襲撃
シュヴァインを守ろうと思ったのだ。
信じられないような現実に身を置くシュヴァインを守ってあげたい。
出来るだけ。
せめて自分が一緒にいるときぐらいは己が危険を除いてやることが出来たなら。
だから、ヘクターは剣の稽古をはじめたのだ。
もっとも稽古と言ってもまだ、基礎体力作りの段階で直接の指導までは至ってはいなかったが。
それは幸いなことに、皇帝になるシュヴァインだけではなくヘクターであっても、優れた剣の指導者に恵まれていた。
優秀な教師陣に取り囲まれるシュヴァインとは違いこちらは元傭兵だったが、戦いを生き抜いたその道のプロであり、引退してもなお同業の傭兵達が自然と集まって敬意を払われる男は、ヘクターにとって願ってもない相手だったろう。
ザムジーニはヘクターの頼みごとを聞いたとき厳しい顔をした。
しかし、揺るぎなく見つめ返す少年に彼は「本気か?」という言葉を呑み込むと、別のことを静かに尋ねていた。
「剣を習いたいという理由は、皇帝さまか?」
ヘクターは強く頷いた。
「街で一緒に遊ぶときに危険な目にあわないとは限らない、そのときは俺が守るんだ!」
少年の目は痛いほどに真剣だった。
意志と情熱に満ちたそんな目を幾つも見てきた男は、こんなときにはなにを言っても無駄であることも知っていた。
「剣を教えるかどうかは、今では約束も出来ないことだな。人には向き不向きがある。向かない者には教えるだけ無駄だ、お互いにな。おまえはまだ、その判断を付けるところまでも至っていない、だから何とも言えんよ」
断られたのかと息を呑むヘクターを制して
「まずは体を鍛えるんだな。基礎体力、筋力がなければ剣を振るどころか、持ち歩くことが返って負担になるだろう」
と言った。
その日からヘクターの一日は変わった。
これからの者には必要だと、読み書きを教わることはそのままで翌日までの課題も与えられてちゃんとこなさないと拳骨だったが、その他、空いた時間は中庭に出て体作りの鍛錬を詰む日々になった。
その最中を、少々早めに遊びに訪れたシュヴァインにうっかりと見られてしまったこともあったが、怪訝な顔をして物問いたげなシュヴァインに「荒っぽい客が多いからガタイを作っておかないとな」と誤魔化した。
シュヴァインには知られずに、こっそり密かに強くなって格好良くみせたいとヘクターは考えていたのだ。
意気揚々、そんな言葉がぴったりとくる。
思いつきに燃えるヘクターを前に、ザムジーニが言いたかったこと、シュヴァインが言えなかったことがあっただろう。
それは『物事はそんな甘いものじゃない』だったかもしれない。
ほどなくして。
ヘクターは彼を思う優しい二人からではなく、より冷たい者達から『現実』を横っ面に突きつけられ、手酷く打ちのめされることになるーーー。
それは一人の小さなおばあさんからはじまった。
地方訛りの強い言葉で、ヘクターとシュヴァイン、二人は尋ねられた。
「坊達、ロクサス通りを知らんか?2番地に住むマリエーラを訪ねてやってきたんじゃが迷ってしまった」
古ぼけた鞄一つと握りしめてくしゃくしゃになった手紙を持った旅姿の老婆だった。
開いて見せた手紙に書かれた地図を見るまでもなく、ロクサス通りはよく知っていた。娘だというマリエーラまでは知らなかったが2番地だったらわかる。そのあたりの家で尋ねれば、マリエーラも、そんなに難しいことではないとヘクターは思った。
「安心しろよ、おばあさん。俺達が送ってってやるよ」
「ヘクター!」
笑顔で応じたヘクターの横で、シュヴァインが驚いたように声を上げた。
「ん、どうした?」
別にこれと言って用事がなかったし、通りを数本移動しなければならなかったがそれほど遠いわけでもなかったため気楽に道案内を引き受けたヘクターにはどこか浮かない顔をするシュヴァインの訳は思い付かなかった。
「いえ・・・別に・・・」
シュヴァインは、見知らぬ老婆を送りたくはないと考えていたのだ。
ロクサス通りはシュヴァインも知っていたが、今二人がいる本通りから大きく外れた静かな地域だった。そして辿り着くには、人通りが少なく入り組んで昼間でも薄暗い路地を進まなくてはならなかった。シュヴァインにとって、それは普段であれば、本能的に警戒し避けて決して踏み込まない場所だった。
が、今は一人ではない。老婆を助けることに疑問も持たない優しいヘクターの前で己の非情を露呈するようなことを、シュヴァインは口には出せなかった。
「送って差し上げましょう・・・」
「ああ」
明るいヘクターの笑顔にシュヴァインは薄い笑みを浮かべた。
良くも悪くも、ヘクターの優しさがあったからこそ、シュヴァインとて彼と知り合えたのだと無理矢理納得して、二人は老婆と共に通りを逆方向に歩き出した。
感謝の言葉を繰り返す老婆の荷物をヘクターは持ってやり、そんな彼をシュヴァインは無言に眩しそうに眺め、歴史のある広い大都だからこそ生まれる老築化した廃街となった一角にまさに差し掛かろうとしたときだった。
わらわらと建物の陰から男達が姿を見せると、あっという間に取り囲まれていた。
揃って腕に黒い腕輪を巻き、それを誇らしげに隠そうともしない者達はそれぞれの手に武器を握っていた。
正面に立った大振りの蛮刀を持った背の高いそろそろ壮年にさしかかろうとする男が一団のリーダーらしい。
事態を察し顔色を無くしながらもヘクターは護身用の短剣を取り出して構えながら、シュヴァインの腕を取ると自分の体の後ろに庇おうとした。
このときシュヴァインは、おそらくヘクターよりも酷く動揺していた。
シュヴァインにとって、戦いとは無縁に生きる“無辜なる民”ヘクターこそ、守らなくてはならない者だった。
それどころか、彼をこんな状況に巻き込んでしまったことに慚愧の念が心を締め付けていた。
「シュヴァイン、俺の後ろにいろよっ、絶対、おまえのこと、俺、守るから!」
「ヘクター!私のことは大丈夫だから、ヘクターは危ないことはしないで!」
冷静さと余裕を大きく欠かせるシュヴァインが反対にヘクターを後ろに強く追いやろうとした。力のこもりすぎた少々乱暴な行為にヘクターは蹈鞴を踏まなくてはならなかった。
ふらついた腕を、老婆がつかまえてくれて踏み止まることが出来たヘクターはありがとうと感謝を述べようとして首をねじ曲げて、凍りついた。
老婆は笑っていた。
娘を語っていたときとは別人のように禍々しく。
細く骨張った腕は、老婆とは思えない強い力でヘクターの腕を後ろへねじり上げて、ヘクターをいとも容易く身動きの取れない囚われの身になっていた。
取り上げられた短剣の冷たい刃は持ち主の首筋にぴたりと当てられた。
「優しいこの坊が怪我をするところなど見たくないだろう?シュヴァイン皇帝さま、短剣を捨てなされ。それとも罪深い皇帝さまは罪のない者の赤い血が流れる様が見たいかね?」
穏やかな口調で言う老婆の捲り上げられた右腕にも黒い腕輪が鈍く輝いていた。
考えるまでもないことだった。シュヴァインは、カタンと短剣を地面に落としていた。
「あなたが言うとおり罪のない彼は、関係がないでしょう。あなたがたの用は私のはず、彼を解放してください」
静かに発せられた言葉にヘクターが悲鳴を上げる。
「待てよっ、シュヴァイン、俺はーーー」
「ヘクター!」
シュヴァインの悲鳴は、ヘクターが解放の代わりに猿轡を噛まされ口を封じられたためだった。
「おまえが大人しくしていたら、彼には危害は加えない。事が恙なく運んだ時には放してやる。彼のために大人しくしておることだな」
リーダーの男は配下に目配せを送った後に、低く言った。
涙でにじむヘクターの視界のなかで、男達はゆっくりとシュヴァインに近寄っていった。一切の抵抗をみせない親友の姿は大きな男達の体に押し潰されるように見えなくなった。
縄に足首と手首の自由を奪われたあわれな子供達は建物の裏に隠してあった一台の馬車の荷台に放り込まれた。
「大丈夫、ヘクター」
荷台の大きな木箱のなか、暗い箱のなかに押し込まれたシュヴァインは、なんとか体勢を整えて横に転がるヘクターににじり寄っていた。
そして、顔を覗き込んだ。
不安に真っ青になっているだろうヘクターを励まそうと思ったのだ。
「心配しないで、必ず助けるから」
「ごめん、俺・・・」
悔しそうに奥歯を噛みしめて、青緑の瞳を潤ませるヘクターに、シュヴァインは微笑みかけて頬にキスをした。
「私を庇ってくれて、ありがとう。とても嬉しかった」
「だってこれは、俺の所為だ・・・」
己の浅はかさと無力さを呪うヘクターは緩んだ猿轡から泣き声のような悲痛な声をこぼした。
送ることを躊躇う素振りを見せたシュヴァインはきっとこんな事態の危険性を予想していたのだと今更に気が付いていた。人通りのない場所に誘われるままに進んで、自分がシュヴァインを危険に晒してしまったのだ。
そして、守るどころか先に捕まった。
「違うよ、これは避けられない不運だったんだ、ヘクターの所為じゃない」
シュヴァインは優しい嘘をついた。
暗くて狭い箱のなかでシュヴァインはすでに腕の縄を外していた。足も同様だった。縄抜けは苦手ではなかった。
続いてヘクターの縄も外そうとしたが、考え直してやめた。
彼の縄を解いたら、きっと責任を感じて無茶をする、危険なことをするだろう。
ヘクターに怪我を負わせることはシュヴァインにとって絶対に避けたい事だっだ。
なんとかして二人、無理であるなら責めて、ヘクターだけでも守りきって逃がさなくてはいけない。
二人の短剣は取りあげられてしまっていたが、シュヴァインには魔術という武器が残されていた。
ゴトゴトと木箱を積んだ馬車はどこかに向かって走り続けている。
どこか、アバロンから連れ出されてしまうまえに脱出しないと大変なことになる。
儀式の供物として、祭壇に乗せられてしまうのだろう。
さすがに、それも出来るなら避けたかった。
子供の力では押しあげるのも大変な分厚く頑丈な木箱の上蓋にはご丁寧なことに錠まで掛けられていて、その側には見張りが一人付いて、その他に老婆を入れて9人の異教徒達が武器を片手に、手に入れた獲物を逃さないようにと目を光らせているだろう。
シュヴァインの動揺は最高潮だった。
それは、葛藤でもあった。
もしシュヴァイン一人であったら、さっさとこの危機を脱しているだろう。
そもそも一人であったらーーーそれは言っても仕方のないことだ。
今は、シュヴァインは一人ではく、ヘクターが一緒にいるのだ。
危機脱出は、可能であった。
だけど無事に二人窮地を脱出したとしても、その先、大きなリスクが伴ってしまうことになるとシュヴァインは考え、実行を躊躇わせていた。
リスク。
それは、そう。
ヘクターがーーー。
それも、ヘクターだった。
シュヴァインにとって、それは甘んじるにはとても辛く、取り巻くこの状況以上に恐ろしいことだった。
己の命の危険に追いたてられながら、でもどうしてもシュヴァインは思い切ることができなかった。
ぐずぐずと迷って、暑く狭い箱のなか、苦しくてぎゅっとヘクターの背に腕を回し抱きしめていた。
箱のなかに置かれた香の働きだったろう。
次第に薄霧が下りたように頭がぼんやりとなってシュヴァインの意識も、そのまま甘たるい香りの泥沼に沈み込まれていった。
20130716改