”集団自決”起きた渡嘉敷島 生き延びた人や遺族などが慰霊祭
沖縄戦のさなか、渡嘉敷島でいわゆる「集団自決」が起きて住民300人以上が亡くなったとされる日から、28日で80年です。
島内では、集団自決を生き延びた人や遺族などが参列して慰霊祭が行われました。
1945年3月28日、沖縄本島の西、およそ30キロにある渡嘉敷島ではその前日に、アメリカ軍が上陸したことによる混乱のなか、住民たちは島の北部の「北山」と呼ばれる地で、配られていた手りゅう弾などで「集団自決」に追い込まれました。
渡嘉敷村によりますと、この「集団自決」で330人が亡くなったとされています。
村は3月28日を慰霊の日としていて、集団自決の犠牲者など沖縄戦で命を落とした595人の名前が刻まれた「白玉之塔」で、毎年、慰霊祭を行っています。
28日は、集団自決を生き延びた人や遺族、それに地元の小中学生など100人余りが参列しました。
渡嘉敷村の新里武広村長は「過ちを繰り返さないために、戦争という悲惨な歴史の教訓を胸に刻み、記憶を風化させることなく、次の世代へと語り継ぐことが責務だ」と述べました。
その後、全員で黙とうし、焼香をして犠牲者を悼みました。
弟を亡くした新里武光さん(88)は「いまも国外では、人が殺し合いをしていて80年前のことを思い出すと、国は何で殺し合いをするのかと思う。こうしたつらさは世の中からなくなってほしい」と話していました。
また、集団自決で父を亡くし長年、語り部として活動している吉川嘉勝さんは(86)「戦争がどれだけ怖いものかが、集団自決を通して語ってきたつもりだが、体力も落ちてきていて、今後、あの戦争のむごさをどれだけ伝えきれるか気にしている」と話していました。
慰霊祭には「集団自決」を生き延びた大城静子さん(91)も参列していました。
当時11歳だった大城さんは、雨が降る中、家族に連れられて北山に向かいました。
森の中には、複数の集落から大勢の住民が集まっていて、おとなたちは、次第に子どもたちを囲うように輪になって並びます。
そして、配られていた手りゅう弾の栓を抜きました。
このとき、爆発はしなかったものの、事態がおさまることはなかったといいます。
大城さんは「火薬を出して若い人は全部食べたけれど、火薬というのはなんの味もしないから、自分たちは口に入れてもおいしくなかった。口から全部出して、若い人は食べても死ななくなったら、今度は殺し合い、個人で殺し合いが始まった」と話します。
アメリカ兵に捕まると手足を切られて拷問される、生きて捕虜になってはならないなどと教え込まれていた住民たちは、「集団自決」に追い込まれていきました。
大城さんは「短刀で自分の子どもを殺す人もいるし、棒をたたいて死なす人もいる。死なす人がいなかったら自分で首くくって木に下がってひざまずいて死ぬ人もいた。あのときは思い出したくない、戦争のことは本当に思い出したくない」と話しました。
大城さんも親戚の男性から棒で首のうしろを殴られて倒れ込み、そのままうつ伏せで必死に死んだふりを続けたといいます。
大城さんは「大人も生きている人はもっと死なせてくれと頼んでいたが、自分たちは子どもだから死ぬのがこわかった」と振り返ります。
大城さんは数時間後、アメリカ軍に保護され、起き上がると、まわりでは積み重なるようにして、多くの人たちが亡くなっていました。
大城さんも、この「集団自決」で、母や祖母、妹を亡くしました。
ことしも孫とともに慰霊祭に参列した大城さんは、二度と同じような体験はしてほしくないという思いから、平和の大切さを強く訴えています。
大城さんは一緒に参列した孫に向かって「あなたたちの時代は絶対戦争をさせてはいけない。戦争がない世界になってほしいね」と話し、孫は「絶対に戦争を起こさないように頑張る」と話していました。