小さな魚
唇から低くこぼれるものは攻撃魔法の呪文だった。少々大掛かりな術だ。
さんざん追いまわされ、走りまわされ頭にきていた。
塀を背にしてシュヴァインは、剣を片手にゆっくりと迫る男を見つめていた。
「覚悟を決めましたかい?」
男は笑う。獲物をもう仕留めたつもりでいるのだろう。
そうだね、決めたよ。お前を殺すことにした。
袋小路に走り込んでしまった可哀想な子どもに余裕を取り戻して愉しそうに笑う男は、シュヴァインの心の言葉は男には想像もしていないだろう。
・・・しょうがないよね。怒られるかもしれないけど、殺されるよりかいいものね。
白い顔を銀髪に縁取る子どもは無表情にそう考えていた。
12歳の子どもは、花のように氷のように美しい。
そんな子供の命を奪う任を負う男は自分の役所に酔っているのだろう。走り詰めることはしない、それを逆手に取った長い詠唱だった。
思い知るといい。
シュヴァインは受け継いだ最高呪文を記憶の底から引きずり出している。自分でまだ使ったことはなかったが失敗する気はしなかった。
滞りなく大半が終わろうとしていたときだった。
「おいっ」
頭上から降ってきた声に、シュヴァインは驚いた。
振り向くと背にしていたレンガの壁の上に金髪の少年がいた。
「なにしてんだよ、早くしろよっ」
自分に手が差し伸ばされてることに気がついた。
同じぐらいの年だ。金の髪がきらきらと太陽を弾く。
男も気づいて血相を変えた。少年はそちらにちらりと目を向けて
「おまえ、あんなのに掴まったら殺さてしまうかもしれないぞ?ほら早くっ」
見上げるだけで反応しない相手に腹を立てて、怒鳴り声に近かった。
手がぶんぶん振られる。
「掴れったら、莫迦っ」
ようやく手が重ねられて、少年は満足そうににっと笑った。
「登れっ」
掛け声とともに力を込められてシュヴァインの身体は引き上げられた。寸でのところで追っ手の指は空を掻く。
壁の上から飛び降りて
「走るぞ」
一言少年は言うとシュヴァインの手を取ったまま走り出した。
少年の誘導で細い道をいくつも曲がって大通りの人込みを縫った、結構走った。
そのくらい走ることは全然平気だったけれど。
シュヴァインは走っていて、ずっと手が気になっていた。
「ここまでくればいいでしょ。もう追ってきてないみたいだし」
静かなきれいな通りに出て、少年はようやく手を離した。
シュヴァインは、思わず手を服に擦りつけていた。
その様子に少年は目を丸くし、その後目付きを険しくした。
「おまえ・・・。腹立つな、俺の手そんなに汚くないぞ」
「あ・・・違います。別にそういうわけじゃありません」
慌てたシュヴァインに
「まあどうでもにいいけどさ」
と少年が鼻を鳴らす。
「・・・良くありません。聞いてください。私の周りの者はみな手袋していて、私は直接誰かの手に触ったことがあまりありませんでした。だから、慣れなくて・・・生温かい感じがとても・・・」
「・・・手袋ねぇ・・・」
初年は唇を歪めた。
儀礼用の手袋など持ってるわけがなかった。
「手袋なんてそんな贅沢なもん俺持ってねえよ。・・・それになんでも自分の手でちゃんと触ったほうが楽しいじゃんか」
「・・・汚いと考えるなら私のほうかもしれないですね。彼らはだから手袋がないと私に触れたくないのかもしれない」
どちらも、独り言だった。
聞こえてしまって顔をあげて、聞かれてしまったことに気づいて二人はぎこちなく笑いあう。
なんだかとても気まずかった。
そんな空気をシュヴァインが動いて、和らげた。
「ありがとうございました。助けていただいて嬉しかったです。誰かに助けていただけるとは思っていませんでした」
自分に敬語を使って、丁寧に頭を下げたどう見ても貴族の子どもに街の路地で生きる少年はちょっと戸惑った顔をした。
「おまえ、どっか行く途中だったのか?かなり走ったから場所わからないだろ。連れてってやるよ。行きたい場所言えよ」
そう言われて、シュヴァインは少し考えて「小川に行きたいです」と言った。
今いる場所がわからなくても、大通りに出さえすれば位置は大体把握出来るはずだった。
けれど、もう少し一緒にいてみたいと思ったのだ。
だからといって宮殿への帰り道を案内して貰うわけにはいかない。そんなことをすれば、彼は驚いて去っていってしまうだろう。
だったら、小川に行きたい。
少し前、来る途中で見かけた街の小さな子供達が楽しそうに笑いながら桶を囲んでいたのだ。そっと後ろから覗いてみたら中には小さな魚が泳いでいた。見知らぬシュヴァインに気付いた男の子が嫌そうな顔をしたからすぐに離れた。
小さくてもくるくる元気に泳いでいた魚をもっと見たいと思った。
「小さな魚が見たいのです」
変わった要求に少年は少し驚いたようだったが、わかったと頷いた。
「小さな魚がいいんだな?」
意味ありげな言葉に、シュヴァインは少年を見る。
「ふつう大きなのがいいと言うけどな。やっぱり貴族だと、大きいやつはテーブルの上でいっぱい見てるからいいのか?」
にやりと笑って、それは皮肉だった。
それでも不思議と腹は立たなかった。あからさまな皮肉もぶつけられたことはほとんどなかったから面白かったのだ。
「あなたは貴族が嫌いなのですね」
シュヴァインは微笑んだ。
宮殿の生活の中で年の近い者と話をすることは全くなかった。
また役務には実直でも、シュヴァインに興味を持つ者は少なかった。興味が敬意と畏怖に負けていただけかもしれない。でもそんなことはシュヴァインにとっては関係ない。
訊かれて自分を説明することは刺激的だった。
なんだか嬉しいのだ。
「大きいものも私にとっては珍しいですよ。皿の上にあるのはもう魚ではありませんからね。鱗もないですし、姿もない。だから小さなものでもいいから生きているものを見てみたいと思いました。あなたにとってはくだらないことでしょうが、私にとっては違います。いけませんか?」
シュヴァインは真っ直ぐに感情を返してみた。
少年は、へぇ?とシュヴァインの返事に感嘆の声を上げた。
怒り出すか、もしかして泣くかなと思っていたからだ。
「そうだね、俺は貴族嫌いだよ。俺なんかが近づけば寄るなって顔するしね。でも、おまえは嫌いじゃないよ、面白い。・・・小さくて生きてる魚だったら安心しろ。俺が見せてやる。そうすれば、おまえにとってももうくだらないことになるさ。じゃあ行こうぜ!」
少年は満面の笑みを見せて、シュヴァインを促して歩き出した。
小川に行って、どこからか少年は持ち手の壊れた桶を持ってきて、上着で小魚をすくい取ってくれた。
日もそろそろ傾きだし、5匹の小さな魚の入った桶を大事そうに胸に抱えてシュヴァインは帰路に着いた。少年は付いてきてくれた。
途中から桶を持ってくれた。
でも、魚はしばらく歩くうちに弱ってしまい、水面に浮いてしまった。
もう一度、近い小川に行って戻すしかなかった。
小魚は、結局持って帰ることは出来なかった。
それはしかたがない。流れるきれいな水の中ではないと生きられない魚だったのかもしれない。
元気に回復してくれるといい、可哀想なことをしてしまった。
でもそのことよりも、だ。
小魚よりも、欲しいと思った。
「またお会いできるでしょうか?」
シュヴァインは少年に恐る恐る尋ねた。
少年は驚いた顔をしたけれど、快諾した。
まだ互いの名前を聞いていないことに気付いた少年はヘクターと名乗った。
シュヴァインは嘘の名を言おうかとよっぽど考えたけど、出来るなら自分の名前を呼んで欲しいと思った。賭だった。
シュヴァインという名を聞いたヘクターは、やはりかなり驚いたようだった。
でも態度を変えなかった。
ヘクターは、『シュヴァイン』と平気に呼んだ。
シュヴァインが少し年上の様子の少年に、敬称なしに呼んで良かと尋ねると、「勿論いいよ」と笑った。
はじめての友達だった。
再会の約束を胸に、歩き出したとき、ヘクターに呼び止められた。
「ずっと気になってたことなんだけどさ。おまえ、さっきなんか言っていたけどさ、汚くないよ!」
驚くシュヴァインは目を大きく見開いた。
「全然汚くない。おまえ綺麗だよ!」
ヘクターはそっぽを向いて大声で繰り返す。
「あ・・・でも気にしてるのだから、なんか見えないもので汚れているのか・・・?」
疑問を見つけて自問する。
出された答えは
「汚れているだっから洗えばいいんだよ!」
だった。その後で再び
「簡単に落ちるものだったら気にしてないんだよな・・・。ん、でもさ俺にはそんなんに見えないんだよ。だったら誰にも見えないさ。だからおまえも忘れちゃえばいいんだよ!!」
無茶苦茶な理屈だった。
その解決法では到底納得は出来ないだろうけど、とても素敵だと思ったのだ。
シュヴァインはふわりと笑って、ヘクターを花のようだと見とれさせた。
「また会いましょう、必ず」
大きく手を振ってから、シュヴァインは走り出した。
20130716改