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 幼馴染みの縁とは不思議なもので、幸か不幸か、俺と若菜は高校生になっても同じ校舎の同じ教室で学校生活を送ることになった。
 高校生にもなれば、それまで垢抜けなかった者もだいぶ大人びてくる。男子は男らしくなり、女子は女らしくなる。
 その例には、若菜ももちろん堅実に従っていた。
 幼馴染みの俺から見ても、小学生、中学生のころから、若菜は「美少女」と評して良い容姿を持っていた。しかし高校に入学して見ると、いつの間にか、若菜はそれまでが霞んで見えるほどまで魅力的になっていた。
 あどけなさを面影に残しながらも、整った形の目、鼻、口。ほんの少し赤みを帯びた頬。さらさらの黒髪。さらには制服の上からでも分かるように大きく膨らんだ胸、そして尻――
 若菜は女優と間違えられてもおかしくないような、文句のつけようのない美人女子高生となったのだ。
 一方、その人なつっこい性格は健在であり、そのギャップがまた男心をくすぐるようで、そんな若菜にアプローチをする男子が後を絶たないのは、至極当然のことだった。
 だが、そうなっても、若菜が彼氏を作った、という話はいっこうに聞かれなかった。
 もう、両手両足の指を使ってもまるで足りないくらいの数の男に告白をされたであろう若菜は、誰にもOKをせずにいるようだったのだ。
 学校で一番ハンサムで、運動も出来て、勉強も出来る。そんな完璧な男子の告白を軽く断ったという噂が流れてから、いつしか男子の間では、若菜は「あまりに可愛すぎて立ち入ることが出来ない」という高嶺の花になっていた。

 そんな若菜が、毎朝俺と一緒に通学し、帰りは一緒に下校する。そのことが、俺は不思議で仕方がなかった。
 男子からは、何度も「お前、星崎と付き合ってるの?」と尋ねられた。
 しかし、俺はいつもそうではない、と答えることになった。謙遜でもなんでもなく、俺と若菜が「付き合っている」とはどうしても思えなかったのだ。
 いや、ただの幼馴染みだから」と答える俺。それに毎日虐待されてるし、という言葉を、胸の奥にしまい込んで

 ――そう、若菜の“遊び”は、高校生になった今でもなお、毎日休みなく続けられていた。
 毎日、毎日。俺は地獄を見せられ続けていた。
 若菜自身は“遊び”と称し続けていたが、俺からしてみれば、それは間違いなく“拷問”の域に達していた。
 一度それが始まれば、若菜は制御が効かなくなったようにはしゃぎまくる。普段におっとりした様子が嘘のように。
 もはや俺が失神することなど、若菜は気にもとめなくなっていた。気を失えば、起こせば良い。そしてまた気絶させて、また無理矢理起こす。それを繰り返せば、別に何の問題もない。そんな意志が、若菜からはありありと感じられるほどだった。

 そんな高校生活も3年にさしかかり、俺も若菜も、自分の進路について考えなければならない時期が、いつの間にかやってきていた。
 と言っても、俺の意志は「大学進学」でほとんど決まっていた。まだ社会に出るには早いと感じたし、学びたいことだって沢山あったからだ。
 一方の若菜も、進路は「大学」のようだった。
 いつもマイペースな若菜からは想像できないかもしれないが、実は彼女は、勉強がかなり出来る。こんな中堅高校に進学してきたのも、「俺と一緒の高校だったから」というだけの理由で、本来ならばもっと上の進学校に行けるだけの学力があった。彼女は俺が目指している関東圏の公立大学なのではなく、有名な国立大学への進学を教師からも勧められているようだった。

 そして今は学校の定期テスト期間。
 俺はいつも市立図書館で勉強をしていた。しかし、いつも通り放課後に、一度家に帰ってから勉強道具を持って図書館に向かおうとしたのだが、いざ家を出ようとしたところで、声が掛かった。
「圭くん、どこいくの?」
 若菜だった。俺と彼女の家は隣同士。出かけようとしたときに、若菜が二階の自室から手を振ってくるのはよくあることだった。
「図書館だよ」
「勉強?」
「ああ」
 そう答えれば「頑張ってね!私も勉強しよーっと!」と言って窓を閉めるのが、いつもの常。今日もそうなるはずだ。そう思って、俺は自転車に跨がった……、が、
「ねぇ圭くん、一緒に勉強しようよ」
 ピタリ。
 俺の動きが止まる。
 振り向くと、そこで若菜は、窓を閉めずにニコニコ笑っていた。
「……どこで?」
「いいよ、私の部屋に来ても」
 今でなくとも、今夜にでも俺は若菜の部屋に呼ばれ、ともに“遊ぶ”運命にあった。
 しかし、考えてみれば一緒に勉強など、初めてのこと。それが何を意味しているのか、俺には計りきれない。……少なくとも、良いことを意味しているとは思えないが。
「………ああ、分かった。今から行くよ」
「やったー!お茶用意して待ってるね!」
 俺は星崎家の家のドアを開ける。
 何が待っているか分からなくても……、今の俺は、若菜に逆らえない。

 しかし、俺が予期していた以上に、若菜の態度は普通だった。
 部屋に入るなりおならを嗅がせられ、一緒に勉強など名目だけ、すぐさま“遊び”が始まるものかと思っていたのだが、若菜は自室のこたつを片付けて、コーヒーを用意しているだけだった。何の不意打ちも虐めもない。俺はかえって拍子抜けしてしまった。いつも破天荒な若菜とは言え、とりあえずは目前に迫ったテストの方が大切ということか?
 こたつに向かい合わせになって入り、参考書を広げる俺と若菜。
 互いに真剣に勉強に取り組む。ときおり分からない問題が出てきた時は、互いに教え合う。基本的に俺が質問してばかりなのだが、若菜は唯一、数学を苦手にしていて、時折俺が教える側に立つこともあった。
「………ん〜……」
「…………」
「………あ、そっか」
「…………」
「……………解けた!」
 悩んでいた問いが解決すると、若菜は本当に嬉しそうににっこりと笑う。
 そのときの表情を見れば、彼女が意図せずとも、学校中の男子を虜にしてしまうのもよくわかる。こうしているときの若菜は、本当に可愛い。たまらなく綺麗な顔立ち、人なつっこい性格、たわわに実ったバスト、加えて意外な聡明さ。一人の女を魅力的にするには十分すぎる。
 本当に彼女がこれだけなら、俺はどれほど幸せだろう。
 こんなにも可愛い幼馴染みを持ち、今はこうして一緒に勉強などしている。恋人同士の関係ではない。若菜にいつか彼氏が出来ることもあるかもしれない。だが、それでも俺は幸せと呼ばれるだけの生活をしているはずだ。……本当に、彼女が、これだけなら。
 1時間ほど会話もなく、ともに一心不乱に勉強を続けたころ、不意に若菜がもぞもぞと動く。
「………ッ」
 それはあまりに突然のことだった。どうしようもない。どうしようもなかった。俺は若菜の何を止めることも出来ないのだ。

ぶううぅっっ!!!

 シャーペンを顎に当てて問いを考え込みながら、本当に不意に、若菜は片尻を持ち上げてガスを放出する。防音加工が施されたこの部屋だったから良かったものを、そうでなければドアを外側まで筒抜けなくらい豪快な音を出して。
「な、やめ――」
「エヘ、ちょっとガス漏れしちゃったっ」
 俺は慌てて鼻をつまむ。彼女が片尻を上げたことによって、主たるガスはこたつの中に流れ込んだようで、外にはほとんど漏れ出ていないようだった。……しかし、全体のほんの一部の臭いでさえ鼻をつままなければならないほどのもの。もしこたつが無ければ、鼻をつまむどころでは防ぎきれない。
 さらに俺は知っている。若菜のことを美化しきってイメージしている学校の男子達が聞いたらショックで気を失ってしまうような、今の豪快で下品な音。あの一発であっても、若菜にとってみれば、本当に「ちょっと漏れた」だけのものであるということを。彼女の本気は、今の比ではない。
「ごめんね、おならする気はなかったんだよ〜」
 そう言いながら、若菜は自分の方のこたつ布団を少しだけ捲りあげ、中に顔を近づけてみる。
「うわっ、くさぁ」
「お、おい、あんまり布団捲るなよ。臭いが漏れる」
「そっか。じゃあ臭い、中に溜めとくね、エヘ」
 そう言って若菜は布団をもとに戻し――

ぶびいいぃいぃいーーーぃぃいいッッ!!!!

 ――長く、下品な一発を、再び中に放り込む。
 これで分かる。さっきのが、あくまで若菜の意図しない“事故”の放屁だったことが。今のとさっきのとでは、長さも大きさも量も、そしてきっと臭いも、格違いだ。
「ぐ、お、おい………」
「だいじょぶだよ、こたつあるんだから!」
「お前なぁ……」
 鼻をつまみながら、俺は呆れて言った。
 確かに、顔面に直接一発を浴びせられていないだけ、まだマシというものだったかもしれない。しかし、もう若菜の行為が“遊び”へと移行するのは時間の問題だ。調子に乗った若菜は、そのうちに立ち上がり、自慢の爆裂ヒップに俺の顔を埋めさせて、今の数倍はある大爆音っ屁を連発し始める。俺はそのことを覚悟する。

 しかし――

「ねぇ圭くん、今日は“遊ぶ”の、やめとこうか」
 若菜の一言に、俺は、耳を疑うことになる。
「………今、なんて?」
「だから〜、明日からテストもあるし、今日は“いつもの”、やらなくてもいいよ」
 それは信じられない提案だった。
 毎日毎日、来る日も来る日も、俺は若菜の“遊び”によって拷問され続けてきた。俺がいくら懇願しようとも、一度たりとも、若菜がその手を緩めることはなかった。
 だが、今日になってみて、いきなり、突然、何の前触れもなく。
 これは信じていいのか。それとも、疑わなければならないのか。
「え、なら――」
「今日はほんとに二人で勉強するだけ。私は圭くんに、おなら嗅がせたりしないから」
 俺は考える。
 何か、裏があるはずだ。いつもそうだった。
「その代わり――」
 やはり若菜は、そう続ける。俺はその続きを、固唾をのんで待つ。
「明日からのテストで、勝負しようよ、圭くん」
「……勝負………?」
 しかし、若菜から聞かれたその言葉さえ、俺にとってはまるで予想外のものだった。
「そう、勝負。どっちが良い点取れるかの」
「い、いや、そんな、学年トップクラスの若菜に、俺が勝てるわけ――」
「そんなのわかんないでしょ。いっぱい勉強すればいいんだし。明日の教科には間に合わないかもしれないけど、明後日とか、来週の教科のために勉強すればわかんないよ」
 若菜の言うことは正論だ。そもそも、受験生となった今の時期になってしまえば、俺も若菜も、もっと死にものぐるいで勉強をするべきなのだ。本来ならば。
「……ああ、分かった。勝負しよう」
「もちろん、罰ゲームもアリだからね?」
 ギクリ。
 俺は理解した。若菜の狙いはこれだ、と。
「……罰ゲーム?」
「そう!もしも私が圭くんに勝ったら、点数の差の分だけ、おなら嗅がせるから! エヘ、これならやる気出るでしょ?」
 今までの定期テストの例から言って、俺は若菜には全教科で100点以上の差がある。つまりこのまま行けば、俺は若菜に、立て続けに100発のおならを嗅がされることになる……
 100発。そんな数、非現実的だ。一人の人間が、そんなにも放屁できるはずがない。……もちろんそうだ。ごく一般的な人間ならば。
 ここにいるのは、星崎若菜だ。普通の人間ではない。異常なのだ。今の若菜にとってみれば、おそらく、100発というのは苦なる数ではない。そもそも、数の問題ではないのだ。彼女の腹に一日に蓄積されるガスの量が、膨大すぎるのだ。それを100回に分けて出せばよいだけ。それだけなら、若菜は何でもなくやってのける。
「今日から来週のテストが終わるまで、“いつもの”はやらないから。その間にたーっぷりおなら溜めておいてあげるから、圭くんがどんなに惨敗しても心配しないで♪」
 俺は若菜の顔を直視できない。
 以前のことを思い出す。修学旅行のときだ。あのときも若菜は3日間溜めに溜めたガスを、一晩のうちに俺の前で見せつけた。それはあまりにも圧倒的だった。一人の男が対処し切れる量ではなかった。
 それを、今度は土日を挟んでテスト期間の約1週間、ずっと溜め続けると言う。それを一気に解放するのには、おそらく、100発では足りない……
「ちょ、ちょっと待て。もし、もしも、俺が勝ったらどうなるんだ?」
 そう、その可能性だってあるはずなのだ。
 俺は正直言って、今まであまり真面目な高校生ではなかった。勉強もろくにしてこなかった。だから若菜に負けていたのだ。今度のテストで、真剣に勉強すれば、あるいは……
「私の罰ゲーム……。ん〜、どうしよ」
 どうやら若菜は、自分が負けることを考えていなかったらしい。顎に人差し指をあてて、うーんと考え込む。
「それじゃあさ――」
 じゃあ、俺が勝ったらもうこの“遊び”を二度とやらないっていうのはどうだ? 俺がそう提案しようとした時、若菜は俺の台詞を強引に遮る。じっと俺を見る。そして言う。

「じゃあ、もしも私が負けたら、圭くん、私のこと、好きなふうにしていいよ」

 ――それは、俺が今日聞いた驚きの一言の中でも、最たるものだった。
「え……?」
 ほんの少し、赤みを帯びる若菜の頬。
 俺だって子供ではない。若菜が言った言葉の意味ぐらい、分かる。そして若菜も、俺と同様に、子供ではないはずだった。
「その代わりっ!」
 呆然とする俺を目覚めさせるように、若菜はこたつをバンと叩く。
 そしてまた、こたつの内部に向くようにして片尻を上げた。

ぶううぅうううぅうううッッ!!!!
ぶすッ!!ぶすぅッ!!!
ばっふうぉぉおぉおぅぅッッ!!!!

 若菜の少女的な外見からはまるで想像もできない、下品で、暴力的なおならが連発される。自分はごく普通の一般人ではないと誇示するように。
うぅ………ッ!!
 その臭いの一部が、こたつの隙間から漏れる。それだけで俺は顔をしかめた。漏れでたガスは全体の1%にも過ぎないはずだ。
「圭くんが負けたら、今このこたつの中に顔を突っ込むのなんかより100倍苦しいことになるって、覚えといてね?」
 不適に笑う若菜。
 それは先ほどまでの無垢な姿と同一人物とは思えないほど、意地悪で小悪魔的な笑み。
「は、はい………」
 それに押され、俺は何も考えることが出来なかった。

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