文部省は誤報と知っていた。7月29日から30日にかけて、衆院の文教、外務、内閣の各委員会や参院文教委員会で鈴木勲初等中等教育局長や藤村和男教科書検定課長が「『侵略』を『進出』にしたケースは、56年度検定の教科書の中では見当たらない」などと答弁した。
マスコミ各社も気付き始めたが、目立たない軌道修正で済ませ、訂正やおわびは行わなかった。産経新聞は28日付で「中国政府に誤解もある」「検定前も『日本軍が華北に進出すると…』であり、『中国への全面的侵攻を開始した』である。検定で変わってはいないのだ」と書いた。30日付の朝日新聞は参院文教委のやりとり詳報の中で鈴木局長の答弁を紹介。同日付の毎日新聞も「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていないという」と触れただけだった。
誤報に基づいた抗議であるにもかかわらず、9月に鈴木善幸首相の訪中を控えていたこともあり、官邸と外務省は中韓に屈服した。宮沢喜一官房長官は8月26日、「(教科書記述を)政府の責任において是正する」「検定基準を改め、前記の趣旨(アジアの近隣諸国との友好、親善)が十分実現するよう配慮する」との宮沢談話を発表した。
世界日報の記事で誤報知る
今ならインターネットで真実がすぐに拡散するが、当時はそうではなかった。
横浜で鉄工所を経営する傍ら戦史を研究していた板倉由明さんは、中国の抗議を知った7月27日、マスコミ各社に電話し、「侵略→進出の書き換え事例はあるのか」とたずねた。「探しているが、あるはずだ」(朝日新聞)、「騒いでいるからには、あるだろう」(毎日新聞)、「間違いなく実例はある」(NHK)との回答だった。
文部省教科書検定課に聞くと「そういう例はない」とのことだったので、翌日、朝日新聞に電話すると「今回は見つからなかったが、以前にはあったはずだ。字句の問題ではない。文部省の右傾化政策が問題なのだ」と言われたという。
渡部氏が誤報だと知ったのは、8月6日付の世界日報の記事だった。記事は「実際は変わっていない教科書」との見出しで、教科書各社の実名を出して、検定前と検定後の記述の一覧表を掲載していた。
世界日報は統一教会(現・世界平和統一家庭連合)系の日刊紙。今は内容が薄くなっているが、当時は海外特派員も多く、反共色の強い独自の記事が豊富で、保守派の間に愛読者が多かった。渡部さんは著書『朝日新聞と私の40年戦争』(PHP研究所)で次のように回想している。
「発行母体は統一教会という問題のある団体ですが、文鮮明絡みの記事を除けば、当時は質の高い報道をする新聞で、教科書問題についても丁寧にフォローしていました」「しかし大新聞に、そのような記事はありません。どういうことかと訝(いぶか)しんでいるところに、『諸君!』の編集長の堤堯氏から連絡があり、『この問題を調べている人がいる』というので会いに行くことにしました」