アサクリ・弥助炎上事件――正義とキャンセルカルチャー/田中辰雄 - SYNODOS

アーカイブされた 2024年8月20日 22:22:10 UTC
OPINION
オピニオン
2024.08.20

アサクリ・弥助炎上事件――正義とキャンセルカルチャー

田中辰雄 計量経済学

(1)事件の概要

第一幕:ゲームの炎上
アサクリ・弥助の炎上事件は単なる一ゲームの炎上事件以上の思わぬ広がりを見せており、下手をすると国際問題になる可能性がある。この事件について簡単な調査を行ったので報告する。
まず、多くの人はこの事件のことを知らないと思われるので簡単にいきさつを説明する。事の起こりはアサシンクリードというゲームの予告が炎上したことである。
このゲームはフランスのゲーム会社UBI制作の人気シリーズで、過去のさまざまな場所・時代にアサシンとして乗り込み、同様に過去の時代・場所に乗り込む能力を持った敵の勢力を倒していくゲームである。これまでに、ルネサンス期のイタリア、産業革命期のロンドン、独立戦争時のアメリカなど様々な舞台でのゲームが発売されており、その時代の建物・風俗などが忠実に再現されていることでも話題となった。
このシリーズが日本の戦国時代を舞台としてつくられることになり、日本人ゲーマーの期待が高まった。しかし、その予告が公開されたとき、意外なことがわかる。主人公のうち一人は日本人の女忍者であるが、もう一人が弥助という黒人の侍だったのである。
弥助というのは戦国時代に実在した黒人である。弥助はアフリカ出身とされ、ポルトガル人の宣教師に連れられて日本にやってくる。宣教師が織田信長と面会したとき、信長は同席していたこの弥助を気に入り、宣教師からもらい受けて自分のそばに置くことにする。信長は弥助に小刀を与え、扶持(給与)と住居を提供し、良く話をしたともされる。
弥助は本能寺の変まで信長に仕え、明智軍と刀を振るって闘い、最後は投降し、その後、歴史の記録から消えた。戦国時代の最も有名な武将である信長のもとに黒人の侍がいて、信長の最後の戦いの場にも居合わせたというのは興味深い話である。想像力を刺激する話なので、すでに何冊か日本語の本がでており、海外でも近年、最初の黒人侍、The First Blask Samuraiとして知られるようになった。
アサシンクリード・シリーズはこれまで主人公はその国の人であり、また実在の人物ではなく架空の人物であったので、今回はその通例を破ったことになる。日本人ゲームプレイヤーの中には日本軽視ではないかとの疑問を持つ人が現れた。また、予告映像では日本についての歴史考証が甘く、たとえば畳が正方形であったり、植物の季節感が合わなかったりといったミスがあったことも日本へのリスペクトがないという批判を生んだ。
最大の批判点は弥助がそもそも侍ではないという点であった。侍なら所領を持ち、苗字を持っているはずで、弥助はともにないため侍ではないというのである。侍ではないものを侍として扱うのは日本の史実に反する。アサシンクリードは史実に忠実な再現を心掛けているはずで、これはおかしいというわけである。炎上は激化し、ゲームの発売中止を求める署名サイトが立ち上がっており、2024年7月末執筆時点で10万人が署名している。[注1]
この炎上には反論もある。まず侍かどうかであるが、歴史家によれば戦国時代は秩序が乱れた時代で侍の定義が難しく、所領や苗字は絶対の条件ではない。信長のそばに仕え、本能寺の変で刀を振るって戦ったのなら侍と呼んでもよいという見解はありうる。また、史実に反するあるいはリスペクトがないと言うが、日本のゲーム開発会社がつくるゲームも外国の史実を無視しており、アーサー王から三国志の英雄まで歴史上の人物設定を性別まで含めて自在に変えている。ゲームはそもそもフィクションで自由な創作であるべきであり、史実との一致を気にする必要はない。日本人だけが史実との一致を外国に要求できるというのは日本人の傲慢ではないか、と。
この問題について人々はどう思っているのだろうか。上記のように経緯を簡単に説明したうえで、発売中止署名に賛同するかどうかを尋ねた。調査は2024年7月22日にウエブモニターアンケート会社を通じて実施した(調査会社はSurveroid社)。対象は20歳~69歳の3741人で、年齢と性別で均等割り付けしてある。結果は図1のとおりである。
図1
まず、全回答者についてみると炎上事件のことを知らない人が7割、知っている人が3割である。知っている人の中だけで発売中止の署名運動へ賛同するかを尋ねると、賛同する、どちらかといえば賛同する人があわせて33.4%(=17.7+15.7)、賛同しないが同様に合わせると48%(=20.5+27.5)であった。発売中止署名に賛同しない人の方がやや多い。ただ、33%もの人が発売中止に賛同したというのは、数値としては高いかもしれない。ここまでがこの炎上事件の第一幕であり、ここで終わっていればこの事件は一ゲームの炎上事件であった。しかし、それでは終わらなかった。
第二幕:ロックリー氏の炎上
続けて第二幕があく。弥助の話が海外で知られるようなったのは日本大学の准教授ロックリー氏によるところが大きい。ロックリー氏は弥助に関連するデータを集め、日本語の本「信長と弥助」と、英語の本「Yasuke: The true story of the legendary African Samurai」を出している。
弥助が立派な侍として描写されるようになったのは彼の本のせいだろうと考えて読んでいた人々は、この本に日本に黒人奴隷制度があったかのような記述を見つける。本の中に、弥助が人々の人気を博したので、地元の名士のあいだで「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ」という記述があったというのである。時を同じくして、アメリカでは日本の戦国時代についてのデマが広がっていることが伝わる。曰く、弥助は日本の歴史を変えた勇者であり、日本にはたくさんの黒人侍がいて日本の歴史を作ったが、日本政府は黒人が自国の歴史で活躍したこと知られたくなくて隠しているというのである。
このような虚偽の歴史は一笑にふせばよいと思うかもしれない。しかし、一部の保守論客はそうは考えなかった。なぜなら従軍慰安婦の苦い経験があるからである。従軍慰安婦では、吉田清治氏が嫌がる少女たちを自らの手で強制連行したと虚偽の本を書き、これが海外では事実として定着してしまい、その修正に膨大な時間と労力がかかった。
日本に黒人奴隷制度があったという記述は今は虚偽であるが、そのうち海外では事実となってしまうかもしれない。ロックリー氏は第二の吉田清治であり、早いうちにその芽をつぶしておいたほうがよい。かくして、何人かの保守論客が日本の歴史を守ろうとしてこの問題に言及することになる。署名運動としては、ロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名サイトが立ち上がっており、本校執筆時点で2万人が署名している。[注2] さらに一歩進んで日大に対してロックリー氏の解雇を求める動きも現れた。
このロックリー氏への著作の訂正あるいは解雇要求にも反論がある。第一にそもそもロックリー氏は日本に黒人奴隷制度がある、あるいは日本から黒人奴隷制度が始まったとは書いていないという反論がある。つまりロックリー氏がデマの日本史を書いたという主張それ自体がデマだというのである。第二に仮にそうであっても言論の自由を尊重すべきで、解雇を要求すべきではない。言論は言論で決着させるべきであり、議論の場を奪うべきではないという反論がある。
人々の意見を見てみよう。図2が経緯を説明したうえで解雇の是非を聞いた場合の結果である。弥助とロックリー氏のことを知らないという人が7割弱存在するので、これを除いて知っている人の中だけで見ると、ロックリー氏の解雇要求に賛成する人は32.4%、反対する人は49.7%である。反対する人の方が多く、言論の自由を支持する人の方が多い。実際、解雇要求の署名サイトは開設されたもののすぐに閉鎖されており、これはこの言論の自由を重視する勢力のためと考えられる。ただ、それでも解雇という非常に強い要求に賛同する人が3割いるというのはかなりの高さである。解雇ではなく著作の訂正・撤回への賛同の有無を聞いてもほぼ同じ結果が得られる。
図2

(2)キャンセルカルチャーと正義

この二幕の炎上事件はいずれもキャンセルカルチャーと考えられる。キャンセルカルチャーとは、何らかの望ましくない表現・発言を、言論ではなく、圧力によって社会から消し去ろうとする運動のことである。ゲームの発売を中止せよ、ロックリー氏を解雇せよというのは、ある表現・言論を社会の表舞台から消し去ろうとすることでありキャンセルに他ならない。
日本では呉座氏へのオープンレター事件、トランスジェンダー本の出版中止事件、さまざまな萌え絵の炎上事件などリベラル陣営が仕掛けることが多い。保守側から仕掛けた事例としては天皇を扱った表現が問題になった愛知トリエンナーレ事件があり、今回のアサクリ・弥助の炎上事件も保守側が起こしたキャンセルカルチャーと思われる。
キャンセルカルチャーを支えるのは何らかの正義である。なぜなら自由社会の基本理念である言論・表現の自由を上回る価値があると考えていることになるからである。そこには言論・表現の自由を上回るほどの絶対的な価値がなければならない。これが正義である。それはたとえば、女性差別反対であり、トランスジェンダーの人権擁護であり、あるいはまた、天皇への敬意であり、日本の歴史の保持、である。これらの価値は絶対に正しく、言論・表現の自由は制限されてしかるべきと考えるとき、キャンセルカルチャーが現れる。
このような理解が妥当かを確かめるため、簡単な実証をしてみよう。そのために人々の正義の度合いを測定する指標を作る。正義と言論の自由について表1の10項目の意見を用意し、そう思うか思わないかを5段階で答えてもらった。
表1 正義と言論の自由のどちらを優先するかの指標づくり
たとえば、1番の「どのような下劣な意見でも持つのは自由であり、また発言も出来る社会であるべきだ」というのは言論の自由を優先する意見である。2番の「差別的なことを言う人に言論の自由はない」というのは反差別の正義を優先する意見である。右端のFとJは、Fは言論の自由(Free speech)を、Jは正義(Justice)かを表す(その横のLとCはリベラル側か保守側かを意味する)。この10個の意見に賛同するかどうかを5段階で答えてもらい、正義と言論の自由のどちらを重視するかで方向をそろえたうえで、0点から4点の点を振って和を取って指標とする。点を振るとき値が大きいほど正義を重視するように振ると、この指標はその人が言論の自由より正義を重視している度合い、すなわち正義度を表す指標となる。図3はその分布であり、右に行くほど正義を重視し、左に行くほど言論の自由を重視する。
図3 正義度の分布
正義度の高い人ほどゲームの発売中止とロックリー氏の解雇に賛成していれば、正義をかかげてキャンセルが行われたことの傍証となる。表2はこれを回帰分析で試みた結果である。被説明変数はキャンセルに賛同するかどうかで、ロジット回帰で推定した。表中の係数は限界効果で、賛同者がどれくらい増えるかを表す。たとえば正義度が一単位(一標準偏差)だけ増加するとき、発売中止の署名運動に賛同する人は6.7%増え、ロックリー氏解雇に賛同する人は11.8%増えることを意味する。比較のためにオープンレター事件の時の結果も載せた。オープンレターの時も同じように正義度は正の係数(20.6%)になっており、正義を重視する人ほどオープンレターに賛同している。すなわち、3つの事件いずれでも、正義を重視する人ほどキャンセルを支持している。
ちなみに一つ下の保守度は、同じような方法でつくった保守リベラルの政治思想の指標であるが[注3]、オープンレターと今回のアサクリ・弥助では符号が真逆である。すなわち、オープンレターはリベラルが起こしたキャンセルカルチャーであり、アサクリ・弥助は保守側が起こしたキャンセルカルチャーである。保守とリベラルで政治思想は真逆でも、正義を志向する側がキャンセルを仕掛ける点は同じである。
[注3] 作り方については下記を参照
田中辰雄2022/2/23「呉座・オープンレター事件の対立軸――キャンセルカルチャーだったのか?」https://synodos.jp/opinion/society/27733/
なお、アサクリ・弥助では年齢がマイナスになっており、キャンセルを支持するのは若い人たちである。年齢は10才単位なので、20代と60代では解雇要求する人の割合は0.077×5=0.385で、パーセンテージで38%ポイントも増える計算になる。炎上の主役は若年層である。
表2 炎上事件と正義

(3)正義の中身:歴史認識

ゲームのキャンセル理由
キャンセルカルチャーは正義を掲げる。ではどんな正義だろうか。これを確かめるために、表2の回帰式に、関係しそうな変数を追加して回帰してみよう。変数が多いので表ではなく図で結果を示す。
図4はゲーム発売中止署名の場合で、統計的に有意なものは濃い色のバーで示されている。変数(4)~(16)はいずれも「自分にあてはまる」あるいは「事実である/そう思う」と答えたかどうかを表す。
図4
(7)~(10)はUBI社の行動についての記述である。まず、7)が非常に高い。7)は、UBI社が最初はこのゲームは史実に基づくと述べていたと思っている人で、回答者の22%が該当する(文末のカッコ内はあてはまる人の比率である)。その人たちのキャンセル意欲が非常に強い。UBI社のこの発言はゲームを紹介する動画の中で述べたとされている。[注4] このゲームは8)に示すようにゲーム冒頭に、このゲームは歴史フィクションですと断り書きがでる。建物・風俗・自然など舞台設定は史実に近づけられるが、お話とプレイヤーキャラはゲームなのでそもそも史実ではありえない。
[注4]この動画は現時点では確認できなかった。削除されたとの情報もあり、また、UBI社はそのような発言をしておらず、人々が誤解しただけという意見もある。https://note.com/clever_pipit4580/n/n56e3e1ad6c5d
UBIの人が何をさして史実と述べたかは不明であるが、少なくともかなりの人は、UBIはゲーム内での建物・風俗・自然など舞台設定だけでなく、弥助の描写を史実としていると受け取った。これが炎上の大きな火種になった。弥助は侍かどうかの論争はその象徴である。UBI社は炎上後に改めて、この作品は歴史フィクションであるという声明を出したが、時すでに遅く、変数10)が有意でないことからわかるように、この声明は人々の意見にはほとんど影響を及ぼしていない。いったんついた悪評をあとから覆すことは難しい。
もうひとつUBIの問題として、9)雑誌インタビューの中でゲーム開発者が主人公を弥助にした理由について、我々の目になるキャラを求めたからだと述べた点がある。言い換えると日本人キャラでは世界の一般プレイヤーが感情移入できないということであり、これも日本軽視ではないかと日本人ユーザの不評を買うことになったと言われる。実際、UBI社がそう述べたと認識している人は15%おり、この人たちもキャンセル意欲が高い。
11)~13)はゲームのプレイ状況であるが、有意なものが一つもない。その人がゲームをやるかどうかは炎上に関係しておらず、アサシンクリードのプレイヤーであるかどうかすら関係しない。この炎上事件は一ゲームの問題ではないことがわかる。
注目すべきは14)~16)の歴史認識のうち二つが有意なことである。海外の一部には、弥助は日本史を変えたほどの英雄であると思っている人がいる、あるいは日本の戦国時代に黒人侍が多くいて合戦で活躍したと思っている人がいる。そのように考えている人が、このゲームの発売中止を求めている。これはこのゲームによって誤った歴史認識が広まることを恐れていると解釈できる。
このゲームはフィクションであり事実ではなく、また、多くの黒人侍が出てくるというわけでもなさそうなので、果たしてこの恐れが現実的かどうかは議論の余地がある。しかし、海外の日本史認識に危惧を持つ人が一定数(16%と12%)いるのは確かで、それがキャンセルの理由の一つになっているのは間違いないだろう。
ロックリー氏のキャンセル理由
続いてロックリー氏の解雇運動の方を見よう。図5がロックリーの解雇に賛同かどうかについて回帰結果である。17)~21)はロックリー氏の本についての認識である。まず17)ロックリー氏の本に日本に黒人奴隷制があったと書いてあると考えている人が17%おり、彼らのキャンセル意欲が非常に高い。氏の本で日本が黒人奴隷国家だったという汚名を着せられているのならこれは正さねばならないということであろう。21)ロックリー氏は第二の吉田清二であると考える人も6%いて、そのキャンセル意欲も高い。この問題は日本が従軍慰安婦のような不名誉な歴史の濡れ衣を着せられるかどうかの歴史問題だという一部保守論客の主張が、一般ユーザに浸透していると考えられる。
また、15)で、日本に多くの黒人侍がいて合戦で活躍したという誤った歴史認識が海外にあると思っている人も解雇に賛成している。したがって、ロックリー氏の本がこのような誤った歴史認識の流布をもたらしたと思っていると考えられる。20)では本の書き方が問題視されており、氏は史実と推測部分を混ぜてわからないように書いていると考える人が13%いて、これもキャンセルに賛同している。総じて不正確な記述で日本史についてデマをながしているというのが解雇要求の理由と考えられる。
図5
ただし、念のために書いておくと、ロックリー氏の本へのこのような認識はほとんどが誤りである。まず、黒人奴隷制であるが、論拠となっているのは本の中で、弥助が評判となったため地元の名士のあいだで「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ(p16)」と書いてある一か所だけである。当時、キリシタン大名は黒人を召し抱えることがあり、それをさしていると思われる。
これ以外で黒人奴隷に触れているところはない。当時の日本には黒人はめったに見られなかったとなんども書いており、日本に黒人奴隷制があったとはどこにも述べていない。当然、日本に黒人の侍がたくさんいたという記述もない。第一章は小説であるが、第二章以降は史料をあげては推測することを繰り返しており、史実と推測は区別できる。ネット上の批判には論拠がない
このことはこの本のアマゾンの書評からも確認できる。アマゾンでのこの本の書評は炎上以降は星ひとつの酷評ばかりであるが、その理由は史料からの推測がやり過ぎで創作になっているということにつきる。酷評の理由として、黒人奴隷制の話も、多数の黒人侍の話も、史料と推測の混同のことも出てこない。ちなみに炎上以前、この本は立花隆氏が「歴史の見方が変わる」として絶賛したとされる。史実と推測をわからないように混ぜて書いて日本に黒人奴隷制があったと主張する本を、あの立花隆氏が絶賛することはありえないだろう。ロックリー氏の本のイメージは炎上時にネットが作り出したものと考えたほうが良い。
しかし、ネットが作り出したイメージでも、その人にとっては真実である。日本に黒人奴隷制度があり、黒人侍が日本をつくったなどという虚偽の歴史の元になったのがこの本であるなら、それをほっておくわけにはいかない。保守は歴史的経験を大事にする立場なので、歴史を侮辱されたなら怒って当然である。かくして正義はたちあがる。
この二つのキャンセルカルチャーに共通する正義は、歴史の保持であり、言い換えれば日本の歴史と文化の擁護である。日本の歴史と文化を保護するのは本来は政府の役割である。この問題を口にする人がしばしば国益を口にし、本来政府がやるべきことを民間が代わってやっているのだと自負することがあるのはそのためであろう。

(4)正義の陥穽

キャンセルは悪手である
最後にこのキャンセルについて私見を述べることにする。私見ではこのキャンセルは戦略として悪手である。日本のためになるとは思えない。以下、理由を述べる。
弥助が侍かどうかは歴史家の間でも意見の分かれる話のようである。史料が少ないうえに、侍の定義も揺れており、確かなことはわからない。侍ともいえるし侍ではないともいえる。では、その状態でことさらに弥助が侍でないと主張することにどんな意味があるだろうか。
弥助の話はアフリカ系黒人にとっては“良い”話である。500年ほど前、自分たちの祖先がただ一人日本にわたり、侍として戦ったという話は胸おどる冒険譚であり、心を熱くさせる。なればこそ多くの人が取り上げ、絵本になり、アニメにもなった。ここで弥助が侍でないとしたら、彼はいったい何だったのだろうか。ある人は従者、下僕と書き、ある人は物珍しい芸人、ペットみたいなものと書いた。これをアフリカ系黒人が聞けば侮蔑に聞こえるだろう。
むろん、侍でないことが確かな歴史的事実だというなら、侮蔑であってもそう言うしかない。しかし、事実は確定しておらず、侍と見ることも可能だという。それなのにことさら侍でないと執拗に主張するのはなぜか。あまつさえそれを理由に発売中止まで求めるという。さらにフィクションだと言っているのにそれでも中止を求めているのはなぜか。不思議に思える。そこから日本人は黒人を侍として認めたくないのだ、つまり黒人を排除したいのだと推測しはじめるまではあと一歩である。結果として侍にあこがれ、侍を通じて日本に親しみをもってくれるアフリカ系の人たちを遠ざけてしまうことになる。
また、弥助の話は日本人にとっても良い話だったはずである。黒人である弥助を奴隷ではなく、侍として処遇したというのは、昔の日本人が肌の色の異なる人を差別することなく迎え入れた誇らしい歴史と見なせる。保守陣営は自国の歴史を誇るものであるから、保守の人こそ弥助の話を誇らしく語ってしかるべきである。しかし、そうはならず、当の保守陣営がこれを否定しようとする。あれは侍ではなかった、単なる下僕か芸人だったと保守陣営が述べ、弥助を下げ、そして日本を貶める。実に奇妙なことである。
ロックリー氏のキャンセルについては、逆効果になる可能性がある。日本史についてのデマの中には、日本には昔たくさん黒人侍がいて活躍していたが、彼らが死に絶えた後、日本政府はその存在を隠しているというのがある。ロックリー氏の本あるいは氏自身をキャンセルすると、このデマを支持する材料をあたえることになる。ロックリー氏の本は弥助を紹介する本なので、黒人侍の真実を世に知らせないために日本政府が裏で糸を引いて氏をキャンセルさせたという解釈を許すからである。「ほら、やはり日本は黒人侍の偉業を隠そうとしているぞ、あの本もキャンセルされたらしいし」というわけである。
日本にとって肝要なのは弥助個人、あるいはロックリー氏個人ではない。日本史についての大きな誤解、たとえば弥助は日本史を変えた英雄だったとか、日本に黒人侍が大勢いたとか、黒人奴隷制度があったとかの誤解が広がるのを防ぐことである。実際にこのような誤解は一部に広まっており、特に弥助は急に持ち上げられたために英雄視され過大評価される傾向があるので、冷静な議論を呼びかける必要がある
しかし、それならば、このことを言論の自由の行使として正面から主張するのが正攻法である。「弥助は侍であるが日本史を変えたというわけではない」「また弥助は例外的な存在であり戦国日本に大勢の黒人侍がいたわけではない」「日本に黒人奴隷制があったわけではない」といったことを折に触れ、海外に主張していけばよい。
そしてこのような主張を海外に対し最も効果的に行えるのは、実はロックリー氏自身である。氏自身の口から上記カッコ内に述べたことを言ってもらえばよい(氏の著書の内容から見て異論はないだろう)。氏は英語圏で弥助の専門家として名の知れた存在なのであるから、彼が言えば耳を傾ける人はいるだろう。そうすればロックリー氏を日本の味方につけることができる。ある人はこの問題は歴史解釈を争う歴史戦だと述べた。歴史戦なら味方は多い方が良い。
しかし、現実にはそのような方向には進まず、逆方向に進んでいる。日本のファンになりうる黒人を遠ざけ、われらの祖先は黒人をペットとして扱った排他的な人たちだったと述べ、日本の味方になりうる人を敵にまわす。それを日本の歴史を誇り、国益を重視するはずの保守派が行うのである。なぜこのような奇妙にねじれた事態になってしまったのだろうか。
それはひとえに“正義”がたちあがったからである。すなわちキャンセルカルチャーの原因である“正義”にこそ、問題の根がある。
正義は世界を分断する
日本の歴史を正しく理解してほしいというのは、おそらくほとんどの日本人が持つ願いであろう。しかし、これを言論の自由の行使としてではなく、正義として主張する時、事態は一変する。なぜなら正義は絶対に正しく、自らに同調しないものを敵と見なすからである。
このような正義の攻撃性は史上何度も形を変えて現れている。たとえば、オープンレター事件の時、呉座氏だけでなく呉座氏の周りで黙っている人も同罪であるという言辞が見られた。革命の正義を掲げた日本の学生運動は1970年代以降、わずかの思想の違いで互いを敵と認定し、暴力的な内ゲバを繰り返した。フランス革命のとき、実権を握ったジャコバン派は同じ革命派の同志だった人々を次々に処刑した。いずれも正義を掲げる側が、少しでも自分に反する相手を敵とみなして攻撃したのである。
今回の例でいえば、日本の歴史に黒人はほとんど関与していない、というのが日本側の主張であろう。これは正しい。しかし、これを正義として主張する時、少しでもこれに反するものは排除すべき敵となる。いくら弥助は日本史を変えた英雄ではないと述べても、伝説の侍として語れば人は彼を日本史上の英雄だと思うかもしれない。
弥助が日本の戦国時代に活躍するゲームをプレイすれば、ゲームがフィクションだとしても日本の戦国時代にたくさんの黒人侍がいたと思ってしまうだろう。ロックリー氏が述べたことが黒人奴隷を召し抱えた大名が数人にいたということにすぎないとしても、「日本に黒人奴隷がいた」が、やがて「日本に黒人奴隷制度があった」と変換されかねない。要するに、これらの要素は日本の歴史について誤った認識を作り出すリスクを、ほんのわずかではあるがもっている
歴史改変を許さないということを正義として主張するなら、この正義に少しでも反する要素は敵であり排除すべきである。ゲームは発売中止にし、ロックリー氏の本は偽書認定し、弥助は侍ではないことにすればリスクはゼロになる。言論の自由・表現の自由は失われるが、正義とはもとより言論・表現の自由より優先すべき価値があるとする立場であり、気にはしない。かくしてキャンセルが実行される。奇妙にねじれた事態が生じたのは、このように日本の歴史を守ることが正義になったためと考えられる。
従来、正義を掲げてキャンセルを仕掛けるのはリベラル側であった。今回はリベラルでなくむしろ保守側が主導しており、珍しいケースである。珍しい中でいとも簡単に正義が立ち上がったのには理由がある。それは敵方として別の正義が存在するからであろう。海の向こうに控えるポリコレという名前の巨大な正義がそれである。
ポリコレの正義はハリウッドを一撃で制覇し、ハリウッド映画の登場人物の構成とシナリオラインを一変させた。これが日本にやってくることの警戒感が、今回の事件の背後にはある。敵が正義で来る以上、こちらも正義で対抗する。今回のキャンセルカルチャーは、いわば、押し寄せるポリコレの正義に対する日本の防衛反応と見ることができる。この防衛の必要性には私も同意する。
しかし、正義に正義で立ち向かうのは得策ではない。なぜなら、正義は分断を生むからである。正義は自分に反するものをすべて敵とみなして排除しようとする。そこには、言論の自由に基づく議論はなく、力の行使あるのみである。対話による相互理解はありえない。そのような正義と正義のぶつかり合いの不毛さは、我々がここ10年、世界の各所で、またネットのあちこちで目にしてきたことではないだろうか。
今回の例が国際問題化した場合、海外のポリコレ勢力は黒人差別のカードを切るだろう。それに対して日本側は歴史の保持のカードを出す。そこに待っているのは互いに譲ることのできない価値を掲げた果てしない消耗戦であり、敵意と憎悪に満ちた分断された世界である。差別反対の正義と歴史保持の正義が、血みどろの罵りあいをする姿は誰も見たくないだろう。
正義に対抗するものは正義ではなく、言論の自由・表現の自由であるべきである。表1で正義度の尺度をつくったとき、正義に対して言論の自由を対比させたことを想起されたい。正義に正義で対抗すれば正義の持つ問題点が倍化するだけである。
弥助を侍として描きたいなら侍として描いても構わない。それは表現の自由として認め、弥助についての良い話は良い話として受け入れる。そのうえで、日本史についての大きな誤解に対して言論の自由を行使して反論していく方が良い。日本史について奇妙な誤解、例えば日本に黒人侍がたくさんいたという書き込みを見かけたなら「弥助は侍であったが、例外的であり日本に黒人侍がたくさんいたわけではない」と反論していく。そうすれば敵意と憎悪をさけ、相互理解を進めることができる。
最近、この問題にかかわってきた一部の論客は弥助が侍かどうかはどうでもいいと言い始めたようである。これは良い傾向であると考える。どうでもよいのなら侍として描きたい人には描いてもらえばよい。そのうえで日本史の誤解には適宜反論をしていく。キャンセルは悪手である。

プロフィール

田中辰雄計量経済学
東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在横浜商科大学教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。著書に『ネット炎上の研究』(共著)勁草書房、『ネットは社会を分断しない』(共著)角川新書、がある。
 
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