思い出の街へ
美しい蝶が飛んでいる。
誰があんなものを描いたんだろう、絶妙で繊細な模様を持つ珍しい蝶だ。
日だまりにふわふわと。
でもときどき意地悪な風が吹くと為す術なく、濁流の藻屑のように流されてしまう。
ああ、強すぎる風にぬかるんだ地面に落ちていった。
羽根が破れている。
それでもまたふわりと舞い上がった蝶が、とても大事だったのだ。
ただ、守りたかった。これ以上、羽根が破れたら飛べなくなってしまう。
飛べなくなったら、きっと蝶は死んでしまうから。
追いかけて、花に止まったとき、手を伸ばした。
何回か失敗したけれど、上手くいった。
新鮮な花を毎日摘んで用意すれば大丈夫。甘い香りの花は、蜜も多くて、お腹もふくれる。
強い風もなくて、これ以上傷つくこともなくて、蝶はずっと生きている。
ーーーはずだったのに。
蝶はその夜、死んだ。
危害の与えるもののない安全な箱の中で、箱ごと潰れて死んだ。
見つからないように隠していたその場所に、ジェラルドが本を置いたから。
本の山の下敷きになって、朝を迎えずに蝶は花と一緒に潰れて死んだ。
美しい蝶を殺したのは、誰でもない幼い日の俺ーーー。




こんなことなら、アバロンに戻らなければ良かった。
これが忌憚ない本心だった。
あのまま戦っていた方がずっと楽だった。目の前だけを見て、本能と感と身体の感覚だけで、心も感情も使わないでいられた。
こんなに思い悩まなくてもいられたのに、といらいらと考えている己の愚かさに気がついてシュヴァインは苦笑した。
問題はそんなことではないのに。
これでは、ただ現実を直視できず単純な作業の中へ逃げ込みたいだけみたいだ。
それはわかるのだ。この期に及んで、逃避を図りたいだなんて馬鹿げているし、間違っている。
変。おかしい。違う。
だけど、その先がわからない。
どうしたらいいのか、なにもわからなかったのだ。
まるで、一面の砂漠の真ん中で、ぽつんと立ち尽くすような不安で恐怖感に襲われる。
どうしていいのかわからないけど、ずっと頭から離れなくて、それなのに他ごとを考えるのも煩わしくなって、シュヴァインは再び笑うことになる。
これもやっぱり逃避だった。酒でも飲もうと思った。
宮殿の中は落ち着かなかった。だって、いるからーーー。
フリーファイターに入隊して、近くにいると言っていた。
部屋も嫌だった。最初にヘクターを知らせたのはジェラルドだった。ジェラルドは嫌っていると思っていた。それなのに、今さら何を考えているかもわからないから、側に来られるだけで落ち着かない。
酒場と思い浮かぶ処は一カ所だけだった。
我ながら情けない選択範囲だと思ったが、ヘクターの顔を見てから無性に会いたくなったのも事実だ。
ただし、会いたいのは、話したいということではあまりない。
そっと顔を見たい、バレないように、それだけで十分満足する事態はある。
でももしバレたら、またあの低い低いだみ声で怒られるのだろうかと想像すると、心臓がどきどきした。あの人は皇帝だからと遠慮をする人ではないのはわかっている。そのうえ、もう来るなと言われているのに行こうとしているのだ。
バレたら絶対、怒られそうだった。きっと自分は、昔のように為す術なく背中を丸めるのだと想像がついた。すると、なぜか楽しくなってきた。脚が軽くなってきた。
夜の街をシュヴァインは一人急ぐ。夜の繁盛期には少し遅い時間は、できあがった酔っぱらいの喧噪があちこちにあったが、往来の人通りはまばらになっていた。こんな遅い時間に通うことはめったになかったが親しんだ通りだった。
ほんの一時期だったが、時間が惜しくこの道をいつも駆けて通ったのだ。行きには胸弾む喜びで、帰りには泣きたくなるような寂しさを抱えながら。
いくらかと変化はあったが思い出の町並みは健在し、記憶が思いを呼び起こしていくのを感じた。
あの日、ヘクターに会いたくてたまらなかった。
あの日、ジェラルドに見つからないように注意しながら。
あの日、ヴァランがヘクターのことをからかってくるのが嫌で・・・。
あの日ーーー。
襲われて、ヴァランがいなくなって、剣の稽古をするようになったヘクターと取っ組み合いの喧嘩をして、怖いなあと思っていたザムジーニに思い切り怒られてーーー。
かつてヘクターは、ヴァランとジェラルドが怖いと言っていたことを思い出した。そうかなあと、曖昧に答えていた。なぜってシュヴァインにとって、二人よりもずっと怖いと思っている者がいたから。もちろん、ザムジーニだった。
ヘクターはどうか知らないが、時間が経った今でもザムジーニの前で、平常心でいられる自信はないのだ。
もしもバレてしまったら。竦んで動けないだろうのでみっちり怒られるのだ。前科もあることだし。
怒られるついでに、シュヴァインはザムジーニに何かを訊いてみようと思った。




店に着いたとき入り口で数人の客とすれ違った。おそらくアバロンの市民ではない、飾りっ気のない剣を持った男たちだった。朗らかな酒を飲んだようで、じゃあまたと、奧に片手を上げて挨拶を送りながら帰って行った男たちに釣られて目をやるとそこにあったのは、素っ気なく手を挙げて応じるザムジーニの姿だった。予想通りだったが、慌ててそっぽを向いた。
店内もやはり多くの客が岐路について減ったあとのようで、空席が目立っていた。
テーブルに残ったままになっている料理の皿も多く、まだ若い女の給仕が一生懸命集めていた。
シュヴァインは入り口隅の片づいているテーブルに座った。
まもなくしてやってきた給仕の女の子に、麦酒を注文して、そっとあたりを見回した。
店内も懐かしい記憶のままだった。
誰かに咎められることなくテーブルに落ち着いて、ほっとしていると、すぐに女の子が戻ってきた。注文したはずの麦酒を持っていないことに疑問を感じたが、理由はすぐにわかる。感想は、予想以上に早かった、だ。
「お客さん?、あのねぇ、ザムジーニさんがこっちの明るいところで飲めって」
カウンターを指さして、あそこねとにっこりと笑顔の可愛い娘だった。
はははと思わず笑う。
「辞退は許されるだろうか?」
「う?ん、どうだろう?、ふつう、ザムジーニさんにことわったりしないよぉ」
語尾を引っ張る癖のある甘い声が、こっそりと教えてくれる。
「あのねぇ、ザムジーニさんって大人気なのよぉ、このお店のお客さんに。こわそうな男の人が多いのだけどねぇ、すごいモテモテ?。でも本人ぜったいにつれないの。ザムジーニさんがこんなふうに誰かを特別に誘うのもめずらしいのだからぁ。・・・お客さんがもう二度と来ないつもりだったらいいんじゃないかしら?」
うふと笑う娘も、案外しっかりと立場の強弱を感じ取っているようで、どうぞ、こっちですと、後ろも見ずに歩き出した。
シュヴァインは小さく溜息をつくと、おとなしく従ってカウンターに移動した。
カウンターの内は奧の厨房の一室と繋がっていて、座ったときにはいなかったザムジーニが心の準備のする暇もなく戻ってきた。
「・・・ご無沙汰、しております・・・」
「四年ぶりくらいか・・・」
「ーーーはい、そうです・・・」
八年ぶりと言われてもよかったところだったが、やはり前回もバレていたということだ。
テーブル席でこっそりと酒と料理を頼んだ。当時の給仕は男だったが、すぐに注文通りの品をテーブルに置いてくれた。
ザムジーニがモテモテという言葉は決して誇張ではないのだ。その時も、むさくるしいような男たちがカウンター席を占めて、忙しく働くザムジーニにひっきりなしに声を掛けては「うるさいぞ、おまえらっ、店の邪魔だ」と怒られていた。
ザムジーニは昔は剣を握る者だったことは知っている。
傭兵を廃業したあとに店を開いていて、ヴァランが「おやっさん」とよく慕っていた。
酒場を営んでいても、今でもザムジーニを取り巻いている人間関係の多くは以前の傭兵稼業の関連なのだと一見で想像がつく光景だった。
だからあまりに生々しく過ぎて、結局シュヴァインはザムジーニに声を掛けることなくすぐに帰ったーーーので上手くすれば、スルーしてもらえてるかも、というのはやはり甘かったようだ。
「戴冠式の数日前だったな。忙しいだろうときによく来たものだと思ったよ」
「はい・・・」
「だが、あれはいかんだろう!」
感情の起伏の少ないザムジーニの声が少し荒けたように感じて焦った。
「お忙しそうだったので、私の方も時間が押していましたので・・・」
嘘だ。式典の準備や打ち合わせ、主要者との即位前最後の会見などなど分刻みの予定がある中で、わざわざ抜け出してやって来たのだ。時間がどうこうではなく、勇気が出せなかっただけだ。
ただ一つの質問をするためにやってきたのに、ザムジーニに声も掛けられず、勘定をテーブルの上に置いて帰ったのだ。
「すみませんっ!」
思ったより大きな声になってしまい、するとあらぬところから声がかかる。
「どうしたよ、おやじさん、なんかあるならこっちでやりますよー」
「たいしたことじゃないさ、おまえもそろそろ宿に戻らんと明日は早いんだろ」
「はいはいはいーーーまるでおふくろだあ」
「じゃあ、おやじさん、またこっち来たとき寄らしてもらいます」
テーブル席の二人が勘定を済ませて帰って行き、店はいちだんと静かになった。
「おまえもそろそろ帰っていいぞ」
「あ、は?い」と明るく返事をした給仕は、テーブルを片付け終えて、去り際にシュヴァインのところにやってきた。そしてそっと耳元に「がんばってね」とエールを残してくれたが、なにをどう、どこまでがんばったらいいかも教えて欲しいと心から思った。
晩飯を訊かれて、食べてないと素直に答えたシュヴァインに幾皿もの料理が並べられた。
「うちは味付けの濃い、こってりした労働者階級の味付けだ」
「ーーーはあ・・・」
「いまのおまえにゃぴったりだな。喰っているのか、おまえ。野戦の栄養状態管理がおかしいんじゃないのか」
ザムジーニのこういうところも苦手なのだ。厳しく現実的で皇帝であることをわすれさせないくせに、皇帝として構えている自分を一瞬で崩すようなことを言う。そんなことをされるとしゃべれなくなってしまうから。
大人になってからのことだ。ザムジーニといるとひどく懐かしい気持ちになる。それが子どもの頃の思い出、というだけでなく、誰かを思い起こさせるのだろうと思う。
でも限られている自分の生い立ちの誰かではありえない。きっと記憶のうちの皇帝の大事な誰かだったが、やはり思い出せなかった。
20130716改
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