お父さん
アバロンの街では朝から、一つの噂話で持ち切りになっていた。
帝国北部の谷にいつの頃か住み着いてしまったモンスターをついに退治したのだという喜ばしい話題だった。
餌を求めて付近の村々に出没し、死者怪我人の続出に小さな村は壊滅状態に晒されていた。
その忌まわしい凶獣を帝国の討伐隊が討ち取ったのだ。
ただし、よく聞くと大きな功績の中心人物たる戦士は不幸にも命を落としてしまった。
大きな喜びのなかでたった一人の犠牲は微々たるもの、人々の雰囲気はそう物語っていた。
だから、ヘクターも「死んでしまったのか、可哀想な人だな」程度で聞き流してしまっていた。
帝国にとって悩みの種だったモンスターが退治されて、悦ばしいことだった。
いつまでものさばっていたら、そのうち、シュヴァインが向かうことになってしまうかもしれない。
バレンヌの皇帝などそんなものだった。
帝国の天辺に立つ者は、帝国の最たる戦士なのだ。
シュヴァインは皇帝になる。
シュヴァインは無条件に帝国を護る戦士となる。
戦士など、家族でも友達でもない人々にとって、ただの道具だろう。
そう、この噂の戦士のように。
釈然としない思いを抱きながら、ヘクターは賑わう人込みを抜けてザムジーニの酒場に戻っていた。
そろそろ日が傾いて、酒場兼食堂は忙しい時間を迎えることになる。
足りなくなりそうな食材の買出しに走り、大きな袋を抱えて戻った店内には、まだまばらな客の変わりに、ザムジーニと制服を着た帝国の兵士が向かい合って立っていた。
横を素通りしようとしたヘクターはザムジーニに呼び止められた。
「どうかしたの、ザムジーニ」
ザムジーニは穏やかな顔をしていた。
「俺は店を閉めてから行く。おまえはかわりに、今すぐ会ってきてやってくれ。・・・よくやったと褒めてやってくれ」
「褒める?・・・誰を?」
これっぽっちも思いつかなかった。
今まで聞いていた噂話も、ザムジーニも、ここにいるアバロンの兵隊も、ヴァランも。
それらはばらばらで、ヘクターにとって関連性のないものだった。
関連などなくてよかったのだ。
ザムジーニが静かに口を開いて、ヘクターは心臓が止まるかと思った。
ヴァランが死んだ。
討伐隊でヴァランだけ、死んだ。
勇猛な戦士は、誰もが無理だと尻込みした凶獣の不意をついて剣を埋めたのだ。
即死に至らない大きな獣にしがみ付いて、さらに深くに。
獣は死に物狂いに身体を家や木や岩にぶつけてヴァランを振り落とそうとする。
でもヴァランは負けなかった。
決して手を離さなかった。
だから体中傷まるけになって。
剣が心臓に達して獣が地に沈んだとき、「やったぞ!」と顔をあげてヴァランは笑顔だったという。
そして。
笑顔を浮かべたまま、ヴァランは獣の上に伏していた。
それきり、もう二度とヴァランも動かなかった。
“大きな功績”と“たった一人の小さな犠牲”だった。
ヘクターが通されたのはアバロンの宮殿内の一角にある神殿だった。
荘厳な白い石でできた大きくて広い建物を満たす空気は身体の内が焼けるほど冷たかった。
母なる神の像が立つ際奥部は、日は落ちきって天窓からの明かりは望めなかったが、何十本もの蝋燭の明かりが揺れていた。
神の前の祭壇に、棺は置かれていた。
ぼんやりとした光のなかに、銀色の髪に白い衣装を着たシュヴァインが幻のように立って、靴音を響かせたヘクターを振り返っていた。
二人とも無言だった。
シュヴァインの横に控えていたジェラルドが口を開かなかったら、ずっといつまでも二人は静かに目を閉じる男の顔を見続けていただろう。
皮肉の似合う男の得も言えぬ最期の優しい表情だった。
「ヴァランからの遺言があります」
友人でもある男は感情を殺した声で言った。
「彼の持ち物のなかに一通の手紙がありました。宛名は私の名でした。そのなかには、もし己に何かがあったときには、シュヴァインさまとヘクター君に渡して欲しいものがあると」
驚いたヘクターが強張った顔をあげてジェラルドを見て、
「・・・私にも?」
シュヴァインが不思議そうに大きな瞳を揺らした。
「彼の愛用の大剣・エディレイヌをヘクター君に。そして」
シュヴァインの前に膝をついたジェラルドが目の前に差し出して掌のものを見せた。
細い革紐の通された小さな女性物の銀色の指輪だった。
「ヴァランのお守りでした。それをあなた様に収めていただきたいと」
「私に、どうして?」
「理由はなにもありませんでした。ただ、二人に、シュヴァインさまとヘクター君に『あげてくれ』と」
ヴァランの眠る棺の横に大きな剣は並べられていた。
業物の一級品で、ヴァランが所持するなかで命の次の高級品だと自慢していた剣だった。
戦士の魂だった。分不相応な物だとわかるだけに譲られたヘクターは言葉もなかった。
そして、シュヴァインの方は。
「女の人の指輪・・・誰の?ヴァランの奥さん?」
当然の疑問だったろう。
ジェラルドは首を横に振っていた。
ヴァランの妻も恋人の話も、家族の話もなにも知らなかったからだ。
ヘクターもヴァランの関係する女の人を知らない。
ヴァランがザムジーニのところで口にした誰かの名前はシュヴァインのものぐらいだった。
だけれど、いや、だからというべきかーーーシュヴァインに渡して欲しいと言う女物の指輪だったら、一度ある話を聞いていたヘクターは一つの想像をつけてしまった。
「・・・貰えないよ。理由がわからないもの。そういうお守りや護符は他人が持つべきものじゃないよ・・・」
シュヴァインが固い声で呟いた内容は正しいから、ヘクターは慌ててしまっていた。
「駄目だ!貰わなくちゃ、駄目だよ。理由はちゃんとある、お母さんのかもしれないん・・・っ」
シュヴァインに受け取って欲しくて、ヘクターはつい口を滑らせてしまい、しまったと悔やんだが遅かった。
「・・・ヘクター、なにを知っているの?」
涙に濡れた瞳がとても不思議そうに、不気味なほど静かに訊いていた。
「いやっ、お、俺は・・・知らないけど・・・。お母さんと言うのはただの喩えでさ・・・でも、でもシュヴァインが知らないだけで、ヴァランにはちゃんと理由があったはずだよっ」
ヴァランはシュヴァインの家族のことを知っていた。両親の知り合いで、シュヴァインの母親の形見のブローチを買ったのも彼なのだ。
きっと、このシュヴァインに渡そうとしている指輪はシュヴァインのお母さんのものだと、ヘクターにはそうとしか思えなかった。
渡せずにいた、本当の形見。なによりもシュヴァインを護るお守りとなるだろう。
「・・・よくわからない。納得できないと、私は貰えない」
しかし、頑なにシュヴァインは頷かない。
もっと巧く言う方法があっただろうが、ヴァランの死という深い悲しみの中で三人共が冷静ではなかっただろう。
ふいとそっぽを向かれてしまい、ヘクターもジェラルドも弱りはてていた。
こうなると意地っ張りで、大変な予感がした。
でもそこをなんとかしてーーー。
「この男の最後の願いです。どうか叶えてやってください」
ジェラルドが真摯に頭を下げて訴えて、ヘクターは声を張り上げる。
「そうだよ、そんなんじゃ、ヴァランは悲しむよっ!」
二人の懇願はすぐに石の神殿に吸い込まれるように消えて、再びあたりは静寂に包まれていた。
シュヴァインは答えなかった。
二人に背を向けて、ヴァランに歩み寄って棺を覗き込んでいた。
しばらくそうしていたあと、腕を入れた。
二人にもシュヴァインが何かをしているのに気が付いた。
「ねえ。・・・知っている?同じデザインの指輪がね、ヴァランの指に嵌っているんだよ。薬指、お揃いの、これは結婚指輪だね・・・」
きれいに整えられて清潔な衣類に着替えさせられ、身体の上で指を組んで横たわるヴァランから、皮製のグローブをシュヴァインは外したのだ。
そこには、一度目にした記憶どおりに指輪があった。
呆然と立ち尽くすジェラルドから指輪を奪って、シュヴァインはヴァランの指のすぐ横に置いて、見比べていた。
「うん。本当に、同じもの。この指輪をしていた女の人とヴァランは結婚していたんだね、きっと」
ヘクターの手足は震えていた。
止めなくてはと思っても止まらなかった。
「ヘクター、さっき・・・お母さんって言ったよね?」
「あれはっ、例えばの話で、俺は、なにも知らない・・・本当だよ・・・」
声も震えてしまった。
こんなことではシュヴァインは信じないと思ったが、でもこれ以上言えることはないのだ。
「・・・教えてよ。じゃないと、私は貰わないよ?だって、理由がないもの・・・」
感情のない優しい声が怖かった。
「私のことなのに、私が知らないでヘクターが知っていること、全部話してよ。可笑しいでしょ、そんなこと・・・」
ヘクターが口に溜まった唾を飲み込んで、やけに大きく喉が鳴った。
「・・・ヴァラン、わからないよ。ちゃんと私にわかるように説明してよ。一人他人ごとのような顔をしていないで。・・・そうだよ。・・・そう、ヴァランが自分でちゃんと話してくれればいいんだ。・・・ねえ・・・ほら・・・早く、目を開けて・・・」
静寂は次の瞬間、大きく破裂した。
「話せっ!!ヴァラン。起きろ、ちゃんと話せっ!!」
胸倉を掴んだシュヴァインがヴァランを引き起こしていた。
意志のない身体が乱暴過ぎるほどに揺さぶられて、ジェラルドが止めに入っていた。
シュヴァインはヴァランを起こそうとする。
ヴァランから細い指をもぎ離そうとジェラルドが必死になる光景に、ヘクターは耳を塞いで嗚咽を堪えて蹲ることしかできなかった。
真実は未だになにもわからなかった。
ザムジーニは知っているかもしれなかったが、何日もシュヴァインが通いつめてまとわり付こうとも頑として、「話すことはもうない」だった。
傭兵時代にヴァランと知り合ったのだということしかザムジーニから引き出すことはできなかった。
フリーファイターになる以前の話はジェラルドにも、帝国の書類を見てもわからなかった。
そして、ヘクターも話さなかった。
険悪な雰囲気になろうともヴァランから聞いていた話はシュヴァインには聞かせなかった。
救いにもならないし、そのうえ嘘かもしれないと思ったからだ。だったらそんな話をわざわざして、可能性としてだってそれ以上シュヴァインを悲しませたくなかったのだ。
でたらめに吐かれた嘘であって欲しいと、ヘクターは望んでいたのかもしれない。
だから、結局、ヴァランの形見として指輪だけがシュヴァインの元に残ったのだ。
「こんなもの、貰わないっ!」
ジェラルドに無理やり引き離されてもシュヴァインはヴァランの元にゆこうと暴れていた。
「絶対貰わないっ、いらない、欲しくない、ヴァランっ!!」
「こんなのってないっ、私はお父さんを失ったの?死んでから、ヴァランがお父さんだったって言うのっ?」
涙をぼろぼろと流し、拭おうともしないシュヴァインはジェラルドの胸に拳を叩きつける。
何度も、何度も。
子供のものではない相当な衝撃を与えられていただろうが、ジェラルドは黙って耐えていた。
かけられる言葉も見つからなかったからだ。
「嘘だ、認めないっ」
振り絞るように叫んで、シュヴァインは崩れ落ちていた。
あとはただ、号泣だった。
「出て行ってください。私はヴァランと二人きりで話がしたい」
「シュヴァイン・・・」
「ヘクターも、もう今日は帰ってください。私よりもずっと親しく話をしていましたよね。だから、今は遠慮してください。私とヴァランだけにーーー」
ジェラルドが困るようなことはしませんから。
落ち着きを取り戻したシュヴァインは棺に取りすがって、眠る男の顔を見つめていた。ただしその青ざめた頬を涙は濡らし続けていたけれど。
ヘクターは傍にいたかったが、二人に目を向けることなく、それは命令だった。
冷ややかに言い渡されたヘクターとジェラルドは、後ろ髪を引かれながらもシュヴァインを一人残して神殿をあとにした。
20130716改