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 小学生の放課後と言えば、何となく面倒臭い授業から解放される、子供の自由の場。
 次々と新しい遊びを考え出し、遊び、楽しむ。鬼ごっこや隠れんぼ、あるいは秘密基地を作ってみたり……。そういう意味で言えば、俺も他の小学生と同じように遊んでいた、と言えるかもしれない。現にクラスメイトと一緒に遊ぶときはごく普通の、一般的な小学生のようにはしゃぎ回って遊んでいた。
 しかし、幼馴染みの若菜と遊ぶときに限っては……、俺達の“遊び”は、今考えてみれば、常軌を逸脱していた、と言っても過言ではないかもしれない……

 その日、俺と若菜は二人だけの『秘密基地』探しをしていた。
 言い出しっぺは若菜の方。何かのアニメにでも影響されたのか、「秘密基地を作る!」と言い出した。俺はそれに半ば付き合わされる形だった。昔からこうだったのだ。積極的に何かを始めるのは若菜の方。俺はいつもそれに付いていく(付いていかされる)ことが多かった。
 しかし若菜は好奇心旺盛というやんちゃな面を持ちながらも「面倒臭いことが嫌い」という、なんとも怠惰な性格。秘密基地を作りたい。しかし自分で作るのは面倒臭い。そんな無茶苦茶な理屈をもとに、「既に完成された秘密基地」を探し始めたのである。
 普通であれば、そんなものはあるはずもないし、秘密でもなんでもない。
 しかし、俺と若菜の前に、まさに素晴らしい“秘密基地”が現れたのは、今考えてみても神様によるお膳立てのようにしか思えない。
 それは、住宅地を少し離れたところにある小さな山、……というよりも丘と言った方が正しいだろうか、俺達が『お椀山』と呼んでいた場所の、麓にあった。
 人が寄りつかないような岩壁。そこに切れ目のようなものがあった。中を覗き込むと洞窟のようになっているらしく、内部にスペースがある。
 まさに、秘密基地――
「ほらね!あったじゃん秘密基地!」
「あ、ああ……、確かにこりゃ秘密基地にはちょうどいいな……」
「でしょ?だから絶対どこかにこういう場所があると思ったんだよ! エヘ、今日からここが、若菜と圭くんの、二人だけの秘密基地ね♪」
 こうして小学生時代、俺と若菜は『秘密基地』を作り上げた。

 その日のうちに、俺達は『秘密基地』を基地らしく仕立て上げた。
 と言っても、小学生に出来ることなど限られている。懐中電灯で電気をつけ、雑誌やお菓子、おもちゃを運び込む。物置に眠っていたラジオを付けてみると、いっそう基地らしくなった。
 中のスペースは、それほど広いわけではないが、2人だけの基地にするには申し分ないほどだった。入り口は思ったよりも狭く、小学生の小さな体でも、腰をねじるようにしなければ中に入ることができない。それが「大人から隔絶された空間」をますます演出していた。
「でも、ちょっと暑いな……」
「そうだね、今度扇風機も持ってこないと」
 額に汗をかきながら、俺達二人は基地の中で話す。
「おいおい、電気もないのに扇風機持ってきても仕方ないだろ」
「あ、そっか。エヘ、じゃあ自転車を発電機に改造して、それで電気起こすっていうのは? もちろん圭くんが頑張って漕いでね〜。私は涼みながらゆっくりアイスでも食べるから♪」
「……おい、冗談だよな?」
 俺の頬を冷たい汗が一筋。それはどうも、暑さのせいだけではなかった。
「どうかな〜?」
「若菜の言うことは、本気か冗談かわからないからな……」
「エヘヘ」
 こうしているだけなら、それは童心ながら本当に幸せな人生の時間だった。
 小学校高学年。そんな時代に、男の子と女の子が『秘密基地』という狭い空間で、二人きりで楽しく喋り、笑い合う。早熟に聞こえるかもしれないが、それは『男女関係』というものの原点なのかもしれない。
 幸せな時間。
 そんな幸せな時間は――、長くは、続かない。
 若菜には、俺の幸せをぶち壊すことが出来た。この頃から。この時代から。若菜にはそれが出来た。彼女が笑った拍子に、ついうっかり、ほんの少しだけ、肛門筋の力を緩めてしまうだけで、それが出来た。そして最も厄介だったのは、その行為が“俺にとっての幸せ”の破壊である一方、“若菜にとっての幸せ”の構築でもあった、という点であった。
「ったく、若菜はいつも――」
「んあっ」
 俺の言葉を遮るように、若菜は声を上げる。

 ――マズイ。

 そう思ったときには、もう手遅れ。
 俺の目の前で、彼女はくいっと体を動かし、片尻を上げていた。

ぶぷうぅっ!

 どちらかと言えば小さい、可愛い破裂音。しかしけして慎ましいわけではない。確かに破裂したことを感じさせる、自己主張の激しい破裂音。
 それが聞こえるやいなや、俺は鼻を覆う。しかし、遅い。
うぐッ!!ゲエェッ!!!ゲホゲホッ!!!
 咳き込む俺。若菜の持ち上げられた尻から漏れ出したガスは、俺の反射が追いつかないほどあっという間に秘密基地中に充満した。それを避けられるはずもなかった。もわぁっとした腐卵臭。
 そう、それが若菜の、おなら。
 彼女は異常だった。異常放屁体質だった。それは俺だけが、幼馴染みの俺だけが知っている。物心がついたころから、若菜の腸に溜まるガスは“異常”の一言でしか言い表せなかった。臭い、量、すべてにおいて常人を遙かに上回る。そして彼女はそれのコントロールが自在にできる。さらに、最も驚くべきは、彼女がそれを人に嗅がせることによって、快感を得ている、という事実であった。
ん…ぐが……、ゲホゲホッ!! お、おい若菜…ぐ、ぐぜぇ……
 俺は必死に抗議する。が、それが無駄だということを知っていた。若菜自身がその言葉を知っていたかは別にしても、小学生にして彼女の“サディズム”は完全に花開いていたからだ。
「ん、エヘ、ごめんね圭くん。でもしょうがないじゃん、出ちゃったんだもん!」
 そうは言っているが、彼女は確信犯に違いない。若菜のおならをコントロールする力をもってすれば、あの小さめな一発だけで秘密基地全体を“卵色”に変えることなど造作もないことなのだから。
「ゲホッ!ゲホゲホッ!」
 俺は噎せ込みながら、顔の周りをバタバタを手で仰ぐ。だがそれも意味を成さない。秘密基地内に溜まった若菜のガスを手でかき回しているだけだからだ。
「わ、若菜、いったん外に出させて……」
「えぇ〜?しょうがないなぁ」
 秘密基地内部は狭い。そしてそのとき、若菜の方が入り口近くにいた。彼女が外に出て、その後に俺が出る、という順番でなければ外に出ることが出来なかったのだ。
 ポリポリと頭を掻きながら、「よいしょ」と体を外に出す若菜。俺もすぐその後に続こうとする。一刻も早く、この狭い空間から出たかった。秘密基地ごっこは楽しかったが、こんなのはごめんだ。せめて臭いがもっと薄まってから、また遊ぼう。そう考えたのだ。

 しかし――

「ん?あれ?……え?」
 前の若菜が、なかなか出ようとしない。もぞもぞと体を動かすだけで、全く進まない。
「おい、何やってんだよ、早くしてくれよ」
「ん、うん、ごめんちょっと待ってね……。んしょ、んしょ……、……あれぇ?」
 それでも若菜は動かない。
 ――嫌な予感がした。
「……わ、若菜? まさか………」
「う〜ん……」
 困ったような若菜の声だけが、こちら側まで届く。
「エ、エヘ、ごめんね圭くん、なんかつっかえて、出られなくなっちゃったみたい……」

 それはまさしく一大事だった。
 この秘密基地の出入り口は、この狭い一ヶ所だけ。そこに何かの拍子で若菜の体がつっかえ、前にも後ろにも動けなくなってしまったと言うのだ。
 これでは出入り口が封鎖され、俺は秘密基地の中に閉じ込められたも同然。中に充満する、何とも耐え難い悪臭と共に。
 さらに悪いことは……、若菜の体は上半身だけが外に出て、下半身がまだ秘密基地の中にある状況。――つまり、“若菜の尻”はまだ秘密基地の中、俺の目の前にあるということだった。
「出るのが駄目だったら、一端こっちに戻って来られないのか?」
「駄目だよぉ〜、全然動かないんだもん。びくとも動かないよ」
 それを聞いて、俺は溜息をつく。
「若菜はダイエットとかしないもんな……」
 俺の独り言のつもりだったのだが、それは若菜までしっかり聞こえていたらしい。
「ちょっと圭くん!失礼だよ!若菜にダイエットなんて必要ないもん!まだ小学生だし!」
「あ、ご、ごめん、悪かったって」
 慌てて謝る俺。若菜を刺激するのはまずい。そう考えたのだ。
「じゃ、じゃあさ、なんとかこっちから押すから、外に出てくれよ」
「う、うん」
「じゃあ行くぞ」
 そう言って俺は、こちら側にはみ出した若菜の下半身を両手でぐっと押す。
 が、
「ちょっとぉ!女の子のお尻触らないでよっ!圭くんのえっち!」
という若菜の言葉が容赦なく飛んでくる。
「んなこと言ってる場合じゃないだろ!ていうか、お前のケツなんて見慣れて触っても何とも思わんわ!いつもはお前の方から『お尻に顔埋めて〜』なんて言ってるだろ!」
 俺が言ったことは事実だ。若菜の尻など、もう見慣れたものだった。その当時にして。
「でも駄目なの!私が言うのは良いけど、圭くんの方から触ってくるのは駄目なの!」
 無茶苦茶な理屈だ……。しかし、いつもこういう立場で圧倒されるのは俺の方であった。しかしそのときばかりは状況が違った。俺はかまわず若菜の尻を手で押し、体を出そうとする。
「もう、圭くんやめてって言ってるでしょ!」
 やめてと言われても、やめるわけにはいかない。――次の若菜の言葉を聞くまでは。

「おならしちゃうよ!」

 ピタリ。
 俺の手が止まる。
 その一言だけで、俺の手が止まった。
「………」
 少し考えてから、俺は彼女の尻からそっと手を放す。彼女が言った一言。それはこの状況下で、最も起こってはならないことだった。
「わ、分かったよ……、じゃ、じゃあなんとか、若菜一人の力で外に出てくれ。そうじゃないと俺も若菜も、家に帰れないよ」
「ん、うん、さっきからやってるんだけどぉ……」
 そう言いながら、彼女は体をくねらす。が、つかえた部分から、前にも後ろにも進まない。
「んしょ!んしょ!よいしょ!」
 外の方から聞こえる彼女の声によって、若菜もだいぶ力を込めていることが分かった。体全体に。もちろん、腹にも。
「んしょ!えいっ!んっ!よい――」
 そこで――彼女の声が止まる。同時に、体の動きも止まった。
「……どうしたんだ?」
 俺は尋ねる。心の内では、もうおおかたの予想は出来ていた。だがそれを、自分で認めたくなかった。
 外の若菜は、少し黙ったあと、幾分言いにくそうに俺の質問に答える。

「あ、あのさぁ、ほんとにおなら出ちゃいそう……なんだけど……、エヘ」

 ――俺は、頭を抱えるしかなかった。
「なんとか我慢してくれ。頼む」
 そう言うことしか出来ない。それ以外に、何も出来ない。天に祈るくらいだ。若菜の腸の活動が、もう少しの間だけ穏やかになりますように、と。
「ん、でも力入れてたら、なんかおならしちゃくなっちゃったんだよぉ〜。これ以上力入れると出ちゃいそうだし……、でも力入れないと外に出られないし、ずっとこのままでいたら我慢出来なくなってやっぱり出ちゃいそうだし……」
 つまり、俺に道はほとんど残されていないということらしい。
 覚悟を決めるしかない。
「な、なんとか外に出てからやるようにしてくれよ。外に出たら、いくらでも屁こいていいからさ」
「う〜ん、出来ればそうしたいけど……、ちょっと無理かも?」
 俺の中で焦りが徐々に大きく膨らみ始めた。
 それまでは、俺はこの秘密基地から脱出することだけを考えていればよかった。確かにこの中には若菜が始めに放った一発の悪臭が立ちこめていたが、それはあくまでも“一発”。まだ我慢できないほどのものではない。だから俺は、入り口につっかえた若菜を時間をかけてでもなんとか外に出させれば良かったのだ。
 しかし若菜の話を聞くに、そこまで単純な自体ではないらしい。俺の方に尻を向けて立ち往生している若菜。その彼女自身が“時限爆弾”となっているのだ。時間をかけてでも、などと言っている場合ではない。一刻も早く、俺はここから脱出しなければならない。
「……若菜、よく聞いてくれ」
 俺は考えた。そして、覚悟を決めた。
 ここは、一発勝負の賭けに出るしか、助かる道はない。
「なに?」
「頼みがある。最後に一回だけ、俺が内側から若菜の尻を押す。だからその瞬間に、若菜も全力で外に出られるように踏ん張ってみてくれ」
「え、え? お尻触られちゃうの? うーん、それにそんなに力一杯踏ん張ったら、たぶんおなら出ちゃうよ?」
「屁が出る前に外に抜けられたら、ギリギリセーフだろ。頼む、この作戦で行かせてくれ」
 それは本当に賭けだった。
 若菜が外に飛び出すのが早いか。若菜の放屁が早いか。
 しかし、もうどうやらそうするしかなさそうだった。何しろ、時間がないのだ。
「……成功するかわかんないけど、じゃあ、やってみる?」
「OK、やろう」
 俺は両手を、若菜の突き出た尻に当てる。こうして触ると小ぶりながら、弾力性がある尻だ。しかし小学生の俺はそんなことを感じなかったし、そう考える余裕もなかった。崖っぷちだったのだ。
「いくぞ」
「うんっ」
「……3、……2、……1ッ!」
 合図と同時に、俺は体重をかけるようにして若菜の体を秘密基地の外に押す。さらに若菜も体をねじるようにして外に出ようと踏ん張る。これで上手くいけば――

 ――しかし、人生と言うものはそう甘くないことを、俺はその年にして知る。

「ぐ、ぐ……ッ!!」
「んっ、んしょ……っ!」
 想像以上に、若菜の体は狭い入り口にピタリとはまっているらしく、ビクとも動かない。外に出られる気配は……ない。
 そして俺は、若菜の尻を押し出すことに気を取られていて、肝心なことに注意を払うのをすっかり忘れていた。
 気がつけば、俺の顔は、若菜の尻に頬ずりをするくらいの距離までに近づいていたのである。
「あ、んっ、もうだめぇ」
 秘密基地の外の方から、若菜のそんな声が聞こえたときには、もう手遅れだった。

ぶうううぅうぅぉおおぉおぉおおっっ!!!!!

 先ほどの、始めの一発など比ではない。
 若菜の本来の一発が、そのとき、放たれた。
 俺の目の前には、ショートパンツに包まれた、若菜の尻。
 そこから吹き出る温風を、俺はまず、肌で感じることとなった。
う、うぎゃあああぁあぁぁあああああッッ!!!!
 狭い秘密基地の中に、俺の裏返った悲鳴が反響する。
 と同時に、若菜の尻から漏れ出た大量のガスは、あっという間に秘密基地を覆うように広がった。
「……ん、エヘ、出ちゃった♪」
 秘密基地の外に上半身だけが出ている若菜には、中がどれほどの惨状か見えないからだろうか。いや、見えずとも、その悲惨さは想像できるはずだ。それでも彼女は、少し浮かれたような調子で「出ちゃった」と言った。それは放屁をしたことによる開放感によるものだったのだろうか。
ぐ、ぐぜええぇッッ!!!ぐっぜえええぇええッッ!!!!
 秘密基地の中で、俺は服が汚れて叱られることも忘れ、転げ回るようにして苦しんだ。それほどまでに臭かったのだ。とても信じられないかもしれないが、若菜のそれは、一人の男子小学生に理性を失わせるほど臭かったのだ。
 鼻がねじ曲がるような腐卵臭。そこに混ざった、幾程かの肉臭さ。
 その当時からクラスで一番可愛いなどと言われていた女の子、若菜の体内で生成されたとは信じたくもない、極悪のガスだった。
 俺はそれを毎日のように、冗談で嗅がされていた。しかし、全く慣れるということはなかった。むしろ嗅がされるたびに、臭いは強烈になっていくように感じていた。さらに言えばこのハプニングが起こった状況で我慢によって溜め込まれた若菜の屁は、それまでのどの臭いよりも臭かった。
「ん〜、ごめんね圭くん。我慢できなかったんだも〜ん」
あ、あぐぅうううッッ!!!ぐざぁぁぁああぁッッ!!!!
「外にも出られそうにないし……、どうしようね?」
 そうだ。早く。一刻も早くここを出なければ。
 俺はそれだけを考えて、ふらつきながら立ち上がる。
 賭けには負けた。それでも、何とか若菜を押しだし、このガス室から抜け出すことが必要だ。
 しかし、俺は忘れていた。――若菜の尻は、まだこちら側に向いているのだ。
わ、若菜……、は、早く…外に…出させて………
「でもつっかえちゃって、やっぱり出られないんだよ」
お、お願い…早く外に…お願い……
 俺はわずかな新鮮な空気を求めて、入り口の方に近づく。
 つまり、若菜の尻がある、その方向へ。
「んしょっ、……やっぱり抜けないよ………、ん、あ、また出る」
――え?

ぼぶふううぅぅううぅううっっ!!!!!

え、あ、あいぎゃああぁぁあああッッ!!!!!
 予想もしない、追撃。
 俺から若菜の尻までの距離は1メートル弱あったはずなのに、それでも俺の肌は確かに、吹きかけられる生暖かい風を感じた。
 ショートパンツに包まれたその奥にある、若菜の尻穴。それがどれほど膨らんで、この極悪臭をこれほどまで大量に吹き出したのだろうか……
「エヘ、ごめんっ!」
ぐざさいぃぃぃいいいぃぃいいいッッ!!!!
「でも〜、しょうがないじゃんっ。ずっと我慢してたんだもん。さっき圭くんが『思い切り踏ん張って』とか言うから、そのときにお尻の栓が外れちゃったんだよ〜」
 ここまでくると、若菜も開き直ってくる。生理現象が出てしまうものは仕方ない。そう言わんばかりに。それが、秘密基地内にいるまだ幼い俺への拷問であることもお構いなしに。
ぐ、ぐうぅう……、き、昨日何食ったら、こんな臭い……ッッ
「え?昨日? もう〜、圭くん忘れちゃったの?」
 苦しみながらの俺の言葉に、若菜は律儀にも答える。その答えが、俺への精神的な、大きなダメージとなることなど、幼い若菜には想像できなかったのだろう。
「昨日は私の家と圭くんの家の合同で、焼き肉パーティだったじゃん!」
やき…に……く…………
 そうだ。そうだった。
 俺と若菜の家は隣同士。そうやって、ともに食事をすることもよくあった。
 そしてその前日は不幸にも、高沢家主催の焼き肉パーティ。
 俺は思い出す。鉄板で焼かれる肉を、「圭くんにはあげないよ〜」などと言って俺の分までひょいひょいと食べてしまったことを。それも、ニンニクをたっぷりとつけて。「若菜ちゃんは子供なのにニンニクが好きなんて、大人の味が分かるのね」などと俺の親にもて囃されて良い気になり、若菜はこれでもかと言わんばかりにニンニクを口に放り込んでいた……

 つまり、今の若菜の腹に溜まったガスは――

「あのさ、もう一発出そうなんだけど、いい?」
 俺の頭に最悪なイメージが作り出された直後、追い打ちをかけるように若菜はそう言う。
 いい?と聞かれても、いい、と答えられるはずはない。
ぐ……、だ、だめ………
「ん〜、ダメって言われても、我慢できそうにないの。圭くんごめんね?」
 そして若菜が、俺のNGを受け入れるはずも……ないのだ。

ぷしゅうぅぅうーーーーぅぅぅううううぅっっ!!!!!

ほッ、ほがあぁぁぁぁぁあああぁッッ!!!!!
「いや〜ん、音無しおなら出ちゃったっ」
 ここに来て、強烈な、強烈なすかしっ屁。
 秘密基地の中の空気は、もはや最悪。どこにも退避場所などない。狭い空間のどこにいても、若菜のおならが濃く存在している。
ゲホッ!!がッ!!がはッ!!!そ、外に……ッッ!!!!
 外に出たい。何とかして。何としてでも。
 俺の熱意が伝わったのか、若菜はもぞもぞと動いて脱出を試みる。それでもなお、体は抜けないようだ。それもそのはずだ。さっき、俺があれだけ力一杯に押したのに、びくともしなかったのだから。
 と、そこに。
「あ、いいこと思いついた」
 混乱、困惑する俺に、若菜のその一言が届く。
「……い、いいこと………?」
「うんっ、圭くん、私、つっかえちゃってるのから抜け出す方法考えたよ!」
 それが出来れば、それさえ出来れば、俺は助かる。この悪臭地獄から抜け出すことができる。それが今俺がすべき、最優先事項だった。
「…な、……なんだ………?」
 だから俺は、藁にもすがる思いで、若菜の提案を聞いた。差し伸べられた救いの手を、受け取ろうとした。――だがその手は、女神の手ではなかったのだ。
「今ね、なんで私が抜けられないかって言うと、入り口が狭くておなかがひっかかっちゃってるんだよね。だからもう少しだけおなかを凹ませれば、きっと抜けると思うんだ!」
 ……自分の体が、凍り付くのが分かる。
 それは……つまり………

「だから〜、私が今からおなかに溜まってるおなら、思いっきり出すと、おなかもへっこんで抜けられるよ、エヘヘ♪」

 エヘヘ、といういつもの若菜の笑い声が、頭の中で反響するように何度も聞こえる。
 その言葉の意味をつかむのに、時間がかかる。
 そして意味が分かった瞬間、全身の力がへなへなと抜けていくのが分かった。
 俺が人生で初めて、“死”という言葉を身近に感じた瞬間だった。
わ、若菜、やめ――
「だいじょ〜ぶ!思いっきりやるから、すぐ終わるよっ」
い、いや、ちょ――
「ん〜、圭くんっ、いっくよ〜!」

ぶっぼっふぉおおおぉおぉおおおぉっっ!!!!!

 そのガス抜きは、その時までで俺が聞いた中で、間違いなく、最も巨大なものだった。
 俺の全身の体毛を逆撫でするような悪寒と共に、秘密基地の中の空気が、ガラリと姿を変える。より、凶悪な濃さが瞬間的に支配する。
ふぐううぅッッ!!!!ふぎゃあぁぁああぁあああッッ!!!!
 逃げることも、鼻をつまむことも、何もかも忘れた。
 小学生の小さな体。男子と言っても、まだまだ弱い。そんな俺の前に、自分を遙かに凌駕する怪物が姿を現したのである。
 臭い。臭い。臭すぎる。10年と少しの短い人生経験しか積んでいない俺には、思考する余裕すらない。ただ感じるまま、臭い、と考えることしかできなかった。
 小さな体なのは、若菜も同じはず。小学生の小さな体の中に、どのようにしてこれほど大量のガスが溜め込まれていたのか。それは、彼女の“異常体質”をもってしか説明できなかったであろう。
「んっ、もうちょっと出るかな〜」

ぶふすううぅうぅーーーぅぅううっっ!!!!!

は、ああああぁあぎぃぃいいいッッ!!!!
 人生における窮地を味わっている俺をよそに、若菜は放屁を続ける。すべては腹を凹ませてるために。それだけのために。
「臭いのかな? エヘ、外にいるかわかんないや」
ぐじゃいッ!!!ぐじゃいッッ!!!ぐじゃいよぉぉおッッ!!!!
「あ、やっぱり? ん〜、ごめん圭くん、もうちょっとで終わるから、我慢してね」
あぐぅうッ!!!もッ、もうちょっとッ、って!!!?
「あと10発ぐらいで出し切るかな?」
 若菜のその言葉は、これだけの特大っ屁をあと10発放つという宣言。
じゅ、じゅっぱ――
「えいっ」

ぼっふううぅぅぅーーぅぅうううっっ!!!!!

はぎぐぐぅぅぅううぅううッッ!!!!!
「んしょっ」

ぶすううぅぅぅうーーーーぅぅうううっっ!!!!

あっがあぁぁああ……ご……ぐええぇえ………
 しかし結局、俺はその「あと10発」をすべて見ることはなかった。
 その時点で、小学生としての精根は尽きていた。視界に徐々に黄色い霞がかかり、考える自由、行動する自由がじわじわと奪われていくのが分かる。
 その、それまで体験したことのない不思議な感覚に全身を包まれながら、俺はついに、気を失った。

 気がつくと俺は、秘密基地の外の草原で横になっていた。
「……ん……ん………?」
 目を開けると、そこには若菜の姿。
「あっ!圭くん!目が覚めたの?」
 すぐに彼女は寝ている俺の体を揺する。頭がガンガンと痛む……。
「あ、ああ、………そうか、秘密基地からは出られたのか…………」
「うん。……ていうかぁ」
 若菜は気まずそうに目をそらしながら、頭をポリポリと掻く。
「出られないって言ってたの、ウソなんだよね〜、エヘ」
「――は?」
 嘘?
 何が?
 出られなかったことが?
 俺は混乱する。そして若菜の口から、真相を聞くことになる。
「圭くんごめんっ!ちょっと悪戯のつもりだったの!外に出られないってことにして、狭いとこでおなら嗅がせて虐めちゃおうって思っただけなの!だから外に出ようと思えばいつでも出られたんだけど〜……。やり始めたらついつい楽しくなっちゃって……。まさかおならで気絶しちゃうなんて思わなかったんだもんっ!」
 ………そういうことだったのか。
 考えてみれば、当然だ。中に入れたのだから、外に出られないはずはない。始めからすべて、若菜の悪戯、演技だったというわけか。
「………しっかし、ほんと、屁で気絶とはな」
 もう、怒る気も起きない。俺はただただ呆れて、若菜の方に視線を送る。
「そんなに臭かった?」
「死ぬほど臭かった」
「やっぱり焼き肉パワーかな?」
「ああ……、若菜の本気、恐れ入ったぜ………」
 そういう俺を見て、怒っていないことを確認して安心したのか、若菜の顔に笑顔が戻る。
「エヘヘ、本気? まだまだあんなのじゃ本気じゃないよ〜」
「……本気じゃない?わ、若菜、お前、どんだけ力残してたんだよ………?」
「ん〜、内緒♪」
 そう言うと若菜は、おどけながら俺から離れ、走っていく。
「お、おい!ま、待て……ッ!!」
 俺も痛む頭を我慢し、ふらつきながら立ち上がって、若菜を追う。
 あれが本気じゃなかったら、若菜はどれほどのガスをコントロールすることが出来るのか。
 そんな怯えを、心のどこかに抱きながら。
 俺も若菜も、まだまだ、全く、幼かった。
 これが若菜の放屁によって、俺が気を失った、初めての出来事であった。

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