「社長、おはようございます!」
「おはようございます!」
出社中の社員に頭を下げられ、僕は表情を変えずに片手を上げてそれに応える。
威厳ある表情を胸の内で意識しながら、大理石のエントランスを歩く。『カシワ』本社ビル、様々な国から集まったエリート達が働いている、世界一のオフィスだ。
僕の名前は柏 清貴(かしわ きよたか)。『カシワ・コーポレーション』の三代目代表取締役社長である。
初代社長の祖母、柏 清恵(かしわ きよえ)が興した会社は、彼女の圧倒的なカリスマ性と天賦の経営才能をもって急成長し、国際社会からも認められる存在となった。今や、時価総額1兆ドルは文句なしの世界ナンバーワン。日本中、いや世界中を探しても、『カシワ』、『KASHIWA』の名を知らない者はいないだろう。
祖母は経営の第一線を退いた後、CEO職を息子の清一(せいいち)——僕の父に引き継いだ。
その後も会長職に就き、絶大な権力で会社を動かしていた祖母だったが、4年前、生涯連れ添ったパートナーである昌司(しょうじ)(僕の祖父にあたる)が逝去してからは、会社の経営を完全に息子に任せて隠居生活を送るようになった。その頃から祖母は、「もうあまり長生きする意味もなくなったわね」などと珍しく弱気なことを口にするようになったそうだ。そして昌司が亡くなってから半年後、彼女は最愛の夫の後を追うようにして、鬼籍へ入ったのだった。
そこから、本格的な二代目・清一社長の時代が始まる——はずだった。
しかし、今から2年前、『カシワ』にとって極めて深刻な事件が起きる。社長の清一とその妻が乗った自家用機が原因不明の事故で墜落し、二人を含む全乗組員が命を落としたのである。
両親の急逝。衝撃的な報を受け、当時、アメリカのグループ企業で幹部候補として経営の武者修行を積んでいた僕が日本に舞い戻ると、そこで待っていたのは、あまりにも急な「三代目社長就任」の命であった。
祖母、清恵の生前の絶対命令により、父、清一の後継となる三代目の社長には柏の血縁者を就かせるよう指示されていた。祖父母も両親も、あまり多くの子宝には恵まれていなかった。僕は、「柏 清恵」の血を引く唯一の孫。祖母の絶対命令は事実上、僕を三代目社長に指名したものだった。
数年で柏家の不幸が相次いだ中での、あまりにも急な、若くしての社長就任。
この時点でまだ三十代、創業家の一人息子であり、幼い頃から会社の経営を担わせるための英才教育を受けてきているとは言え、そんな人間に世界ナンバーワン企業である『カシワ』の社長が務まるのだろうか。
周囲から僕へ向けられた視線は、「不安」の二文字そのものだった。
しかし、あらゆる事象に先見の明を持っていた祖母は、ひょっとするとこのような不測の事態が起こりうることを想定していたのかもしれない。社長に就任することが決まった際に、日本で僕のことを待っていたのは、これも祖母が生前、会長だった頃の指名していた、僕への「専属社長秘書」の女性だった。
彼女は20代半ばという僕よりもさらに若い年齢でありながら、流石、清恵会長直々に指名された存在と言うべきか、他と比べても群を抜いて頭が良く、能力の高い、才気に溢れた秘書であった。
正直なところ、僕一人が突然、社長職を任されていたら、どうなっていたか分からない。彼女の全面的なサポートを受けながらスタートしたことで、三代目社長としての僕の職務は、不安視する周囲の意見をよそに、殊の外順調な船出となったのだった。
さて、この専属秘書の彼女、先述したように、能力が高く才能もある、圧倒的に「仕事のデキる」女性——なのだが、ひとつだけ、奇特なところがあり——
社員達から挨拶されながら本社ビルの1階を横切り、僕は奥まった場所にある、最上階にある「社長室」フロア直通のエレベータへ乗り込む。
そして、朝、車中から僕と行動を共にし、僕の後ろを規則正しいヒールの足音と共についてきて、一緒にエレベータに乗り込んだ彼女が、僕の秘書。名は、安堂 嗣実(あんどう つぐみ)さんという。
彼女が制御パネルに指をかざすと、指紋認証が行われ、エレベータの扉が閉まる。社長室フロア直通エレベータはセキュリティ上、社長である僕本人か、社長秘書である彼女の指紋がなければ動かない。
エレベータの機内で二人きりになったところで、彼女はタブレット端末を取り出し、僕の方を向いて立つ。
「本日のスケジュールのインプットを始めます。よろしいでしょうか、社長」
抑揚のない機械的な喋り方。毎日安定して均質な彼女の声。
「うん、よろしく、嗣実さん」
僕がそう答えると、彼女は一度まばたきをしてから、今日の予定を淡々と読み上げ始めた。
スーツスタイルに黒髪のストレートヘア、一歩引いた秘書としての立場を示すように主張しすぎないナチュラルな化粧、そして凜として整った顔立ち。その顔のパーツを全く動かさず、無表情のまま淡々と秘書としての職務をこなす彼女。
僕はそんな彼女のことを、基本的に下の名前で「嗣実さん」と呼ぶようにしていた。もちろん場面によっては名字で「安堂君」と呼ぶこともあるが、特に二人の場面ではそうしている。アメリカで働いていた頃は、仕事上でも親しい間柄ならばファーストネームで呼ぶのが普通だったため、それに慣れているというのもある。それに、彼女と出会ったばかりの頃は、全く笑わない彼女との間にどうしても心の壁を感じることが多く、少しでもそれを取り除けたら、と思ったのだ。
秘書としてはほとんど完璧とも言える資質を持つ彼女に足りないものがひとつあるとすれば、それは「愛想の良さ」ということになるだろうか。しかし、僕は今やそれを特に問題とも考えなくなっていた。仕事を共にするうちに彼女の性格が理解できてきた。彼女がビジネス・スマイル以外で笑ったところは一度も見たことがないが、それは彼女が不機嫌なわけではない、これも彼女の大切な個性のひとつだと分かったのだ。
そんな彼女は、今日も変わらず無表情で、デイリースケジュールを読み上げる。
社長室フロア直通のエレベータは、最上階の54階まで途中のフロアで止まることはないが、ノンストップというわけではない。途中で三度減速し、そのたびに異なるパスコードを制御パネルで入力して上昇を再開させる必要がある。これも不審者の侵入を防ぐセキュリティ措置。そのため1階から54階までは5分弱の時間をかけてゆっくりと上がっていく。せっかちな性格ではない僕は、この時間もそれほど苦には思わない。とは言え、時には分刻みのスケジュールに追われる社長としては、この時間も無駄にはできない。エレベータに乗っている間、秘書の嗣実さんからスケジュールのインプットを受けるのは、毎日の日課だ。
しかしこの時間——普段は苦にも感じないこの朝の5分間は、時折、ガラリと表情を変えることがある。
「12時から30分の昼食休憩の後、12時45分よりS社経営陣との会合にてアライアンス証書に調印、その後——」
——そして今日の「それ」も、ほとんど何の前触れもなく、彼女がほんの一瞬だけ言葉を区切ったかと思ったその次の瞬間に轟いた。
ぶぶっふうううぅうぅううーーーーーぅううううっっ!!!!
空耳や機械の動作音、靴が床に擦れる音……、そんなものとは間違えようのない大きな音がエレベータの中に響いて数秒と間をおかずに、僕の鼻へと襲いかかってきたのは——思わず嗚咽が溢れるほどに濃厚な茹で卵臭だった。
「うッッ!!?う、うぇええぇえ……ッッ!!!!」
社長室フロア直通エレベータに乗っているのは僕と彼女の二人だけ。この激臭の主は、疑う余地もない。
これは今日に始まったことではない……。そう、冷徹で無感情ながらあらゆる職務を完璧にこなす優秀な秘書の彼女が持つ、唯一の奇特な点——それは、異常なくらいに臭いおならを異常なくらいの頻度で放つ、『異常放屁体質』の持ち主であるということだった。
「——14時から本社2階に場所を移して共同記者会見を——」
「げほッ!! ちょ、ちょっと待って、一旦ストップ……」
この充満する卵臭がごく当たり前のものであるかのようにスルーして、本当に何事もなかったかのようにスケジュールの読み上げを再開しようとする彼女のことを、僕は一度制止する。今それを聞いても、ほとんど頭に入ってこない。
彼女が秘書についたばかりの頃、僕と二人きりになった時にごく当然のように放つおならには当然、驚かされた。その臭いや量も去ることながら、彼女が「放屁」という行為に、一切の羞恥や躊躇を見せないことにも。
しかしながら、彼女が「常識」というものを抱いていないわけではなかった。不特定多数の人間が周囲にいる環境では、彼女がそのような行為をすることは一度もない。だが、僕と彼女の二人だけしかいない場になると、彼女は全く躊躇わずに、大きく下品な音を轟かせて放屁をした。そればかりか、そのガスが常軌を逸したレベルで臭すぎることを利用して、僕の嗅覚を「責める」手段に使いすらするのである。
彼女と仕事をしてもう2年になる。もう彼女の「放屁」という行為にはいくらか慣れたが、その臭いにはけして慣れることなどできていないし、何故彼女が、一般には他人の前では憚られるはずの行為を僕の前ではこれほど堂々とやってのけるのか、その理由も分からない。何しろ彼女は、ほとんど感情を表に出さず、掴み所がないのだ。
しかし、いくらその行為に慣れてしまったとは言え……、かなり正直に言って、エレベータというこの狭い密室での一発は、かなり堪える。
「ぅぐ……、え、エレベータで突然するのはやめてってあれほど……」
僕からの「一旦ストップ」という指示を受けて、じっと黙ったまま無表情でこちらを見つめている彼女に、僕は咽ながらつい恨み言を言う。が、大抵の場合、それは全くの逆効果になる。
「失礼しました。今後はきちんと予告してから出すようにします」
「い、いや、そうじゃなくて密室でこの臭いはホントにキツいから——」
「それでは早速ですが、3発ほど失礼します」
「えッ!!?」
僕の言葉を当然のように遮って、滑らかな口調で言った彼女の言葉を聞き返す間も無く、エレベータ内に、
ぶずぶりいいぃいいいぃいいッッ!!!!
ばふぉッぼふぅううぅうーーーーーーーーーぅうううううぅうッッ!!!!
ぶぷ…ッすうううぅうぅううぅーーーぅうーーーぅううう………っっ!!!!!
という派手な音が大音量で響き渡る。
最初の一発よりもさらに下品な湿った爆音、大量の空気が一気に抜けるような遠慮など欠片もない重低音、そしてトドメに、初めの破裂音の後は衣摺れのような音が長く長く続くすかしっ屁……。その3発を、彼女は顔色を少しも変えず、眉ひとつ動かすことなく平然と放つ。もしも音をミュートにしてこのエレベータの中の光景を見たならば、彼女がこれほどのおならを3連発したなど誰も想像できまい。
だが、この空間に居合わせれば、彼女の3連発が紛れもない現実であることを、身をもって体感しなければならない。このエレベータの中に充満する硫黄の塊を煮詰めたような腐卵臭は、普通の人間が許容できる範囲を遥かに超えていた。
「ぅうえぇえ……ッッ!!!ゲホッゴホッッ!!!!
ぐ、ぐざ、い、ぎ……ッッ、ぅぐぐうぅ……ッッ!!!!ごぶふッ!!!!」
僕は本能的にエレベータ内の隅まで後ずさりし、鼻を両手で覆って呻く。だがこの狭い密室であるエレベータの中は、もう隅々にまで悲劇的な悪臭で汚染されており、さらに驚くべきことに、手で鼻を覆うくらいでは全く防ぎきれないくらいに臭い。
顔を青くし、涙目になりながら咽ぶ僕を、彼女はいつもの冷たい視線で無言のまま見つめている。
そこで、体が浮き上がるようなエレベータの減速を感じた。途中のセキュリティポイントに達したのだ。制御パネルにパスコードを打ち込めば再び加速して上昇するが、そうしなければエレベータは途中で止まってしまう。
「ぅ、うぐッッ、つ、嗣実さん、ぱ、パスコードを……ッッ」
喋れば息を吸うことになり、臭いが襲ってくる。僕が額に汗を浮かべながら必死に声を出すと、彼女は、
「…………」
と何も答えぬまま後ろを向いて、パネルに指を伸ばす。コードを入力するスピードが、心なしかゆっくりなように感じるのは僕の気持ちが急いているというだけではないはずだ。
彼女がパスコードを打ち終えたところで、ほとんど停止しそうなくらいまで減速していたエレベータは再び上昇を始める。が、階数表示は、まだ20階。最上階に到着して扉が開くまではあと3分以上かかる。たった3分と言えど、この最悪のガス室と化した密室に閉じ込められた身にとっては永遠のように長い時間だ。
「ぅぐうぅ…ッ、ゲホゴホッ、ぅ、ぉえ…ッぷ……、ゲホッッ!!」
少し時間が経っても全く鼻が慣れることもなく、むしろ閉め切られた空間で一向に臭いが薄まらない絶望感で精神的なダメージが蓄積していく。息を荒らげる僕だったが、そんな僕に、再び振り向いた彼女の睨みつけるような視線が突き刺さる。
「……社長、そろそろ本日のスケジュールのインプットに戻ってよろしいでしょうか。臭いのは分かりましたが、いつまでも咽せているようでは困ります。エレベータでの移動も貴重な時間ですので」
「ひ……ッ」
表情にも声色にも怒りは見えない。が、彼女が纏うオーラに、明らかな苛立ちを感じる。
この悪臭の中での僕の反応が過剰かと言えば、そうではない。彼女のおならは、ただのおならではないのだ。普通の人間をここに連れてきたら、100%間違いなく僕と同じように苦しむだろう。この中で顔色を変えずに平然としていられるのは、このガスを放った彼女本人だけ。以前に、目に滲みるほど濃い一発で社長室全体を地獄に変えた際に「嗣実さんは臭くないの……?」と尋ねた時には、彼女は「臭いですが、何か?」と涼しく答えた。自分のおならへの耐性を含めて、彼女の体質は“異常”なのだ。僕の反応がおかしいわけではない。
しかし、彼女の視線に睨まれた僕は、そんな理不尽さを感じつつも、
「う、す、すみません………」
と小さくなるしかなかった。
社長と秘書。
社員の前では飽くまで社長としての威厳を見せ、それに付き従う秘書、というふうに装っているが、二人きりになるとその力関係は逆転する。祖母に指名された彼女の役割は、社長秘書に兼ねて、「社長教育係」でもあった。そして僕より年下ながら、彼女は、あらゆる面でその役割に適任だと言う他なかった。
まだ顔を青ざめさせながらも嗚咽を押し殺す僕をぴったり1秒間見つめてから、彼女はタブレット端末に視線を落として、
「14時から本社2階に場所を移して共同記者会見を行い、終了後、個別の記者対応に応じます。その後——」
と、スケジュールの読み上げを再開する。
それを聞きながらも、僕の意識は、やはりどうしても充満する腐卵臭に傾いていた。1階と社長室フロアを結ぶこのエレベータは、朝の出社時と夜の退社時にしか使われない。この大量の卵を腐らせ焦がしたような臭いは、間違いなく、帰りにこのエレベータに乗る時も色濃く残っているだろう。そしておそらく、明日の朝に乗る時にもまだ……
それを考えると、僕は彼女の前でますます肩身が狭くなる。今日の彼女の機嫌を損ねたら、待っているのはこの卵っ屁だ。そのことを、朝の出社時から身に染みて理解させられているのである。
専属社長秘書の、安堂 嗣実さん。
掴み所のない神秘的なクールさに包まれた彼女について、とりわけ、彼女の過去や職務外のプライベートな面について、僕が知るところは少ない。
祖母が認め指名した才色兼備の完璧な秘書であること。
その祖母を彼女は「清恵様」と呼び、亡き今も深く敬愛していること。
そして、彼女のおならが、凄まじく臭いということだけである……