆鶴姫のいるところより20キロほど離れた鞍馬寺には幼き頃の源義経、牛若丸がいた。
その後、牛若丸は、平家に追われて一時、奥州に逃れることとなる。
牛若丸は、その時に源義経を名乗ることになる。
その後、義経は奥州平泉、藤原家の世話になっていたが、源家の再興を志すようになり、ひそかに京都に帰り、平家の動向を探りながら山科にて生活していた。
ある日、義経は鬼一法眼が持っていた秘宝の兵学書を読みたいと願った。
しかし門外不出のため、見ることを許されなかった。
そこで、義経は一計を案じ、法眼の養女、皆鶴姫に近づき恋仲となった。
姫を通じて、ひそかに秘巻を書写し義経だったが、やがてまだ平家に追われ奥州へ戻ることになる。
皆鶴姫はこれを聞き、大いに悲しみ、義経の忘れ形見、帽子丸と従者をつれて、わずか6人で奥州を目指したのだ。
源義経伝説で語られる鬼一法眼の姫は、義経が去った時点で悲しみで、そのまま亡くなってしまうのだが、一説には、奥州まで追ってきて、現在の福島県河東町で亡くなったとされている。
そこには皆鶴姫の墓と呼ばれる石塔と、小池がある。
そこには、このような伝説が残されている。
義経を追ってはきたものの、旅の苦労と義経恋しさの心労が重なり、この地に来た頃には、皆鶴は病気となっていた。村人らの看護によって快方に向かった頃には、会津は雪に深く閉ざされ、皆鶴はそのまま一冬を、会津に逗留することとなった。
翌春、皆鶴は侍女らとともに、難波池に遊んだが、自分の姿を水面に写し見て、そのやつれぶりに驚き、自ら池に身を投げたという。
これを伝えきいた義経は、たまたま近くの館におり、すぐに駆け付け、姫の菩提を弔い梵字一字を刻んだ碑をたて、冥福を祈ったという。
また、村人も姫の追善菩提のために一寺を建てた。後世、この寺に参詣すると、必ず良縁を得るということで、多くの人が足を運んだという。
この寺は、現在はもう無くなった。
皆鶴姫の墓が梵字が刻まれたものとすると、近くにある暦応の碑ということになる。ここには義経が馬をつないだとされる石も残っている。
さて、そもそも鬼一法眼の存在すらも伝説とされているので、その姫となると、言わずもがなであるのだが、この皆鶴姫の悲恋伝説は、東北の方では、会津の他にもいくつか伝えられているということだ。
またこの会津の地には、義経との隠し子である帽子丸の墓もあるらしい。
しかし、この伝説にある限り、源義経は、正義に生きた悲劇の武将などでなく、とんでもないサイコパスであることが分かる。
自分の欲しい兵法書があれば、それが門外不出であっても、持ち主の娘をたぶらかして手に入れようとする。
手に入れてしまえば、逃げるようにして奥州へ。
自分を追って、女がやってきて死んだのを悲しんだと言っても、とってつけた感が甚だしい。
皆鶴姫の悲恋伝説として美談にはなっているが、義経の性格が、もう少しまともであれば、円満な終わり方をしたような気がしてならない。
皆鶴姫のことが史実かはともかく、伝わっている内容からすれば、少なくとも、会津の人は源義経にあまり良い感情を持っていないのではなかったように思える。
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