作:生まれてきてくれてありがとう
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──この店、やっぱり最高だわ。
扉を開けた瞬間、ふわりと鼻をくすぐる香りが全身を包んだ。焦がしバターにローズマリー、黒胡椒にとろけたチーズ、そして──煮込み肉の、ほの甘くて滋味深い湯気。
耳に届くのは、賑やかだけどうるさくない人のざわめきと、酒器が触れ合う乾いた音。椅子の軋みすら、なぜだか心地いい。ランプの灯りは柔らかく、店内をほんのり金色に染めていた。
ここは、あたしが一番好きな場所。
酒場──『豊穣の女主人』。
「いらっしゃいませ〜っ!」
明るく響いた店員の声に、気が抜けて、自然と笑みがこぼれる。
この空気が好き。この温度が好き。この空間が──好き。
たとえ外の世界がどれだけ殺伐としていても。ダンジョンの奥底で血と死と向き合った帰り道でも。
ここだけは、変わらず、あたたかい。
生きてるって、感じさせてくれるから。
若葉色の制服を揃えた給仕の子たちが、笑顔で出迎えてくれる。
その制服──白の前掛け、胸元にリボン、裾はふわりと広がるスカート。清楚で可愛いのに、どこかしら実用的なデザイン。……メイド服っぽいけど、露出少なめなのがまた絶妙にポイント高い。
しかも──朝に見た子も、夜に見た子も、同じ顔。同じ制服。つまりこれ、交代制じゃなくて、ほとんど住み込みのローテ勤務ってことよね。
……待遇、よっぽど良いのね、この店。
「さ、こっち、こっち! 奥の席、空いてるから!」
元気な店員さんの背中に誘われて、私たち四人は壁際のテーブル席に腰を下ろす。
「とりあえず、生!」
「俺もだ!」
「おい、スコット、お前は──」
「生ッ! 五杯いっとくわ!! 今日は祝杯でしょ、祝杯!」
高らかに宣言して、勢いよく手を挙げるあたし。
その声に振り返った隣の客が笑った。
あら、なかなかのイケメン……って思ったけど、今はいいや。
まずは、乾杯と肉と──うまい酒よ!
すぐさま、湯気を立てて届くごちそうたち。
動きに無駄がないわね、ほんと。厨房とフロアの連携が完璧すぎて、思わず感嘆の息が漏れるわ。
並んだ皿は、目でも舌でも味わえる芸術品。
季節野菜の彩りサラダに、皮目パリッパリの焼き鳥、煮込んでとろとろの牛スジスープ。
川魚の香草焼きに、山羊のチーズをたっぷり使ったふわふわオムレツまで──
……ああ、もう、この店、完璧じゃない?
「ふわぁ……胃が幸せ……」
自然と出た言葉に、モルドが呆れたような声でツッコむ。
「お前は胃じゃなくて脳ミソまで酔ってんだろ……」
でも、その顔はゆるゆるだった。
そりゃそうよね、あれだけ死にかけた後なんだもの。そりゃもう、今くらいは緩んでなきゃやってられないわ。
──で、問題は。
あたしの斜め向かい、黙って座る彼、ユーのこと。
言葉ひとつなく、表情も変えず、ただ……静かに、テーブルの上を見つめてた。
まるで、料理の彩りを確かめるかのように、じっと。無言のまま。
……違う。たぶん、見てるんじゃない。思い出そうとしてるんだ。
記憶のカケラを、香りの中に探すみたいに。
ふと、その手が動いた。
ゆっくりと、躊躇うようにスプーンを取る。
そして、目の前のスープ──湯気の立つそれを、一口だけ、そっと口に運んだ。
ほんの、ひと匙。
次の瞬間──彼の瞳が、かすかに揺れた。
小さく。けれど確かに。
水面に石を落としたような、ほとんど見逃しそうな小波が、瞳の奥をかすめて──
……あたしは、その瞬間を、絶対に見逃さなかった。
眉が、ほんの少しだけ下がって。
強張っていた口元が、雪解けのようにほんの少しだけ柔らかくなって。
「……美味しい?」
小さな声だった。
でも、それは確かに、彼に届いた。
ユーは視線を伏せると、わずかに間を置いて──こくり、と頷く。
たったそれだけのことなのに。
胸がじんわり、あったかくなった。
ああ、よかった。
この人もちゃんと、美味しいって思うんだ。生きてるんだって、実感してくれたんだ、って。
思わず、あたしは笑ってしまった。
「ほらほら、遠慮しないでどんどん食べなさい! うちのモルドが今日は奢ってくれるって!」
「はあ!? ちょっ、どの口がそんなこと言ってんだよ!!」
「この口に決まってるじゃないのぉッ!」
返す声も聞かずに、モルドの木杯を一方的にカチンとぶつけてやる。
そのまま上機嫌で、カウンター中に響くような声を張り上げた。
「乾杯ぃッ!! 命あっての宴よ! 明日は明日の風が吹くってもんでしょーが!!」
木杯が揺れる。笑い声が飛び交う。
厨房の奥からは鍋を振る音と、あの貫禄ある女亭主の張りのある声。
客たちは、冒険者も市民も神様も入り混じりながら、皆等しくこの豊穣のひとときを味わって。
夜更けの喧騒に包まれながら、心地よく、穏やかに、あたしたちの夜を照らしていた。
=====
騒がしい。賑やかで、そして活気ある。
──この空間だけが、違っていた。
けれど、それは不思議と不快ではなく。
椅子が軋む音も、食器と食器がぶつかる高い音も、誰かの笑い声も。
ここではすべてが、雑音ではなく調和だった。
鼻をくすぐるのは、香草と肉の香り。
揚げ油が跳ねる音すら、どこか子守唄めいて耳に心地いい。
この空間だけが、まるで別の層に存在しているかのように、柔らかい。
──街の外は、違った。
人々の顔は硬く、視線は常に俯き加減。
足取りは速く、まるで誰かに追われているように、誰からも逃げるように歩いていた。
そこには、笑いも、温もりもなかった。
けれどこの店には、それがあった。
父親が子どもにパンを分け、
恋人たちがグラスを合わせて微笑み合い、
年老いた男が、焼きたてのパンをちぎりながら、穏やかに目を細めている。
──まるで、世界から切り取られたひととき。
ここだけが、まるで切り取られた違う世界のように。
この空間だけが、安全という名の魔法に包まれているように。
あたたかい。
その言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
何の脈絡もなく、何の裏打ちもなく。ただ、自然と。
「…………」
目を上げる。視線の先、カウンターの奥。
ぐつぐつと煮立つ鍋を前に、手際よく食材を放り込む一人の女がいた。
大柄で、骨太な腕。まるで山のような貫禄をまといながらも、そこには不思議と刺々しさがなかった。
凛とした眼差し。
額と目尻に刻まれた皺が、戦いではなく、無数の人生を見届けてきた証のように感じられる。
──母、という言葉が、一瞬脳裏をかすめた。
……理由はわからない。けれど、そんな気がした。
その時だった。
女将がふと、こちらを見た。
無言のまま、鍋の柄を握る手を止めることもなく。
そして──目が合った、気がした。
時間にすれば、ほんの刹那。
けれどその一瞬の中に、言葉以上のものがあった。
彼女は、頷いた。
見透かすような視線で、干渉するでも、問いただすでもなく。
ただ受け入れる者の目で、静かに、柔らかく、確かに──頷いた。
その仕草に、意味を探すことはできなかった。
だが、胸の奥のどこかが、少しだけ温かくなるのを感じていた。
「うお、あの子めちゃくちゃスタイルいいな……!」
隣から響いたのは、酒と欲にまみれた野太い声。
横目で見れば、モルドが顔を真っ赤にしながら、通路を行き来する給仕の少女たちに視線を滑らせていた。
そして、あのどうしようもない口元が、じわりと歪む。
「へへ……あのスカートのひらひら感……眼福眼福……っと」
──その瞬間だった。
「変態撲滅ッ!!」
スコットの怒号が酒場中に轟いた。
鋭く振り抜かれた手元の木杯が、容赦なくモルドの後頭部に叩きつけられる。
「──ごはぁッ!? って、ちょ、やめっ、物理はやめろ物理はぁ!! 見てただけ! 見るのはセーフだろ!?」
「黙りなさい、視線がもう凶器なのよこの発情ゴリラ!! 次は椅子でいくわよ、椅子でッ!!」
「お、おう……すんません……」
完全に震え上がったモルドが、魂の抜けたような顔でうなだれ、隣のガイルは「やれやれ」と肩をすくめる。
スコットはというと、まだぷりぷりと怒りながらも──どこか楽しそうだった。
……その光景が、不思議と、心地よく感じられた。
殺気も死臭もなく、誰もが生きていて、食べて、笑って、怒っている。
人が──人として、当たり前に生きている空間。
くだらなくて、賑やかで、喧しくて。
けれどそのすべてが、確かに人間らしい。
……ああ。
私は、こういう場所を──知らなかったのかもしれない。
ふと、視線を落とす。
目の前の皿の上には、まだ湯気の立つ赤みが残る肉。
ナイフを入れると、抵抗もなくすっと切れて、
その断面からじんわりと肉汁が滲み出す。
ひと切れ。
口に運ぶ──
──うまい。
とろけるように柔らかく、香辛料はほどよく舌を刺激しながらも、どこか、やさしい。
この味──知っている気がした。
懐かしい。
遠い、ずっと遠い記憶のなかにあったような……
けれど。
脳裏に広がるのは、霧のようなノイズばかり。
そこに確かに何かがあるのに、どうしても指先が届かない。
「…………」
けれど、それでも。
この味は──
きっと私にとって、大切なものだったのだろう。
わからなくても、そう思えた。
だから、私はもうひと口。
そっと、静かに口へと運ぶ。
──この“あたたかさ”だけは、どうか、忘れたくなかったから。
=====
夜のオラリオは、昼の喧騒が嘘みたいに静かで──けれど、どこか妙に浮ついている。
魔石灯が淡く街路を染め上げ、人々は一日の疲れと酒精に身を任せながら、薄く笑って、ゆるやかに流れていく。
そんな中、俺はひとり、石畳の道を踏みしめていた。
足音が、四つ。俺と──ガイル、スコット、そして、例のあいつ。
赤いマントを揺らして歩く、寡黙な剣士。
名前はユー。
もちろん、本人が名乗ったわけじゃねえ。俺たちが勝手に呼び始めた、仮の名だ。けどもう、それが妙に馴染んじまってるのが、なんか悔しい。
……変な奴だよ、ほんと。
最初は──ただの偶然だと思ってた。
助けられた、だから一応の礼は言った。けどそれだけ。得体の知れねぇ、記憶喪失の謎の剣士? ハッ、そんなの、信用しろって方が無理だろ。
何考えてるか分かんねぇし、口も重すぎて会話にならねぇ。
表情はいつも無で、喜怒哀楽がまるで感じられねぇ。まるで──人形みてぇなやつだ。
けどな。
ひとつだけ、確かにわかることがある。
あいつの剣は──間違いなく、本物だった。
迷宮で見たあの姿。迷いも、怒りも、歓喜すらもない。ただ静かに、機械のように斬り伏せていく。
殺すって行為を、当たり前のようにこなす剣筋。音もなく、感情もなく、ただ結果だけを残して。
俺は、あんな戦い方……見たことねぇ。
いや──見たくなかった。できることなら、知らずに済ませたかった。
だけど、もう目の当たりにしちまった。
剣に生きて、剣にしか居場所がねぇような、そんな奴の戦いを。
……なのに、今、俺の隣を歩いてるそいつは。
まるで、風に溶ける霧みたいに、儚げで。
赤いマントが、夜風になびいて揺れてる。灯の下でもその顔は淡々としてて──
ここにいるのが間違い、みたいな顔してやがる。
……気に食わねぇ。
どうしようもなく、気に食わねぇ。
けど、嫌いじゃねぇ。
だからこそ、こうして、連れて帰ってる。
こいつが、行く宛も帰る場所もないなら──
せめて一晩くらい、俺たちの日常に染めてやってもいいだろ。
「……ここだ。俺たちの拠点、【オグマ・ファミリア】のホームだ」
オラリオ南西──第六区画。
喧騒の中心地からは少し離れた、坂の上にぽつんと建つ二階建ての木造家屋。
どこか懐かしい匂いのする、古びた一軒家だ。
外壁は少し黒ずみ、屋根の瓦には所々コケが張りついている。夜風に吹かれれば、軋む階段がぎぃ、と低く鳴き、薄い木の壁はまるで会話でもしてるかのようにミシリと返す。風情があるなんて言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけボロい。
けど、それでも──俺たちにとっては、帰るべき場所だった。
小さな庭を通り抜け、半ば癖になった動作で玄関の扉を押し開けると、
「おっ、変なの連れて帰ってきたな〜!」
──顔面、獅子。
開口一番、それだった。
麻布のラフな服に、紫のローブを無造作に引っかけたその男……いや、『神』は、玄関土間から数歩奥の居間に腰を下ろし、まるで旅人でも迎えるような気楽さで手をひらひらと振っていた。
仮面は、金と黒を基調とした、威厳と狂気の狭間を行くような獅子の面。顔の一切が見えねぇくせに、なぜか目が合ってる気がする。ぞっとするのに、今はもう慣れた。
それが、俺たちの主神──オグマだ。
中身の顔は誰も知らねぇ。けど、声の調子ひとつで“笑ってる”とか“機嫌が悪い”とかが分かっちまうあたり、付き合いの長さを実感する。
「おい神様、もうちょっとこう……まともな迎え方はできねぇのか?」
呆れ混じりに問いかける俺に、オグマは茶をすするような仕草のあと、軽やかに肩をすくめた。
「いやいや、だって見てみろよ、そこの子。なぁ?」
仮面越しでも、にやりと口角が吊り上がっているのがわかる。
そしてその視線の先にいたのは──ユー。
「名も知らぬ剣士、か……ふふ、いいじゃないか。まるで物語の書き出しみたいだ。かつて名を持ち、今は忘れた男……ああ、詩が書けそう」
「趣味で語るな。ってか、なんでコイツのこと知ってんだ?」
「ん? え、お前ら知らなかったの? 今日の夕方からギルドの中庭、ざわっざわよ。上層のどっかで怪物の軍団をたった一人、薙ぎ払った謎の剣士ってな。まーた
「……マジで?」
思わず天を仰ぐ。
ユー本人は、ただぽつんと立ってただけなんだがな……。
「もちろん、お前らの稼ぎもな。三人で行って四人分、いやそれ以上の魔石抱えて帰ってきたってなりゃ、そりゃ目立つに決まってる」
「チッ、まだ半日も経ってねぇぞ……情報の回り早すぎだろ」
「それがオラリオさ。力も金も、噂も、人の心も……すべてが、走る」
飄々と、詩人みたいな口調で言いやがる。
だがまぁ、こいつが神様ってことを、思い出させてくれる瞬間でもあるのは間違いない。
と、その時。
「ところで、その子。泊まるとこはあるのか?」
オグマのその問いに、俺たち三人が顔を見合わせ──そして、ぴたりとユーに視線を向けた。
すると、ユーは少しだけ瞬きをして、首を横に振る。
「ない」
即答だった。
けど……それを聞いて、オグマは何も問わなかった。
ただ仮面の奥で、ふっと──微笑んだような気がした。
「ほんじゃ、そこのお客人は──今夜うちに泊まるってことで、いいんだな?」
「……まぁ、こいつ、泊まる場所ねぇみたいだしな。金なら……そのギルドの騒ぎで腐るほど持ってるが、本人はそれに頓着してねぇ。だったら、うちで──って話になったわけだ」
モルドが肩をすくめながら答えると、オグマは仮面の奥でふむふむと頷きの動作を見せた。
「なるほどなるほど。そりゃまた、らしい選択って感じだなぁ……よし、じゃあ客間を使わせてやれ。たしか、まだ空いてたろ?」
「ああ。個室六つもあるくせに、埋まってるのは四つだけだ。贅沢な話だよな、全く」
ガイルが苦笑交じりに言えば、スコットは「わたしは可愛いから個室必須なのよ〜」なんてふざけて返していた。
そして──視線を横に向ける。
ユーは、無言のまま。ただひとつ、静かに頷いた。
言葉はない。だが、その仕草だけで、こいつの答えは充分すぎた。
根を張らず、誰にも縛られず、風みたいにふらふらと歩いてる男。
でも今、こうして俺たちの家に足を踏み入れたってことは、ほんの一瞬でも居場所を受け入れたってことだ。
どれだけ金を持ってようが、立ち寄るだけの宿にはない、温度ってやつが、この家にはある。
軋む床と、染みついた木の匂いと、俺たちのくだらねぇ会話と。
そういう全部が、きっとどこかで、アイツを引き止めたんじゃねえか、って。
「──ま、今夜くらいは、うちでゆっくりしてけよ。この主神は変な奴だけどさ、なんか……いてくれた方が落ち着くっつーか、なんつーか……あー、くそ、言葉にすんのはやっぱ向いてねぇな!」
思わず頭をかきながら、そんなことを呟いた。
それでも、ユーはやっぱり何も言わず、ただ静かに俺の言葉を受け取ったように、目を伏せて──微かに、頷いた気がした。
=====
──湯気の余熱が、まだ肌にうっすらと残っていた。
借りた白布のタオルを手にぶら下げながら、私はゆっくりと、軋む木の廊下を進む。足裏から伝わる微かな冷たさと、鼻先をくすぐる石鹸と湯の混じった匂い。そのどれもが、静かで、穏やかだった。
昼間の殺気立った戦場も、夜の喧騒に満ちた酒場の空気も、今この場所にはない。
──まるで、時が一歩だけ緩やかに流れているような、そんな空間。
案内された先は、この屋敷の居間だった。
丸卓を囲むように敷かれた座布団。卓の上には湯冷ましと水差し。明かりは、角に吊るされたランタンひとつだけ。淡く揺れるその光が、木目の天井と床に温かみを与えていた。
──そして。
卓の向こうに座っていたのは、仮面の男。
顔の全てを覆い隠す獅子の面。それに、麻布の衣。後ろには紫のローブを無造作に引っかけ、腕を組んだまま私を見ていた。
その佇まいには、威圧でも荘厳でもなく──ただ、静かな存在感。
家主。……いや、それ以上の存在。
この家に根を張る者たちが『神』と呼ぶ、その者。
目の前に座すこの仮面の男こそが、【オグマ・ファミリア】の主神──オグマだった。
「よう、風呂上がりの無名剣士さん」
気軽に片手をひらりと振る、その仕草に重々しさは一切なかった。にもかかわらず、空間に満ちる圧──それは上位の存在としての威圧ではなく、ただそこに然るべきものとして座している、絶対的な存在感。
──『神』。
その言葉が、脳裏に浮かぶ。
記憶は失われていても、概念としては知っていた。人の理の外に立つ者。天に生まれ、世界に干渉し、万象を見守る絶対者たち──それが、神。
だが、目の前にいる
顔全体を覆い尽くす、獅子の仮面。
麻布の素朴な服。
そして、背にかけた少し派手めな紫のローブ。
姿形は奇妙でも、人懐こい声色と柔らかな態度は、どこか気のいい隣人のようでもあり──けれど、確かに『人』ではなかった。
そこに在るだけで、理由もなく胸の奥にざわりとした波紋が広がる。
不思議な感覚だった。
温かく、けれど何かを試されているような──そんな、妙な感情。
「そっか、お前、ユーって言うのか。モルドたちから聞いたぜ」
仮面の奥は見えない。けれど、声の調子だけでわかる──この神は、笑っている。
柔らかく、どこか芝居がかったような、けれど嫌味のない口ぶり。
「記憶喪失、名前なし、所属不明──いやあ、いいねぇ、そういうの。まるで物語のプロローグってやつだ」
「…………」
私は返せなかった。ただ、沈黙を守るだけ。
けれど、視線だけは逸らさず、それが、せめてもの返事だった。
だが、目の前の神──オグマは、微塵も気にした様子はなく。
「ユーって名前、悪くないだろ? 勇ましき者、勇気ある者、勇者の“勇”って意味もかけてんだってさ。ま、名付けたのはうちのバカどもだけどな」
「……名前、か……」
思わず、ぽつりとこぼれる。
口に出してみて、やっと少しだけ、その音の重みを感じた気がした。
「ああ。人の名ってのは、存在の最初の印だ。お前がどこから来たかは知らねぇけど──ここからどこへ行くかは、お前次第だ」
そして、神は言った。
「お前の物語、ここから始まるのかもな」
──“物語”。
遠すぎる言葉だと思った。
私には記憶がない。帰る場所も、過去も、何ひとつ残されていない。そんな空虚な存在に、始まりも何もあるのだろうか。
でも。
だからこそ、始めるしかないのかもしれない。
何も持たない者に許されるのは、選ぶことだけだ。
なにを選び、どこへ向かうか。
その一歩を踏み出すこと。それが、きっと──“始まり”というものなのだろう。
「で、ま、念のためにな。派閥間とかの面倒ごとは避けたいし、正式に関わる前に確認しとこうぜ、お互いの為に」
そこで一息入れてから、神は言った。
「お前、一体どこのファミリア所属だ?」
その問いは、まるで石を一つ、静かな水面へ投げ込むようだった。
以前にも聞かれた。モルドに。スコットに。ガイルに。
けれど、そのたびに答えられなかった。
──わからない。
記憶の海は濁っていて、どこにもその名前は見当たらない。
所属どころか、いたのかどうかすらも定かではない。
私が沈黙する間も、オグマは気にしたふうもなく、ひょいと指を立てる。
「ま、そうだろうと思った。だったら手っ取り早く確認だ。背中、見せてくれ」
自然体の声色。冗談混じり。だけど、その裏にあるものは、きっと神だけが知る領分。
言われるまま、私は上着の襟を指でつまみ、ゆっくりと片肩を露わにした。
温まったばかりの肌に、夜の空気がそっと触れる。微かにくすぐったくて、少しだけ肌寒い。
そして、そのまま、背を向ける。
「──まあ、普通に考えて
オグマはぽつりと呟いた。
仮面越しの声音は冗談めいているのに、妙に真剣な響きを孕んでいる。
次の瞬間、オグマが懐から取り出したのは、赤い液体に満ちた小瓶だった。
光を受けてゆらゆらと揺れるそれは、まるで血液のような……いや、もっと鮮やかで、不自然な赤。
「……っと。これなぁ、あんまり表じゃ使えない代物でな。真面目な神に見つかったら、即・天界送りもありえるシロモノなんだわ」
「だからちょぉっと内密に頼む」なんて軽い調子で言いつつも、手つきは丁寧だった。
小瓶の栓を静かに開け、その中の液体を一滴──私の背中に、ぽたりと落とす。
ぬるりとした感触。
それは一瞬で肌になじみ、そして──沈黙が落ちた。
一秒。
二秒。
三秒。
……十秒。
何も、起きない。
何も、変わらない
ただ、己の背を、ぬるい液が一筋流れただけだった。
オグマの手が、止まる。
そして──
「…………あ?」
低い声が、静かに落ちた。
何かを“理解”したような、あるいは突然“閃いた”ような、そんな声音。
次の瞬間、室内の空気が、はっきりと変わった。
張り詰める。肌を刺すような沈黙。
仮面の奥に隠された何かが、ひとつ、明らかに息を呑んだ気配を見せた。
「……あー……おいおいおい。マジかよ。これ、マジか?」
その声色には、驚愕と、そして一抹の興奮が混ざっていた。
「なあユー、お前……ダンジョンに潜ってたんだよな? で、モンスター、ばったばったと斬ってきたわけだよな?」
間を置かず、オグマが扉のほうへと目線を送った。
「──おい、お前ら。こっち来てみ?」
僅かに開け放たれた居間の扉の隙間から、様子を伺いでもしていたのだろうか。ひょこりと三つの顔が現れる。
スコット、ガイル、モルド。
「え、なに。何事?」
「……って、おい、まさか……」
「一体、何だってん──」
彼等は口々に言葉を口遊ながら近づいてくるが、しかし、止まる。
私の背を見たガイルが目を見開き、スコットが息を呑み、モルドの口が言葉を失ったようにわなわなと震える。
その反応に、オグマは肩をすくめ、そして静かに呟いた。
「──こいつ、
その言葉が落ちた瞬間──
世界が、凍りついた。
時間すら、ほんの刹那、静止したかのようだった。
加護を持たぬ者。
神の力を一切受けず、ステイタスの恩恵すら与えられていない。
この“神時代”において、あり得ない存在。
言い換えれば──それは、冒険者ですらない。
「……え、うそ……」
スコットの震える声が、空気を切り裂くように漏れた。
ガイルが絶句し、モルドはわなわなと拳を握りしめて固まっている。
そして全員の視線が──私に、集まる。
驚愕。動揺。困惑。
まるで目の前に、得体の知れない『何か』が立っているような眼差しだった。
けれど──
私はただ、静かに、それらを受け止めていた。
否定も肯定もない。ただ、そこに在るというだけ。
そうだ。
私には、何もない。
私には、何も思い出すことが出来ない。
けれど、それが私という存在であることだけは──確かだった。
『守護者の剣 Lv.48 』(攻撃力+480%)
『グラム Lv.4 』(攻撃力+200%)
『守護者の鎧 Lv.63 』(最大HP+630%)
『キュイラス Lv.11 』(最大HP+1100%)
『ファントムブレード Lv.3 』(攻撃速度+9%)
『セブンリーグブーツ Lv.3 』(移動速度+9%)
『ククルカンの宝玉 Lv.1 』(メテオ威力+10%)
『肉×18』
『魚×18』
『野草×25』
『澄んだ水×13』
『野キノコ×10』
『イチゴ×9』
『ブドウ×11』
『空のボトル×18』
『キャベツ×12』
『トマト×12』