新しい薔薇
「アセルス~、若いんだからいつまでも寝ていちゃダメだよ」
耳元で聞こえた声より、唇に何か触った感触でアセルスは目を開けたのだ。
至近距離に顔があった。
これは知ってる顔、結構美形で・・・ゾズマ?
少女の眠気は一瞬で醒めた。
男がそこにいるということよりも、もっと気になることがあった。
「・・・あんた、今キスなんかしてないよね?」
「勿論してない」
難しい顔で睨む少女を見て、ゾズマが笑みを深めた。
勿論キスなんかしてない。あんなのはキスなんかじゃないよ。
ただ触れただけなのだ。
「でもさすがだね。何度も声かけても全然起きないから古典的な目覚めの儀式やってみたら言い伝えだけはある、一発で目が醒めたね」
素早かった。しかし枕をひっつかんだアセルスの攻撃は、ゾズマは軽やかに避けてしまう。ベッドから跳びだして大きな枕を振り回しても一向当たらないのに業を煮やした少女は、ベッドサイドに置かれた美麗な陶器の壷を目に留めた。
力一杯投げつけると、男は目を丸くしたが避けるのではなく、反対に少々狙いがずれていた壷に追いついて壁にぶつかる前に受けとめた。
だってさ、きっと掃除させられるのボクだもんね。めんどくさいじゃん。
そんなゾズマの脇腹に、計算通りになったアセルスの回し蹴りがきれいに決まった。
「信じられないよ。ふつう女の子の部屋に入ってくる?」
大げさに脇腹をさすってみせる男に悪びれる様子はまったくない。
「ふつう女の子は回し蹴りはしないよ、それに女の子だったらもう少し色っぽい夜着来たら?・・・かなり、それつまらない」
余計なお世話よと、透けたり、目覚めたら足どころか腹の上まで捲り上がることがない2ピースの機能的なものを身につけるアセルスは、ぺたぺたと絨毯の上を素足で歩いてゆく。
気になったことを確認した。
「ほんとにもう、信じられないっ。人の部屋に入るときぐらいちゃんと扉使いなさいよ、鍵の意味ないじゃない!!」
確認してさらに口を尖らせた。
ドアの鍵はちゃんと閉まっていた。忘れたわけではないのだ。
鍵の意味?そんなのただの扉の飾りだよ、とゾズマは思った。
密室を作りたいのだったら部屋の扉を閉めるんじゃない、自分の位置空間を閉じなくちゃダメだよ。と、言っても今のアセルスでは出来ないことだから、別のことを口にする。
「だって、いつもボクの横ですやすやとしあわせそうに寝ていたじゃない。寝相の悪い君に優しいボクは毛布を何度掛けてやったことか。ボク達そんな深い仲じゃないか、何を今更。照れないの♪」
「そ、そんなことお願いだから絶対に人に言わないでよ、ものすごい誤解を招いちゃうじゃないか。それより何か用なの?あるんだったらさっさと言いなさいよ。・・・用はないとか言ったら怒るよ」
ないと言わなくてももう怒ってるじゃないか。
感情豊かな少女は、ゾズマにとって非常に楽しい。
素直で可愛い。
小さなことに一々丁寧に反応してくれて、ぽんぽんと勢いのある言葉を発する。
勝ち気な少女。
そう、それでこそ百鬼夜行の旅の間ずっと一緒にいたアセルスだ。
旅の間、いや人でなくなってからアセルスは独りきりにされたことはなかった。
ボク達、ボクだけではない、白薔薇、イルドゥン、一応カブもいたか、誰かは必ず彼女と共に、昼の光のなかを夜の暗闇の底を過ごしてきた。
こんなに、独りぼっちになることはなかったはず。
今、ファシナトゥールに戻って、オルロワージュを倒し勝利を得たアセルスが味わっているものは不安と、孤独ばかりだろうね。
白薔薇は目覚めない。オルロワージュの呪いからまだ逃れることが出来ない。
イルドゥンはリージョンの修復作業に追われていた。予想以上に手間取る作業になっていた。独りで行っているわけではなかったが、その総指揮、総責任をイルドゥンが背負っているのだ。イルドゥンはリージョンのあちこちを忙しく飛び回っていた。
ゾズマは少し手伝ったが、思った通りに退屈な仕事ですぐに飽きた。
「用というよりもね。誰も遊んでくれなくて寂しいよ~~~、ぴよぴよぴよという、アセルスの鳴き声が聞こえたから」
だから来たんだよ、とにっこりと笑った男に少女は息を呑んだ後、ほんとにあんたって嘘ばっかりねっ、と声を荒げた。
でも言葉の勢いはどこか削がれていた。
この男だったらもしかして本当に聴こえたのかもしれないと、アセルスは思ったからだ。
まったく非常識で、信じられない男だ。
・・・でも。
ちょっと嬉しかった。
静かで広くて豪華で、薄暗い部屋のなかで独り起きているのが怖くてアセルスは必死で眠ったのだから。
薔薇を見に行こう。
とゾズマは言った。
中庭の薔薇園の薔薇、美しく咲き誇っていた花は、主の消滅と共に枯れ果てたのではなかったか。
それを見るの?
嫌。
数日前、眠る白薔薇に花を積んでいこうとアセルスが踏み行った庭園は見るも無惨な状態に変わっていることに気付いた。
これは私があの人を倒した結果なのねと少女は乾いた声で呟いていた。
オルロワージュの薔薇は最期に、鋭い棘をアセルスの心に突き立てながら死んでいったのだ。
嫌だ、あんな薔薇なんか見たくない。
強い拒絶を見せるアセルスに、ゾズマは優しい目をした。
「新しい花が咲いたんだよ、見に行こう。とてもきれいだよ」
行けば分かるから、とアセルスの着替えを促して妖魔の男は扉を開けて廊下に出ていった。
大輪の薔薇の花を失った庭園は暗く寂しい。まさに廃墟だった。
このファシナトゥールで目覚めて、城の探索の中で迷い込んだ薔薇園は夢の様に美しくて、やっぱり『これ』は夢じゃないかと思ったことをまだ鮮明に憶えている。
オルロワージュは嫌いだけどオルロワージュの薔薇は、嫌いじゃなかった。
「やっぱり花なんてないじゃないか、嘘つき」
花が散り果て、葉は落ちて枯色の蔓と棘だけが目立っている。
太い蔓が絡み合って広がる様子に、まるで不気味な闇の生き物のようだとアセルスは思った。生き物だったら憎い私を食べたがるのだろう。
目を逸らそうとしたとき
「こっちだよ、アセルス。ここを見てごらん」
一角に進んだゾズマが呼んだ。
嫌だと言ってもゾズマは自分を最優先する、許してくれないのだ。
もうどうでもいいから早く解放してほしいと従ったアセルスが目を向けた先に、それはあった。
花、薔薇の花。
「・・・薔薇が咲いてるっ」
「あれ、酷いな。ボクの言葉信じなかったのかい?」
枯れた蔓から若い緑の蔓が伸びだしていた。細く伸びた先に蕾があった。小さな蕾だ。その横で、やっぱり小さな、薔薇の花が、確かに咲いていた。
「新しい力を得て生まれ変わった薔薇の、初めての花だね。オルロワージュとは全然違う花だ。もっと明るい色で、匂いも柔らかい。これからどんどん成長して木が安定したとき、どんな薔薇が咲くようになるんだろう、ここはどんな薔薇園になるんだろうね」
花を見つめていた少女は、楽しみだねという妖魔の言葉に嬉しそうに頷いた。無邪気な笑みに妖魔の男は目を細めた。
アセルスは一輪の薔薇の前に座り込んでしまった。
薔薇をもっと見ていたい。この蕾が咲くとこ見たいの、と言った。
参ったな、これは・・・。
男の存在など忘れてしまったように薔薇に微笑む少女に、ゾズマは非常につまらなくなってしまった。
梃子でも動きそうになくて、しかたがないので妖魔は視界を広げた。
遮る物など許さず瞬く間にリージョン中に広がった視野の中で、簡単に捉えることが出来た。
イルドゥン、をだ。
こんどはあいつと遊ぶのだ。
そう・・・。
アセルスに、目覚めの“チュッ”をしたと言ったらあいつはどんな顔をするんだろうね。やっぱり無表情なんだろうか。
部屋に遊びに行ったら無礼にも寝たふりをしたので同じくお茶目な悪戯をした昔、イルドゥンはゾズマに、氷の無表情で力一杯張り倒してそのあと100年間口を利かないという報復に出た。
ボクだって男相手は結構イヤだったんだぞ、お互い様じゃないかという言い分を鼻息で跳ね飛ばして実に大人げなくつまらない態度を取ったイルドゥンもあれから300年近いのだから多少は成長しているだろう!
うふふと笑いながら、ゾズマはイルドゥンの処に跳んだ。
数時間後、まだ薔薇の前に独り座っていたアセルスの頭を、作業を抜け出したイルドゥンがぽんと叩いた。
20130710改