【戦後80年】「おなかいっぱい食べさせたい」国産ポン菓子機を開発した女性は99歳に いま子どもたちに伝えたいこと
■木づちでたたく音
「カン、カン、パーン!」
大きな音と白い湯気。出来上がったのはポン菓子です。甘く香ばしい香りに、サクサクとした食感が懐かしさを漂わせています。
大きなしゃもじで、ポン菓子に水あめを絡めているのは、吉村利子さん(99)です。
■吉村利子さん(99)
「このおばちゃんが頑張って考えたんやで。」
この「ポン菓子機」は、吉村さんが開発したものです。
鉄の容器に生米を入れて密閉し、加熱して圧力を高めます。10分後、留め金を木づちでたたいて一気に開放すると、10倍以上に膨れ上がった米が飛び出す仕組みです。
吉村さんは、今から80年前の終戦直後、日本で初めて「ポン菓子機」を製作しました。
■児玉悠一朗記者
「最初にポン菓子機を作った時、みんなに喜ばれましたか。」
■吉村さん
「喜ばれました。ありがとう。あんたか、かわいいと言って、知らん人まで頭さすってくれた。よう考えたな。あんたみたいなまだ若いのによう考えたな言うて、どこ行ってもそう言うてくれて。」
大阪の裕福な家庭で生まれ育った吉村さんは18歳の時、現在の小学校にあたる国民学校の教師として働き始めました。太平洋戦争の末期、大阪の街はアメリカ軍による空襲に何度もさらされました。吉村さんは教え子を抱え、B29が落とす焼い弾から必死に逃げたこともあったといいます。
戦況が悪化の一途をたどる中、子どもたちを取り巻く環境も厳しさを増していきました。
■吉村さん
「(子どもたちは)痩せていました。普通の暮らし以上にならんと普通にはなれません。みんな、こんなして手を持っても、わあ細いなと思うくらい。」
食糧も燃料も不足していた戦時中、米や雑穀を生煮えの状態で食べ、腹を壊す子どももいました。餓えに苦しむ、その姿を目の当たりにするたび、吉村さんは胸が締め付けられる思いでした。
■吉村さん(2016年取材)
「痩せた子どもを抱いて、おなかいっぱい消化のいいものを食べさせたいって。そればっかり思っていました。」
栄養失調の子どもたちを救う手立てはないのか。そんな思いを募らせた吉村さんの頭に、幼い頃に一度だけ目にした外国製の「穀類膨張機」の存在が浮かびました。
少ない米と燃料で、子どもたちのおなかを満たせるのではないか。そう考えた吉村さんは、父親の知人の大学教授を頼って設計図をなんとか作り上げ、1945年の終戦直後、“鉄の街”、現在の北九州市に単身、移り住みました。当時20歳の吉村さん、思い切った決断でした。
■吉村さん
「みんなの反対を押し切って、夜みんなが寝ている時に荷物を背負って。当時、北九州といっても九州というたら遠い遠いところで、それは一つは死ぬかわからんということと、そんなところに行ったら知らん人ばっかり。すごく不安でしたが、とにかく子どもたちのために頑張ろうと思って。」
吉村さんは小さな工場を構え、自動車部品を製造しながら資金を集めました。自らも鉄の溶接や加工の技術を学び、試行錯誤を繰り返して国産「ポン菓子機」を完成させました。
やがて日本中へと広まり、吉村さん自身も各地を駆け回って多くの子どもたちを笑顔にしてきました。
■ポン菓子を購入した子ども
「おいしい。」
■祭りに訪れた人
「昔ながらの駄菓子というか。愛着はありますよね。」
「昔はお米を持って行って、お金を出して作ってもらった覚えがある。」
■吉村さん
「1号機ができて、そして大きな音がして、みんな喜んで食べるんですよ。お金もらわんでもいいと思うくらい。」
吉村さんの座右の銘は、“ポン菓子機こそ我が命”です。
長い時間話すことは難しくなっていますが、取材の終わりに、子どもたちへ伝えたいことをノートに書いてくれました。
『みんなで仲良く何でも教えてあげてね』
『人のことを考えてみんなの幸せを考えられるよう努力してほしいです』
『ポン菓子が少しでも人様のために役立つ事を願ってくださいますように』
子どもたちが飢えに苦しむ世界ではなく、おなかいっぱいに食べられる平和な世の中を。そう願ってやまない吉村さんからのメッセージです。
※FBS福岡放送めんたいワイド2025年3月26日午後5時すぎ放送