森 洋介 @livresque2

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2025年03月22日(土)3 tweets

3月22日

DJ プラパンチャ@prapanca_snares

こうした領域に対する色眼鏡を少しでも取り去る上で吉永進一氏や横山茂雄氏による本格的な研究はもっと読まれるべきだと思うんです。彼らの研究に触れて、因や縁がそろえば自分を含めて誰でもこうした領域にハマるし、彼らを嘲笑したり“啓蒙”すればいいという話では全くないと思うようになりました。 pic.x.com/wU6GonMURV x.com/takumamonju/st…

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3月22日

DJ プラパンチャ@prapanca_snares

多くの仏教書を手がけている春秋社という出版社があります。私のポストに興味を持つような“特殊な”方の多くはご存じでしょう。この春秋社の創立に関わった加藤一夫(1887-1951)は、今で言う「偽史」の領域と接点を持った人物でした。少し長くなりますが、どういうことなのか述べてみたいと思います。 加藤一夫は、大正から昭和にかけて活躍した詩人・翻訳家です。キリスト教徒で、トルストイに傾倒して翻訳も出しています。ロシヤ革命の後にアナキズムにかぶれて、1920年に自由人連盟という団体を結成し、1922年には社会主義連盟という団体に発起人として加わっています。加藤は、1918年には神田豊穂らとともに春秋社の設立に関わりました。その際に春秋社は『トルストイ全集』を企画し、それが当たって出版社としての基盤を確立します。 ところで、加藤は春秋社で、『世界大思想全集』というシリーズの編集にも携わっています。これはかなり売れて広く読まれ、戦前の日本の知的状況に大きな影響を与えました。加藤はこの『世界大思想全集』の第二期で、『古代文明研究 太陽の子』というぶあつい本を訳しています(原著は1923年に出たChildren of the Sun: A Study in the History of Civilizationという本です)。この本は、当時の読者にかなりのインパクトを与えました。 『古代文明研究 太陽の子』の著者はW・J・ペリーというイギリスの人類学者で、内容は「文化伝播主義」を説いたものです。これはどういうものかというと、世界に見られる文明はすべて、世界のどこか一か所に突出したものが出現して、それが拡散していくことで誕生したという説です。つまり、世界のあらゆる文明の起源は一つだというわけです。ペリーは「文化伝播主義」に依拠して、エジプトの古代文明が世界中に伝播していったのだと主張しました。我々はみんな「太陽の子」でありラーのもとにある、みたいな話なわけです。もちろん現在では、このような説は疑似科学として扱われているのですが、当時は立派な「学問」であり、日本の一部の知識人にも影響を与えました。 ところで、酒井勝軍(1874-1940)という戦前のオカルティストがいます。この人は1934年に、庄原市の東部にある葦嶽山を、日本のピラミッドだと主張しました。葦獄山の斜面には、人の手が加えられたと思われる石が階段状に積み重ねられているのだというのです。酒井の主張は、現在の我々の目から見れば荒唐無稽としか言いようがないものであり、異様に見えます。しかし酒井の主張は、「文化伝播主義」の文脈からすると、当時は異様ではなかったのです。 これは冗談ではありません。もう一例あげましょう。戦前に活躍した竹内勝太郎(1894-1935)という詩人がいます。フランスの象徴派詩人のマラルメの影響を受けて、日本の象徴詩を確立したと言われており、藝術論も残しています(小説家の富士正晴や野間宏の師匠にあたる人でもあります)。竹内が若くして事故で亡くなる直前の1934年に出した『藝術民俗学研究』という本があります。彼はこの本のなかで、歌舞伎は北九州の宇佐八幡や彦山の採鉱民族が源流だという議論を展開しています。竹内は、ペリーの『太陽の子』に依拠しながら、北九州の採鉱民族の起源はエジプトではないかと言っている(!)のです。 竹内はこの本のなかで、「最近新聞紙上にピラミッド型遺跡の発見が報告されて居る」とも書いています。酒井勝軍にも言及しているわけです。念のため申し上げておきますが、竹内勝太郎は当時のインテリ詩人です。ペリーの『太陽の子』は、当時は“れっきとした学問”であり、こうした発想もそんなに異様ではなかったのです。 さて、加藤一夫に話を戻しましょう。加藤は大正末ごろから農本主義に共鳴するようになり、1930年代半ばには天皇崇敬に大きく傾いていきます。加藤が1942年に出した『肇国史誌 なかつくに』(龍宿山房)という本があります。これは、日本の建国神話を叙事詩にしたものなのですが、この扉ページを見ると、神代文字の一種である豊国文字で「なかつくに」と書いてあります(画像)。加藤は明らかに「偽史」と接点がある人物だったわけです。 さて、かつてオルコット大佐とともに神智学協会を設立したブラヴァツキーをはじめとするオカルティストたちは、文明の起源を求めてアトランティス大陸を描きました。ナチのイデオローグだったアルフレート・ローゼンベルクは、金髪碧眼のアーリア=ゲルマン人種の優越性を説くために、アトランティス本地説を採用しました。どうも、あらゆる文明は単一の起源から生まれたという発想を突きつめていくと、エジプトだけでは無理が出てきて、アトランティス大陸だのムー大陸だのが必要になるのかもしれません。 こうした発想は、現在の目から見れば荒唐無稽としか言いようがありませんが、少し前までそれが“れっきとした学問”の世界と一応つながっており、インテリたちもそれを異様だと思わない文脈は存在していた。どうやら、人間が何を“リアル”だと認知するかは、時代や地域によって容易に大きく変わってしまうようです。

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3月22日

DJ プラパンチャ@prapanca_snares

追記しておくと、かつては「葦嶽山は日本のピラミッドだ」という酒井勝軍の主張が必ずしも異様ではない文脈が存在していたように、現在から見れば荒唐無稽に見える日ユ同祖論にも、その背景には人類学的な文脈が存在していました。長くなりますが、この問題についても述べてみたいと思います。 近代の日本で日ユ同祖論を唱えた人物の一人に、小谷部全一郎(1868-1941)がいます。小谷部は1924年に『成吉思汗ハ源義経也』という本を出して、モンゴル帝国の初代皇帝のチンギス・カンと源義経は同一人物だと主張しました。1929年には『日本及日本国民之起原』という本を出して、日ユ同祖論を主張しました。この本は、以降の多くの日ユ同祖論者たちに影響を与えていくことになります。それ以前にも日ユ同祖論はあったのですが、小谷部の影響力は甚大でした。 小谷部によれば、古代の日本には、以下の3つの異なる民族が存在していたそうです。 ①土蜘蛛・国栖・夷(エビス) ②出雲民族 ③天皇を戴く天孫民族 小谷部によれば、3つの民族はこの順番で日本にやってきたそうです。①のエビスはコロボックル(アイヌの伝承に登場する小人)と同じであり、②の出雲民族はアイヌのことであり、いずれもカナンの地から日本にやってきたそうです。両者は、③の天孫民族の日本侵入以降に、次第に北へと追われていったのだそうです。そして天孫民族は、元々ヘブライ人(マナセ族およびガド族)だったというのです。つまり天孫民族の起源は、イスラエルの失われた10支族(旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていないルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・ゼブルン族・マナセ族・エフライム族の10部族)だということになります。 こうした小谷部の主張は、現在の目から見れば荒唐無稽な珍説に見えます。このようなものがどういう背景から出てきたのかをたどってみましょう。 日本列島に住む人々の起源について論じた説は、江戸時代にはすでに存在していたのですが、それが「科学的」に研究されるようになるのは明治に入ってからのことです。この動きをリードしたのは、明治維新前後に日本にやってきた欧米の学者たちでした。 彼らは、日本の先住民族はアイヌであり、あとからやってきた日本民族が、アイヌを駆逐して北方に追いやっていったのだという学説を唱えていました。『古事記』や『日本書紀』に見られる神武天皇の東征や、ヤマトタケルノミコトの東国平定などの神話は、日本民族がアイヌを駆逐していった過程を記したものだというわけです。こうした「アイヌ学説」は、19世紀前半に日本にやってきたシーボルト(1796‐1866)がすでに唱えていたものであり、彼の次男のハインリッヒ・シーボルトなどによって受け継がれて、欧米の学界では当時の「常識」のようになっていました。この学説は、西洋の人々による北米大陸への侵入や、インディアンの征服と重ねあわせて構想されていった面がある点に注意が必要です。 「アイヌ学説」は、黎明期の日本の人類学者のあいだでも主流になったのですが、ほどなくして、それに異を唱える人物も登場します。その代表が、坪井正五郎(1863-1913)です。坪井は、エドワード・モースによる大森貝塚の発掘に刺激を受けて人類学を志して、明治期の人類学をリードした人物です。 坪井は、アイヌは先住民族ではないというモースの説を受け継いで、「コロボックル説」を唱えました。日本の先住民族はアイヌではなく、アイヌの口碑に伝わるコロボックルだというのです。明治期には、坪井らが唱えたコロボックル説と、小金井良精らが唱えたアイヌ説とのあいだで激しい論争が起きています。 ここで注意しなければならないのは、この2つの学説は鋭く対立しながらも、「日本人はあとから日本にやってきた人々であり、先住民族は別に存在していた」という前提を共有しており、その点では欧米の人類学者の見解に忠実に従っていたということです。 もっと重要なのは、どちらの説をとっても、日本人があとからやってきたというのであれば、『古事記』や『日本書紀』に描かれているエピソードは、日本ではなく外国で起きたことだという結論が導かれても何らおかしくないということです。 もうお気づきの方もおられるかもしれません。そう。小谷部全一郎が唱えた日ユ同祖論は、こうした学説と実はそこまで距離はないのです。というのも、先ほど見たように、小谷部が言う①夷(エビス)・②出雲民族・③天孫民族は、コロボックル・アイヌ・日本人にきれいに対応しています。この点では、小谷部が明治期の人類学者の学説から逸脱したのは、その起源を中近東に求めただけのことだとすら言えるわけです。 ちなみに小谷部は、1888年にアメリカに留学してハワード大学やエール大学で神学や哲学や人類学を学んだ人物であり、現地でプロテスタントの一派である会衆派の牧師になっています。帰国後に横浜で牧師を務めてから、1900年に北海道土人救育会を設立し、幹事になっています。小谷部は一家で北海道の虻田に移住して、尋常小学校や実業学校などを設立し、アイヌの教育や救済に情熱的に取り組んでいます。 そして小谷部は、コロボックル説を唱えた坪井正五郎とも親交を結んでいます。実際に、北海道土人救育会には坪井も幹事として名を連ねています。そういうわけで、小谷部の日ユ同祖論は現在の目から見れば荒唐無稽なものに見えますが、当時の西欧の人類学を根拠にして、日本人の起源を「科学的」に考察しようとするところから出てきたものだと言えるわけです。 さて、小谷部の日ユ同祖論は、別の面でも西洋の言説から大きな影響を受けていました。彼は、イギリスの「英ユ同祖論」の影響を受けつつ日ユ同祖論を構築していきました。 「英ユ同祖論」というのは、イスラエルの失われた10支族がイギリス人の祖先だという説です。こうした説の支持者は、The British Israelities(ブリテンのイスラエルびと)と呼ばれています。英ユ同祖論が明確に形成されるのは近代以降ですが、これにまつわる伝承はかなり古い時代から流布していました。 すでに6世紀に、イギリス最初の歴史家とも言われるギルダスが、ブリテン人を「神のイスラエルびと」と呼んでいます。これは単なる比喩だったのかもしれませんが、後世には、これを文字どおりに受けとめる人々が出現します。 狭い意味での英ユ同祖論が確立されていくうえで大きな役割を果たしたのが、ヴィクトリア朝の時代に活躍したエドワード・ハイン(1825-1891)です。ハインによれば、英国人だけが失われた支族の末裔であり、英国人はパレスチナに入植して、ユダ族およびレヴィ族(つまり現在のユダヤ人)と再び合体して、キリストの再臨を実現すべきなのだそうです。 小谷部は、こうした英ユ同祖論の影響のもとに、『日本及日本国民之起原』を書いたわけです。実際にこの本の「総説」では、ハインなどの英ユ同祖論者の名前が列挙されており、小谷部がその影響下にあったことは明らかです。 さて、ここで考えなければならないのは、なぜこのような説が大きな力を持つのかということです。この問題について考えるうえでとりあげてみたいのが、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)です。高校で歴史の時間なんかに覚えさせられたという方も多いかもしれませんが、ケンペルは17世紀の終わりごろに長崎にやってきた人物です。 彼は2年ほど日本に滞在し、日本の地理や動植物や社会や政治や歴史などのいろんな分野にわたって調査研究を行い、資料を収集して、帰国後に『日本誌』を執筆しました(生前は活字にならず、1727年にイギリスで英訳刊行された)。この本は反響を呼んで各国語に訳され、その後100年以上にわたって日本に関する基本文献として読まれ、典拠として引用され続けることになりました。 この『日本誌』のなかでケンペルは、日本人の起源についても論じています。彼によれば、『創世記』に記されたバベルの塔の建設の際に言語の混乱が生じたことが、日本人の起源なのだそうです。つまり、バベルの塔の建設によって言語が乱れ、ギリシャ人やゴート人やスラブ人やケルト人はヨーロッパに向かい、その他はアジアを通って分散し、なかにはアメリカまで足をのばした民族もいる。日本人もそうした人々のなかの一民族であり、彼らはおそらく長い年月にわたってさまよった果てに、世界の最果ての東の隅っこにたどり着いたのだ、と。 驚く方もおられるかもしれませんが、こうした考察は当時は奇妙なものではありませんでした。当時は、聖書に基づいていろんな「民族」の起源であるとか、「人類」の起源を考察するのは全くおかしなことではなかったのです。進化論が表舞台に登場するのは19世紀のことですし、当時はまだ、神学と科学は分離してはいなかったのです。 とはいえ、神学と科学とのあいだには徐々に亀裂が生じつつありました。例えば、南北アメリカ大陸が「発見」されると、キリスト教神学に基づいた人種起源論には大きな亀裂が生じました。この亀裂をどうにかこうにか埋めようとした結果、アメリカ・インディアンこそが失われた支族の末裔だ(!?)などという主張も登場します。 また、17世紀にイギリスで清教徒革命が起きたころには、一部の過激な清教徒のあいだに、英国民こそが精神的・霊的な意味でイスラエルびとの末裔であり、神に選ばれた民であるという思想が登場しています。例えば、17世紀の半ばに、英国からアムステルダムに逃れた過激な清教徒たちによって英訳出版された『イスラエルの希望』という本があります(著者はマナセ・ベン・イスラエルというユダヤ人ラビです)。 この本は、マナセの友人のアーロン・レヴィという旅行家が、南アメリカの辺境で、ヘブライ語を話す白い肌をした人々のコミュニティに遭遇した(!?)などと語っています。レヴィによれば、ユダヤ人はアジアを経由して南アメリカまで到達したのだというのです。この本は、失われた支族がついに「発見」されたと語ったものであり、大いに売れて版を重ねました。英ユ同祖論は、巨視的に見ればこうした文脈を汲んで出てきたものです。聖書に記された失われた支族という「物語」を手放したくない、世界のどこかに失われた支族を見い出したいという強迫観念から出てくるわけです。 つまり、こういうことになります。ケンペルが語った日本人起源論が如実に物語っているように、かつては「歴史」と「物語」(あるいは「歴史」と「神話」)はどうにか仲良く融合していた。西欧世界で両者が明確に分離されることになるのは、せいぜい19世紀以降のことにすぎません。 現代人は、「歴史」と「物語」(あるいは「歴史」と「神話」)を分離して考えるよう学校などで教えられていますし、少なくとも意識のうえではそうしています。つまり、「歴史」は事実であり、「物語」はフィクションであると教えられているし、そのように意識のうえでは考えている。 しかし、かつて「歴史」とは我々の起源について「物語る」ものでした。かつては「現実」とやらは厳密な事実の集まりから構成されるのではなく、「物語」によって構成されるものであった。近代は、「歴史」と「物語」とが引き裂かれることを余儀なくされた特異な時代なわけです。 もはや、「歴史」は我々の起源について答えてはくれない。しかし、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いに答えてくれる「物語」を、我々は欲してやまない。実証的な事実の集まりとしての近代的な「歴史」を否定し、「歴史」を「物語」の世界に奪還しようとする試みは、ここに始まる。 話を小谷部全一郎に戻しましょう。小谷部は、当時の人類学と英ユ同祖論という2つのイデオロギーに影響を受けた人物でした。両者は、一見すると全く一致しないイデオロギーに見えます。しかし、これまでに見てきたように、両者は近代以前の西欧世界においてはどうにか一致していたものであり、両者が分離されていくのは近代以降の話なわけです。両者が分離された結果、人類学の方は「科学的」で「正統的」な「知」だということになり、失われた支族を見い出したいという強迫観念は、「知」の表舞台からは排除されることになる。 しかし小谷部は、近代の西欧社会で分離すべく運命づけられていた両者を、近代の日本において「再統合」してしまったのです。彼は彼なりに大真面目に、当時の表舞台の公認された世界観と、そこからシャットアウトされることになった裏通りの世界観を、そのまま“きちんと”受け止めて忠実に「翻訳」しようとした。そういうことになるわけです。 我々は、決して小谷部や、彼の世界観に共鳴する人々を笑うことはできないのではないか。こうした世界観に共鳴する人々が現在に至るまで決して絶えることがないのは、“公認”された「歴史」が彼らの欲望を満たす「物語」を語ってくれないからである。彼らの世界観を荒唐無稽な妄想だと言うのは簡単である。しかし我々は無自覚のうちに、そうした「荒唐無稽な妄想」を欲しているし、近代に引き裂かれてしまった「歴史」と「物語」が一つであってほしいという欲望(無明と言うべきか)を抱いている。これは多かれ少なかれ我々のなかにある問題であり、彼らを嘲笑しておれば事足りるという話ではないし、彼らを「啓蒙」したり「治療」すればいいなどという問題ではないと私は思う。

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