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沖縄戦タイムライン 1945年3月 アメリカ軍の上陸まで

80年前の沖縄で何が
  • 2025年3月25日

80年前の沖縄を伝えるシリーズ「沖縄戦タイムライン」です。1945年の当時、太平洋戦争や沖縄戦の状況がどうなっていたのか。戦況が市民の暮らしや命にどのような影響を及ぼしたのか、当時の資料や住民の証言でたどっていきます。

3月5日

沖縄戦を指揮した日本軍の第32軍が、台湾の上部組織に兵力の増強と特攻機の配置を要望しました。ただ、日本軍の航空部隊は南方での敗北から再建が遅れていて、特攻機は沖縄に配置されるのではなく、鹿児島をはじめとした九州などの基地から出撃することになりました。

沖縄の人たちは、特攻機の最期をたびたび目撃することになります。無数の砲弾が撃ち放たれる中、アメリカ軍の船をめがけて突っ込み、海上には火花が散ったと言います。

旧日本軍で戦闘機のパイロットだった那覇市の古波津里英さんは、鹿児島から飛び立った特攻機とともに飛行し、送り出す任務についていました。操縦を覚えたばかりの若者を、沖縄本島の北の上空で次々と見送り、再び鹿児島へと戻っていました。

3月から終戦までに沖縄周辺でアメリカ軍の船に体当たりしたり撃墜されたりした特攻機は1800機あまり。乗っていた3000人以上が命を落としました。

特攻を目撃した男性は「攻撃するんだけれども、むしろ逆に米軍の戦艦、艦砲射撃でやられてですね、沈没して。それをもう、目の当たりに見まして」と話していました。

航空特攻の命中率はわずか11.6%でした。当時は、未来ある若者が逃れることができない「死」に向かわされていったのです。

3月10日

住民も動員して造った伊江島の飛行場を破壊するよう、日本軍の第32軍が命令しました。第32軍はその2日前、伊江島だけでなく沖縄本島の北飛行場と中飛行場の破壊も大本営に要望していました。

沖縄戦の2年前から始まった伊江島飛行場の建設。3本の滑走路を造り「東洋一」と言われる規模でした。島の住民も動員され、完成を急がされたといいます。

飛行場建設に動員された男性は「うちは馬車を持っていましたので、飛行場設営には、馬車を持って参加したんです。やっぱり幼少の頃は日本軍を信頼していましたしね。『戦争には日本軍が必ず勝つ』というふうな気持ちでいましたので」と話していました。

ただ、そのころ日本軍は南方での敗北を重ねていました。このため沖縄の飛行場を使うだけの戦力がありませんでした。

そこで、第32軍は、アメリカ軍の上陸後に占拠され、本土への爆撃などに使われないよう、民間人まで動員して造り上げた飛行場をみずから破壊することにしたのです。

第32軍は、アメリカ軍を撃退するのではなく、県民を巻き込んで、沖縄の地で消耗させる時間稼ぎの持久戦に突入していきます。飛行場の破壊は、その象徴とも言える出来事でした。

3月17日

海軍の連合艦隊司令長官が「諸情報を総合するに近く南西諸島方面に上陸を企図しある算大なり」。つまり、アメリカ軍が沖縄から上陸する可能性が高いと告げました。

日本軍は当時、アメリカ軍が攻略寸前となっていた硫黄島の次に、小笠原諸島や沖縄、台湾などのうち、どこに侵攻するのか判断しかねていました。そうした中、サイパンの南にあるウルシーの拠点から、大規模な艦隊が出撃したという情報が入ります。

3月20日には大本営が来攻は南西諸島方面、時期は4月初頭と判断。3月23日にはアメリカ軍が南西諸島全域への空襲を行いました。

この間の住民の動きです。

3月21日、北部疎開が本格化する中、国頭村に5072人の疎開者が入ります。

そして、学生たちです。

3月23日、いまの名護高校の前身にあたる県立第三中学校の生徒66人が通信隊として動員されます。同じ日、県立八重山農学校と八重山中学校の生徒たちを動員する鉄血勤皇隊も編成されます。

事態は急速に切迫し、やがて沖縄が戦場と化していきます。

3月24日

空襲が激しさを増す中、沖縄への上陸を前にしたアメリカ軍の艦砲射撃が始まります。

大勢の住民が、この日を境に本島北部へと避難します。山田和子さんも、そのひとりでした。

(山田和子さん)
「(弟や妹を)北部の方に連れて行かなくちゃと。母1人では2歳と6歳になる子を連れて歩いての行軍(は無理)ですよね」

その途中で見た海はアメリカ軍の艦船で埋め尽くされていました。

(山田和子さん)
「軍艦がずらっとネックレスみたいに。あっけにとられて何だろうと思って『1、2、3』と数えたらこっちでドカーンって破裂、炸裂ですね」

3月25日。アメリカ軍はのべ515機で沖縄本島などを空襲。慶良間諸島と沖縄本島南部に艦砲射撃を続けます。

今の浦添市にある壕に家族4人で身を潜めていたときの絵には、激しい攻撃で壕の一部が落盤した状況が描かれています。壕の奥にいた祖父と叔母は生き埋めになって亡くなったということです。

そして、3月26日。慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、沖縄戦が始まります。

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