イルドゥンの想い
アセルスはイルドゥンを見ながら歩いていた。
麗しい夜の世界・ファシナトゥールの道もない場所だった。ときどき闇色に薔薇のような光を見せる空が頭上に広がっている。
それだけで太陽が昇ることも沈むこともない、このうえなく美しい夜が続く世界。
他に何もないけれど、別に、他に欲しい物はなかった。
うっとりと見つめていた。
アセルスの前で、深緑の髪が揺れる。
方々に目を向けながら歩いてゆくため、後ろからでもきどきイルドゥンの玲瓏な横顔が臨めた。白い肌がほんの一瞬髪の間に見える。真剣な表情で、後ろにアセルスがいることなど忘れてしまったように。
でも、それだけでもとても嬉しい。
ドキドキした。
だから、横顔がいきなり正面顔になったとき、アセルスは息が止まるかと思った。
振り向いたイルドゥンが不思議そうに少女を見下ろしていた。
「私の何を見ている?視線をずっと感じているが・・・」
呼吸どころではなかった。心臓が止まるかとアセルスは思った。
そんなばつの悪いことはない。体温が急上昇した。
貴方が好きだから、顔がちょっと見えるだけでも楽しいのーーーなどとは、アセルスには口が裂けても言えなかった。
風が吹いていて・・・。
肩の飾りのモコモコが髪の毛みたいだし・・・。
イルの髪って綺麗だな、どんなお手入れしてるのかなと思って・・・だから・・・。
しどろもどろになって答えるアセルスに、幸いイルドゥンは返答を望んでいるわけではなかったようだ。
そうそうに、アセルスの返答を遮って
「私が何を見て歩いているか、分かってるか?」
反対に尋ねていた。
アセルスは素直に首を横に振った。
すると、「綻びだ」とぽつんと言った。
その後、表情を変えず、続けた。ただの無表情に。
「一度、このファシナトゥールは主を失った。一瞬であっても要を失って弛められた世界だ。その後新しい力で持ちこたえようと、どこかに支障が出ているかもしれない。裂け目があったら、早いうちに修復してかないと大変なことになる」
ゾズマの話もよく分からないけど、イルドゥンも難しい。
「・・・世界の裂け目って目で見えるの?」
アセルスは賢明に分かる範囲だけを理解して、そのなかで生まれた素朴な質問であったのだが、つれなくイルドゥンは黙殺した。
もう一つひっかかるところがあった。
「新しい力って・・・?」
イルドゥンの深い夜の色の瞳に揺れることなく映る、首を傾げて見上げる自分の姿にアセルスは気付く。
「なにっ、わ、私は、無理だよ、そんなのっ、何も出来ないよ。何も分からないもん」
「でも、ファシナトゥールはおまえの鼓動を読みとって呼吸をはじめた。おまえを主と定めておまえから力を得ている・・・おまえが分からなくても」
「・・・どうするの?」
男は少女に苦笑した。
「それは私が聞くことだよ、おまえに」
イルドゥンが苦笑にしても、アセルスに微笑むことは珍しかった。
こんなときじゃなかったら、抱きついてしまったかも、ね・・・。
少女の中の冷静な部分はそう思った。
アセルスは唇を噛む。
この質問は、逃してくれるつもりはないようだった。イルドゥンはアセルスを黙って見つめ続ける。
真っ直ぐに注がれるイルドゥンの視線が重く痛かった。
「・・・わからないよ」
小さく怯えた声だった。
世界のことまで考えられない。
そんな難しいことわからなかった。
オルロワージュを倒して、今、自分の心にあるものと言えば、一つのことだった。
「あなたは・・・例えばね私がここに住んで、ここの王さまになること喜ぶ?」
アセルスは縋るように想いで口にしていた。
けれど、イルドゥンは突き放すように
「好きにするといい」
即答だった。
求めていた言葉は、『肯定』だったのだと、返された返事に思った。
イルドゥンが自分に何かを求めていることを感じた。
だから、考えて、アセルスは自分はそれに沿うことができたらと思ったのだ。
イルドゥンが喜ぶなら。みんなが喜ぶなら、良いことだった。
でもイルドゥンは違うようだった。
まったくの的外れで、どうでもいいことのように冷たかった。
「・・・おい、泣くな。泣くところじゃないぞ・・・」
ひどく狼狽して、普段の無表情を失った男の様子を、しゃがみ込んでしまった少女は気付かなかっただろう。
「ちがうよ、鼻水が目から出ただけだもんっ」
慌てた男は、どこからか取り出した白いレースの綺麗なハンカチーフを少女の頭にかぶせた。
そして
「おまえがどんな選択をしようが、私はおまえを見ているだろう。だから、私のことは考えずにおまえの好きなようにすればいいんだ」
ひと思いに言ってのけた。
何度も心の中で反芻していた台詞を口にした男の白い頬は仄かに染まっていったことも、アセルスは知らない。
それでよかった。
なぜって、そんな姿を目にしたらきっと心臓が破裂してしまったと思うからだ。
もう十分に、苦しいほどにドキドキして、おかしくなりそうなのにーーー。
少女は立ち上がった。
そろそろ白薔薇が目覚める頃だから急いで点検を済ませて戻ろうと事務的に言うと、男を見ることなく駆けだしていった。ハンカチーフをしっかりと握りしめたアセルスの頬は真っ赤に染まっていた。
イルドゥンは、転ぶぞ、といつもの通りの無表情な顔と声で言った。
ほんとにこれで終わりなのかい?
ゾズマは二人の様子を見て、一人苦笑していた。
尾行しているのではない。
ただ二人に数百歩後に、続いていたのだ。
上級妖魔の視野は広い。視野は端的に能力に比例して、物理的な障害物など無視して見渡すこともできるのだ。
ゾズマだけではない。
元は人間のアセルスが聞いたら、間違っていると怒り出しそうだったが、イルドゥンにしても同じことだった。
ただし、本人に意思があるか、こっちを見てるかは別としてだがーーー。
たぶん、見ていない。ゾズマの存在など頭にないから、イルドゥンがもうちょっと具体的なシーンに突入しようとした時点で、一気に歩を縮めようかな?と思っていた。
思ってはいたけれど、ついにゾズマは合流することなく、散歩は終わってしまった。
ゾズマはふぅ~と深いため息をついた。
20130710改