「世の中に不満があるなら自分を変えろ」という言葉
『攻殻機動隊』の主人公格、草薙素子の有名な台詞である。名言として持て囃され、十年以上を経た今でも時々引き合いに出されることがある。既に作品から飛び出した独立の存在としてインターネット上を中心に独り歩きしている感もある。世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら……
この言葉は作劇上の位置付けとは無関係に、作品を観たこともなさそうな連中によって、或いは不平を鳴らし、或いは改革を求め、或いは行動を起こす人間を批判乃至は嘲笑する際に振りかざされることが多いように見受ける。また、含みを感じさせる「それも嫌なら……」は省略されることが多い。その理由は明らかでないが、文意が曖昧である点と、「命懸けで世の中と戦え」や「世の中を変えてみせろ」などの趣旨を全く逆転させてしまう結語に繋がるかもしれない点が問題なのかもしれない。
率直に言って、この言葉を使って他人を踏みつけるさまは醜悪そのものであり、この言葉をありがたがるさまは滑稽そのものである。『カイジ』に登場する利根川のこれまた有名な「大人は質問に答えたりしない」や「金は命より重い」をしたり顔でありがたがる者達と同じほどに愚かしい。利根川の言葉はいくらでも反論と反証の余地がある詭弁に過ぎず、クズ達を丸め込み、黙らせるためのものでしかあるまい。不動の信念や覚悟があるわけでもないだろう。もしもの話なので推測の域を出ないが、仮に利根川が質問を無視される側に回ったならば、「大人は向けられた質問を無責任に無視したりしない」と一喝するはずである。結局、そこに汎用性や普遍性などない。ただ物事の一部一側面をその時々の都合に応じて姑息に誇張して粉飾した挙句、本来無関係なもの同士を強引に結びつけて一つに仕立て上げただけの屁理屈或いはポジショントークである。同じ価値観の持ち主か価値観を一切持たない者にしか通じない。同じ価値観の持ち主同士が内輪で然り然りと循環論法的に同意し合うか、白紙の精神が染め上げられるか、相容れない者との衝突を招くかのいずれかである。異なる価値観の共感と納得に堪えるものではない。
草薙素子の台詞は公安警察の幹部が追い詰めたテロリストに向けて発したものである。これもまた、体制に属する強者が体制から落ちこぼれた弱者に対し、体制の都合に基づいて投げかけたものに過ぎない。普遍性とは縁遠い。この言葉を字面通り断章取義的に受け取れば――そして世人は無自覚のままそのように引用している――「我々の社会体制に従わないものは間違っている」という暗黙の前提の下、「不満を呑み込んで全面的に服従しろ。それが嫌ならば社会から出て行け」と迫る傲慢なものである。これはこれで一つの考え方や在り方ではあるが、決して啓蒙や説教の言葉とは言えない。個人の思想信条の域を出ず、その共有を求めることは独善的価値観の強制の域を出ない。
それでも、草薙素子は体制の犬である。体制の意見と利益を代表するのは自然なことであり、非難の余地はない。むしろ、公安要員が「不満があるならどんどんテロをやって社会を変えていきなさい」などと言い出すようでは困る。警察官が「お前個人の不満など知ったことか。社会を乱すようなことをするな」と犯罪者を一喝するのは立場上極めて正当と言える。
つまるところ、この台詞は、立場が言わせたものか、立場に正当化されたものである。
引用者や賛同者の滑稽さや醜悪さの根源がここにある。
この台詞を引用する者の大半は、こうした性質を持つ言葉を口にすべき立場にない。引用者が政治家や警察官等、社会秩序を擁護すべき立場にある人物であった例はおそらくないし、それを抜きにしても、引用者は社会や体制の代表を気取る一個人に過ぎない。個人の意見として堂々と主張すべき筋であるのにもかかわらず、そういう連中は勝手に妄想した「社会」や「世間」を倫理的後ろ盾にして他人を攻撃し、「大人になれ」などと言って自主規制を要求しているだけである。自分の意見を主張できない臆病さと言い、妄想する「社会」の小ささと言い、相手に責任を丸投げする無責任と言い、二重三重に滑稽と言わざるを得ない。
こうした連中の滑稽さと醜悪さの理由はこれだけに留まらない。
彼らは無自覚の内に自分達を体制側に置く。彼らにとってこの言葉は自分以外の他人を縛るものであって自分を縛るものではない。いわゆる「負け組」や「悪人」に浴びせられる言葉を引用する者にとって、「負け組」や「悪人」とは常に「自分以外の誰か」を指す。自分を常に中流か「勝ち組」、「善人」に置き、相手のことを現状に納得せず幼稚な不満を抱える架空の「下」や「悪」に位置付けていると言ってもよい。「自分は体制に属している。よって自分は正しい」、「自分は現状に満足している。よって満足できない者は間違っている」という愚劣な論理によって権威と正当性を自己に付加しているのである。自分は常に神聖不可侵の正義側だから、草薙素子の言葉を信奉する一方で、「若い頃の苦労は買ってでもしろという言葉を作ったのは苦労を売る側である」という主旨の言葉に臆面もなく喝采を送ってみせることすらある。自分達がその「苦労を売る側」の同類であることに無自覚な様子は、醜悪と滑稽が過ぎて笑う外ない。この手の連中は、自分に都合の良い状態を乱す者を許せないか、自分が納得して呑み込んだ不満を他人が表明するのを許せないから、そういう者に様々な「悪」や「未熟」のレッテルを貼って貶める。或いは論理的批判が困難乃至は面倒だから、或いは「私」を主語にする勇気がないから、或いは自分の考えというものを持たないから、こういう振る舞いに及ぶ。全く以てたちが悪い。
草薙素子の言葉に啓発されてしまう者は、醜悪ではないかもしれないが、滑稽さが群を抜く。そのさまは、ブラック企業の経営者が書いたビジネス書に触発され、経営者気取りで自己のサービス残業を賛美する労働者のそれに似ている。と言うのも、草薙素子の言葉は忍耐と自主規制の強制であり、どこまでも支配者の都合である。文句があればそれを黙って呑み込み、不満を感じないように自発的に意識を変えてくれる。これは手のかからない実に理想的な奴隷である。ところが世の中には、支配者にとって都合の良い言葉を金言として自らの胸に刻む奴隷が案外多い。これこそ体を張ったギャグである。人間が本当の意味で責任を負って忍耐すべき事柄は少ない。大抵のことは自分以外の誰かのせいであり、人はその尻拭いや肩代わりを強いられているのに過ぎない。取るべき責任とは、不正な手段を取らない限り避けようのないものを指す。真っ当な方法で回避できるようならば、取る必要のない責任である。そういう事柄は都合が悪ければ投げ出しても一向に問題がない。それで困るのは、本来責任を負うべき立場の者と、誰かが責任を押しつけられるのを積極的或いは消極的に容認した者達と、責任があるともないとも言えない利害関係者達である。たとえば、上司の指示を忠実に実行した部下や上司から手に負えない仕事を押しつけられた部下が失敗した時、責任は上司と彼に地位を与えた会社にある。部下には何の責任もない。それが使う者と使われる者の関係性である。この時、指示の内容や命ぜられた仕事の難易度によっては、部下が事なかれ主義の無能なイエスマンの烙印を捺されて能力相応の扱い、即ち冷遇或いは放逐の憂き目を見ることがあっても当然よい。例を挙げれば、明らかな犯罪行為を指示されて従う者や子供のお使い程度のこともこなせない者は、さすがに庇う余地がない。しかし、それはそれとして、そもそもの責任は管理能力不足の上司と会社に帰する。また、現状に不満があればそれを打破しようと足掻くのも人間として当然の振る舞いである。不満を抱く自分が間違っているという思考法は、一見傑物のそれのようで実は家畜のそれである。人間のそれですらない。人の歴史は人のものであり、家畜のものではない。歴史は人の足掻きの繰り返しを経て織り成されてきた。盲従して食い物にされる家畜の出る幕はない。不満は呑み込むものではなく吐き出すものである。何でも自分のせいにするのは、何でも他人のせいにするのと変わらない。まともな人間は自分と他人の責任を峻別し、他人に責任を押しつけず、他人の責任を背負い込まない。
以上を振り返って総括すると、草薙素子のこの台詞は、然るべき立場の者が口にする場合を除き、身勝手な卑怯者の言葉にしかならない。また、その言葉を受け容れてしまう者もまた、尊厳なき奴隷に過ぎない。他者に向けて賢しらにこの台詞を引用してみせたり、逆にこの言葉を神妙に受け容れたりした最初の者が、一体どこの誰でいかなる立場にあったのかは知らないが、どのみちろくなものではあるまい。
とはいえ、「それが嫌なら……」に続く部分次第では、言い換えれば明らかにされず濁された部分を引用者がどう捉えていかに用いるかによっては、この台詞は非常に建設的なものとなりうる。
もちろん、「殺してやる」、「死んでしまえ」と続くようならば、徹頭徹尾服従と忍耐の要求である。そこに文意の変化は起こらない。本稿はほぼ無意味な代物と化す。
だが、冒頭で述べた通り、「命懸けで世の中と戦え」などと続けば趣旨が逆転する。ということは、不満を抱えて燻る者に発破をかける目的で、危急存亡の秋に将帥が訓示によって国民と軍勢を鼓舞するようにして、またスターリングラードのロシア人達が「戦うか死ぬかだ」と叫んだようにして自他に用いれば、奴隷に落とされつつある人に挑戦者として立ち上がる道を示すことにもなろう。
そして、そのような解釈は現に可能なのである。台詞単体を見れば、きちんと文章が結ばれていない以上、後に続く言葉を好き勝手に補って解釈する自由がある。発言者である草薙素子の性格を見れば、不満を抑えられない者と戦う体制の犬としての覚悟と共に、自分ならばそうするという自負なり願望なりが窺える。その後に続く物語を見れば、変えるべき現状がありながらも変えるための手段がない時、第三の選択肢もまた一つの道であるという主題が表れる。
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