針のむしろ
目が醒めたとき、そこは見知らぬ部屋のベッドだった。
宮殿の自室ではない。
家具はほとんどなかった。
こざっぱりと清潔に、殺風景に整えられた宿屋の一室のようだった。
窓があった。
窓の外は日も暮れた夜の空だった。
ぼんやりと辺りを見回していたシュヴァインは、弾かれるように跳び起きると隣のベッドに横たわる人影に取り付いていた。
ヘクターである。
目を閉じて動かない友人に姿は不吉なものを思いおこさせ、息を呑むシュヴァインに
「眠ってるだけだ」
低い男の声がかけられた。
部屋の隅の椅子に腰掛けていた戦士だった。
気配を感じさせずにいた存在に驚いたが、見知った顔でシュヴァインは安堵のため息を漏らした。
彼の名前はヴァラン、帝国に籍を置くフリーファイターだ。
自分達が、今、馬車の木箱のなかから一転、ベッドの上にいるーーーこれには彼の働きがあってのことだとすぐに悟った。
黒い腕輪の男達に取り囲まれて小さな箱の中にヘクターと二人、詰め込まれて意識を失ってしまっている間に無事救出されたのだ。
二人とも怪我は無いようだ。ヘクターの規則正しい穏やかな寝息を確認し安心すると、次第にシュヴァインは居たたまれない気持ちに追いやられていった。
ヴァランは、不機嫌にそれ以上口を開こうとはしない。
無言で見つめられている、責められていると思った。
言葉としては的確ではないが、“怒られるようなこと”をしたという自覚がシュヴァインにはあったからだ。
なんとか取りなして、音便に、そう『彼』には伝わらないようにしなければーーー。
「ヴァラン・・・助けていただけたのですよね、感謝ーーー」
しおらしく猫なで声で、でも最後まで言えなかったのは、そのとき、部屋の扉が開いたからだ。
開いた扉から、話を隠すどころか入ってきてしまった『彼』の姿に、シュヴァインは絶望しなくてはならなかった。
「・・・ジェラルド・・・」
「暗くなっても戻らない理由は報せなくてはならないだろう?無用な心配をさせることになるーーー」
にこりともせずにヴァランが聞いてもいないことを説明し、ジェラルドは眠る少年の枕元に立つ皇帝を静かに見下ろした。
それは“針のむしろ”という言葉がなによりもぴったりと来るだろう。
「これをお飲みください。解毒剤です、頭痛が治まってゆきますでしょう」
慇懃に差し出されたもの大人しく受け取るとシュヴァインは口に運んだ。
ジェラルドが両手に持ってきた器には乳白色で、湯気を立てる煎じ薬が入っていた。
吸い込んだ香の後遺症に頭に残っている不快感を和らげるという。
おそろしく苦い味だったが、2対の視線の先では一息にすべて飲み干さなくてはならなかった。
空になった器を無言の手に恐る恐る返す横で、ヘクターが身じろぎして目を開けた。
「ヘクター!気分は・・・・・・いかがですか・・・」
喜びの声は重い空気に萎んで、シュヴァインの姿に顔を綻ばしたもののすぐに二人の男達の姿を認めたヘクターも賢明にこの一室にある火薬庫のような事情を察した。
黙々と起きあがると、苦い煎じ薬を受け取ると背を丸めたまま一言も苦痛を述べず、きれいに飲み干した。
それは非常に苦い煎じ薬だった。そして、植物性で多量に飲んでも体に害はない類の良薬の分量は必要以上、意地悪に多かったりもした。
しかし、幸か不幸か、高級品のためこの時はじめて口にしたヘクターにはわからないことだった。
立ち入ったことがないシュヴァインは知らなかったが、掃除のために出入りをしていた部屋の内装にヘクターは、そこがザムジーニの宿屋兼食堂・酒場の一室だとすぐにわかった。
ほっと緊張が解けた。
しかし場の空気はある意味今日一番の最悪さで、いろいろな疑問があろうが猿轡などつけてなかろうとも迂闊に口を開けない状態だった。
それは皇帝であるシュヴァインとて同じことのようで、一瞬目を合わせて微笑みあったあとは神妙に二人並んで首を竦めていなくてはならなかった。
「ヘクターくん、シュヴァインさまに折り入ったお話があります。すまないが、きみは少々この場を空けてくれないだろうか」
だからジェラルドからのこんな申し出は願ってもないものだった。
ヘクターは頷く時間も惜しく立ち上がって戸口を目指していた。
視界の隅に大人達のなかに一人残される恨めしそうな眼差しを見てしまったが、ヘクターになにができるだろうか。
窮鼠は猫を噛むかも知れないが、後ろめたくて呼吸もままならないような鼠は猫のヒゲの揺れだけで心臓を破裂させかねない。逃げてもいいよという寛大な言葉に逆らうはずがない。
殴られたこともある危険なヴァランの前もすり抜けるようにして通り、廊下に出ると一目散に階下の厨房まで走った。
厨房には人の姿はなかった。
夜も更けて、一番忙しい時間を過ぎた食堂は客もまばらになっていた。
店主であるザムジーニは馴染みの客と雑談に花を咲かせているようで愉しげな笑い声が聞こえた。
ヘクターは一人厨房のテーブルに付いていた。
頭がズキズキと痛くて、身体が泥のように重かった。
ぼんやりと座り込んでいると、ザムジーニが戻ってきた。
ヘクターに緊張が走る。
ザムジーニも、ジェラルドやヴァランのように氷のように怒っていると思ったからだ。今日、自分達、シュヴァインとヘクターになにが起こったのか彼もすでに知っているのだろう。だから、大人達は誰も聞こうとはしないのだ。
自分が道案内を引き受けて、そのせいでシュヴァインを危険な目に遭わせてしまったこともばれているのだろう。
「俺・・・もう、あんな馬鹿な真似はしないからーーーだから・・・」
「怖い目にあったな。男は窮地のなかで磨かれてゆくもんだ、おまえも一回りも二回りも成長したな」
いつもとかわらない濁声が言い、節くれ立った分厚い掌がヘクターの金の頭にどかりと乗り、がしがしと揺すった。
乱暴な仕草は記憶のなかのヘクターの父親に重なっていた。
「ザムジーニーっ」
ヘクターはザムジーニの胸に体当たりするようにしがみついていた。
後悔と自責の念と、取り返しの付かない失敗を起こしてしまったという恐慌のなかで麻痺してしまっていたものが、安堵感に包まれてゆっくりと首をもたげようとしていた。
それは、“恐怖”だった。
今までヘクター少年が体験したこともないような強烈なものだった。
純粋な恐怖、命の危機だ。
男達は手に斧を持ち、蛮刀を持ち、ヘクター達を取り囲んだ。
野良仕事にも使うものでそれ自体珍しいものではなく、触ったことだってあったが、しかし、それらは雑木ではなく、人間である少年達に向けられていた。
首筋には、ひやりと冷たい刃が当てられた。
捕まえる腕は渾身に藻掻いてもびくともしない、そして、もし刃物にほんの少し力が込められて動かされていたらーーー。
彼らは、シュヴァインの命を供物にしようとしているような連中なのだ。
平然と帝国の皇帝を狙う邪教徒集団にとってヘクターなどそのあたりの雑草と代わらない存在としか見ていないに違いない。
縛られて暗い箱のなかに押し込められることだって、はじめての経験だった。
縛られた腕が痛くて、息が苦しくてーーーもう駄目なんだと、ヘクターは死を予感したのだ。
がたがたと身体を震わせるヘクターの背をしばらくザムジーニは優しく撫でていたが、頃合いを見計らって再びヘクターを椅子に座らせた。
その前で膝を折って少年に視線を合わせると、表情が厳しいものに変わっていた。
「おまえは今日のこの出来事をどう考えている?」
唇を噛みしめていたが、おずおずとヘクターは口を開いた。
「反省してる。・・・もう絶対こんな間違いはしないよ。もう絶対に、シュヴァインをこんな危険な目に遭わせたりしないから」
「そうだな」
鷹揚に頷いた後
「しかし、それは少し違うだろう?」
ヘクターは首を傾げた。
「おまえが危険に遭わせたのではなく、おまえが危険に遭わされたんだ。おまえは、ただ巻き込まれたーーー」
「そんなんっ!」
血相を変えて慌てたヘクターをザムジーニは頑として鋭く見つめ続けていた。
「もう15だ。冷静になって考えるんだ、これは大切なことだ」
「なんだよっ、じゃあ、シュヴァインは命狙われているから危険だから、一緒にいるなって言うのかよ、ザムジーニはっ!」
語気荒く叫ぶ少年に、元傭兵の男はどこまでも冷静に淡々と言ってのけた。
「そんなことを誰が言った?あの子と付き合ってゆくってことはおまえにとってハードなことだってことを言っているんだ。今日みたいに命の危機にさらされることだってこれから先で珍しくないことだろう。皇帝の命を狙おうとする者達がどれほどの覚悟を固めているか、考えてみるんだ。大帝国を敵にすることも辞さない強い信念だ。奴らは奴らの命と誇りを懸けて狙ってくる。ーーーおまえは、そのなかで耐えられると思うか?」
自分の身は自分で守るのが鉄則。
保身に走ることは、当然の権利だ、恥ずかしいことではない。
生き延びて、命を次に繋げることが生き物としての務めだ。
頭を働かせ、先を読み、賢明に生きてこそ、人間だ。
ザムジーニはいろいろ難しいことを言った。
シュヴァインのようにあまり聞いたこともないような長い単語は使わなかったが、難しくて頭がぼうとしてヘクターには途中から聞いていてよくわからなくなった。
ザムジーニはテーブルの上に美味しそうな匂いのシチューを一皿用意したあと、客がいる店の方に戻っていった。
食べる気がでないヘクターの前でシチューはゆっくりと冷めていく。
シュヴァインと会って一緒に遊んでいるとまた、奴らに襲われるかもしれない。今回は運が良くて助かったけれど、今度は運がなくて、殺されてしまうかもしれない。
シュヴァインのせいで。
ーーーそれは、わかった。
シュヴァインは実際に、バレンヌの皇帝さまなのだ。
皇帝の命を狙うイーラという邪教徒の証である黒い腕輪を幾つも見た。
邪教徒達が皇帝を狙う理由も丁寧に教えられていた。
だから、シュヴァインは狙われてもおかしくない。
一緒にいたら、危険。
一緒に、殺されてしまうかもしれない。
ーーーだったら。
ーーーだから?
だから、もう会わない方が安全で、良い?
ヘクターはゆっくりと首を横に振った。
一人何度も繰り返して振った。
ヘクターにはそれは賢いことでも、『良い』とは思えなかった。
死ぬのは怖くて、嫌だけれど、だけど、会わなくて『いい』とはならなかった。
シュヴァインにもう会わなくなることが『平気』だとは、ヘクターには絶対考えられなかった。
少年は心を決めた。
危険であろうと、自分はシュヴァインの一緒にいたい。一緒にいるのだ。
危険だというなら、ヘクター以上にシュヴァインではないか。
ヘクターが巻き込まれているだけなら、血眼で狙われているのはシュヴァインなのだ。
シュヴァインは皇帝などになりたくないけれど、それは彼の自由に出来ないこと、好きで皇帝になるわけでも、望んで命を狙われるのではない。
シュヴァインだって、狙われるのは嫌で、同じように怖くて、同じように死にたくなどないはずだ!
怖くて堪らないとき、誰かが一緒にいたらきっとそれだけで心強いのではと思った。
ヘクターは考える。
今のヘクターには、守ることは出来ないけれど、馬鹿をしないように用心深くして、そうして・・・それでも危険な目に再び遭ってしまったとき、シュヴァイン一人よりも自分でもいた方が多少はマシではないだろうか。
ヘクターは席を立った。
二階のシュヴァイン達がいる部屋に戻ることにしたのだ。
先ほど一人逃げ出してしまったことがヘクターにとって、恥ずかしいことになっていた。怒られるなら一緒に自分も怒られるべきだったのだ、シュヴァイン一人心細い思いをさせることなく、己がその側に付いてーーー。
ヘクター少年は己に酔っていたのかもしれない。
シュヴァインと共にあるのだと決断した自分に、大人を感じて、またシュヴァインのためと理由をすり替えて、物語のヒーローのような自己犠牲だって厭わない自分、そこになにかしらの陶酔感など一切感じていなかった・・・と言えば、嘘になるだろう。
階段を上がって、ヘクターは客室の扉の前に立つ。
ザムジーニの宿屋の二種類の部屋のなか、高くて広い方だ。
ノックをして入ろうとしたとき、なかからジェラルドの声が聞こえてきた。
皇帝の教育係が感情的には珍しく叩きつけるようにきつい語調で、主であるシュヴァインに向けられた言葉だった。
それは、一瞬だった。
ヘクターの心にあった甘い陶酔感を一瞬に、砕きさる力があった。
少年が、皇帝と一緒にいても良いのだと見つけた理由の完全否定。
呆然とヘクターが聞いてしまった言葉、それは
「・・・なぜお逃げにならなかったのですか!ご自身の身を第一に考えると約束されたからこそ、私は街に出ることを許しました。しかし、約束を守られなかった!貴方様であればあのような者達にそこまで手こずることだってないはずです!・・・それでもお逃げにならなかったのはーーー」
ジェラルドは深呼吸をして、感情を整えたあとにゆっくりと言ったのだ。
「あの少年の所為ですか?ーーーあの少年のためにむざむざ危険に甘んじるような真似をなされたということですね?」
シュヴァインは悪くない。怒られなくてはならないのは老婆に騙されて人通りのないところにシュヴァインを連れて行ってしまった自分。
謝らなくてはいけなかった。
よく謝って、反省したから同じ過ちは二度としないと誓って、許してもらおうーーーと。
でもなかで問題視されていたことはそのレベルのことではなかった。
それよりも先で・・・。
シュヴァインは、一人だったら逃げられた。
だけど、ヘクターが一緒にいた所為で逃げられなかったのだ、とーーーそう言っているのだろうか?
20130716改