名もない戦士
ひどく眠かった。
戦い明けだった。
南の高原地域に異常繁殖しつつあるモンスター群の討伐は生死に関わるほどの困難な仕事ではなかったが、だからどうだっていうのだろう。
モンスター相手に、もちろん、気を抜くことなどできなかった。
並の防具などバターのように貫く牙や爪を持つモンスターに一瞬でも隙を見せたら最後、一刀の与える攻撃力がたとえ勝ろうと意味はない、命など簡単にとってゆかれる。
それでも七英雄に関わらない戦いは楽なものだーーーと人々は、民は考えているだろう。
来る日も来る日も、街道を行き来する人々の安全を確保すべく、狩り続ける。
毎日、朝を待って、夜を迎えても、地の底から次々湧いてくるかのように現れるモンスターにまみれる時間がずるずると続いてゆくと、ふと思うのだ、牙を己の体に埋めるまでこれは永遠に続くのではないか、もしかしてもう自分は生きていないのかも、気づいてないだけで、そんな不穏な錯覚に陥ってくる。
重くてふわりとした、激しいようで鈍い時間だった。
現実的な傷の痛みでも、多少の範囲では慣れて、感じなくなる。
多少の範囲しか受けないからだ。それ以上を受けたら、立てなくなる。
だから、身の丈を越える怪物を見上げながら、苦痛のない夢の中にいる気がする。
でも嗅覚が教えてくれる。生臭い体液を身体中に浴びたあと、食べなければ動けなくなると食料を呑み込むとき、胃の底が捻れるような嘔吐感がなによりも感じる現実感だなんて、もう笑うしかない・・・。
淀んだ時間が続きてゆく。
でも古参の強者たちは、一言も愚痴をこぼさなかった。
アバロンどころか、バレンヌ帝国内にその名を知らない者などいないだろうという、前皇帝時代から仕える戦士たちだった。
彼らのともにいると、皇帝は一人違った、異端だった。
彼らにとって、新しい皇帝は子どもか孫のような若輩者だった。
だから口が裂けても、肉が裂けようとも、年若い皇帝は彼らに自分の弱さを晒すのが嫌だった。
だから強く美しい皇帝は、強く美しくあり続ける。
次第に寡黙に、表情から柔らかさが消え、帝国最後の希望の戦士と讃えられるに相応しい皇帝はその身に宿す最高の強さを具現化し、最強の人間となる。
だからいっそう、誰も軽々しく、ささいな愚痴など口にできなくなるのだけれど。
定例報告などなかったら。
一旦アバロンに戻るなどと、セキが言い出さなかったら、巣窟を一掃だってできそうだったのに、とは皇帝の心の言葉だ。
今ではなく、もう少し後でよいのでは、とやんわりと異議を唱えてみたのだけど、案の定、セキは頑として譲らず、他のメンバーも誰も皇帝の見方にはならなかった。
だから、皇帝・シュヴァインは、こうしてアバロンの宮殿に戻っていた。
かなりの不承不承だった。
でも、戻ってしまうと、もう無理だった。
疲労感は重症で、体力的疲労と、魔力枯渇による倦怠感に襲われて、十日ほどは使い物にならないことになることがわかっているから、戻りたくないとどうして彼らはわからないのだろうかと唸りたい。
宮殿に戻ったとしても休ましてもらえるわけではない。皇帝のサインの必要な事案の決裁などの執務、夜会やら懇親会、国民との対話・謁見会など、何かと引っ張り回されることになる。なかなか休養の時間はない。
ほら、今だってーーー。
闘技会の準決勝戦を皇帝は観覧する。
遠征で不在であれば、皇帝不在のままで行われる恒例行事だった。
今回はたまたま戻っているから、御前試合にされることに不満を感じるので不機嫌だった。
円形の闘技場の高台の一角の皇帝の観覧席にシュヴァインは皇帝用の豪奢な座椅子にしどけなく、横着に足を組んで座っている。
予定より奥に退かれた席を艶やかにそよぐ天幕が皇帝の姿をほぼ覆うことを幸いにして、シュヴァインは、客席の民と戦士たちに、来場の際、挨拶を送った後は、ずっと椅子でうつらうつらしていた。
見る意味など感じなかった。
この闘議会は一般人が参加することができ、よい成績を残せたら、本人の意思次第で戦士として帝国に取り立てられることになる。仕官希望の戦士、傭兵たちにとって千遇一材のチャンスを得る好機だった。
それでもシュヴァインは闘技会に興味はなかった。
シュヴァインにとって、おそらく、どんな戦士が勝ち進んで優勝し、本人の希望でフリーファイターとして席を置くことになってもその後、その戦士と二度と顔を合わせるつもりもない。
シュヴァインはフリーファイターの詰め所に近づかないから。失ってしまってから。
それだけは守ろうとしたものも、見失ったときから時間は経ちすぎたのだ。もう待っていなかった。何かを待つことをやめてしまった。
何かとは、人。何かとは、希望だった。
毎日のように見ていた恐ろしい夢も、諦めてからはあまり見なくなった。最近ではまったく見ていないから、きっとこのまま忘れていくのだろうと感じていた。
ジェラルドもそのあたりはわきまえていているから、今回も予定の試合が終わるまでは邪魔されることなく惰眠をむさぼることのできる時間のはずだった。
「陛下。そろそろ目をお開けください」
横にずっと控えていたジェラルドが静かに告げて、シュヴァインはうっすらと目を開けた。灰青色の大きな瞳と銀色の長い髪を靡かせる美しい皇帝はぼんやりと日差しのなかの闘技場を見渡した。二人の戦士の姿があった。
「まだ終わっていないようだ。起こすのが早いのでは、ジェラルド」
すぐに再び長い睫は伏せられてしまったが、
「私は、確かに陛下をお起こし致しました。それだけは決してお忘れにならないように」
とても意味深な言葉に、胡散臭そうに目を開いて、シュヴァインはもう一度、グラウンドに視線を走らせた。
最後の試合がはじまろうとしているところだった。
斧を使う屈強な男と、大剣を使う、髪を七色に染めた派手は男の試合のようだった。
まだ若い。顔つきまでは見えなくても、細身の部類に入るだろう身体から漲る若さは、同業の者たちからは青いと見なされるものだ。
自分と代わらないと判断したから、目を逸らそうとした。
でも、できなかった。
シュヴァインの眠そうな表情がすっと消えてゆくのを、ジェラルドは目にしてこっそりと安堵の吐息をつく。
「いかがでしょう。いずれの戦士が勝つでしょうか」
沈黙は短くはなかった。
「・・・いつからだ、おまえは、いつから・・・これを知っていた?」
押さえた低い声は強く怒っているように聞こえた。泣いて震えているようにも聞こえた。
皇帝は居住まいを正すととても厳しい表情で試合の進行を追い始めた。
無名の戦士だった。大振りの大剣を使うらしい。
地毛は金髪だったが、まるで極楽鳥のように派手に染めて逆立たせている。
最近では珍しくなった奇抜な傭兵ファッションを貫く青年は、大きな大剣を携えていた。派手な見てくれだけでなく、無名な若者に不釣り合いなほどの業物だった。
唯一記憶の中通りの大剣と、面影を残した横顔を認めると、ぐらりと目眩が起こった。
呼吸の仕方がわからなくなりそうだった。
シュヴァインは固く目を閉じると、ゆっくりとゆっくりと深呼吸した。
これは観客席の誰も知らないことだ。
彼は、実は約十年前、アバロンの下町に住んでいた。
けれどたった手紙一枚を残して突然去っていってしまった。
ごく一部の者を除いて、試合は大番狂わせの結果になった。
ふざけた格好にはじめは鼻白んでいた者が多かったが、鮮やかな勝利に闘技場は割れんばかりの歓声に沸いた。
すばしっこいだけの少年が、大剣を自在に操る戦士となって戻ってきたことを場内で唯一知る皇帝の観覧席に流れるのは氷のような空気だった。
試合は驚くほどあっさりと、青年が勝った。圧勝だった。
試合にならないほどの技量差が存在したのだ。
相手が地に倒れ込んで、試合を見届け人が勝利の采配を上げる前に彼は、そちらを見ていた。彼にとって正味があるのは目の前の試合などではなく、闘技場一画、強い陽光が濃い陰を作って中を見通すことはできなかったけれど、会場への出退場のときには姿を見ることができた。
長い銀髪、噂通り切れるようなきれいな顔、灰青色の目、すらりと伸びた身長には昔の面影はなくなってしまっていたけれど、本人だった。
彼の大事な思い出の中の、『大切な人』なんて言葉では足りなかった、彼が十年を超える長い時間をひたすら耐え、戦士になるべく苛烈な時間を生きてきた意味だった。
20130716改