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作:生まれてきてくれてありがとう
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第5話 : 暖色の宴


 

 ──この店、やっぱり最高だわ。

 

 扉を開けた瞬間、ふわりと鼻をくすぐる香りが全身を包んだ。焦がしバターにローズマリー、黒胡椒にとろけたチーズ、そして──煮込み肉の、ほの甘くて滋味深い湯気。

 

 耳に届くのは、賑やかだけどうるさくない人のざわめきと、酒器が触れ合う乾いた音。椅子の軋みすら、なぜだか心地いい。ランプの灯りは柔らかく、店内をほんのり金色に染めていた。

 

 ここは、あたしが一番好きな場所。

 

 酒場──『豊穣の女主人』。

 

「いらっしゃいませ〜っ!」

 

 明るく響いた店員の声に、気が抜けて、自然と笑みがこぼれる。

 

 この空気が好き。この温度が好き。この空間が──好き。

 

 たとえ外の世界がどれだけ殺伐としていても。ダンジョンの奥底で血と死と向き合った帰り道でも。

 

 ここだけは、変わらず、あたたかい。

 生きてるって、感じさせてくれるから。

 

 若葉色の制服を揃えた給仕の子たちが、笑顔で出迎えてくれる。

 

 その制服──白の前掛け、胸元にリボン、裾はふわりと広がるスカート。清楚で可愛いのに、どこかしら実用的なデザイン。……メイド服っぽいけど、露出少なめなのがまた絶妙にポイント高い。

 

 しかも──朝に見た子も、夜に見た子も、同じ顔。同じ制服。つまりこれ、交代制じゃなくて、ほとんど住み込みのローテ勤務ってことよね。

 

 ……待遇、よっぽど良いのね、この店。

 

「さ、こっち、こっち! 奥の席、空いてるから!」

 

 元気な店員さんの背中に誘われて、私たち四人は壁際のテーブル席に腰を下ろす。

 

「とりあえず、生!」

「俺もだ!」

「おい、スコット、お前は──」

「生ッ! 五杯いっとくわ!! 今日は祝杯でしょ、祝杯!」

 

 高らかに宣言して、勢いよく手を挙げるあたし。

 その声に振り返った隣の客が笑った。

 あら、なかなかのイケメン……って思ったけど、今はいいや。

 

 まずは、乾杯と肉と──うまい酒よ! 

 

 すぐさま、湯気を立てて届くごちそうたち。

 動きに無駄がないわね、ほんと。厨房とフロアの連携が完璧すぎて、思わず感嘆の息が漏れるわ。

 

 並んだ皿は、目でも舌でも味わえる芸術品。

 季節野菜の彩りサラダに、皮目パリッパリの焼き鳥、煮込んでとろとろの牛スジスープ。

 川魚の香草焼きに、山羊のチーズをたっぷり使ったふわふわオムレツまで──

 ……ああ、もう、この店、完璧じゃない? 

 

「ふわぁ……胃が幸せ……」

 

 自然と出た言葉に、モルドが呆れたような声でツッコむ。

 

「お前は胃じゃなくて脳ミソまで酔ってんだろ……」

 

 でも、その顔はゆるゆるだった。

 そりゃそうよね、あれだけ死にかけた後なんだもの。そりゃもう、今くらいは緩んでなきゃやってられないわ。

 

 ──で、問題は。

 

 あたしの斜め向かい、黙って座る彼、ユーのこと。

 

 言葉ひとつなく、表情も変えず、ただ……静かに、テーブルの上を見つめてた。

 まるで、料理の彩りを確かめるかのように、じっと。無言のまま。

 

 ……違う。たぶん、見てるんじゃない。思い出そうとしてるんだ。

 

 記憶のカケラを、香りの中に探すみたいに。

 

 ふと、その手が動いた。

 ゆっくりと、躊躇うようにスプーンを取る。

 そして、目の前のスープ──湯気の立つそれを、一口だけ、そっと口に運んだ。

 

 ほんの、ひと匙。

 

 次の瞬間──彼の瞳が、かすかに揺れた。

 

 小さく。けれど確かに。

 水面に石を落としたような、ほとんど見逃しそうな小波が、瞳の奥をかすめて──

 

 ……あたしは、その瞬間を、絶対に見逃さなかった。

 

 眉が、ほんの少しだけ下がって。

 強張っていた口元が、雪解けのようにほんの少しだけ柔らかくなって。

 

「……美味しい?」

 

 小さな声だった。

 でも、それは確かに、彼に届いた。

 

 ユーは視線を伏せると、わずかに間を置いて──こくり、と頷く。

 

 たったそれだけのことなのに。

 胸がじんわり、あったかくなった。

 

 ああ、よかった。

 この人もちゃんと、美味しいって思うんだ。生きてるんだって、実感してくれたんだ、って。

 

 思わず、あたしは笑ってしまった。

 

「ほらほら、遠慮しないでどんどん食べなさい! うちのモルドが今日は奢ってくれるって!」

「はあ!? ちょっ、どの口がそんなこと言ってんだよ!!」

「この口に決まってるじゃないのぉッ!」

 

 返す声も聞かずに、モルドの木杯を一方的にカチンとぶつけてやる。

 そのまま上機嫌で、カウンター中に響くような声を張り上げた。

 

「乾杯ぃッ!! 命あっての宴よ! 明日は明日の風が吹くってもんでしょーが!!」

 

 木杯が揺れる。笑い声が飛び交う。

 厨房の奥からは鍋を振る音と、あの貫禄ある女亭主の張りのある声。

 客たちは、冒険者も市民も神様も入り混じりながら、皆等しくこの豊穣のひとときを味わって。

 

 夜更けの喧騒に包まれながら、心地よく、穏やかに、あたしたちの夜を照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 騒がしい。賑やかで、そして活気ある。

 

 ──この空間だけが、違っていた。

 

 けれど、それは不思議と不快ではなく。

 

 椅子が軋む音も、食器と食器がぶつかる高い音も、誰かの笑い声も。

 ここではすべてが、雑音ではなく調和だった。

 

 鼻をくすぐるのは、香草と肉の香り。

 揚げ油が跳ねる音すら、どこか子守唄めいて耳に心地いい。

 この空間だけが、まるで別の層に存在しているかのように、柔らかい。

 

 ──街の外は、違った。

 

 人々の顔は硬く、視線は常に俯き加減。

 足取りは速く、まるで誰かに追われているように、誰からも逃げるように歩いていた。

 そこには、笑いも、温もりもなかった。

 

 けれどこの店には、それがあった。

 

 父親が子どもにパンを分け、

 恋人たちがグラスを合わせて微笑み合い、

 年老いた男が、焼きたてのパンをちぎりながら、穏やかに目を細めている。

 

 ──まるで、世界から切り取られたひととき。

 

 ここだけが、まるで切り取られた違う世界のように。

 この空間だけが、安全という名の魔法に包まれているように。

 

 あたたかい。

 

 その言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。

 何の脈絡もなく、何の裏打ちもなく。ただ、自然と。

 

「…………」

 

 目を上げる。視線の先、カウンターの奥。

 

 ぐつぐつと煮立つ鍋を前に、手際よく食材を放り込む一人の女がいた。

 大柄で、骨太な腕。まるで山のような貫禄をまといながらも、そこには不思議と刺々しさがなかった。

 凛とした眼差し。

 額と目尻に刻まれた皺が、戦いではなく、無数の人生を見届けてきた証のように感じられる。

 

 ──母、という言葉が、一瞬脳裏をかすめた。

 

 ……理由はわからない。けれど、そんな気がした。

 

 その時だった。

 

 女将がふと、こちらを見た。

 無言のまま、鍋の柄を握る手を止めることもなく。

 

 そして──目が合った、気がした。

 

 時間にすれば、ほんの刹那。

 けれどその一瞬の中に、言葉以上のものがあった。

 

 彼女は、頷いた。

 見透かすような視線で、干渉するでも、問いただすでもなく。

 ただ受け入れる者の目で、静かに、柔らかく、確かに──頷いた。

 

 その仕草に、意味を探すことはできなかった。

 

 だが、胸の奥のどこかが、少しだけ温かくなるのを感じていた。

 

「うお、あの子めちゃくちゃスタイルいいな……!」

 

 隣から響いたのは、酒と欲にまみれた野太い声。

 横目で見れば、モルドが顔を真っ赤にしながら、通路を行き来する給仕の少女たちに視線を滑らせていた。

 そして、あのどうしようもない口元が、じわりと歪む。

 

「へへ……あのスカートのひらひら感……眼福眼福……っと」

 

 ──その瞬間だった。

 

「変態撲滅ッ!!」

 

 スコットの怒号が酒場中に轟いた。

 

 鋭く振り抜かれた手元の木杯が、容赦なくモルドの後頭部に叩きつけられる。

 

「──ごはぁッ!? って、ちょ、やめっ、物理はやめろ物理はぁ!! 見てただけ! 見るのはセーフだろ!?」

「黙りなさい、視線がもう凶器なのよこの発情ゴリラ!! 次は椅子でいくわよ、椅子でッ!!」

「お、おう……すんません……」

 

 完全に震え上がったモルドが、魂の抜けたような顔でうなだれ、隣のガイルは「やれやれ」と肩をすくめる。

 スコットはというと、まだぷりぷりと怒りながらも──どこか楽しそうだった。

 

 ……その光景が、不思議と、心地よく感じられた。

 

 殺気も死臭もなく、誰もが生きていて、食べて、笑って、怒っている。

 

 人が──人として、当たり前に生きている空間。

 

 くだらなくて、賑やかで、喧しくて。

 けれどそのすべてが、確かに人間らしい。

 

 ……ああ。

 私は、こういう場所を──知らなかったのかもしれない。

 

 ふと、視線を落とす。

 目の前の皿の上には、まだ湯気の立つ赤みが残る肉。

 ナイフを入れると、抵抗もなくすっと切れて、

 その断面からじんわりと肉汁が滲み出す。

 

 ひと切れ。

 口に運ぶ──

 

 ──うまい。

 

 とろけるように柔らかく、香辛料はほどよく舌を刺激しながらも、どこか、やさしい。

 この味──知っている気がした。

 懐かしい。

 遠い、ずっと遠い記憶のなかにあったような……

 

 けれど。

 

 脳裏に広がるのは、霧のようなノイズばかり。

 そこに確かに何かがあるのに、どうしても指先が届かない。

 

「…………」

 

 けれど、それでも。

 

 この味は──

 きっと私にとって、大切なものだったのだろう。

 

 わからなくても、そう思えた。

 

 だから、私はもうひと口。

 そっと、静かに口へと運ぶ。

 

 ──この“あたたかさ”だけは、どうか、忘れたくなかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜のオラリオは、昼の喧騒が嘘みたいに静かで──けれど、どこか妙に浮ついている。

 

 魔石灯が淡く街路を染め上げ、人々は一日の疲れと酒精に身を任せながら、薄く笑って、ゆるやかに流れていく。

 

 そんな中、俺はひとり、石畳の道を踏みしめていた。

 

 足音が、四つ。俺と──ガイル、スコット、そして、例のあいつ。

 

 赤いマントを揺らして歩く、寡黙な剣士。

 

 名前はユー。

 

 もちろん、本人が名乗ったわけじゃねえ。俺たちが勝手に呼び始めた、仮の名だ。けどもう、それが妙に馴染んじまってるのが、なんか悔しい。

 

 ……変な奴だよ、ほんと。

 

 最初は──ただの偶然だと思ってた。

 

 助けられた、だから一応の礼は言った。けどそれだけ。得体の知れねぇ、記憶喪失の謎の剣士? ハッ、そんなの、信用しろって方が無理だろ。

 

 何考えてるか分かんねぇし、口も重すぎて会話にならねぇ。

 表情はいつも無で、喜怒哀楽がまるで感じられねぇ。まるで──人形みてぇなやつだ。

 

 けどな。

 

 ひとつだけ、確かにわかることがある。

 

 あいつの剣は──間違いなく、本物だった。

 

 迷宮で見たあの姿。迷いも、怒りも、歓喜すらもない。ただ静かに、機械のように斬り伏せていく。

 殺すって行為を、当たり前のようにこなす剣筋。音もなく、感情もなく、ただ結果だけを残して。

 

 俺は、あんな戦い方……見たことねぇ。

 いや──見たくなかった。できることなら、知らずに済ませたかった。

 

 だけど、もう目の当たりにしちまった。

 剣に生きて、剣にしか居場所がねぇような、そんな奴の戦いを。

 

 ……なのに、今、俺の隣を歩いてるそいつは。

 

 まるで、風に溶ける霧みたいに、儚げで。

 

 赤いマントが、夜風になびいて揺れてる。灯の下でもその顔は淡々としてて──

 

 ここにいるのが間違い、みたいな顔してやがる。

 

 ……気に食わねぇ。

 どうしようもなく、気に食わねぇ。

 けど、嫌いじゃねぇ。

 

 だからこそ、こうして、連れて帰ってる。

 

 こいつが、行く宛も帰る場所もないなら──

 せめて一晩くらい、俺たちの日常に染めてやってもいいだろ。

 

「……ここだ。俺たちの拠点、【オグマ・ファミリア】のホームだ」

 

 オラリオ南西──第六区画。

 喧騒の中心地からは少し離れた、坂の上にぽつんと建つ二階建ての木造家屋。

 どこか懐かしい匂いのする、古びた一軒家だ。

 

 外壁は少し黒ずみ、屋根の瓦には所々コケが張りついている。夜風に吹かれれば、軋む階段がぎぃ、と低く鳴き、薄い木の壁はまるで会話でもしてるかのようにミシリと返す。風情があるなんて言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけボロい。

 

 けど、それでも──俺たちにとっては、帰るべき場所だった。

 

 小さな庭を通り抜け、半ば癖になった動作で玄関の扉を押し開けると、

 

「おっ、変なの連れて帰ってきたな〜!」

 

 ──顔面、獅子。

 開口一番、それだった。

 

 麻布のラフな服に、紫のローブを無造作に引っかけたその男……いや、『神』は、玄関土間から数歩奥の居間に腰を下ろし、まるで旅人でも迎えるような気楽さで手をひらひらと振っていた。

 

 仮面は、金と黒を基調とした、威厳と狂気の狭間を行くような獅子の面。顔の一切が見えねぇくせに、なぜか目が合ってる気がする。ぞっとするのに、今はもう慣れた。

 

 それが、俺たちの主神──オグマだ。

 

 中身の顔は誰も知らねぇ。けど、声の調子ひとつで“笑ってる”とか“機嫌が悪い”とかが分かっちまうあたり、付き合いの長さを実感する。

 

「おい神様、もうちょっとこう……まともな迎え方はできねぇのか?」

 

 呆れ混じりに問いかける俺に、オグマは茶をすするような仕草のあと、軽やかに肩をすくめた。

 

「いやいや、だって見てみろよ、そこの子。なぁ?」

 

 仮面越しでも、にやりと口角が吊り上がっているのがわかる。

 そしてその視線の先にいたのは──ユー。

 

「名も知らぬ剣士、か……ふふ、いいじゃないか。まるで物語の書き出しみたいだ。かつて名を持ち、今は忘れた男……ああ、詩が書けそう」

「趣味で語るな。ってか、なんでコイツのこと知ってんだ?」

「ん? え、お前ら知らなかったの? 今日の夕方からギルドの中庭、ざわっざわよ。上層のどっかで怪物の軍団をたった一人、薙ぎ払った謎の剣士ってな。まーた()()()()()()が現れたって騒ぎになってるぞ?」

「……マジで?」

 

 思わず天を仰ぐ。

 ユー本人は、ただぽつんと立ってただけなんだがな……。

 

「もちろん、お前らの稼ぎもな。三人で行って四人分、いやそれ以上の魔石抱えて帰ってきたってなりゃ、そりゃ目立つに決まってる」

「チッ、まだ半日も経ってねぇぞ……情報の回り早すぎだろ」

「それがオラリオさ。力も金も、噂も、人の心も……すべてが、走る」

 

 飄々と、詩人みたいな口調で言いやがる。

 だがまぁ、こいつが神様ってことを、思い出させてくれる瞬間でもあるのは間違いない。

 

 と、その時。

 

「ところで、その子。泊まるとこはあるのか?」

 

 オグマのその問いに、俺たち三人が顔を見合わせ──そして、ぴたりとユーに視線を向けた。

 

 すると、ユーは少しだけ瞬きをして、首を横に振る。

 

「ない」

 

 即答だった。

 

 けど……それを聞いて、オグマは何も問わなかった。

 ただ仮面の奥で、ふっと──微笑んだような気がした。

 

「ほんじゃ、そこのお客人は──今夜うちに泊まるってことで、いいんだな?」

「……まぁ、こいつ、泊まる場所ねぇみたいだしな。金なら……そのギルドの騒ぎで腐るほど持ってるが、本人はそれに頓着してねぇ。だったら、うちで──って話になったわけだ」

 

 モルドが肩をすくめながら答えると、オグマは仮面の奥でふむふむと頷きの動作を見せた。

 

「なるほどなるほど。そりゃまた、らしい選択って感じだなぁ……よし、じゃあ客間を使わせてやれ。たしか、まだ空いてたろ?」

「ああ。個室六つもあるくせに、埋まってるのは四つだけだ。贅沢な話だよな、全く」

 

 ガイルが苦笑交じりに言えば、スコットは「わたしは可愛いから個室必須なのよ〜」なんてふざけて返していた。

 

 そして──視線を横に向ける。

 

 ユーは、無言のまま。ただひとつ、静かに頷いた。

 

 言葉はない。だが、その仕草だけで、こいつの答えは充分すぎた。

 

 根を張らず、誰にも縛られず、風みたいにふらふらと歩いてる男。

 でも今、こうして俺たちの家に足を踏み入れたってことは、ほんの一瞬でも居場所を受け入れたってことだ。

 

 どれだけ金を持ってようが、立ち寄るだけの宿にはない、温度ってやつが、この家にはある。

 

 軋む床と、染みついた木の匂いと、俺たちのくだらねぇ会話と。

 そういう全部が、きっとどこかで、アイツを引き止めたんじゃねえか、って。

 

「──ま、今夜くらいは、うちでゆっくりしてけよ。この主神は変な奴だけどさ、なんか……いてくれた方が落ち着くっつーか、なんつーか……あー、くそ、言葉にすんのはやっぱ向いてねぇな!」

 

 思わず頭をかきながら、そんなことを呟いた。

 

 それでも、ユーはやっぱり何も言わず、ただ静かに俺の言葉を受け取ったように、目を伏せて──微かに、頷いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──湯気の余熱が、まだ肌にうっすらと残っていた。

 

 借りた白布のタオルを手にぶら下げながら、私はゆっくりと、軋む木の廊下を進む。足裏から伝わる微かな冷たさと、鼻先をくすぐる石鹸と湯の混じった匂い。そのどれもが、静かで、穏やかだった。

 

 昼間の殺気立った戦場も、夜の喧騒に満ちた酒場の空気も、今この場所にはない。

 

 ──まるで、時が一歩だけ緩やかに流れているような、そんな空間。

 

 案内された先は、この屋敷の居間だった。

 

 丸卓を囲むように敷かれた座布団。卓の上には湯冷ましと水差し。明かりは、角に吊るされたランタンひとつだけ。淡く揺れるその光が、木目の天井と床に温かみを与えていた。

 

 ──そして。

 

 卓の向こうに座っていたのは、仮面の男。

 

 顔の全てを覆い隠す獅子の面。それに、麻布の衣。後ろには紫のローブを無造作に引っかけ、腕を組んだまま私を見ていた。

 

 その佇まいには、威圧でも荘厳でもなく──ただ、静かな存在感。

 

 家主。……いや、それ以上の存在。

 

 この家に根を張る者たちが『神』と呼ぶ、その者。

 

 目の前に座すこの仮面の男こそが、【オグマ・ファミリア】の主神──オグマだった。

 

「よう、風呂上がりの無名剣士さん」

 

 気軽に片手をひらりと振る、その仕草に重々しさは一切なかった。にもかかわらず、空間に満ちる圧──それは上位の存在としての威圧ではなく、ただそこに然るべきものとして座している、絶対的な存在感。

 

 ──『神』。

 

 その言葉が、脳裏に浮かぶ。

 

 記憶は失われていても、概念としては知っていた。人の理の外に立つ者。天に生まれ、世界に干渉し、万象を見守る絶対者たち──それが、神。

 

 だが、目の前にいる()()は──想像していた神性とは、何もかもが違っていた。

 

 顔全体を覆い尽くす、獅子の仮面。

 麻布の素朴な服。

 そして、背にかけた少し派手めな紫のローブ。

 

 姿形は奇妙でも、人懐こい声色と柔らかな態度は、どこか気のいい隣人のようでもあり──けれど、確かに『人』ではなかった。

 

 そこに在るだけで、理由もなく胸の奥にざわりとした波紋が広がる。

 

 不思議な感覚だった。

 温かく、けれど何かを試されているような──そんな、妙な感情。

 

「そっか、お前、ユーって言うのか。モルドたちから聞いたぜ」

 

 仮面の奥は見えない。けれど、声の調子だけでわかる──この神は、笑っている。

 柔らかく、どこか芝居がかったような、けれど嫌味のない口ぶり。

 

「記憶喪失、名前なし、所属不明──いやあ、いいねぇ、そういうの。まるで物語のプロローグってやつだ」

「…………」

 

 私は返せなかった。ただ、沈黙を守るだけ。

 けれど、視線だけは逸らさず、それが、せめてもの返事だった。

 

 だが、目の前の神──オグマは、微塵も気にした様子はなく。

 

「ユーって名前、悪くないだろ? 勇ましき者、勇気ある者、勇者の“勇”って意味もかけてんだってさ。ま、名付けたのはうちのバカどもだけどな」

「……名前、か……」

 

 思わず、ぽつりとこぼれる。

 

 口に出してみて、やっと少しだけ、その音の重みを感じた気がした。

 

「ああ。人の名ってのは、存在の最初の印だ。お前がどこから来たかは知らねぇけど──ここからどこへ行くかは、お前次第だ」

 

 そして、神は言った。

 

「お前の物語、ここから始まるのかもな」

 

 ──“物語”。

 

 遠すぎる言葉だと思った。

 

 私には記憶がない。帰る場所も、過去も、何ひとつ残されていない。そんな空虚な存在に、始まりも何もあるのだろうか。

 

 でも。

 

 だからこそ、始めるしかないのかもしれない。

 

 何も持たない者に許されるのは、選ぶことだけだ。

 なにを選び、どこへ向かうか。

 その一歩を踏み出すこと。それが、きっと──“始まり”というものなのだろう。

 

「で、ま、念のためにな。派閥間とかの面倒ごとは避けたいし、正式に関わる前に確認しとこうぜ、お互いの為に」

 

 そこで一息入れてから、神は言った。

 

「お前、一体どこのファミリア所属だ?」

 

 その問いは、まるで石を一つ、静かな水面へ投げ込むようだった。

 

 以前にも聞かれた。モルドに。スコットに。ガイルに。

 けれど、そのたびに答えられなかった。

 

 ──わからない。

 

 記憶の海は濁っていて、どこにもその名前は見当たらない。

 所属どころか、いたのかどうかすらも定かではない。

 

 私が沈黙する間も、オグマは気にしたふうもなく、ひょいと指を立てる。

 

「ま、そうだろうと思った。だったら手っ取り早く確認だ。背中、見せてくれ」

 

 自然体の声色。冗談混じり。だけど、その裏にあるものは、きっと神だけが知る領分。

 

 言われるまま、私は上着の襟を指でつまみ、ゆっくりと片肩を露わにした。

 温まったばかりの肌に、夜の空気がそっと触れる。微かにくすぐったくて、少しだけ肌寒い。

 そして、そのまま、背を向ける。

 

「──まあ、普通に考えて()()()()()()()よな」

 

 オグマはぽつりと呟いた。

 仮面越しの声音は冗談めいているのに、妙に真剣な響きを孕んでいる。

 

 次の瞬間、オグマが懐から取り出したのは、赤い液体に満ちた小瓶だった。

 光を受けてゆらゆらと揺れるそれは、まるで血液のような……いや、もっと鮮やかで、不自然な赤。

 

「……っと。これなぁ、あんまり表じゃ使えない代物でな。真面目な神に見つかったら、即・天界送りもありえるシロモノなんだわ」

 

 「だからちょぉっと内密に頼む」なんて軽い調子で言いつつも、手つきは丁寧だった。

 小瓶の栓を静かに開け、その中の液体を一滴──私の背中に、ぽたりと落とす。

 

 ぬるりとした感触。

 それは一瞬で肌になじみ、そして──沈黙が落ちた。

 

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 ……十秒。

 

 何も、起きない。

 何も、変わらない

 

 ただ、己の背を、ぬるい液が一筋流れただけだった。

 

 オグマの手が、止まる。

 

 そして──

 

「…………あ?」

 

 低い声が、静かに落ちた。

 

 何かを“理解”したような、あるいは突然“閃いた”ような、そんな声音。

 次の瞬間、室内の空気が、はっきりと変わった。

 

 張り詰める。肌を刺すような沈黙。

 仮面の奥に隠された何かが、ひとつ、明らかに息を呑んだ気配を見せた。

 

「……あー……おいおいおい。マジかよ。これ、マジか?」

 

 その声色には、驚愕と、そして一抹の興奮が混ざっていた。

 

「なあユー、お前……ダンジョンに潜ってたんだよな? で、モンスター、ばったばったと斬ってきたわけだよな?」

 

 間を置かず、オグマが扉のほうへと目線を送った。

 

「──おい、お前ら。こっち来てみ?」

 

 僅かに開け放たれた居間の扉の隙間から、様子を伺いでもしていたのだろうか。ひょこりと三つの顔が現れる。

 

 スコット、ガイル、モルド。

 

「え、なに。何事?」

「……って、おい、まさか……」

「一体、何だってん──」

 

 彼等は口々に言葉を口遊ながら近づいてくるが、しかし、止まる。

 

 私の背を見たガイルが目を見開き、スコットが息を呑み、モルドの口が言葉を失ったようにわなわなと震える。

 

 その反応に、オグマは肩をすくめ、そして静かに呟いた。

 

「──こいつ、神の恩恵(ファルナ)がねぇ。ファミリアに所属とかどうとか以前に、ステイタスが、どこにも刻まれてねぇぞ」

 

 その言葉が落ちた瞬間──

 

 世界が、凍りついた。

 

 時間すら、ほんの刹那、静止したかのようだった。

 

 加護を持たぬ者。

 

 神の力を一切受けず、ステイタスの恩恵すら与えられていない。

 この“神時代”において、あり得ない存在。

 言い換えれば──それは、冒険者ですらない。

 

「……え、うそ……」

 

 スコットの震える声が、空気を切り裂くように漏れた。

 

 ガイルが絶句し、モルドはわなわなと拳を握りしめて固まっている。

 

 そして全員の視線が──私に、集まる。

 

 驚愕。動揺。困惑。

 まるで目の前に、得体の知れない『何か』が立っているような眼差しだった。

 

 けれど──

 

 私はただ、静かに、それらを受け止めていた。

 

 否定も肯定もない。ただ、そこに在るというだけ。

 

 そうだ。

 私には、何もない。

 私には、何も思い出すことが出来ない。

 

 けれど、それが私という存在であることだけは──確かだった。

 

 

 


 

 

 

『守護者の剣 Lv.48 』(攻撃力+480%)

『グラム Lv.4 』(攻撃力+200%)

『守護者の鎧 Lv.63 』(最大HP+630%)

『キュイラス Lv.11 』(最大HP+1100%)

『ファントムブレード Lv.3 』(攻撃速度+9%)

『セブンリーグブーツ Lv.3 』(移動速度+9%)

『ククルカンの宝玉 Lv.1 』(メテオ威力+10%)

『肉×18』

『魚×18』

『野草×25』

『澄んだ水×13』

『野キノコ×10』

『イチゴ×9』

『ブドウ×11』

『空のボトル×18』

『キャベツ×12』

『トマト×12』

 

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