褐色肌の人間として、既存のプリンセスを褐色肌の俳優を起用してリメイクすることは今を生きてる子供たちにとって本当に本当に本当に重要なことだと思う。だから褐色肌じゃない人が「原作に忠実じゃない」とか「それなら新しいものを作ればいい」といってるのを見ると悲しいです。シンプルに悲しい。
上記の「な@Nappanonajanai8」氏による意見を「ぐお@guo241018」氏が引用し、下記のように不思議がっていた。
ごめんね。
僕は『自分の物語』を作る能力が無い人達なのかな?って思ってしまうわ。
日本人って本当に漫画が大好きで、子供の頃から自分で漫画を描いてみたり小説を書いてみたりする人が珍しくない。
だからどうして『自分の物語』を作ろうとしないのか、本気で不思議なんです。意地悪じゃなくて。
よく読めば「ぐお@guo241018」氏自身が「日本人」という枠組みを前提視して、人種ごとの優越感や劣等感がありうることを言外に認めている。
しかしそうなると日本の代表的な映画監督である黒澤明の代表作に外国の翻案が少なくない事実はどうなるのだろうか。
たとえば『蜘蛛巣城』はシェイクスピアの『マクベス』であり、『用心棒』はハメットの『血の収穫』。『どん底』はゴーゴリの同名作品だ。
他にも外国の作品から影響を受けた映画を多数つくり、それでもオリジナリティが否定されることなく、世界の映画史に残るような傑作となっている。
黒澤明でなくても、外国の作品を日本を舞台に変更する翻案は現代でもおこなわれていて、さして珍しい話ではない。
漫画にしても、日本における始祖のひとり手塚治虫がさまざまな翻案から出発したことを忘れてはなるまい。藤子・F・不二雄や石ノ森章太郎の代表作にも外国のSFの引用が多数ある。
おうおうにして日本の作品は国内の多数派たる日本人を想定しているため、エンパワメントのための人種変更は少ない。国内では社会的な強者であり多数派であるため、日本人という属性を主人公にした作品があふれている。
それでもジャンルをもりあげようとする時期は原理的に作品が少ないため、当然のように外国の作品を参照してとりいれることも多くなる、といったところだろうか。
ディズニーが近年の実写リメイクにおいて黒人を主演に起用することが発端の話題ではあるが、そもそもリメイク元のディズニーアニメの時点で翻案されていることが多い。
ディズニーの映画『リトル・マーメイド』については、内容を大きく改変するなら原作とは題名を変えても良かった、とは思わなくもないよ - 法華狼の日記
アンデルセンが書いた原作は『人魚姫』という邦題で知られているが、英題は『The Little Mermaid』。ディズニーのアニメ映画も同じ『The Little Mermaid』が原題。
つまりアニメ映画が原作童話から内容を改変していることが題名で示されていると感じられるのは、実際は題名を翻訳した時の違いにすぎない。
『リトル・マーメイド』はデンマークの怜悧な悲劇からカリブ海の華やかな歌劇に変更され、『アラジン』は中国を舞台とした物語なのにアラビアンな舞台へと変えられた。
なじみがある舞台に変更したり、現代のイメージにそって原作の要素を削ることは良くも悪くも珍しいことではない。おそらく近年における日本の翻案はそのような事例が多いだろう。