少子化についての話すこし。
子育てって、果てしない『生活』だし、『生活』って物語消費ではないので、『物語を売る』資本主義経済と致命的に相性が悪いというところがある。
現代の消費社会で、『生活』というものは徹底的に忌避されてるところがある。
ふと油断すると『生活』の物語化がなされ(そうしないと消費に繋がらないから)でも、そこに生活の生活たる部分というものはない
人生の物語化について
結局、人は自分の人生を物語化しないと生きていけない(物語化しないで生活だけしていると鬱になる、虚脱状態になる)ので、みんな自分の人生を物語化して生きているのですが、自分で自分の物語を語るというのは、難しいし、大変だし、そんなことができるなら作家になった方がよろしい。
殆どの人は、アリモノの人生の物語を自分に適応して生きていく、それが所謂『人生のロールモデル』(例えばおひとりさまとかミニマリストとかfireとか、そういう)というもので、誰かの作った物語に乗っかっていくというのがあります。
近代以前だと、(そして昭和中期まで)は社会のほぼすべての人が同じロールモデル、家があり、お見合いがあり、結婚をして、子どもを持ち、そして家を基準にして死んでいく、というロールモデルを共有していて、そして、それ以外の生き方が無かった。一つしかない物語を物語と言えるかどうかは別として、それを自分の物語として、選び取ることなく過ごしていった。
で。現代になって、それが、『多様な生き方』 『多様な個性』 『それぞれの人生』を自分で考えて選び取らないと行けなくなった。そして、それによって、自分が選ばないでも他人の人生の選択に巻き込まれて、『選ばされる人生』というものも生まれてきた。
例えば、フリーターという生き方とかも、誰かに選ばされた人もいるだろうし、独身という生き方も、そして、それぞれの生き方に『ロールモデル』が提唱され、または自然に作られて、そういう物語を人は生きるようになる。
そして、そういう『物語化』 『自分を物語として語る』という能力には女性の方が優れているのですが、(ここら辺はインタビュアーの人の随筆に、女の人は自分の話を物語化して語ってくれるのでインタビューが楽だが、男の人は人生を断片と出来事で記憶していて、それを物語化していないので、人生の話を引き出すのが難しいということを書いていた)まあ、それは別の話。
元々女性という器質的なものなのか、社会的に抑圧されてきたという属性がそのような能力を獲得させたのかはちょっとわからないですね。
で、少し前に書いた、生活と人生の物語の話。
自分の人生を物語として語りなおすのは、人生を送っていく上で(生活という硬くて冷たいものを乗り越えていくのに)必要なことなのですが、逆に、『物語を語るために人生を演じる』ようになってくると、これがちょっと大変なわけです。タワマン文学とかありますけど、ああいう感じになる。ロールモデルが先にあり、それに沿って生きることが目的になる。それにあわせて、生活、を送るようになる。
人生において、生活がほぼ10割です。その間に、「祭り」「ハレの日」があり、節目節目と存在するのですが、それは節目でしかない。卒業式や入学式や文化祭は学校生活の中の思い出になる日ですが、その日を思い出(物語の出来事)として成り立たせるためには、実際には延々と続く日常を過ごしてからこそな訳です。日常生活がちゃんとあるからこそ、人生の節目に意味が出てくる。生活が先、節目が後。でも、物語として語られるのは節目節目、そのほか突然起こるイベントだったりするわけです。
そして、起こったことを基に自分の人生を綴っていく。
物語が主、になってきたとき、達成可能な物語ならいいのですが、ロールモデルとして語られる物語は、誰かの脚色された成功物語がメインになるので、達成可能性は低いです。その通りになる確率は低い。失敗することだってある。物語ではなくて、ただの点としての目的なら、失敗しても『失敗した』という物語を後ヅケで語ることはできますが、物語が先に来ているとそれは難しい。失敗した物語は受け入れがたい。何故なら、既に理想的な物語を先に自分の中にインプットしているからです。
そして、子育てについて、今語られている物語は、成功物語が多い。成功物語(理想的な子育て、理想的な環境、子どもを育てるのに必要な親の資産、資質、態度、努力)
物語をあらかじめ選ばないといけない現代において(そして、その物語の選択を強制させられる理由には資本主義的なものが大きく絡んでいるのですが、それはまた別途)なので、子育てという物語は選ばれにくい。他に達成可能な物語があればそちらが選ばれる、ようになる。
昔はこんなではなくて、物語が後から来ていたので、失敗物語が多かった。映画でも、小説でも、昔のモノは『失敗した後の人生』の物語を語るものが多かった。
人生、生活を生きぬいた後の、出来事の羅列を、後から紡いで一つの物語にするのに、そういうフィクションが選ばれて行ったのだと思う。
だから、どうすればいいとかいうのはちょっと分からない。
現代で人生のロールモデルを想定せずに生活をしていくのは難しい。
昔はモノ(消費)→コト(消費)だったものがいつの間にか元コト(消費)→モノ(消費)になった
日々をたんたんと過ごすには、テレビやインターネットのCMが「物語消費」を促してくる。おそらくバブルの頃から言われた「人は物(モノ)を消費するのではなく物語(コト)を消費しているという考え方」それ以前にもあったとされるが、多分、それ以前とは順序が逆だったのだと思う。昔は、モノ→コト、で現代は、コト→モノ。
それぞれが個性的な物語を『選び取る』ようになったけれども、個々人の物語というものが逆になくなってしまっているのが現代のような気がする。人生の物語に正しいも間違ってるもないのに、『正しさ』を求められているのが、なんか現代の人生って感じがしてる。個人的な感想ですが。
それで、だから、どうするべき、っていう、意見というかアイデアはない。そういうアイデアこそ、「ロールモデルの提唱」になってしまうし。
ただ、ひとつ。人生は物語じゃないし、生活の積み重ねだし、失敗もあるし、そういうの全部含めて、後付けの物語として語られていけば良いんじゃないかなって思う。
正しさとかない。
こちら、blueskyに投稿したものをまとめたものです
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